「あすか」誌 九月号 作品鑑賞と批評
《野木メソッド》による鑑賞・批評
「ドッキリ(感性)」=感動の中心
「ハッキリ(知性)」=独自の視点
「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ
◎ 野木桃花主宰の句「花野の風」から
里山に秋のことぶれ風立ちぬ
「ことぶれ」は事触れ・言触れとも書き、物事を世間に広く告げ知らせることですね。この句の場合は気配としての季節の先触れのことで、こういう古風な言い回しで表現すると詩情がありますね。
法師蝉再開発の鎚の音
人間は原野を都合のいいように改造して、人間の領域を広げてきました。「再開発」と詠まれていますから、里山と共存する形での昔ながらの開墾の域を超えた開発がされているのでしょう。ここはそのまま遺して欲しいと思うようなところまで開発の手が入るのを見るのは、あまりいい気分ではないですね。法師蝉のオスは午後の陽が傾き始めた頃から日没後くらいまで鳴きますが、その「ツクツクボーシ」が「つくづく防止」と聞こえてきますね。
草稿を手に月光を浴びに出る
俳句の草稿でしょうか。句帖といわずに「草稿」と詠まれているところからすると、依頼された随筆か小論かもしれません。頭だけで考えた理屈の表現になることを避けて、自然の中に一度身を委ねてみようと発心されたような、現場の雰囲気を感じる句ですね。
顧みる歳月花野の風となる
自分の来し方を振り返ったとき、その歳月を花野と見立てて、自分がそこを風のようにわたってきたのだ、と思うことができる人が、何人いるでしょうか。野木先生には「あすか」を率いての歳月に、そう思うことのできる確信があるのでしょう。
〇「風韻集」から 感銘秀作
江ノ電の遮断機閉じて青葉潮 金井 玲子
季語の「青葉潮」から新緑の葉が鮮やかに茂り、海から涼しい風が吹いてくる季節と、鎌倉の海岸に位置する夏の風景が見えます。遮断機が閉じる瞬間、電車の通過が始まる直前の僅かな時間を切り取って、海の輝きが増しましたね。
一枚の空に浮きをり花水木 近藤 悦子
「一枚の空」で空を一枚のキャンバスのように表現しています。「花水木」の花は手の平を広げたように咲き、それを歌手の一青窈は「空を持ち上げて」と歌いましたが、悦子さんは「浮きをり」と詩的に表現しました。ひとつのいのちの様として描いて心が共振しているようですね。
トルソーの白き鎖骨に緑さす 鴫原さき子
「トルソー」フランスの彫刻家ロダンによって制作された彫刻の一つですね。特に鎖骨が際立つ人間の胴体の一部です。具象に見えますが実は抽象的で、美の探求と形の研究に捧げられた作品だそうです。石膏の白い肌に浮かび上がる鎖骨は美の象徴とされています。この句では鎖骨に緑がさすことで美しさが一層際立っていますね。
窓若葉書棚に夫のコンサイス 鴫原さき子
窓から見える美しい若葉の季節の景と、書棚に収められた夫の、英和、和英どちらかの「コンサイス」という辞書。その並列描写だけで作者の生活観や感受性が伝わります。ちなみに「コンサイス」という語には「簡潔・簡明な」の意味がありますから、知的で清潔な心象も付随する効果がありますね。
一握に足る児の五指や緑の夜 高橋みどり
「一握に足る児の五指」という表現は、その小ささの簡潔な表現から、命の掛け替えのなさが心的に立ち上る表現ですね。「緑の夜」という季語は生命力だけでなく、命というものの神秘性をも纏う言葉ですね。これから成長してゆく幼子に対する深い愛情を感じる表現ですね。
父の忌や寺領に点る桐の花 高橋みどり
父の忌日で、先ず父親に対する思いを提示して、寺で見かけた桐の花の美しさの表現へと展開されていますね。哀悼の思いと自然の花の美の融合表現が詩的で効果的ですね。
