あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

俳句結社誌「あすか」2021年 令和3年

2020-12-29 17:05:34 | 俳句結社誌「あすか」2021年
「あすか」2021年 令和3年

12月号























11月号























10月号

























9月号




















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7月号


























6月号
























      ※     ※     ※

5月号




























4月号



















3月号


















※    ※     ※


2月号
















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1月号
























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あすか塾 俳句作品の鑑賞・評価の学習会 2020(令和2)年度 Ⅳ

2020-12-02 17:50:03 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
 あすか塾 俳句作品の鑑賞・評価の学習会 2020(令和2)年度 Ⅳ


      ☆      ☆
野木メソッドによる鑑賞・批評の基準
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う
自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の
表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、
心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
鑑賞・合評の方法
◎「ド」=「ドッキリ」・「ハ」=「ハッキリ」・「ス」=「スッキリ」に注目して。


      ☆      ☆

Ⅰ 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」1月用・「あすか」誌3月号掲載)

〇 野木桃花主宰句(「命継ぐ」より・「あすか」2020年12月号)

縄文の日差しと思ふ柿日和
水の辺に命の連鎖赤とんぼ
アマビエの案山子の守る学校田
壺の口湿りてをりぬ秋の蝶

【鑑賞例】
 一句目。歳時記的な季語感を突き抜けて、ひと息に縄文文化まで回帰する思いの表現ですね。稲作文化が基調の季語には、それ以前の古代的基層も存在します。二句目、秋の訪れを告げる赤蜻蛉に季節感を超えた「命の連鎖」を感じる大きな句ですね。三句目、「アマビエ」は疫病退散を願う民間信仰像ですが、それを作ったのが
学校田の子どもたちであるということに、何かほのぼのとした心象が起きる句ですね。四句目、小さな蝶が「壺の口の湿り」で水分を採っている瞬間を捉えた句ですね。そう表現されなければ蝶の行為の意味は見過ごされるところですね。 

〇 武良の10月詠(参考)
柿食えばたれかが飢ゑるはぐれ雲
排他的個人水域後の月

【参考自解】
 一句目、柿の味に古都古寺の鐘の音を聞くのどかな文化が終焉したような世相です。感染症の影響で飢えている人がいることに思いを寄せて詠みました。二句目、経済用語の「排他的経済水域」という語を「個人水域」に言い換えて、三密回避が強制される排他性への複雑な思いを詠みました。 

Ⅱ 「あすか塾」24 野木メソッドによる合評会 同人句「風韻集」12月号より 

終活はかけ声ばかり秋風鈴                     柳沢初子
「ド」=必須と思われることになかなか踏ん切りがつかないでいる思いの素直な表明の句。その素直さが共感を呼ぶ句。「秋風鈴」の宙ぶらりん感も効果的。
「ハ」=「何なに活」という軽い語韻の言葉が流行して、死の準備にも「終活」などと使われることへの違和感も言外に込めた表現。
「ス」=「かけ声」は他人への呼びかけだが、この句は自分への「かけ声」であり、自分に対するそれには効果がないという自嘲の思いも滲む句。

猪の寝て塞ぐ御師宿勝手口              山尾かづひろ
「ド」=猪が日常的にそんな振舞いをする場所であることの感慨句。
「ハ」=「御師宿勝手口」という限定的な描写が効果的。
「ス」=「御師宿」の「御師(おし/おんし)」は、特定の寺社に所属して、その社寺への参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことで、「御師宿」はその「宿」のこと。特に伊勢神宮のものを「おんし」と呼んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成している。そんな風情ある場所に相応しい景の句。

望の夜の誰が為フォーレレクイエム                 渡辺英雄
「ド」=満月の夜にフォーレのミサ曲を耳にしたか、あるいは幻聴したという表現。
「ハ」=ミサ曲なのにどこか至福感もあるこの曲を「誰が為」と表現して、「喪」
が必ずしも悲しみだけのものではないことを、間接的に表現している。
「ス」=フォーレのレクイエムはレクイエムの傑作で、モーツァルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」の一つとされる。フォーレはこう述べている。「私のレクイエムは、特定の人物や事柄を意識して書いたものではありません。……あえていえば、楽しみのためでしょうか」「死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません」「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です」。この曲に悲しみより安らぎ感を抱くのはそのためだ。

百日紅ほろほろ崩れ友逝きぬ                   磯部のり子
「ド」=親友を亡くした喪失感の表現。
「ハ」=「ほろほろ崩れ」の音韻が効果的。
「ス」=「百日紅」の花の散り方に寄せて、その紅色にも悲しみが滲む。

通学路毀るるままに草の罠                    伊藤ユキ子
「ド」=そのような日常がそこにあることの、しみじみとした思いの表現。
「ハ」=いたずらで子供たちが作った「草の罠」が、同じ子供たちの踏むに任せ、放置されている時間経過まで表現されている。
「ス」=上五、中七、下五の、どの語にも隙がない。

国境のありて無きもの真葛原                    稲葉晶子
「ド」=国境なんて人的な取り決め事に過ぎないのに……という思いの句。
「ハ」=下五に「真葛原」という原野に自生する葛の姿を置いて「国境」という人為的境界線と対比させたのが効果的。
「ス」=「ありて無きもの」という即否定の語調も効果的。

秋の虹はや天辺の消えてゆく                    大木典子
「ド」=秋の虹の消え方に、諸行無常感を抱いた思いの句。
「ハ」=天の橋のような完全な弧の形の虹を見ることの方が稀で、虹はどこかが欠けている姿をよく見かける。この句は完全な弧の形の虹を見た後の句だということも解る。
「ス」=「天辺」から消えてゆく様の描写にしたのが効果的。

四元号迎へし翁菊の宴                   大澤游子
「ド」=遡れば令和、平成、昭和、大正の順になる元号。読者にそう辿らせる表現で、大正生まれの人の長寿を寿いだ句。
「ハ」=時代の経過を元号で表現し「菊の宴」と取り合わせたのがすばらしい。
「ス」=「菊の宴」は陰暦九月九日、重陽の節供の日に宮中で催された観菊の宴。さかずきに菊の花を浮かべて飲む。菊の節会、重陽の宴、菊花の宴、菊水の宴とも言う。その伝統ある「宴」に寄せて「翁」の長寿を寿いだ句。

主張する己が存在木守柿                      大本 尚
「ド」=樹頂にぽつんと一つ残されている柿の実の色に確かな存在性を感じた句。
「ハ」=確かな存在性の表現に木守柿をもってきたところが意表をついて斬新。
「ス」=木守柿の通俗的な印象は孤立した、御仕舞の姿だが、それ故の存在感の表現にしたのが独自の視座。

月明の海へと開く非常口                      奥村安代
「ド」=非常口という言葉は緊急時の脱出口という心象が強い。その固定観念を覆した句。
「ハ」=「月明の海へと開く」という表現で幻想的な趣へと転換した句。
「ス」=安代さんの今月の別の句「限りなき空総立ちの曼殊沙華」も佳句だった。掲句と同じで、作者の視点で風景が一変する表現の力がある。

魚飛んで水音に秋の生れけり                    加藤 健
「ド」=作者が「秋だなあ」と感じた瞬間の感慨の表現。
「ハ」=「秋の生れけり」という言い切りが効果的。
「ス」=跳ねた魚の着水音という絞り込み方に、作者の繊細な心の働きを感じさせる。

うすうすと弦月古都の昼下がり                   金井玲子
「ド」=上五の「うすうすと」としか表現できない弦月の表現。
「ハ」=道具だてがすばらしい。
「ス」=「弦月」「古都」「昼下がり」どの語が欠けても印象が薄れる。

