「あすか」誌 十一月号 作品鑑賞と批評
《野木メソッド》による鑑賞・批評
「ドッキリ(感性)」=感動の中心
「ハッキリ(知性)」=独自の視点
「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ
◎ 野木桃花主宰の句「風は秋」から
宿木の秋気をはらむ大欅
秋の気配を表現するのに、紅葉前の欅の緑と、その大木に絡みつく宿木の、運命共同体のような様を造形するのは独特の視点ですね。双方の生命力を表現した句ですね。
着水の光こぼせり渡り鳥
季節ごとの渡りをする鳥を表現するのに、空行く姿ではなく、その途中で羽を休めるために海水か湖水に着水する瞬間を描くのも、独特の視座ですね。水面の水滴の輝きに秋の光が零れます。
徒跣(かちはだし)露けき顔の一遍像
藤沢市の清浄光寺にある一遍像のことでしょうか。「露けき顔」とありますから、朝露に濡れているようです。野木主宰はここで行われる記念の俳句大会の選者を務められています。一遍は鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖です。「一遍」は房号(ほうごう=支院中の坊につける名前)で、法諱(ほうき=出家したとき師が授ける名前)は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義で、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表します。「一遍上人」、「遊行(ゆぎょう)上人」、「捨聖(すてひじり)」と尊称されています。一遍は時衆(教団・成員)を率いて遊行(ゆぎょう=修行者が布教教化のため諸方を遍歴すること。釈迦も行っています)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん=「念仏札」を配ること)とで極楽浄土へと導きました。教理は平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆です。
点となる沖の釣船風は秋
「舟」ではなく「船」ですから小さくはない船ですね。それが点となって遠景に点在している景でしょうか。澄んだ空と海の青が融合している大きな景で秋の爽やかさが詠まれている句ですね。
〇「風韻集」から 感銘秀作
遠き帆の微かに光る晩夏かな 金井玲子
夏の海の遠景の表現で、その空間の広さに晩夏という季節感を添えたのがいいですね。
もどり来る貨車は空つぽ晩夏光 近藤悦子
行きはいっぱい荷を積んで車輪の音も重かった筈ですね。この句は帰りの貨車のことで、その音の軽快さに、晩夏の光を添えて味わいがありますね。
雲はまだ鱗になれず晩夏光 鴫原さき子
盛夏から晩夏への季節の推移を、雲の形の変化で表現した巧みな句ですね。つまり積乱雲の季節から秋の雲へ、そしてより高いところに発生する鱗雲へ、その推移の途中だという表現なのですね。
立ち止まるたびに団栗指差しぬ 高橋みどり
この愛らしさと、そそがれる眼差しは孫へのものではないでしょうか。この句だけでは断言はできませんか、読者にその思いを共有させるに充分な表現ですね。
夏蝶や己の影を見失ふ 丸笠芙美子
誤読になるかもしれませんが、わたしはこの句から自分自身の心情の投影のように感じました。扶美子さんはそんな屈折した文学的表現が巧みな方ですから。
棚田てふ吹くは不易の青田風 宮坂市子
漢詩のような格調の高い味わいの句ですね。「不易」は変わらない不偏の原理のような意味合いを持つ漢語ですから、変化する四季のめぐる不変の自然の力を感じさせる青田風ですね。
片袖に秋を絡めて宿の下駄 矢野忠男
旅行先が都会的なホテルではなく、和風旅館らしいということが「宿の下駄」で推測されますね。宿の浴衣か自前の和服でしょうか、袖を秋の爽やかな風が揺らしている景が見えますね。
灼鴉屋根に蹴爪を響かせて 山尾かづひろ
「灼鴉」などという熟語はありませんが、それを創作してしまう、かづひろさんの言葉のセンスに驚きます。炎天の屋根の上の鴉までその炎熱に苦しんでいるかのようです。
石抱いて生きるガジュマル沖縄忌 稲葉晶子
まるで沖縄県民の戦中戦後の苦難を象徴する姿のようで心に迫る表現ですね。
震災を知りたる蝉のまた一声 大木典子
七年前から土の中にいた今年蝉は、本当は震災の「記憶」ありませんが、そのように聞きなす作者の持続する深い悼みの表現が心に沁みますね。
藻の花のゆたにたゆたに水の里 大本 尚
例えば清流の中に揺れる梅花藻などでしょうか。「ゆたにたゆたに」の繰り返しが見事でその豊かさを表現して秀逸ですね。この造語力、ことばの魔術師ですね。
万緑の深みに嵌り溺れさう 奥村安代