少年の瞳まつすぐ新樹光 丸笠芙美子
伸び盛りの少年の邪気のない真直ぐのまなざし。そして季語の新樹光の命の輝きこれ以上のマッチングはないですね。
足裏に砂のつぶやく五月かな 丸笠芙美子
五月の爽やかな潮風の吹き渡る砂浜。裸足ではしゃぎ駆け回る子供たちの姿が浮かびます。その柔らかな足裏にくっついて跳ね上がる砂つぶも歓喜の声をあげているかのようです。
余花の雨黙長ければなほ暗む 宮坂 市子
季語の「余花」の本意は、夏になって若葉の中に咲き残る桜の花のことですね。立夏前の桜が残花、立夏後は余花といいます。地域や高い山などに見られます。農家の方らしい作者の環境に思いがゆきます。雨ふりの期間の長短に関心が向くのは当然のことでしょう。長雨が続くと作物への影響が心配されます。それを「雨長ければ」ではなく「黙長ければ」と表現して「なほ暗む」という下五に続ける思いが伝わります。
種おろす地道に鍬をふりつづけ 宮坂 市子
季語の「種降し」は晩春の季語「種蒔」の子季語で、他に「すぢ蒔、籾蒔く、籾おろす」などの言葉があります。稲の籾を苗代に撒くことで、八十八夜(立春から数えて八十八日目)ころに行われます。野菜や花の種を蒔くのは「物種蒔く」「花種蒔く」と言って区別されていますから、この句は稲の方を詠んだ句ですね。季節ごとに違わぬ時期にひたすらそのことを繰り返す直向きさが胸に沁みます。
茅葺の規矩を正して柿若葉 矢野 忠男
古風な言い回しの「規矩を正す」。日常会話でも普通の散文でもあまりみかけませんが、それを敢えて使っていることに詩的な情緒が立ち上りますね。物事や行動の基準、手本を正しくすることですが、この句では「正して」いるのは、「茅葺」の屋根そのものか、葺き替えの手順でしょうか。下五でそれを受ける「柿若葉」が効いていますね。茅葺の民家の屋敷に植えられている大きな柿の木まで目に浮かびます。
早苗田の水のふくらみ風生る 矢野 忠男
水を張った早苗田の様を「ふくらみ風生る」と詩的に表現できる力は尋常ではないですね。
鬼百合の己が重さに耐へてをり 山尾かづひろ
作者の置かれている身体的な負荷の重さの詩的な暗喩表現のように感じます。言い過ぎず、言い足りる省略の文芸である俳句の底力を感じる句ですね。
風に舞う初夏の竹林語りだす 磯部のりこ
「今語りだしたようだ」という発見のときめき、現場感があっていいですね。今年竹の瑞々しい真直ぐな姿が目に浮かびます。
行く雁や空には空の国境 稲葉 晶子
「空から見たら、宇宙から見たら国境なんてどこにもない」という視座で詠んだ俳句はよく見かけます。国境が暴力によって犯されている現今の世相から、鳥たちだって空の国境があって、それを正しく認識して飛んでいるのに、という批評性も立ち上る表現ですね。もちろん、このような評文で鑑賞しなくても、素直に共感できる表現ですね。
三社祭早や行列の麦とろ屋 大木 典子
「あすかの会」の句友の間では知らぬ人のいない、典子さんの「祭好き」ですが、必ず三社祭には出かけ、こんな句を詠む方なのです。それも視点が行列の先の「麦とろ屋」。江戸ですね。こんな句は典子さんにしか詠めません。
車椅子の犬も鉢巻祭伊達 大木 典子
これも典子さんのお祭り句ですね。車椅子の犬まで神輿を見に来ていて、祭鉢巻きをしてもらっています。下五が「祭伊達」。江戸っ子の犬のようです。
この空虚埋める術なし若葉騒 大本 尚
