あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾  2020年度 Ⅱ 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会

2020-03-26 09:38:38 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
あすか塾  2020年度 Ⅱ 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会

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「あすか塾」16 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・(五月の合評会は中止)

2020年4月号掲載句より 

〇 野木桃花主宰句「春日傘」から(鑑賞・批評の方法の練習)

寂さびと神木の瘤春しぐれ
「寂さびと」の「寂」の「さび」は、ある物の本質が,閑寂枯淡な味わいとなって,物の表面ににじみ出るときの美的興趣のことをいいます。これは仏教的認識に基づく価値観で、物の本質を究めることを至上の課題とした中世仏教の考えが母胎とになっているもので、俗悪華美な世俗の価値観や美的嗜好に対する批判の形で生まれました。中世の歌論・連歌論では〈ひえ〉〈やせ〉〈からび〉などと並んで、美の究極的境地として利休たちの〈侘数寄(わびずき)〉の茶のほか,以後の日本人の美的嗜好に大きな影響を与えています。
掲句は「神木の瘤」にしめやかに降る「春しぐれ」にその美を感じ取っているのですね。日本人の長い歴史が育んだ感性が現代の俳人の中で生きているという句ですね。

風音を聴く老僧に初音かな
 「に」が効いている句ですね。ただ聞こえているという「聞く」ではなく、「聴く」ですから「老僧」は意識を集中して「風音」に春の気配を感じ取ろうと耳を傾けていたのでしょう。「に」はちょうどその時、まるで恩恵のように鶯の「初音」が響いたのです。「に」で恩寵的な響きを表現しているのですね。


〇同人句 「風韻集」より 

◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志の力)
◎「ド」=「ドッキリ」・「ハ」=「ハッキリ」・「ス」=「スッキリ」で評。

影と音残す飛行機雪の富士                   長谷川嘉代子
「ド」=音速の飛行機の姿を空に探していて雪形の機影を発見。 
「ハ」=「影」と「音」をセットにしつつ「影」を先に置いて際立たせている。 
「ス」=人工物の極みのような飛行機、その背景の青空、富士山、残雪が形作る飛行機の影の形。その壮大なコラボレーションに気持ちが大きくなる。
《注》音速の飛行機は目視の機影の位置とその音の位置がずれます。作者は音を聞いてから空を見上げ、富士山の彼方に機影を発見したか、もうその向こうに去った後だったのかも知れません。残雪の残る富士山に雪解けが形づくる飛行機のような形を発見している、と解釈しました。もちろん雪の斜面に飛行機の影が落ちていると読んでもいいでしょう。

剪定の切り口丸く湿りけり                    服部一燈子
「ド」=茎の切り口が平面の円状ではなく、球形に丸く湿っている発見。 
「ハ」=「丸く」で半球の形を強調して、茎からまだ水分が滲み出していることを表現。 
「ス」=花の瑞々しさ、命の手応えをその手で捉えたような感動。

大寒の故山文明災に哭く                      星 利生
「ド」=原発事故は「事故」ではなく「文明災」というものだという感慨。 
「ハ」=その感慨を理屈ではなく「故山」の慟哭として表現。
「ス」=「事故」なら一過性のただのトラブル。「文明災」は現代人の存在様式そのものへの恒久的な問いとなる。

あの橋をこえれば竜宮百合鷗                   本多やすな
「ド」=海の彼方の眺望は見果てぬ夢や希望を託す場所だなという発見。 
「ハ」=首を前に伸ばして今、橋を越えて海の方へ飛ぶ百合鷗の像として表現。 
「ス」=鳥の飛び方は遥か彼方の何かを求めて飛んでいるように見える。その彼方に水平線。竜宮城でも目指しているようだなという感慨。

しぐるるや海と陸との分岐点                   丸笠芙美子
「ド」=海岸、渚とは海と陸の分岐点なんだという発見。 
「ハ」=「しぐるるや」で、海と陸での雨の降り方の違いでその分岐感を表現。 
「ス」=海には海の命と暮らしが、陸には陸の命と暮らしがある。その二つの命と暮らしの分岐点が海岸なのだという感慨。

あー春だ人の裏側まで届く                     三須民恵
「ド」=全身を囲い込むようにくる他の季節と違って、春ってまるで真正面からやってきて、体を突きぬけて「裏側」まで沁み込むようにくるようだという発見。 
「ハ」=「あー春だ」と口語的な叫びで歓び・解放感を表現。
「ス」=季節の訪れの、それぞれの感じられ方の違いを表現して、めぐる季節の循環の中にいる自分という命を見つめている。