息苦しいまでの、圧倒的な緑の生命力に包囲されている実感が伝わる句ですね。
〇「風韻集」から 印象に残った佳句
どくだみを引く日課なる母の里 坂本美千子
奔放に風つかまんと糸瓜蔓 摂待信子
留学生「みんな高い」と夜店かな 髙橋光友
安房土産夫に供える一夜酒 村上チヨ子
らつきようを漬けて一日の恙無し 柳沢初子
山里の水が自慢の冷奴 吉野糸子
水走る一枚となる青田かな 磯部のりこ
土用太郎籠り読み切るサスペンス 大澤游子
日傘よりもつと派手目の嫗かな 風見照夫
法師蝉声の膨らむ日暮れかな 加藤 健
〇「あすか集」から 感銘秀作
放棄せし開墾畑や虹跨ぐ 大谷 巖
過疎地の侘しさを美しい虹で飾って、一層の哀愁が出ますね。
打ち水や心の懈怠とく夕べ 大竹久子
「心の懈怠」と漢文調の調べで、その後の安寧感を表現して厳かですね。
からの籠蟬しぐれへと揚ぐる子 小川たか子
「蟬しぐれへと」と、簡潔に子供の動作を描いて詩情がありますね。
全身で笑ふ園児ら水鉄砲 小澤民枝
上五中七までは、座して笑っているような景を想像しますが、下五の「水鉄砲」で動的な景となって、笑い声がはじけますね。
草の花食卓にあり夏休み 柏木喜代子
一輪挿しの小さな草の花が食卓に飾られているのでしょうか。「夏休み」の下五で、家庭内の雰囲気が和んでいるのが感じられますね。
風に透く処暑の夕月ほんのりと 紺野英子
月自身が透けているような淡い光が、涼しさの増した夕景を包んでいるようですね。
ミリの蟻センチのものを引きてをり 鈴木 稔
ミリという小さい単位で蟻を表現して、餌は具体的ではなくセンチだけで表現したのが効果的ですね。自分の体の数倍もあるものを運んでいる蟻の奮闘ぶりの景が見えます。
油照りユンボあやつる漢かな 乗松トシ子
鯔飛ぶや平らに暮るる気水湾 乗松トシ子
二句とも動的な夏の湾をたくみに表現した句ですね。ちなみにユンボとは、一般には油圧ショベル、パワーショベルの掘削用建設機械で普通名詞ではなくニッケンという会社の登録商標です。
処理水や真実白き今年米 星 瑞枝
神の留守余白の設定変えてみる 星 瑞枝
二句ともみごとな表現ですね。一句目、「処理水」は今しか通用しない時事的な省略用語ですから、普遍性を重んじる俳句表現としては短命の有効期限のことばですが、それでも背景に放射能汚染事故があり、その深刻さを新米と対比して際立たせた表現ですね。
二句目、「余白」が、なんの余白なのか省略してあるので、心の余白など、さまざまなことを読者に想起させる表現ですね。
ここよりは基地立秋の海右へ 村田ひとみ
失せし絵の棚の奥より終戦日 村田ひとみ
二句とも敗戦日本に刻印されたような傷にそっとふれた巧みな表現ですね。一句目は下五の「右へ」で、行き止まりで米軍基地の占有状態が暗示されています。二句目は敗戦という痛みが、記憶の暗がりから引っ張りだされたような深い味わいがありますね。
炎昼や和装の女背筋伸ぶ 望月都子
周りの人が汗だくになっている暑い最中、和服姿で背筋をピンと伸ばしている女性の姿は、涼やかでいいですね。京都の祇園祭でそんな女の人をたくさん見かけました。
〇「あすか集」から 印象に残った佳句
痒みやら腫れやら蚋の影も無し 内城邦彦
水船にトマトときゅうり峠茶屋 金子きよ
送り火や御魂の気配残る部屋 木佐美照子
船で帰省瀬戸の島々お伽めく 城戸妙子
老犬や処暑の大地を嗅ぎ回る 久住よね子
空梅雨にダムの民家の見え隠れ 斉藤 勲
薫風や坂道長き異人墓地 齋藤保子
虫籠に亡霊遊ぶ納屋の奥 須賀美代子
風呂敷に位牌と写真新盆会 須貝一青
夫癒えよ完熟マンゴー切る朝 鈴木ヒサ子
買物は夕風待ちよ涼新た 砂川ハルエ
飛行機雲真綿ひくがに秋の空 高野静子
鰯雲天にも投網打たれしか 髙橋富佐子
のうぜんの垂れて小揺ぎ旧家かな 滝浦幹一
朝顔市電車内にて声かかる 忠内真須美
老鶯に迎へられたる谷戸の道 立澤 楓
蟻の列逸れたる蟻が首かしぐ 丹治キミ
今日終えて幸せを飲む生ビール 千田アヤメ
街路樹に赤き実のつく大暑かな 坪井久美子
月の出の赫く重たき残暑かな 中坪さち子
鳥威し光る風やらおどる風 成田眞啓
ミント味重ねてもらふアイスかな 西島しず子
陽性と医師のひと言秋時雨 沼倉新二
風はらむポニーテールや酔芙蓉 沼倉新二
遥かまで風が風おす青田波 乗松トシ子
空蝉や誕生秘話は畑の中 浜野 杏
背伸びして暑さちらすか車庫の猫 林 和子
だんだんと吉相となる秋なすび 星 瑞枝
何にでも証明の要る秋に入る 星 瑞枝
参道の百の風鈴百の音 曲尾初生
風鈴の音色に秘むる縁結び 曲尾初生
空蝉やたどり来た日を木に残す 幕田涼代
ベランダにストーカーめく藪蚊かな 増田綾子
梅雨晴れのベンチ先客三毛寝まる 緑川みどり
地下鉄の構内塒に夏燕 宮崎和子
日盛りの雲崩れずに過ぎにけり 安蔵けい子