奪衣婆の細目色なき風の中                    坂本美千子
「ド」=実際に「奪衣婆」の像を見ていない句としても、身に滲みる秋風の体感的な表現に成功している。
「ハ」=「細目」というクローズアップの後に、古語的な「色なき風」という季語を置いたのも効果的。
「ス」=「奪衣婆(だつえば)」は、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。奪衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている。その心象と「色なき風」という秋の風と取合せてうすら寒さを表現した。この季語は久我太政大臣雅実の「物思へば色なき風もなかりけり身にしむ秋の心ならひに」の歌にもとづく。

どこと声ここと答えて芒原                    鴫原さき子
「ド」=風や野生の動物たちが、声を交わしているように感じている句。
「ハ」=鬼ごっこの童遊びのような雰囲気も感じる表現。
「ス」=宮沢賢治は芒原の風を「あ、西さん、あ、東さん」と呼び交わしているように表現している。その感性に通じるものを感じる。

追伸のやうにふたたび虫の声                    白石文男
「ド」=一度途切れた虫の声の、間をおいた再開に「追伸」的な間合いを感じた句。
「ハ」=「追伸」に特別な思いをこめて効果的。
「ス」=付言したいことがあるから「追伸」は書かれるもの。その意味合いが立ち上がる表現。

陽の届く奈落や秋の水清し                     摂待信子
「ド」=「奈落」は地下の暗闇、地獄、舞台の底を指す言葉だが、下五の「水清し」で、深い闇を湛えた古井戸が想起される表現。
「ハ」=暗い地獄のような世界や場所にも陽が届くこともあるよ、という言外の意味も立ち上がってくる表現。
「ス」=「奈落」は元々、仏教用語のサンスクリット語「naraka」の音写で,地下にあるとされる世界、転じて地獄を指す。劇場用語にも転用されて、地下室で舞台機構の機械などが置いてある場所。照明の不備だった江戸時代は真暗で地獄のようだというので名づけられた。掲句は深い井戸の暗闇の表現に使って効果的。

淡き陽を寄せ集めたる藪柑子                   高橋みどり
「ド」=「藪柑子」の鮮やかな赤さを、日差しを集めたようだと素直に表現して共感を呼ぶ。
「ハ」=上五に「淡き陽」と置いて、冬の日差しの柔らかさを表現。
「ス」=「藪柑子」は日本全国に分布するサクラソウ科の常緑小低木で、山の木陰に群生し、秋から冬にできる赤い実が美しい。マンリョウ、センリョウ、ヒャクリョウなどとともに縁起の良い「金生樹」とされ、日本庭園や正月飾りに利用される。その明るさに寄せた句。

朝寒し中学生の早歩き                     長谷川嘉代子
「ド」=中学生たちの登下校の姿に日常的に接していての小さな発見の句。
「ハ」=登校時と下校時でも「集団」としてのその様子は違う。朝は早足で、下校はいっせいにではなく、分散していて歩調もそれぞれだろう。冬の朝はその「集団」としての歩みが「早歩き」になっているという発見。
「ス」=子供たちに向けた優しい眼差しを感じる表現。

初霜に終える朝取り畑かな                    服部一燈子
「ド」=霜が降りる季節。農作業の変化についての感慨句。
「ハ」=散文的には「初霜が下りている中での」という意味だが、俳句的省略と韻律で「初霜に」と効果的に表現。
「ス」=たとえば野菜を限定して「キャベツかな」といってもいいところだが、「朝取り畑」と、面的な広がりの言葉にしたのも効果的。

稲の香やふと農民の息遣ひ                     星 利生
「ド」=稲の香にそれを育てた人の「息遣ひ」を感じたという句。
「ハ」=「ふと」が、作者の「気づき」の現場を捉えて効果的。
「ス」=作者は実りの田を景色として感受しているのではなく、そこが苦労の多い労働の場であること、そこで働いている人の存在まるごとを捉えようとしている。

待つ人も待たるる人も菊日和                   本多やすな
「ド」=「待つ」「待たれる」ことの間にある立場を超えた触れ合いの在り方に寄せた感慨の句。
「ハ」=つまり「誰も」ということだが、わざわざ「待つ人も待たるる人も」と表現することで、そこに人間同士のふれあいの機微があることを効果的に表現。
「ス」=深く鑑賞すると「永遠にもう来ない人」に対する思いも込められているように感じられて、含意が深くなる。

筆の跡ひとりの秋を灯しけり                   丸笠芙美子
「ド」=「筆の跡」に続く「ひとりの秋」という言葉で、書をしたためるということが個的な行為であることを効果的に表現。
「ハ」=下五の「灯しけり」で、命の灯という心象に誘って効果的。
「ス」=そしてどんな思いでこの書をしたためたのだろうと、読者を深い思いに誘う表現になっている。

案内に下手な手振りの袖振草                    三須民恵
「ド」=「袖振草」が道端に立って案内をしているようだという擬人化した視点。
「ハ」=「下手な手振り」というユーモラスな表現で和やかな効果をあげている。
「ス」=「袖振草」は芒の異称で、芒の穂が風に吹かれてなびくさまが、ちょうど人が袖を振って招いている様子に似ていると見立てた呼称。『古今集』に「秋の野の草のたもとか花すすきほにいでてまねく袖とみゆらん」とある。掲句は歴史的な趣のある季語の心象を生かした。

夕かなかな足元はたと暮れており                  宮坂市子
「ド」=蜩の音響に包まれる中での、秋の日暮れの早さについての感慨の表現。
「ハ」=「かなかな」「はたと」のひらがな表記が柔らかく、中空から「足元」への視線の誘導も効果的。そこで生きている人の存在感がある。
「ス」=蜩は朝夕、「カナカナカナ」と聞こえる澄んだ高い声で鳴く。秋の空気の透明感まで表現されている。

かまどに火秋の初風受けて納屋                   矢野忠男
「ド」=下五の漢字の「納屋」という体言で止めて、読者にずしりとした手応えを感じさせる表現。
「ハ」=初秋の風ではなく、「秋の初風」とした発見的表現が効果的。
「ス」=読み下って、また上五に戻ると「かまど」の「火」に温もりが感じらてくる表現になっている。



Ⅰ 今月の鑑賞・批評の参考  (12月「あすか塾」・「あすか」誌新年2月号用)

〇 野木桃花主宰句(「一葉忌」より・「あすか」2020年11月号)

被災せし街や帰燕の過ぐる空
木犀を楚々と零して父母の墓
足音のひそやかに来ぬ一葉忌

【鑑賞例】
 一句目、十月の「あすかの会」で私が特選に採らせていただいた句です。東日本大震災十年目に向けての「わたしの一句」募集のお話をしましたが、そのお手本のような句です。燕たちにとっても、かの大震災はいつも営巣していた場所の喪失と戸惑いであったわけですね。一度は元の街、元の場所を捜すような振る舞いをして、まだ復興ならぬ街の空を燕が過ぎてゆく。そこに被災地とその時間が表現されています。
 二句目も十月の「あすかの会」で高得点だった句です。木犀の花の鮮やかな金色。墓域の沈んだ色を明るくする色。父母に寄せる作者の心の表現ですね。
 三句目。樋口一葉は明治時代を生きた文学者。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学び、生活に苦しみながら「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など、擬古文という独創的な文体で新しいスタイルの小説を発表し文壇から絶賛されました。特に鷗外がその才能を讃えています。わずか一年半でこれらの作品を書き、二四歳六ヶ月で肺結核により死去。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けています。二十四年間の短い生涯のうち約十年間を文京区で過ごした樋口一葉を偲んで、毎年命日にあたる十一月二十三日に、一葉ゆかりの法眞寺にて一葉忌が営まれています。今年はコロナ禍で中止。掲句の「足音のひそやかに来ぬ」は明治の女性の楚々として凛とした佇まいを表現していますね。
 