輪飾の古井戸本家てふ屋敷                     宮坂市子
「ド」=「本家」という日本古来の呼称を持つ屋敷も少なくなったという感慨。
「ハ」=「輪飾」で神道的精神性、「古井戸」「本家」「屋敷」で伝統的な歴史性を表現。
「ス」=それが失われていっている現代、伝統文化と歴史が息づいている所で暮らしている人の姿が表現されている。
《注》「輪飾=わかざり」は注連縄(しめなわ)の一種で、藁を輪の形に編み、その下に数本の藁を垂れ下げた正月の飾り物。裏白(うらじろ)などの羊歯(しだ)と譲葉(ゆずりは)とを添えて、門戸や室内の柱などに掛けるもの。「門松」はそれをを目印に歳神様が来てくれるように迎えの印。「しめ縄」は豊作を祈って玄関に飾るもの。「鏡餅」は歳神様の居場所として置くため、家の中でも最も格が高いとされる床の間に飾る。そして「輪飾」は台所などの水回りに飾り、水回りが清浄な場所であることを示すもの。やがてこのような自然に対する畏怖心のある感性も伝統も失われてゆくだろう。

少年の袱紗さばきよ梅真白                     矢野忠男
「ド」=思いもかけぬ少年の端正なしぐさへの感動。 
「ハ」=その所作を「さばき」と表現し、強調するように「梅真白」で受けた。 
「ス」=大人の視線を浴びながらも緊張した様子もなく、無駄のない所作で「袱紗」を裁く様子に、その少年が育った家庭の凛とした佇まいまで感じての感慨。
《注》「袱紗」は貴重品などが収蔵された箱上に掛けられる風呂敷。一枚の布地から裏地付きの絹製で四方に亀房と呼ばれる房付きのものに変わり、慶弔行事の金品を贈る時の儀礼や心遣いとして広蓋(黒塗りの盆)と併せて用いられるようになった。

ひよろひよろと土筆のびきて山を消す              山尾かづひろ
「ド」=どこか弱弱し気な土筆に思いもかけない命の底力を発見。 
「ハ」=「土筆」の描写はひらがなで、「山を消す」は漢字で力強く表現。 
「ス」=「山を消す」という具象のような抽象のような表現で、萌出でたばかりの命が秘めた大きな力に感じた感慨を表現。

白マスク矜持なき世に汚れだす                   渡辺秀雄
「ド」=「マスク」は自分と外を隔てる境の役目。そのすれすれに接する世界の「汚れ」具合への感慨。 
「ハ」=句頭の「白」で内なる「矜持」と、外の[汚れ]の対比を表現。 
「ス」=「矜持」は自己を律する姿勢の言葉。だが世にその「矜持」が欠落していては……という思いを「白マスク」の「汚れ」で表現。
感想 まるで現今の新型コロナウイルス感染拡大の世相を予見したような句。

蛸焼のくるり笑顔の去年今年                   磯部のり子
「ド」=たこ焼き器を操作するあの回転感に笑顔を誘う快感を発見。 
「ハ」=「笑顔」を「蛸焼」「くるり」の方に付けないで、その上で切って「去年今年」と年続き感を出すことで、句意が鮮明になっている。 
「ス」=暮らしの中の幸せ感はこんなところにもあるという実感の表現。

畑打ちや蛙ねむたげな薄目して                  伊藤ユキ子
「ド」=まだ冬眠中の蛙を起こしてしまった、ごめんという気持ち。 
「ハ」=「薄目して」の下五がユーモラスな表現。 
「ス」=小動物への暖かい眼差しが早春の季節感とクロスして。

嫁が君銀座界隈股に掛け                      稲葉晶子
「ド」=大都会のど真ん中でも自由に生きている鼠の逞しさの発見。 
「ハ」=「股に掛け」という言葉でその活動的な様を表現。 
「ス」=野生の命はどんな所でも生きられるという感慨。
《注》「足音に姿かくしぬ嫁が君・佐藤春夫」「ほの暗き忍び姿や嫁が君・河東碧梧桐」はどこか田舎の鼠の風情ですが、掲句は銀座の鼠としたのが新鮮ですね。

冬木の芽まだ見ぬ朝胸に抱く                    大木典子
「ド」=発芽を待つ冬芽は「朝(あした)」という時間を抱いているという発見。 
「ハ」=「まだ見ぬ」期待感、「胸に」で自分の意志でもある表現。 
「ス」=「冬木の芽」を擬人化しつつ、それ以上の思いを込めている。

産土神の天を焦がして大焚火                    大澤游子
「ド」=「天を焦がして」いるようだという発見。 
「ハ」=自分の生まれ育った天地という実感を「産土神」に込めた。 
「ス」=ダイナミックな自然と一体になっているような実感。
                       
豆を打つ身ぬちの鬼に五六粒                    大本 尚
「ド」=「鬼は外」というけど自分の中にも鬼がいるのではという感慨。 
「ハ」=実感の「五六粒」という表現。 
「ス」=内省的な想いに寄り添う生き方を噛みしめて。

裸木の影を濃く濃く地動説                     奥村安代
「ド」=しだいに長く濃くなっていく「裸木」の影に地動説を実感。 
「ハ」=刻々という音に通じる「濃く濃く」とした表現。 
「ス」=普段は天動説的な感覚で生きている中での発見と感慨。

伝えきく母の温もりつるし雛                    加藤和夫
「ド」=家族伝承の雛に、母にまつわる諸々のことが思い出されて。 
「ハ」=「温もり」を「伝えきく」として表現。 
「ス」=地方色豊かな「つるし雛」の行事に母性的な温もりを感じて。