若葉の季語としての本意はやわらかく瑞々しい落葉樹の新葉のことで、そこから立ち上がる心象は、若葉をもれくる日ざし、若葉が風にそよぐ姿、若葉が雨に濡れるさまなど、どれも清々しいものです。しかし、この句は「この空虚埋める術なし」と、心象的に正反対のことが表現されています。反対の景と取り合わせることで、その心情の深さが心に沁みます。
岬端に既視感のごと白日傘 大本 尚
上五の「岬端(みさきは・みさきはな)」がいいですね。遠望しているような景に見えます。そしてそこを通っている「白日傘」に、何故か胸が騒ぐような「既視感」を抱いているという表現ですね。ただのノスタルジーを超えた何かが立ち上がります。
さみどりに膨らんで来る島の夏 奥村 安代
初夏、どんどん若葉が茂ってゆく島の様を簡潔に詩的に表現した句ですね。
生れたての風を絡めて柿若葉 奥村 安代
「生まれたての風」がすばらしいですね。その風は生まれたばかり柿若葉が生み出しているかのようです。
〇「風韻集」から 印象に残った佳句
青葉して光の渦のただ中に 丸笠芙美子
キューポラの街の変貌つばくらめ 風見 照夫
島涼し懐に抱く朱印帳 加藤 健
豆御飯母とは語る反抗期 坂本美千子
電気柵巡らす唐黍畑の里 摂待 信子
武者飾りを前に自撮りの留学生 高橋 光友
ターナーを架けたる壁の梅雨湿り 高橋みどり
梅雨の街浸水表示五メートル 服部一燈子
揚羽蝶胸をすりぬけ風の中 丸笠芙美子
倒木のあはれ新芽のにほひ立つ 宮坂 市子
若布干す妻の高さに縄を張る 村上チヨ子
朝の陽透けて若葉の溶くるかに 柳沢 初子
田一枚舞台に合唱雨蛙 吉野 糸子
筍を届け筍飯貰ふ 吉野 糸子
女郎蜘蛛お局墓所の見張番 大澤 游子
〇「あすか集」から 感銘秀作
触れ合うて語り合ふがに美人草 紺野 英子
「美人草」は「虞美人草」の別名で三夏の季語ですね。作者は漢字文字の重い「虞美人草」を避けて、すっきりとした心象を与える「美人草」の方を選んだのではないでしようか。同じところに咲いている仲間たちと談笑しているような心象で詠んだのが独創的ですね。
倖せは手の平サイズ小判草 紺野 英子
「小判草」は仲夏の季語で、小さな山野草ですね。緑色のときは他の草かげにまぎれて目立ちません。やがて小判型と色の花実をつけて、少しは目立つ時期もありますが、最後は茶色に枯れてしまいます。この俳句の「倖せは手の平サイズ」よりも小さく指先の爪ほどの大きさですね。結びをそんな、より小さな「小判草」にしたのが効いていますね。
手を広げ掴むものなし芋の蔓 須貝 一青
暗喩表現が巧みで、命の寄る辺なさを感じる句ですね。
吊し雛国防服の切れ端で 丹治 キミ
「吊し雛」は仲春の季語「雛祭」の子季語の中の「変り雛」の一種。飾られている色々な飾りには、それぞれに意味があります。
長寿を願う「桃」、魔除けの意味がある「猿っ子」、無病息災の「三角」(昔は薬袋や香袋が三角だったため)を基本として、安産や子宝を願う「犬」、娘に悪い虫がつかないようにとの願いから「トウガラシ」、五穀豊穣の縁起物の「スズメ」、家族の強い結びつきを象徴する「紫陽花」、不苦労と書く「ふくろう」、健やかに成長してほしいという気持ちから「枕」などです。この句では、それを不用になった「国防服」の端切れで作っていると詠まれていて詩情がありますね。
ちなみに「国防服」という言葉の意味が解らない人も多くなったと思います。昭和十五(一九四〇)年、国民服令が制定され、男性の標準服は国防色といわれるカーキ色の布地でつくられた「国民服」が着られるようになりました。昭和一七(一九四二)年に制定された女性の標準服には、洋服式・和服式・防空着の各種類がありました。このうち、「もんぺ」といわれる防空着は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると多くの女性が着るようになりました。これらの総称が国民服ですが、それを「国防服」と、戦のイメージの強い言葉で呼んでいたのです。