〇 武良の9月詠(参考)

深呼吸して八月は肺の中
初秋のLINEに死者のことづてが
彳亍の歩みと思ふ秋半ば

【参考自解】
 一句目、現俳協の俳句大会応募句。「佳作賞」「秋尾敏特選賞」をいただきました。戦禍のことは他人事のように「眺めて」表現するのではなく、心深く内面化することが大切という思いを表現しました。三句目、死者のことを忘れるなという思いを怪談風味でミステリアスに詠みました。三句目、「彳亍」は「てきちょく」と読み、「彳」は左足、「亍」は右足の意で、その両足で佇み、かつ行きつ戻りつすること。秋の空気感の中で思いの揺れを表現したつもりです。

Ⅱ 「あすか塾」23 野木メソッドによる合評会 同人句「風韻集」11月号より 

ビル街の真一文字に大西日                     矢野忠男
「ド」=自然な野山を照らす西日に特に線や角度を感じることはない。だがビル街では西日までが幾何学的な直線を為すのだなという感慨。
「ハ」=野山を照らす大西日全体を包む熱気を感じるが、日の射し込む余地がないほどビルの林立する場所の西日は、そのビル群の形に暑さまで切り取られる。
「ス」=都会独特の熱気が立ち上がってくる表現になっている。

盆灯籠あの日を映しまはりけり                   柳沢初子
「ド」=走馬灯のように回転するタイプの「盆灯籠」。その動きに過去の思い出が回り出して・・・という思いの表現。
「ハ」=お盆の回り灯籠の優雅な動きに心まで揺蕩(たゆた)い「あの日を映しまはりけり」と過去幻想に誘われたことを巧に表現した。
「ス」=元々はお盆の時期に墓に供える灯籠型の飾りだったが、それが屋内の仏壇の前に飾るものとしても多様化している。中に電球を入れてその熱で絵柄が回転する仕組みのものを多く見かける。その動きを句に生かして詠んだ。

なんのそのヘクトパスカル烏瓜                 山尾かづひろ
「ド」=「ヘクトパスカル」が気圧の単位の言葉から、「へこたれはしないぞ」という言外の意味に変換されているような、遊び心のある表現。
「ハ」=語呂合わせしたくなる「ヘクトパスカル」という言葉の響きをたくみに使った表現。
「ス」=気圧の単位はかつてミリバールが使われていた。現在は国際単位系のヘクトパスカル (hPa) が使用されている。ある年齢以上の人はそれが切り替えられた時、なかなか馴染めなかった体験を共有している。そんな背景もある句。

絆といふ手桎足枷茄子の馬                    渡辺英雄
「ド」=通常は良いイメージで語られる「絆」に、負の面を感じて。
「ハ」=盂蘭盆会の魂棚の飾り。祖先の霊がそれに乗って訪れ、それに乗って帰ってゆくとされる。竹ヒゴやマッチ棒で作る、硬直して突っ張っているような手足で、その不自由さを強調表現した。
「ス」=手枷足枷と通常は書くところを「手桎足枷」と表現。「桎梏(しっこく)という言葉の「桎」が足かせ、「梏」が手かせ。作者は手枷まで、もっと自由を束縛する「足かせ」の意味の言葉を使って、その拘束感を表現している。

梅雨明の満月雲を寄せつけず                   磯部のり子
「ド」=梅雨明けの満月に、他から抜きんでた独自の光彩を放っているように感じたという感慨の表現。
「ハ」=散文的に説明すると少しくらいの厚い雲でも、ものともせず満月の光が突き抜けて地上の夜を照らしているという景だが、それを「雲を寄せつけず」と効果的に表現した。
「ス」=そう詠むことで、言外の作者の何か晴れやかな心境まで表現している。

木通蔓引く一山を揺すらせて                   伊藤ユキ子
「ド」=自然と、ふとしたことで関わったときの、何か大きな手触りを感じた感動の表現。
「ハ」=単に蔓を引いただけの行為だが、その思わぬ手応えに、木通の背景にある自然という「一山」の存在感を感じた、という敬虔な思いの表現になっている。
「ス」=そういうふうに俳句表現する作者の、自然と向き合って生きる常なる心の在処まで読者に伝わる俳句である。

楸邨忌きずあとのこる古机                     稲葉晶子
「ド」=傷と、漢字で書かず「きず」とやわらかいひらがな表記で、忌日の心もちを表現した。
「ハ」=忌日とはその人の残した魂のメッセージを噛みしめる行いを含む日である。そのことを、普通なら、机に傷をつける行為は迷惑なことだが、そこにかけがえのない人の存在時な痕跡を見出し、いつくしむように表現した。
「ス」=人間探求派の代表的俳人の忌日にふさわしい表現となった。

秋蟬や古都の片隅甘露の井                     大木典子
「ド」=秋蝉の音、古都という空気、片隅と言う時空性、そして「甘露」という深い味の井戸の水。道具立てに無駄のない表現。
「ハ」=景を「眺めている」視座ではなく、その景と一体となって生きている実感的表現。
「ス」=一見、「片隅」の後でも切れる三段切れにみえるが、「片隅に」の「に」を省いて俳句的韻律の中に「甘露の井」を置いた秀逸な表現になった。

稲妻の宙裂く百刃だんご虫                     大澤游子
「ド」=稲妻の多岐に広がる閃光を「百刃」とスケール大きく表現して、地の片隅の「だんご虫」と対比。
「ハ」=自然の中の大いなるものと、懸命に生きる小さきものへの慈愛のまなざし。
「ス」=大自然の中の小さくも愛おしいもの、つまり人間そのものを象徴。

闇ついて生くる証や鉦叩                      大本 尚
「ド」=鉦叩きの音を、まるで修行行脚僧の手元の「鐘」のように響かせた俳句。
「ハ」=上五の「闇ついて」が効果的。「闇から」と説明せず、命をすっぽり包んでいる闇の表現にしたことがこの句の命。
「ス」=これも伝統俳句的に「眺めて」いるのではなく、自分の存在感、人生観をかけた主体的な表現になっている。

夕暮れの風濃くなりぬ秋簾                     奥村安代
「ド」=夕暮れの風の気配に季節の変化を感受している表現。
「ハ」=夏から秋への風の感触の変化は通常なら、空気が乾いて軽くなってきたことを詠みがち。そう詠むのは「説明」。この句は逆に「濃くなりぬ」としていることで、空気の質量感ではなく、思いの濃淡という心境の変化の表現だということがわかる。
「ス」=下五の「秋簾」が効いていて、空気は涼しさを増しても日差しの強さが残っていることがわかる。その中で愁思である。

物言はず笑顔でくづすかき氷                   加藤 健
「ド」=実際は手に持ったスプーンで崩しているのだが、それを「笑顔で」と効果的な表現。
「ハ」=一人笑いしているのではなく、この笑顔にはその気持ちを分かち合う人が周りにいることがわかる。
「ス」=そのことで、同じ季節感の中で楽しみを分かち合っている心の姿も浮かび上がる表現になっている。