裸木を燃え立たさむと夕日かな                   加藤 健
「ド」=葉の落ち切った裸木に夕日が映えて、火焔のようだという発見。 
「ハ」=まるで「夕日」が意志を持ったように「燃え立たさむと」と表現。 
「ス」=地の植物と天の太陽と夕刻一瞬の競演についての感慨。

石蹴りの丸残りたり松納め                    坂本美千子
「ド」=子供たちが石蹴り遊びをしていた余韻の中の松納めの景の感慨。 
「ハ」=「石蹴りの丸残りたり」で路地的な空間を表現。
「ス」=昭和のしみじみとした雰囲気の中の感慨。
《注》松納めには「永かりし昭和の松を納めけり 綾部仁喜」という句もあります。

シベリヤの冬を語らずゆきし父                  鴫原さき子
「ド」=冬の季節、特に寒気が厳しい朝、必ず思う父のこと。 
「ハ」=「語らずゆきし」と思うことで逆にシベリヤが作者の心に刻印されて。 
「ス」=言葉で語られることなく、心に刻まることへの感慨。

玄関に知らぬ靴あり雛の夜                     白石文男
「ド」=雛祭の日の、ちょっとした非日常的な変化。どんな客が? 
「ハ」=「知らぬ靴あり」でそれを表現し、どんな客かには触れない。 
「ス」=もっとミステリアスな鑑賞も許す不思議な雰囲気を表現した。

やどり木の実のつぶらかに杣の春                  摂待信子
「ド」=木に寄生しているような繁みの中の可愛らしい実に春を感じた。 
「ハ」=「実のつぶらかに」という言葉でそれを表現。 
「ス」=「杣」は、木材など里の暮らしに寄り添う里の山であり、その春の実感。
《注》「ヤドリ木」と「杣」の語義を知らないとこの句の良さは判らない。
「ヤドリ木」は常緑で半寄生の灌木。根元から枝が生えている木で、半寄生というのは自分でも光合成ができるが、他の植物(寄生主)からも栄養を取る植物のこと。寄生する木はケヤキやブナ、ミズナラなどの落葉樹で二月ごろに花を咲かせる。十一月~二月ごろに白いものから薄い黄色の実をつける。
「杣・そま」は古代,材木採取のために指定された山(杣山)。杣山から切出す材木を杣木または杣といった。

蒲公英や保母につきたる屈みぐせ                 高橋みどり
「ド」=小さい命を見ると反射的に屈んで寄り添ってしまう「くせ」に思いを。 
「ハ」=上五に「蒲公英」を置き、下の主題を味わい深いものにする表現。 
「ス」=真心や心根は言葉ではなく、日々のしぐさの中に表れるという主題。

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参考 武良の二月詠(「ド」「ハ」「ス」を考える練習に)

建国の車輪の下に野水仙
如月の魔都に人食い鮫の牙


◇ヒント 作者の作句意図。
一句目、「野水仙」は民衆・大衆の暗喩のつもりです。
二句目、「魔都」は何が潜むか分からない大都会、「人食い鮫」は目に見えない禍々しい脅威の暗喩のつもりです。



「あすか塾」15 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞 (四月の合評会は中止)

 野木メソッド「ドッキリ・ハッキリ・スッキリ」の視点に基づいた
読む力と詠む力を実践的に養う合評会。



◎ 2020年3月号掲載句より 

〇 野木桃花主宰句「梅の風」から(鑑賞・批評の方法の練習)

風折の水仙日差し賜りぬ

※強風で茎が折れて花がうつむいて憐れを誘う景です。「日差し賜りぬ」という、その疵をいたわるような慈愛の眼差しを感じる表現が心に沁みますね。

てのひらの一粒の春飛び立てり 

※春咲きの植物の種子を植えようとしている景ですね。種を握っていた掌を開いた瞬間、「一粒の春」が「飛び立った」ように感じた・・・という感慨の表現ですが、それを「飛び立てり」と表現しています。比喩を場面描写的に言い切る、省略と暗示の技法ですね。暗示は大須賀乙字が奨励した新傾向俳句の表現技法ですね。

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◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う
自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の
表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、
心情内容は深い俳句。(意志の力)
◎「ド」=「ドッキリ」・「ハ」=「ハッキリ」・「ス」=「スッキリ」で評。


〇同人句 「風韻集」より


春暁やにじみ出てくる島の影                   高橋みどり
「ド」=「にじみ出てくる」という発見。
「ハ」=「春暁」の中の「島の影」という鮮明な描写。
「ス」=自然をぼんやり眺めているのではなく、そこに意識を凝らしている作者の、自然との感応の感度、生きる姿勢が感じられる表現になっている。

愛称を呼び合ふ子供お正月                   長谷川嘉代子
「ド」=「愛称を呼び合う」ことに子供らしい心の距離の近さ親さを発見している。
「ハ」=「お正月」で特別な晴れの日の雰囲気が示されている。
「ス」=子供たちのそんな姿に屈託のない心のバリアフリーを感じ取とって、感銘を受けている作者の、柔らかな心の在り方が感じられる。