この句は「国防服」ということばを使ったことで、そういう戦争の時代が終わった後の、庶民の安堵感と、特に母親の娘たちの将来の平和を願う気持ちが伝わりますね。
梅雨深しめくり癖ある文庫本 村田ひとみ
作者のひとみさんが家の書棚にあった文庫本を読んでいるのか、図書館などの公共の場所の文庫本を読んでいるのか特定できませんが、「めくり癖」がついているのは、自分以外の多くの人が、ページをめくって読んだ、愛されている本であることを示していますね。外は梅雨の真最中の長雨です。心に沁みる名作を読んでいることが想像されますね。
カフェに入る夏野の土を靴底に 村田ひとみ
中七下五の「夏野の土を靴底に」で、都会の「カフェ」ではなく、散策のできる野原のある町の「カフェ」であることが分かります。店の名に「喫茶店」ではなく「カフェ」の文字が使われているような、客を迎える特別な店構えなのだろうと思われます。
炎帝や人種渦巻く交差点 望月 都子
外国人が多く住んでいる都市の交差点だろうと想像できます。実景ではなく比喩的な表現と解すると、地球自身を暗示している句だともとれます。国家の名での戦争が続いている昨今の世相を背景にして鑑賞すると、上五の「炎帝や」の猛暑感にも特別な感慨が湧く句ですね。
〇「あすか集」から 印象に残った佳句
しんがりは昭和一桁登山道 安蔵けい子
実梅採る寡黙な父と子でありぬ 飯塚 昭子
直ぐ乾く野良着頼りに梅雨の入 内城 邦彦
明日を待つ月影映す代田かな 大谷 巖
ひと日もと散りし花掃く梅雨晴間 大竹 久子
琵琶食めばびわ色の友眼裏に 小川たか子
指笛に合はす麦笛風となる 小澤 民枝
香を抱き早く実になれ柚子の花 小澤 民枝
マスクする女医の睫の長きこと 柏木喜代子
かみ合はぬ会話に疲れ道をしへ 金子 きよ
称賛の声は馴れっこ薔薇開く 木佐美照子
麦畑風の誘ひで変る色 城戸 妙子
紫陽花や彩づく前の絹の色 久住よね子
風鐸は千古のえにし苔涼し 紺野 英子
添削の朱文字諾ふ月涼し 紺野 英子
母鴨に一列縦隊雛十羽 斉藤 薫
よき風を吹かせ五月の大試験 齋藤 保子
早苗田に雲のいくすじ越の国 須賀美代子
羊飼日の子等が聞きゐる麦笛よ 鈴木ヒサ子
紫陽花や藍のあふるる海の色 鈴木 稔
童女めく母を連れ出す濃紫陽花 砂川ハルエ
野にあれば我が耳飾る百千鳥 高野 静子
我先と色をつくして四葩かな 高橋富佐子
紫蘭咲く市長は私の教へ子よ 滝浦 幹一
ラベンダーの風に呼ばれて居る二人 忠内真須美
厚き雲梔子の香を留めたり 立澤 楓
かりがねや磐梯山が湖に浮く 丹治 キミ
さみしさは枝豆一人でつまむこと 丹治 キミ
うちわ風位牌の夫が微笑みし 丹治 キミ
武者ノボリ山を背負うて一軒家 丹治 キミ
温度計くるいはじめる熱帯夜 千田アヤメ
赤べこに留守をたのんで午睡かな 坪井久美子
登校の緑なる髪更衣 中坪さち子
水温むポアンポアンと鯉の口 成田 眞啓
吾子あやす新米パパや宮参り 西島しず子
父の日の父の似顔絵百貨店 沼倉 新二
緑陰や文庫本閉ぢ風を聴く 乗松トシ子
梅雨晴間日の斑遊ばす大欅 乗松トシ子
大粒の桑の実鴉の知ることに 浜野 杏
コンコース燕滑空口五つ 林 和子
香を放ち十年ぶりの柚子の花 曲尾 初生
縄張りは声届くまで牛蛙 幕田 涼代
遠き日や桐の花見しかくれんぼ 増田 綾子
呼鈴に庭より返事朱夏の朝 緑川みどり
夫病みて梅雨の晴れ間にふとん干す 緑川みどり
吊橋や揺れて薫風身に纏う 宮崎 和子