源流は万緑の底雨上がる                      金井玲子
「ド」=「万緑の底」という見えないものを幻視している表現。
「ハ」=そう表現することで、作者が森と水に満ちたすがすがしい空気を満喫している気持ちが表現されている。
「ス」=「万緑の底」というすべてに投網をかけている総括的な幻視的表現。

父母語るブラウン管の敗戦忌                   坂本美千子
「ド」=昭和の時間経過的な「敗戦日」についての感慨。
「ハ」=敗戦の玉音放送はラジオだった。掲句はテレビが普及してから改めて回想している父母の回想。それをデジタルテレビ時代の「私」が回想しているという二重構造の時間軸で表現。
「ス」=昔日の思いをこめた、しみじみとした反戦句になっている。

少年は向日葵よりもうなだれて                  鴫原さき子
「ド」=合評会で「うなだれて」の原因についていろいろ感想が出た句。そのことを伏せた表現がかえつて句に広がりを持たせている。
「ハ」=成長途上、「少年」たちは何度も、いろんな小さな「挫折」を体験して大きくなってゆく。まるで向日葵がいっしょになだれて、心に寄り添っているようだ。
「ス」=そのことへの優しい眼差しを感じる表現。

更けし夜の左脳に響く虫の声                    白石文男
「ド」=虫の声が語りに聞こえるのは左脳で聴いているからだという発見。
「ハ」=作者がわざわざ「左脳に響く」と表現しているのは、日本人ならではの季節感だけではなく、脳機能のせいであることを踏まえている。
「ス」=西洋人は音を右脳で純粋に音として聞くが、日本人は「聞き做し」といって、生きものの声や物音でさえ人の言葉のように左脳、つまり言語野のある脳を働かせて聞くという。秋の虫の音は西洋人には騒音に等しいが、日本人には秋という季節の囁きの「意味」を聞き取っているらしい。

抜きて尚勢ひ被さる藪からし                    摂待信子
「ド」=「勢い被さる」という野生の手応えの表現。
「ハ」=上五の「抜きて」という行為と、「尚」と感じる心のゆれと、「勢い被さる藪からし」の命の力が対等に対峙している表現。
「ス」=早く駆除してしまいたい対象としてしか見ない「藪からし」に、同じ命あるものとして全身で対峙している作句姿勢。

地の神の定めしままに台風来                   高橋みどり
「ド」=台風は風神の仕業。この句では風神の仕業の視点からではなく、地上でそれを迎える命の側から全身で引き受けようと表現している。
「ハ」=「地の神の定め」という表現は、「定めに従う」という受動表現に見えて、実は自らの意思でそれを選択し、引き受けている思いへと逆転させている表現。
「ス」=「台風来」が下五ではなく、上五に置かれていたら作者の意図は表現できなかったはず。

爽やかや歌声合はす下校の子                  長谷川嘉代子
「ド」=「歌声合はす」という表現がこの句の命。
「ハ」=「歌声聞こゆ」では感慨が薄れる。それを聴いている作者の心も、その声に共振していることが表現できないからだ。
「ス」=「爽やか」は状態を描写しているように見えるが、実は「気持ちことば」で、自分の気持ちを表す言葉。俳句の中で上五はもちろん、「気持ちことば」を使うことはあまり奨励されることではない。読者もそう感じられる景を描写するのが俳句的表現だからだ。だが、掲句の「爽やか」は心情吐露ではなく、普遍性を持つ感動表現であり、例外的に成功している表現だ。

霧襖車のライトつきぬけり                    服部一燈子
「ド」=「霧襖」という季語が効いている表現。
「ハ」=薄紙を幾重にも重ねたような濃霧の雰囲気がでる季語であり、それだからこそ「車のライトつきぬける」という、一点突破的な光の線まで表現できた。
「ス」=伝統俳句的に眺めて詠んでいるのではなく、臨場感を持って前方を見つめている作者の緊張感まで伝わる表現だ。

大石小石秋の声聴く渓の水                     星 利生
「ド」=「秋の声聴く」の主体は、最初は「大石小石」のように見える。だが下五の「渓の水」で、音が跳ねあがって作者の耳の存在が浮かび上がる。
「ハ」=「大石小石」も、存在の多様さを感じさせる効果的な表現だ。
「ス」=主体の瞬時の移動表現で、作者がこの渓の空気感と一体となって呼吸していることまで伝わる。

地図になき女の小径藤袴                     本多やすな
「ド」=大きな縮尺率の、日本全体のような「地図」には、地元的な「小径」は載らない。自分だけが知る大切な「径」という感慨。
「ハ」=「女の小径」ともなったら、一層、その個別的な感覚が強調される。
「ス」=因みに「藤袴」『源氏物語』五十四帖の中の第三十帖の卷名でもある。夕霧が詠んだ和歌「同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも」に因む。従兄弟の迷い大きな玉鬘を案じて「藤袴」に例えて送った歌だが、玉鬘は取り合わないというエピソードである。花の雰囲気を彷彿とさせる。

秋蝉や行き先を問ふ声のして                   丸笠芙美子
「ド」=自分の内なる声を、季節感あふれるなかで造形描写した。
「ハ」=声のする方角はまさしく「秋蝉」の声の響く彼方。
「ス」=前に進もうとする内なる決意の表現。

遅咲きの布袋葵は自分流                      三須民恵
「ド」=「遅咲きの」は句の上では「布袋葵」にかかるが、作者の自分を見つめた表現でもある。
「ハ」=そのままでいいんだよ、奥手でも自分なりでも、という内なる思いの表現。
「ス」=布袋葵はミズアオイ科の水生の多年草。多数のひげ根が水中に垂れ、葉は卵形で、葉柄の基部が大きく膨らみ、浮き袋の役をして水面に浮かぶ。夏、花茎を水上に出し、淡紫色の花を総状につける。その水上浮遊感と淡い色はまさしく「自分流」である。

目つむれば身の流れ初む天の川                   宮坂市子
「ド」=上五の「目つむれば」で一気に瞑想的、自省的な想いに引き込む表現。
「ハ」=天の川の句は「見上げる」ものとしての表現が多い。だが掲句は内なる宇宙と共振させる深い表現を実現。
「ス」=「身の流れ初む」という表現で、宇宙の摂理に身を任せているような作者の思い、生き方の表現になっている。


あすか塾 11月

Ⅰ 今月の鑑賞・批評の参考    (11月「あすか塾」・「あすか」誌新年号用)

〇 野木桃花主宰句(「今朝の秋」より・「あすか」2020年10月号)

星月夜愚直に生きし父のこと
走馬灯泣き虫のさが母ゆづり
実家いま更地となりて今朝の秋
添水鳴る父晩年の和綴じ本

【鑑賞例】
四句とも亡き両親の回想と追慕の情を詠んだものですね。その感慨が秋の季語「星月夜」「走馬灯」「今朝の秋」「添水(そうず)」と取り合わされて豊かに表現されています。猛暑から解放されてひんやりとして秋気に触れたとき、だれもが故郷や両親、同胞などのことを訳もなく懐かしく思い出したりするもので、その感慨には普遍性があります。父の「愚直」なまでのひたむきさ、母の「泣き虫のさが」など宿命的な情の深さが自分に遺伝しているようだと回想されています。その「家庭」の暮らしを包んでいた「実家」が解体されて更地になっている様に、ある種の喪失感を噛みしめています。四句目の「添水」は俗称、鹿威しのことで、そんな装置のある古い民家の佇まいと、父が晩年に「和綴じ本」の古典作品を大切にしていた姿が印象的に詠まれていますね。

〇 武良の8月詠(参考)