吊るし雛部屋いっぱいを林とす                  服部一燈子
「ド」=「林」のようだという発見。
「ハ」=「部屋いっぱい」という描写。
「ス」=たくさんの種類の「吊るし雛」に、色とりどりの雑木林のような賑わいを感じ取っている作者の心が感じられる。

遡上する鮭は知らざり半減期                    星 利生
「ド」=放射能汚染の地とは知らず自然の生き物は、いつものように命の営みを続けているという発見。
「ハ」=「遡上する鮭」という描写に放射能の「半減期」という汚染された環境を示す言葉を添える造型的表現技法。
「ス」=自然に人間が加えた害、その計り知れない加害性への慄きが表現されている。

国訛りあふれ寒さの上野駅                    本多やすな
「ド」=「国訛り」から東北の風土へと思いが至り「寒さ」が身に滲みてくるという発見。
「ハ」=「上野駅」という東北の玄関口の雑踏の描写。
「ス」=自分の心身の中に、自分を育んだ原郷を再発見しているという作者の心の有り様。

冬の蝶今宵静かに翅を閉づ                    丸笠芙美子
「ド」=「翅」を閉じてから動かなくなった「冬の蝶」が、命を終えた瞬間という時間を共有したという発見。
「ハ」=「今宵静かに」と動かなくなった蝶の描写。
「ス」=この場面の前段階として作者は生きて飛んでいる蝶の姿を見たことを感じさせる。その蝶が動かなくなり死を迎えた、その終焉を見届けたという感動がある。

木の芽和えこの話なら入れそう                   三須民恵
「ド」=何かややこしく尋常じゃない話題が増えた近頃の世相の中で、和む話題になり、ほっとしている気持ちの発見。
「ハ」=上五の「木の芽和え」が作句上の措辞としての季語というだけに終わらず、食卓にそれを配した「そのとき」という場面描写のひとつの契機として表現されている。
「ス」=逆の「入りにくい」と感じている話題が日頃増えていることも暗示させる表現で、今の世相に対する作者の批判意識もそこはかとなく感じられる。(原作では「話し」となっていましたが、名詞の「話」のときは送り仮名の「し」は省いて「話」と書いた方がいいと思います。

落葉踏む諸葉の音に囃されて                    宮坂市子
「ド」=落葉樹の「落葉」を踏む音の中に、落葉しない針葉常緑時の葉のさやぎを聞き分けた発見。
「ハ」=「囃されて」で、林の中か、植栽が道路際まで迫っている落葉道を歩く姿が描写されている。
「ス」=「囃されて」には沈みがちな冬景色の中の心を励ましてくれているような表現効果がある。(「諸葉=もろば」とはイヌガヤのことで、細い葉が軸に対になって長く左右についているさまを表している。長い葉なので風に揺れやすい形状をしている)

みたらしの黙を深めて初東風す                   矢野忠男
「ド」=「みたらし=御手洗」は神仏を拝む前に参拝者が手や口を洗い清める所。おしゃべりをしながらすることではなく、だれもがその行為の最中には「黙を深める」。その発見と「初東風」を初感受しているという二重の発見。
「ハ」=「みたらし」の場所と「初東風」という季節感の鮮明な描写。
「ス」=下五の季語を「初東風す」という動詞形にしたことで、静けさの中で風を感受している感慨表現が際立っている。(「東風=こち」はいうまでもなく、氷を解き、春を告げる風のこと。雨を伴うことが多く、この風が吹くと寒さが緩む。海上生活者には時化になる風として警戒された。)

谷戸の日は移ろひやすし梅三分                 山尾かづひろ
「ド」=梅がまだ三分咲きという谷深き農家の日の翳りの早さの発見的表現。(谷戸〈やと〉とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生計を営む家を指すこともある。主に関東地方・東北地方の丘陵地で多く見られる)
「ハ」=家の周辺に崖が迫った地形なので日の翳りが早いことが表現されている。「ス」=そのような地形と風土の中の昔ながらの暮らしに注がれる作者の深い眼差しを感じる。

枯はちすこの世の終り見てゐたり                  渡辺秀雄
「ド」=「枯はちす」の形状に「この世の終り」を感じ取っている自分の心の発見。「ハ」=描写されているのは「枯はちす」だけ。それ以外を省略する表現でその後に続く「思い」との対比が逆に鮮明になっている。
「ス」=単なる個人的な「感慨」を超えて、今という時代の有り様への批判意識が滲み、共感する人が多いのではないか。(クラシック音楽が好きな私は個人的には「頭の中に凍て星ふやすシベリウス」という句に共感しました。この「凍星」は想像上のものなので、伝統俳句的にはこういう詠み方はあまり推奨されませんが、「あすか」は新傾向俳句の流れを汲む会派ですので、こういう句も大切にされます。北欧の作曲家のグリークやシベリウスの曲は、大雪原の上の澄んだ夜空の凍星が見える気が、確かにします。)

冬天へ一直線の窯けむり                     磯部のり子
「ド」=けむりの上り方が「一直線」になっていることを発見して、そこに自分の気持ちとシンクロするものを感じている。
「ハ」=一直線」という鮮やかな描写で風のない冬晴れの空気感が表現されている。「ス」=冬晴れの青空に一直線の上昇する「窯けむり」に上手く焼きあがるよう祈る気持ちと、期待感が表現されている。

大寒や地蔵は首を竦めあう                    伊藤ユキ子
「ド」=複数体の地蔵の首元に「寒」を発見している。自分もそうしていることへの気づきでもある。
「ハ」=「竦めあう」で複数の地蔵が祀られている屋外の景が鮮やかに表現されている。
「ス」=地蔵が互いに視線を交わしているような表現で、その前を通りかかった自分を含めた人たちの「大寒」の普遍的な景の表現になっている。

隣りあふ墓へひと声冬うらら                    稲葉晶子
「ド」=無意識に「隣の墓」(墓自身ではなく、墓参りに来ている人同士とも読める)に声を懸け合っていることの発見。
「ハ」=規模の大きくない田舎の墓地にある「日常」の一コマが鮮やかに表現されている。
「ス」=あたかも現世での人とね交流が、来世でも続くような健全な共同体の確かな存在感が表現されている。

散り際の山茶花の紅人を恋ふ                    大木典子
「ド」=今にも散りそうになっている山茶花の、紅色の鮮やかさに心を動かされている。そんな自分の心の発見でもある。
「ハ」=花の紅色が鮮やかだとは言わず、「人を恋ふ」としたことで、作者の内面表現へと収斂してゆく表現がされている。
「ス」=今というこのときを生きる命の精気を感受している深い表現になっている。

仕舞湯に解くひと日や虎落笛                    大澤游子
「ド」=「仕舞湯」は家の皆が入り終わって、湯船の湯を落とすころの風呂のこと。昔の家長制度の中では一家の主婦である女性が入る湯でもあった。そんな語感も含めて一日の労苦の集大成のような響きのある語である。その労苦をも癒してしまうような湯の力を、改めて発見している。
「ハ」=中七の「解くひと日や」で疲れがいかにもほぐれてゆくような表現がされて、下五の季語の「虎落笛」で外は厳寒の強風が吹いていることの対比で、それが一層強められている。
「ス」=個人的な感慨を突き抜けた共感を誘う表現になっている。
                       
蒼天へ裸木孤独放射する                      大本 尚
「ド」=落葉してすっかり裸になった冬木によるべなき孤独を発見している。
「ハ」=「放射」という目に見えないことの表現で孤独感が強められている。
「ス」=「放射」という以外で強めの表現で、存在の根源的な孤独感が表現されている。

一閃の日矢に飛び立つ鴨の陣                    奥村安代
「ド」=夜明けの日差し「一閃」か、曇天の雲の切れ目からの日差しか、その一瞬の変化に機敏に反応する鴨の集団的行動に感慨を発見している。
「ハ」=鴨の群れとはせず、「鴨の陣」としたことで、池の全面に「陣取っていた」ような空間的表現がされている。
「ス」=「日矢」で日差しの一直線に差し込む鮮やかな一瞬と、それに機敏に反応する鴨という生きものの、自然のダイナミズムに心が動かされている表現がされている。                    

須弥壇に佛御座さぬ小春かな                    加藤和夫
「ド」=「須弥壇」とは、仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと。古代インドの世界観の中で中心にそびえる須弥山に由来し、須弥壇の上は仏の領域とされ、壇上に直接諸仏を安置する場合と、厨子や宮殿を置いてその中に仏像等を安置する場合がある。安置式で本尊がない場合と、厨子に仕舞われて「見えない」情況のどちらかだろう。その発見に寺院の歴史を感受している。
「ハ」=読者を「なぜ佛がいないのか」という謎解きに誘う表現で、さまざまな感慨を引き起こす表現である。
「ス」=寺院の由緒ある雰囲気が句から立ち上がって趣がある。(因みに信州長野善光寺の御本尊は絶対秘仏であり、誰も見ることができない。実は本尊はないのではという説など諸説がある)

土となるまでが遍路や冬銀河                    加藤 健
「ド」=「遍路」は通常、一定の順路に従い仏寺などの霊場を参詣して回る信仰的修行の旅だが、この句では人生の暗喩表現となっている。人生とは遍路なりという発見がある。
「ハ」=「土となるまで」という言葉も人生終焉つまり死の暗示的表現になっていて、下五の「冬銀河」という季語にその苦難の昇華がある。
「ス」=弘法大師の修行の跡とされる四国八十八ヵ所の巡礼という空間的イメージを纏いつつ、それに人生という時間軸を併せた表現が普遍的な句になっている。

一盛りに済ます夕餉や年詰まる                  坂本美千子
「ド」=こう表現できること自身が自分の日々の暮らしの発見になっている。
「ハ」=「一盛りに済ます」という言葉で、逆に平常時には数種類の器別に複数の料理が並んだ食卓を囲んでいる景が思われる。
「ス」=俳句による一場面の造形は、そのことへの丁寧な眼差しを持つ一の心の表現であり、そうやって詠まれた俳句は普遍性を獲得する。