社会的距離や常なる野の薊
アンネ拘束八月四日のことなりき
六日八時九日十一時忘れまじ
秋立ちぬマリアの首の火傷にも

【自解】
 一句目は新型コロナウイルス感染拡大で喧伝された世相に対して、自然を対比させて詠みました。後の三句は日本の八月に刻印された戦争詠。三句目の日時は広島と長崎の原爆投下の時間です。四句目は被爆した長崎の教会のマリア像のことです。


Ⅱ 「あすか塾」22 野木メソッドによる合評会

〇同人句「風韻集」10月号より 
   
手信号に従ふ車列梅雨出水                     宮坂市子
「ド」=梅雨の時期の水害で停電して交通信号が機能しなくなった一コマの感慨。
「ハ」=「手信号に従ふ車列」という具象描写表現に実感が滲む。
「ス」=十字路で交通整理を延々と続ける警察官の姿に、地域全体の被災感が象徴的に表現されている。

風ほめし風船かずら透ける風                    矢野忠男
「ド」=「ほめし」の主語が「風」「風船かずら」の双方で褒め合っているような趣。
「ハ」=「透ける」も「風」と「風船かずら」の双方であるような表現。
「ス」=秋風と風船かずらが互いに交感しているような秋の空気感が表現されている。

緋目高や兄の水槽干乾びて                     柳沢初子
「ド」=季語でもあり絶滅危惧種でもある「緋目高や」で切れ、そのイメージを引き連れて、中七・下五で「水槽」の持ち主であった兄への追慕を表現した。
「ハ」=兄がもう彼岸の人であることを具象的描写で表現。
「ス」=「緋目高」の貴重さで兄の追慕の深さまで表現されている。

秋蟬や典座格闘大羽釜                     山尾かづひろ
「ド」=動詞や形容詞ではなく名詞の、漢音のリズムによって情景を浮かびあがらせる表現がされている。
「ハ」=典座(てんぞ)は禅宗寺院の役職の一つで、座具,炊飯,料理を司る僧侶の役職名。重要な役なので高潔の僧が選ばれる。続く「格闘」でその様が浮かび上がる。一般的ではない珍しい景を詠みながらも普遍性を感じる表現になっている。
「ス」=竈で炊く羽つきの「大羽釜」という道具立ての下五が効いている。

枯山水まもる土壁梅雨ふかし                    渡辺英雄
「ド」=「土壁」が「枯山水」の庭園を「まもっている」ようだという感慨。
「ハ」=「枯山水」は岩や小石などで海を含む大きな自然の景を、縮小して表現した庭。造形物なのでその周囲は「土壁」で仕切られている。それを、視点を変えて表現した。
「ス」=「まもる」と詠んだのがこの句の命。

男梅雨水瓶の水尖りたり                     磯部のり子
「ド」=激しく一気に降って止んだ梅雨の雨。「水瓶」の水までがその荒々しい気配に呼応して「尖って」いるようだという感慨。
「ハ」=「男梅雨」は晴天が多いが降ると激しい梅雨や、ザーッと降ってカラッと晴れる梅雨のこと。「女梅雨」は、弱い雨がしとしと続く梅雨のこと。その違いを、別の「水瓶の水」で表現した。
「ス」=「水」が「尖って」感じるという繊細な表現がこの句の命。

自粛解け夏負けの胃を見せにゆく                 伊藤ユキ子
「ド」=検診のことを自発的な「見せにゆく」とユーモラスに表現。
「ハ」=少しおどけたような能動的な表現で、鬱の気分をはらう効果を上げている。
「ス」=胃が荒れた原因が時事を背景にした「自粛」であるところに社会性がある。

水茎の涼しかりけり詫手紙                     稲葉晶子
「ド」=流麗な筆致で書かれていると「詫手紙」であっても爽やかだなという感慨。
「ハ」=「水茎(みずぐき)の跡も麗しく」というような慣用的な言い回しで使われる古風か言葉を、「涼しかりけり」と表現し、「詫状」の内容まで推測させる表現になっている。
「ス」=失われつつある美しい日本語を用いて機微を詠んだ。

梅雨明けや最後に受けし変化球                   大木典子
「ド」=梅雨明けの青空を仰いで、子どもの成長の感慨を回想している表現。
「ハ」=空き地かグラウンドか、普通は父親がする子どもとのキャッチボールの相手を、母親である自分がしていた日々の回想。変化球は幼い子には投げられない腕力を必要とする球種。それを投げてよこしたことに、子どもの成長を感じている表現。そして成長と共に自分が相手をしていた時期も終わったことを回想している。
「ス」=そのことを「最後に受けし」とドラマチックに表現した。

押入れの行李にねむる白絣                     大澤游子
「ド」=夏と言えば・・・という感慨の句。着る人がいなくなって押入れの行李に長くしまったままになっている「白絣」が思い出されて・・・・。
「ハ」=「ねむる」という言葉で作者の心情が前面に出た表現になっている。
「ス」=「飯強し母の着給ふ白絣/桂信子」「昔男にふところありぬ白絣/岡本眸」と言う例句があるように男女用がある「白絣」の着物。掲句は誰の着物だろう。
          
緑陰に見上ぐる空の底深し                     大本 尚
「ド」=夏空の青の深さを海底のように感じたという表現。
「ハ」=上五の「緑陰」の下で空を見上げている構図で効果を上げている。
「ス」=「空の底深し」は一見なにげない表現のようだが、なかなかできるものではない。

去りがたき框夏炉の火の匂ひ                    奥村安代
「ド」=避暑で訊ねた場所にあった夏炉についての回想的感慨。
「ハ」=肌寒くて、上り框のところで温まった、土間で炊かれていた「夏炉」の匂いを、日常の一コマで回想していると思われる表現。猛暑の日々の中、急に冷えた日があったことが想像される。
「ス」=「夏炉」は夏も塞がずにおき必要に応じて焚く炉のこと。高山の山小屋や避暑地または北国でも雨の小寒い日などは夏炉を焚くことがある。また何時でも焚けるように開かれている炉も夏炉と詠まれる。この句の場所がいろいろ想像させられる。別の句「濡れ縁に午後の始まる蝉の声」も「午後の始まる」が印象的。

櫂碇欄間に透かす涼しさよ                     加藤 健
「ド」=透かし彫りの欄間のある高い天井の旧家を思わせる句。それだけでも涼しさを感じるが、透かし彫の絵柄が海由来の櫂と碇であることの感慨。
「ハ」=「透かし彫り」と名詞表現ではなく「透かす」と動詞表現にしたのが効果的。
「ス」=透かし彫りの欄間を通して、海を視ているともとれる句だが、ここは絵柄のことと解釈した。

糸蜻蛉影うすうすと飛び立てり                   金井玲子
「ド」=細い体で、羽が透明な糸蜻蛉。その軽々とした空気感の感慨。
「ハ」=中七の「影うすうすと」がこの句の命。
「ス」=頼りなげな様に、逆に身軽さを感じ取っている表現になっている。別の句に「望郷の声岩間より河鹿笛」があり、小動物の句への取り込みが巧み。

黙深き「カレーの市民」蟻の列                  坂本美千子
「ド」=敵国に差し出された市民の、戦争犠牲者としての姿に思いを寄せた句。
「ハ」=下五の「蟻の列」という季語で猛暑の中の隊列の過酷さを表現した。
「ス」=「カレーの市民」はロダン作の著名な彫刻のひとつで、日本の国立西洋美術館の前庭にも設置されている。百年戦争時の一三四七年、イギリス海峡におけるフランス側の重要な港カレーが、一年以上にわたってイギリス軍に包囲され飢餓状態に陥った。解放の条件として六人の市民が裸に近い格好で首に縄を巻き、城門の鍵を持って歩いてくるようにというものだった。その様を彫刻作品にしたもの。