一日の詰まった鞄日短                      鴫原さき子
「ド」=この句も日々を丁寧に噛みしめて生きている人による、発見的一場面の造形俳句である。
「ハ」=下五の「日短」という季節の中の実感に至る、過不足なく表現されている「一日のつまった鞄」という鮮やかな切り取り。
「ス」=そう言われるとそうだよねーと万人の共感を創出している俳句である。

街なかの静寂極め年明くる                     白石文男
初景色変はりのなきを吉とせむ   
                 〃
「ド」=二句選んで併記したのは懐かしい昭和の景の表現に感じられたから。今の何か騒然とした世相から言えば、このような静かに心に染み入るような景が「発見」不可能な景となってしまっているのではないか。その逆立したような発見に価値がある俳句ではないだろうか。
「ハ」=「静寂極め」「変はりのなきを」、昔の正月は確かにそうだった。そのことが鮮やかに一つの「価値」として表現されている。
「ス」=作者の心の中にだけある、失われた大切なものを詠んだ俳句ではないかとさえ感じられる感慨がある。

新蕎麦や民家の広き奥座敷                     摂待信子
「ド」=現代のマンションの間取り、こじんまりした一戸建てが溢れる時代、歴史を感じさせる民家の間取りは広々としていた。「新蕎麦」はそんな家屋が普通にあった時代の景を蘇らせる雰囲気がある。そこに表現の的が絞られている。(もちろん今もそのような家屋に暮らしている景だと読むことも可能。)
「ハ」=ひんやりとした広さを表現するのに「奥座敷」と表現している。
「ス」=こういう景を詠むこと自身が、ある種の深いところで社会批評にもなっていることに気づかされる。

        ※        ※


「あすか塾」14 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞(合評学習会は中止)三月用
         
◎ 「風韻集」2020年2月号掲載句より 

※合評会は新型コロナウイルスのために会場が確保できず、中止になりました。
 以下の評は、いつものようにみなさんの合評の結果の取りまとめではなく、武良だか単独で執筆したものです。


〇 野木桃花主宰句「風花」から

手擦れせし冬の歳時記旅の宿
初句会常のくらしに戻る朝
寡黙なる夫へことこと鰤大根


※一句目、「歳時記」という言葉は、暮らしや心の暦の喩として使う場合がありますが、上五に「手擦れせし」とあるので本の「歳時記」ですね。旅にあっても季節別編集のミニ「歳時記」を携帯する俳人ならではの表現ですね。二句目、句会が特別なことではなく、「常のくらし」であるのも俳人らしい姿ですね。俳句が外在的でなく、心の中心を占め、その他のことがその周りにあるという境地。見習いたいものです。三句目、「夫へことこと」という連ね方が俳人的な暮らしのリズムですね。

〇 同人句

かつぎ来る棒さまざまに雪囲ひ                   摂待信子
※「雪囲ひ」の材料も「かつぎ来る」状態ではまだ、ただの「棒」で、建築資材のように型も揃っていない「さまざま」の形です。その暮らしのリアリティ。

手招きをして蝋梅へ夫を寄せ                   高橋みどり
※「呼び寄せる」とは言わず、ただ「寄せ」と。この省略の阿吽の呼吸に夫妻の普段のあり様が浮かびますね。俳句は説明せず描写で言葉以上のものを立ち上げます。

冬菊や風の意のまま揺るる庭                  長谷川嘉代子
※「冬菊」は風に揺らされているのではなく、自動詞で自発的に揺れている「揺るる」と表現されています。「冬菊の風を躱して撓ひけり」という句が筆頭にあり、それを受けての表現なのです。寒さ厳しい地に住む人の心の勁さを感じますね。

暗闇を過ぎて霧氷に迎へられ                   服部一燈子
※暖かい地方暮らしの私は、下五の「迎へられ」に意表をつく新鮮さを感じます。「霧氷」といったら「閉ざす」というようなイメージがあるからです。「暗闇を過ぎて」という、そこに至る経過の表現があるので余計、視界の明るさが際立ちます。

原発汚染水叩き去り行く鬼やんま                  星 利生
※「叩く」というと、普通、怒りを秘めた動作のように受け止めますね。トンボが尾で水面にちょんちょんと触れるのは、卵を水中に生み落としている動作だそうです。そこに思い至るとこの句から、深い批評性が立ち上がりますね。

ひっそりと夕日見送る鳰                     本多やすな
※「鳰」はニオとも読むカイツブリという水鳥。歌人が琵琶湖のことを「鳰の海」と詠むのは、カイツブリがたくさんいるということの他に、古事記には敵に追い詰められて琵琶湖で入水自殺する「忍熊王」が歌に詠まれていることを踏まえているそうです。さて、この句の「鳰」はどこにいるのでしょう。潜水する「鳰」が水面に浮かんで「夕日を見送っている」という表現は、そんな短歌的な風情があります。

白露を置いてはなやぐ山路かな                  丸笠芙美子
※ふだんは何もない殺風景な「山路」が、一面に「白露」が下りて朝日にきらきら輝いている景でしょうか。それを「はなやぐ」と表現したのがこの句の命ですね。筆頭に「秋深むまだ調はぬ山の色」の句があり、観察眼の冴えを感じます。

冬の虹御破算で雲払う                       三須民恵
※珍しく五五五の十五音という破調の句ですね。中七の二音足らずの「ごはさんで」に勢いがありますね。解説は無用でしょうが、「御破算で」は算盤で珠を全部払ってそれまでの計算を「なし」にして、新しい計算のできる状態にすることですね。そこから転じでて今までの行きがかりを一切捨てて、元の何もない状態に戻すことを意味するようになりました。そんな作者の気持ちが託されている句でしょう。

末成の林檎に顧みる月日                      宮坂市子
※「末成」と書いて「うらなり」と読みます。時期が遅くなって主に蔓系の植物の先のほうに実がなることやその実のこと。「末成瓢箪」は、顔色が悪く弱々しくて元気のない人をあざけっていう言葉。古い歌留多には「末成の子をばころがし育てなり」があり、末っ子ともなると親も子育てに慣れすぎて構わないで「ころがし育て」になってしまうという意味のようです。この句では「林檎」の「末成」。そこに自分の未熟さ見出して、少しとぼけた味わいで表現した句ですね。

せせらぎの音より冬に入る里                    矢野忠男
※冬期には小川の水量も減り、それまでとは違った響きが里の通奏低音のように覆うようになった景を、こなれた柔らかな表現で見事に造形描写されていますね。どこか慎ましい響きですね。それは最後の句「師の影の三歩うしろに雪蛍」にも感じます。「うしろに」で切れて下五に季語の「雪蛍」を置く技が冴えていますね。

風待ちの差羽とまりし廃鉄橋                  山尾かづひろ
※「差羽=さしば(刺羽とも書く)」はタカ科の鳥。三秋の季語の鳥ですが、代表される季語は普通「小鷹」で、鷂(はしたか)、兄鷂(このり)、雀鷂(つみ)、悦哉(えつさい)、小隼(こはやぶさ)などがいます。「差羽」は全長約五十センチ、体上面が灰褐色、腹には白地に褐色の斑があり、日本では夏鳥とされていますが、小鳥を捕食し秋に大群をつくり東南アジアへ渡るので三秋の季語とされています。つまり渡り鳥なのですね。下五の「廃鉄橋」の趣に相応しい鳥の「風待ち」姿ですね。

言の葉の軽さ路地過ぐ秋日和                    渡辺秀雄
※今回も五句とも素晴らしいですが、筆頭の句を揚げました。普通に読めば「軽さ」で切れて、「路地過ぐ」は「秋日和」に係って、秋の日の移ろいの早さを感じる表現と受け止める句ですね。「過ぐ」で軽く切れて、「言の葉の軽さ」が「路地を過ぐ」と、庶民が交わす軽快な会話のテンポのようにも感じられます。その相乗効果で味わいが増しているのだと思います。「団栗を踏みて廟所を驚かす」という句も、趣がありますね。廟所(びょうしょ)は墓一つではなく、祖先や貴人の霊を祭った場所という複合施設的な大きな墓所を表し、秋の空気感の広がりも感じました。

柿日和庭一面に壺を乾す                     磯部のり子
※「壺を乾す」だけでは洗い物をただ乾す家庭生活の一コマの景になりますが、「庭一面に」で大量の壺であることが示されています。陶器工房の中庭の景であることが表現されています。「柿日和」という陶器の色合いを持つ季語が効いていますね。

智恵子抄諳じ柿の空仰ぐ                     伊藤ユキ子
※まず「諳(そら)んじ」という古語的言い回しの意味を知らない人が増えているのではないかと案じられますが、もう一つ、「智恵子抄」の何を踏まえているのか、そしてもう一つ、韻文を憶え口誦する慣習も失われつつあるのではないかということも、同時に案じられるご時世となりました。解説は無用かと思いますが、彫刻家で詩人の高村光太郎の「智恵子抄」の中の「東京には空がない」という、心を病んだ妻・智恵子の言葉のくだりを踏まえた句ですね。「柿の空仰ぐ」と特定した力のある句ですね。

菊花展受賞の花にある緊張                     稲葉晶子
※多様な「読み」が可能な強度のある句ですね。受賞者が表彰式で「緊張」している様まで包み込むような「受賞の花にある緊張」という表現です。自然の花と違って、栽培者の美的感覚と技術によって、丹念に造りこまれた「菊花」という「緊張」ですね。作者は黙ってそれに耐え忍んでいる菊の側の思いに寄り添っているのでしょう。

三門をくぐり愁思の禅の寺                     大木典子
※南禅寺を詠んだ句ですね。「三門」は仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門のことですね。空、無相、無作の三解脱門を略した呼称だそうです。寺院を代表する正門で、全体の禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つに当たります。南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられています。ただの観光で訪れたのではない作者の思いが、さりげなく挟んだ「愁思」に表れていますね。