断崖を墓標としたり沖縄忌                    鴫原さき子
「ド」=沖縄の戦争犠牲者記念の「平和の礎」が海を臨む見晴らしのいい「断崖」の場所に立っていることに因んだ句。
「ハ」=沖縄の市民が米軍に追いつめられて、断崖から飛び降り自殺をした歴史を踏まえた表現。「断崖」を逃げ場のない窮地の象徴としても鑑賞できる。
「ス」=「断崖」という言葉に深い思いが込められている。

かぶりつく西瓜の角の九十度                    白石文男
「ド」=半月に切った西瓜を二つに割ると角が九十度になる。この角度も夏の一コマだなという感慨。
「ハ」=子供時代なら頬が濡れるのも厭わずかぶりついたが、それを二等分にして食べる習慣が身についていること、そこに感慨を見出している。
「ス」=九十度というだけでサイズと形が目に浮かぶ表現。別の句「飛び石に歩幅の合はぬ炎天下」も場面の切り取りが鮮やかな秀句。

十薬の花きはだちて夕まぐれ                    摂待信子
「ド」=昼間は木陰の隅に目立つことなく咲いている十薬の花が、夕闇が濃くなるにしたがって白さが際立つことへの感慨。
「ハ」=俳句は読者の既知、未知のいずれも初めての発見のように描きだすところに、表現としての醍醐味がある。「きはだちて」で切れて「夕まぐれ」を下五に置くだけで、そのすべてが表現できている。
「ス」=ものごとを注意深く観察している作者の眼差しが感じられる。
  
子供らのためにある空雲の峰                   高橋みどり
「ド」=夏空の清々しさを、その空の下で無心に遊ぶ子らのためにあると感じた母の感慨。遠景の上方に誘う下五の季語が効いている。
「ハ」=理屈の世界ではこの因果関係は厳密には成立しない。深い愛情のこもった想念の中だけで成立する「ために」を表現しきっている。
「ス」=素直な心情吐露風の作風に感じさせて、実は深くて無駄のない熟考された表現。

父と子と賑はふ厨夏休み                    長谷川嘉代子
「ド」=夏休みでないと、こんな光景ってないよね、という感慨。
「ハ」=「父と子と賑はふ」という表現に無駄がなく効果的。
「ス」=今回の嘉代子さんの句は全句が夏休みの子らを中心とした家族詠。どの句もその場面の切り取り方に冴えがあった。

秋暑し妻に呼びたる救急車                    服部一燈子
「ド」=日頃からの愛情に満ちた愛妻への眼差しを感じる表現。
「ハ」=妻の様態の急変という事態にすばやく、的確に夫が対応しているということが「妻に呼びたる」という無駄のない表現で感じられる。
「ス」=原因を特定せずに上五の「秋暑し」とだけ表現して余情がある。長い年月を寄り添った夫妻の円熟の呼吸が感じられる。

向日葵や吾に敗戦日の正午                     星 利生
「ド」=黙祷しているように直立する「向日葵」。敗戦は日本という国の惨事だが、「吾に」と一個人の自分に引き付けた意思的表現。
「ハ」=戦争詠は一般的、スローガン的な他人事詠に陥りやすい。それを自分で引き受けた「敗戦日」とした表現がこの句の命。終戦ではなく「敗戦」としたことも。
「ス」=利生さんの今月の句は八月ならではの戦争詠。視点が深く単なる社会性俳句の域を超えている。別の句「帰省子に防空壕の小暗がり」も秀逸。

大根蒔く令和二年の風の中                    本多やすな
「ド」=句に記された言葉の意味に主題があるのではなく、そのように象徴表現された何かに、俳句としての主題がある表現。
「ハ」=「大根蒔く」は季節を噛みしめて生きている姿勢、「令和二年」は一回限りの今という時、「風の中」は生きていることの実感、というそれぞれの象徴表現であるということ。
「ス」=そこから普遍的に立ち上がってくる何かを、どう受け止めるかは読者次第である、ということ。

万緑や心音だけを聴いている                   丸笠芙美子
「ド」=「心音」とは、と考えさせる表現。
「ハ」=自然の中のあらゆるものの「心音」に耳を傾け、自分が今ここに生きているという実感を噛みしめる心の「心音」とシンクロしているような表現である。
「ス」=芙美子さんの句は人間の深層心理まで深く分け入ってゆくような印象を受ける表現がされている。表面的な感覚を突き抜けて、ものごとの本質に迫ろうとする文学的姿勢がある。

山あれば登り後ろは見ない夏                    三須民恵
「ド」=夏を生きる心構え、それを登山の比喩で表現。
「ハ」=他の季節は・・・と考えてみるとはっきりする。春は周りを見回しながらゆっくり歩く感じ、秋は自然の色彩を愛でて視線が上に遊んでいる感じ、冬は肩をすぼめ俯きかげんに自分の足元ばかり見ている感じ。そう想像するとこの句の夏の表現が一層、味わい深いものになる。
「ス」=俳句は詠むものではなく、生きることそのものだと感じさせる表現になっている。


あすか塾 10月

Ⅰ 今月の鑑賞・批評の参考 

〇 野木桃花主宰句(「夏木立」より・「あすか」2020年9月号)

朴一花飛翔のときを待つてをり
天地の夜はうすみどり夏は来ぬ
混迷の出口を捜す羽抜鳥

【鑑賞例】
一句目。「朴の花」は初夏の季語で子季語に「朴散華」がある。高い朴
の木に咲く九弁の白い大きな花で芳香がある。大きな葉に乗るように
咲くので、下から見上げただけでは見えないことが多い。卯の花など
とともに、夏の訪れを象徴する花。例句に、
一瓣散り一瓣朴のほぐれゆく     河東碧梧桐 「新傾向句集」
朴散華すなはち知れぬ行方かな    川端茅舎  「定本川端茅舎句集」
というように、その独特の散り方が詠まれている。
野木先生の掲句では九つの花弁をプロペラのように見たてたかのように「飛翔のときを待つてをり」と表現。初夏の自分自身の湧きたつような思いが込められているように感じる表現になっていますね。二句目。明るい時間の新緑ではなく、初夏の夜の色として新緑を詠んだのが斬新ですね。それも「天地の夜」と大きな景の表現で体感的な空気感まで表現されています。三句目。鳥の種類にもよりますが、初夏に毛替わりする途中の鳥のさまには何か戸惑いのようなものを感じますね。それを自分の心と重ねるように「出口を捜す」と表現されています。

〇 武良の7月詠(参考)
天国の底抜けてゐる梅雨の月
夏の霧地獄の門の軋む音
亡き人が空曇らせて山法師

【自解】
天国・地獄・亡者の三点セットで現世を間接的に詠んだつもりです。現世から天国は遠く、前世自身がすでに地獄化しつつあり、幾多の災害で亡くなった人の涙雨が降り続いているような心境です。

Ⅱ 「あすか塾」21 野木メソッドによる合評会

〇同人句 「風韻集」9月号より 

道塞ぐキツネノカミソリの嘆き                   三須民恵
「ド」=山道に群生する「キツネノカミソリ」にしばし足を止めた時の感慨。
「ハ」=「道塞ぐ」と「嘆き」で挟んで花と自分の心を往来する思いを表現した。
「ス」=句跨りで「キツネノカミソリの嘆き」としてその戸惑いを強調
した。花の側からすれば、ただ咲いているだけなのに、道を塞いでいると迷惑がられてしまう。花のせいではないのにと、思いを寄せている。
【注】「キツネノカミソリ」は山野に生えるヒガンバナ科の一種。キツネの毛のような花の色とカミソリのように細長い葉から、その名が付いたとされる。登山道などに群生していることがある。

惹かれしは雨の一隅沙羅咲けり                   宮坂市子
「ド」=雨に打たれて咲いている「沙羅」の花に何故か心惹かれたという思い。
「ハ」=「雨の一隅」とすることで、その一点に思いを寄せる表現にした。
「ス」=「惹かれた」理由を理屈で説明せず、「雨の一隅沙羅咲けり」
と咲いている場所・様態にしたことで、作者の心が伝わる表現になっている。
  
雲の峰もやいを解きし女将の手                  矢野忠男
「ド」=船宿の女将が宿を離れる舟の舫を解く手。海辺の暮らしのひとコマへの感慨。
「ハ」=上五の「雲の峰」の夏の季感から一息に「手」に絞り込んだ表現をした。
「ス」=人物の一瞬のしぐさを切り取って詠むだけで、その場所の雰囲気、日々の暮らしのようすまで表現されている。
【注】「もやい」には二義あって、【舫い】なら舫うこと。またそれに用いる綱。
【催合い、最合い】なら共同で物事をしたり所有したりすること。掲句は前者の意で、舟を係留するために岸に綱で繋ぐこと。

枇杷食めばふるさと種ととび出せり                柳沢初子
「ド」=大粒の枇杷の種に、心奥にしまっていた古里に出会った思いがした。
「ハ」=「食めば」その時、という臨場感と種子の質量感に、故郷に対する特別な思いを込めた表現をした。
「ス」=心にしまっている感じを枇杷の厚い果肉に包んでいるように表現した。

夕暮をひつぱる羽音銀やんま                  山尾かづひろ
「ド」=銀やんまの羽音が、まるで夕暮れを引き寄せているようだという感慨。
「ハ」=「ひつぱる」がまるで緞帳を引いている語感があり効果的な表現。
「ス」=俳句独特の比喩を描写表現のようにする方法で効果を高めた。

梅雨兆す夜更けのジャズにコルトレーン              渡辺英雄
「ド」=大気の湿度、どこからともなく聞こえるジャスの郷愁。
「ハ」=空中の湿度が高いと音が伝わり易くなる。それがサックスの響きと相俟って効果を上げている。
「ス」=「コルトレーン」と言ってすぐ判る人が多数派とは限らない。ジャズ愛好家自身が少数派であり、そのことが特定の時代性を帯びた郷愁の表現に効果を与えている。
【注】「ジョン・コルトレーン」はアメリカのモダンジャズを代表するサックスプレーヤー。無名時代が長く第一線で活躍した期間は十年余りであったが、自己の音楽に満足せずに絶えず前進を続け、二十世紀のジャズの巨人の中の一人となった。一九六〇年代後半に青春期だった世代には鮮明な印象を持つ人が多いはず。

枇杷色の月にわきたつ雨蛙                    磯部のり子
「ド」=枇杷色、蛙の声、色と音を響き合わせた表現。
「ハ」=田いちめんから聞こえる蛙の大合唱はまさに「わきたつ」感じ。その上気した気持ちを「枇杷色の月に」の「に」で巧みに表現した。
「ス」=まるで満月の光に蛙が興奮して騒いでいるかのような効果的な表現。

午睡かなバイオリズムの螺子弛め                 伊藤ユキ子
「ド」=体調を整えるための昼寝を「螺子を弛める」ようにとイメージした。
「ハ」=今はあまり流行らなくなった古い体調診断方法の「バイオリズム」という言葉を敢えて使い、しかも「螺子弛め」と具象化して効果的に表現した。
「ス」=「午睡」を切字で強調し、どこかユーモラスでゆったりした雰囲気を出すことに成功している。
【注】「バイオリズム」とは心身の状態を表す三種類の波(「身体」、「感情」、「知性」)のことをいう。ただ科学的に実証されていない仮説にすぎないため、疑似科学と見なされている。その三つを波形のグラフにして心身の総合的な状態を示す方法は、社会に広く浸透していて、今も信じている人も多い。

露草のはかなき色にある力                     稲葉晶子
「ド」=朝開き、夕べには閉じる一日限りの開花の力をその淡い色調に発見。
「ハ」=「淡い」という形容詞にせず、主観的な「はかなき」と表現して強調。
「ス」=別称に蛍草ともいう「はかない」ものに潜む命の力、輝きの表現。

梅雨に入る遅れがちなる大時計                   大木典子
「ド」=大きな柱時計の振り子まで、梅雨の湿気で遅れがちに感じられるという感慨。
「ハ」=言葉の順番が効果的。「梅雨に入る」で始まり「大時計」で終わる、垂直のどっしりした重量感。
「ス」=事実は梅雨の湿度で時計が遅れてしまうことはないかもしれない。だか、そう表現することで、梅雨の季節感が実感される表現になるということ。

蘆原の育む命朝きたり                       大澤游子
「ド」=下五の「朝きたり」で、今その季節が始まったという感慨の表現。
「ハ」=「命育む」という語準でも意味は通じるが、すると「朝」の形容表現になってしまう。「育む命」として、そこに切れを入れて「朝きたり」としたことが、この句の命。
「ス」=熟考して、これでぴたりと収まった語順。
【注】蘆原は仲秋の季語。夏は「青蘆」「青蘆原」で「蘆の花」は秋の季語で、「枯蘆」が冬の季語。参考までに、この句を夏にする「青蘆原命育む朝は来ぬ」「青蘆や命育む朝来たり」というふうにも詠めますね。
            
眼にものを言はせるマスク夏帽子                  大本 尚
「ド」=顔の半分を覆ったマスクが、顔以上の表情を持ったことの感慨。
「ハ」=「ものを言はせる」と、主語が「マスク」使役表現にすることで、目の方がその指示に従っているような表現になった。
「ス」=下五の「夏帽子」で季節感と人物の様子がすっきり解る表現。

鎧ひたるマスクを洗ふ夕薄暑                    奥村安代
「ド」=「鎧」を動詞で「鎧ひたる」とすると防御感が増す。そこに発見がある句。
「ハ」=中七を「マスクを外し」と説明せず、一気に「洗う」とした結末で印象を深めた表現にした。
「ス」=作者が世間がマスクだらけになっていることに、過剰防衛的な違和感を抱いていることまで、言外に表現し得ている。

空海の草鞋を濡らす墜栗花雨                   加藤 健
「ド」=日本の各地を行脚して、人々を救う奇跡を為したという空海伝説を踏まえて、それを「草鞋」という言葉に象徴した表現。
「ハ」=「草鞋を濡らす」で、空海の歩みを動的に表現した。
「ス」=下五に野生の栗の群生する林の傍を、空海で通ったような雰囲気も表現。
【注】「墜栗花雨(ついりあめ)」は梅雨の別称。数ある別称の中でも珍しい季語だが、文字通り、栗の花を散らす梅雨の意味を含む。匂いを感じる言葉。

太陽と一日戯る青葉風                      金井玲子
「ド」=まるで「青葉風」がお日様と戯れているような一日だったという感慨。
「ハ」=一日、風が吹いていたと説明せず、比喩で効果的に表現した。
「ス」=言葉を選んで、爽やかな季節の到来の空気感を表現。

閉ぢてより本音切り出す黒日傘                  坂本美千子
「ド」=「黒日傘」を「閉じる」という言葉の間に「本音」を挟んだ表現。
「ハ」=「閉ぢてより」という時間の経過の表現で、それまでは炎天の中を歩いていた情況などがわかる。「改まって」ちゃんと何かを伝えようとしている意志が表現されいてる。
「ス」=「黒日傘」の「黒」が強調されていて、強い意志が表現されている。

六月の色となりたるポプラかな                  鴫原さき子
「ド」=広葉のポプラは大きい葉になるのに時間がかかる。六月になってやっとポプラらしくなったという感慨。
「ハ」=それを「六月の色となりたる」と感慨深く表現した。
「ス」=季節の変化とポプラの葉の繁りを同時に感受している心の表現。

端正な流離の姿蝉の殻                      白石文男
「ド」=蝉の抜け殻を脱皮ではなく「流離の姿」を感受した。
「ハ」=普通、成長のための脱皮と見てしまうことを、これは今あることからの一つの「流離の姿」だ、詩情豊かに表現した。
「ス」=上五に「端正な」という内面的な美を添えたところが秀逸。

夫の忌や角よりくづす冷奴                     摂待信子
「ド」=日常の何気ない自分のしぐさに、生前の夫とのことなどが甦り・・・。
「ハ」=「角よりくづす」しぐさに思いをこめた表現をした。読者にもしかしたら、夫もよくそうやって食べていたな、と回想しているのではないかと思わせる表現にもなっている。
「ス」=それと同時に、どこか愁いを帯びた気持ちも表現している。
     
山小屋を赤鉛筆で囲みけり                    高橋みどり
「ド」=登山に向かう高揚感を象徴的に表現。
「ハ」=地図を広げて登山コースを確認しているときの高揚感を、必要充分な言葉だけで鮮やかに表現した。
「ス」=親しい間柄の数人で地図を囲んでいる楽しげ雰囲気まで表現している。

退院の出迎へ庭の濃紫陽花                   長谷川嘉代子
「ド」=退院ができて、しばらく留守にしていた我が家の庭を眺めたときの安堵感を表現。
「ハ」=「ああ、やはり自分の家はいいな」という思いを、「濃紫陽花」が「出迎へ」してくれているようだと、効果的に表現した。
「ス」=この句も必要充分な言葉だけで、語順も効果的に表現されている。

児の見えぬ厨に三個柏餅                     服部一燈子
「ド」=子供の存在感を三個の柏餅に感じた。
「ハ」=三個が子供たちの数と対応していて、いつもそうやって子供たちと時間を共有している暮らしの一コマを、柏餅で象徴的に表現した。
「ス」=児のいない、ではなく「見えぬ」でちょっとの間の不在であることを表現。

老鶯の統べる一村峽の空                     星 利生
「ド」=まるで鶯の声が支配しているような村だなという感慨。
「ハ」=夏、遅くなっても鳴いている「老鶯」としたことで、山間部に棲み付いているような雰囲気まで表現した。
「ス」=山と山とに挟まれた谷あいの狭くて細長い集落。その全域に響き渡る鶯の声で、小さな村の雰囲気と森閑とした空気感を表現した。

木漏れ日の光とらえる蜥蜴かな                 本多やすな
「ド」=蜥蜴が木漏れ日の光の点と戯れているような光景に心動かされて。
「ハ」=「光とじゃれる」ではなく「とらえる」と、やさしいひらがな表現にした。
「ス」=小さないきものに寄せるやさしい眼差しの表現。

紺青の海軋み出す日雷                     丸笠芙美子
「ド」=雨雲が生み出す雷ではなく、晴天の大気の帯電による落雷は、天変地異のの予兆のような趣がある。その印象を造形的に表現。
「ハ」=空や地上ではなく「紺青の海軋み出す」と色彩豊かな広大な景で表現した。
「ス」=「日雷」は晴天のときに雨を伴わないで鳴る雷。また、ひでりの前兆を示す雷。天の怒りのような表現が多いなか、海でその威力を効果的に表現。
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「あすか」2020年 令和2年

2020-12-02 12:06:15 |  俳句結社誌「あすか」 2020年
「あすか」2020年 令和2年


12月号















11月号













10月号















9月号



















8月号

















7月号












                 ☆


6月号





※ 武良コメント

 野木先生の句は青葉の季節を吹きわたる風の、さわやかな遍在性を詠んだものですが、高橋みどりさんは、一方通行的な闇の中で出口を求めて歩く心理を詠んでいますね。
 そうすることで「出口」に希望の意味を付与し、それがさらにまた新たな入口であるという連続性へと繋げていますね。









              ☆


5月号





桃花主宰の句  花あらしみちなきみちのありにけり

 漢字表記に変えると、「花嵐道なき道のありにけり」となり、何かいかめしく、険しい道程を思ってしまいますが、ひらがな表記にされていることで、逆に未知なる世界に向かっているような雰囲気になりますね。
 みどりさんの詩はその「未知の世界」に向かい合う主題を取り出して書いた詩ですね。
 一連目では不安と迷いを、二連目は、逃げないで何ごとにも「誠実」に向き合うことで、明日を切り拓いてゆこうと自分の心に呼び掛ける表現にしています。
 修子さんの兜の切絵が全体をまとめて力がありますね。











                  ☆


4月号






野木桃花主宰の句、「春雪の汚れ」と「新宿副都心」の取り合わせですが、中七だけを音律で読んでゆくとき「汚れ新宿」という響きになり、晩春の都市を行き交う人の群れまで見えてきますね。
「余韻のつぶやき」の詩で、高橋みどりさんは、都市の雑踏の中で、ともすれば自己を見失いそうになる自分の心という主題を、主宰の句から導き出して表現していますね。
「機械じかけの革靴の波」、二連目の「掌の四角い窓」は手鏡で疲れた表情の自分へと視線を誘っているのか、三連目の「夢と現をふんわりと結わえ」と、心を結び直して、「明日を迎えることの意味」という一行を結んでいます。見事ですね。
小倉修子さんの切絵はドクダミの花でしょうか。
この三作品が呼応し合っている、素敵な頁ですね。

付記 高橋さんの詩の、二連目の「掌の四角い窓」を「手鏡」と読むのは昭和的な読み方かたかも知れません。平成も過ぎた令和の今は、「スマホ」と解するべきかも知れません。
   そうすると、内面世界にまで情報過多の「雑踏」が雪崩こんでくるような表現になって息苦しさが増し、三連目がより生きた詩語になりますね。


















           ☆


3月号





 他の俳誌では見られない「表2」の「あすか」誌ならではのページです。
 同人の高橋みどりさんが主宰の俳句から好きな一句を選んで、その主題と深いところで響き合う詩を書き、小倉修子さんの切絵とのコラボのこのページを毎回作成しているそうです。
 今回は野木桃花主宰の俳句が、さやかな歓びを誰かと分かち合いたい気持ちが主題ですね。高橋さんの詩は心の響き合いを主題に書いてます。それを表現するのに「きらいとすき」という心の揺れの両極を描写的に表現しているのがみごとですね。第一連の最後、
 かすかに遠い部屋のどこかで
 「気にしているよ」と響いている
というフレーズがいいですね。
 切絵はひな人形を添えました。
  (武良 評)





半世紀以上の歴史を持つ「あすか」ならではの、独自の「歳時記」のページです。過去の同人たちの作品から精選された作品をどうぞ。







         ☆


2月号











          ☆

● 1月号













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