下校時のはしやぐ寄り道落葉焚                   大澤游子
※都市化する街で消えつつあるものが二つも詠まれています。「寄り道」「落葉焚」ですね。こう書くと「いやいや、もう一つ。子供たちが下校時に集団になってはしやぐ姿こそもう見なくなったよ」という声が聞こえそうです。実景を詠んだ句なら、まだそんな風景が生きている地方があるのだと安堵します。大澤さんの何気ない景を切り取って、心を動かす句法が生きていますね。冒頭の句では大澤さんも南禅寺を詠んでいて「山門の硬き閂桐一葉」のクローズアップも見事でした。
                       
仮の世のことごと成らず冬の蠅                   大本 尚
※大本尚さんの今回の句群は人生を振り返り噛みしめる主題でした。他の句では「この道を一途に」「きのふの悔いを払ひけり」「生真面目に生きし一生」「落葉期の心のすき間」というふうに詠んでいます。中でも掲句が味わい深いのは中七が「ことごと成らず」と表現されている点ですね。散文表現では「ことごとく成らず」で「く」を抜くことはできません。でも俳句では「く」を抜いて「ことごと」という表現が可能です。そうすることで「ことごとく」の悉く、全部が全部という否定的意味合いから解放され、その一つ一つの「ことごと」=事々が「成らなくて」も、それぞれに充実した人生を彩った「事々」があったことを浮かびあがらせますね。
上五に「仮の世」を置いて「だからこそ」の、この今の大切さと通じ会いますね。

半僧房静かに明けて鵙のこゑ                    奥村安代
※「半僧房」は鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山の山内にあります。建長寺の境内に入り、法堂や方丈といった大きな建物を抜けて、半僧坊道から標高百十四mの裏山の中腹に「半僧坊大権現」を祀る「半僧坊本殿」があります。「半僧坊大権現」は火事を防ぐ「火伏せの神」とされ、その姿は天狗様。「半僧坊本殿」に至る石段の途中には大天狗をはじめ、様々な姿の小天狗(烏天狗)たちの像が十数体ほどあり、見渡せば天空の絶景が広がります。中七の「静かに明けて」、下五の「鵙のこゑ」だけが響いている景が充分に表現されていますね。

古民家の明り障子に散紅葉                     加藤和夫
※古くは窓そのほかの開口部の枠の内部にはめて横引きに開閉する襖 (ふすま) や板戸を含めてすべて障子といい,桟の間に紙を張った採光に役立つものを特に「明り障子」と呼んでいました。現在ではこの「明り障子」のことを単に障子というようになったそうです。現代ではマンションは元より、戸建ての家でも障子戸や、その先に縁側がある建築物を見かけなくなりました。だからこの「古民家」の「明り障子」が、まさしく明り取りの役目を果たしていたことが実感されて、句に詠まれているのでしょう。下五の「散紅葉」がその風情に彩りを添えていますね。

柏槙に龍の影見る秋の暮                      加藤 健
※「柏槙」(びゃくしん)は「イブキ」とも言い、葉は短く茎に密着し、互いによりあって葉の付いた枝は棒状の外見をしています。針状の葉を持つ枝もあり、葉の付いた枝はすべて上に向かって伸び、全体としては炎のような枝振りになります。作者はそここに「龍の影」を見たのでしょう。どこか荘厳な雰囲気の「秋の暮」を味わっている句ですね。五句の中の最後の句は「欄間より飛天飛び交ふ冬日和」と詠まれています。幻視、比喩表現の俳句表現では、このように「ように」と譬え表現にせず、言い切ることで迫真性を増す表現ができます。「飛天」(ひてん)とは仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人のことですね。仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多く、その起源はインド、あるいはオリエントの有翼天人像がシルクロード経由で伝わったものともされています。壮大な景ですね。

仲直りするのも早しちやんちやんこ                坂本美千子
※面白い句ですね。「仲直り」のタイミングを計ることの難しさを、「ちやんちやんこ」というおどけた感じの音韻の言葉と、その温かさに託して表現していますね。

里山に渾身の風竹の春                      鴫原さき子
※竹は風によく撓い、普通の雑木林より竹林の方がザワザワと音を立てますね、その違いを際立たせるように「渾身の風」としたところがこの句の命ですね。

添へし手に古木の息吹抱きけり                   白石文男
※自分の手を通じて、もう枯れてしまった樹木の生きてありし時の「息吹」を感じ取っている句ですね。「添へし手に」「抱きけり」があまりしっくりこないところが惜しいですね。下五を「蘇る」とするとすっきりしますが、平凡になってしまいますね。愛おしむ感じが出る表現に工夫されるともっといい句になると思います。


第13回 あすかの会 令和2年2月25日  
《 兼題 青 面/○主宰選 ◇武良選 》

○ 主宰特選
寒の空摑みどころもなく青し                    宮坂市子
※たとえば「寒の空摑みどころのなき青さ」と体言止めにして伝統俳句的にリズムを整える詠み方もあり得ますね。でも句としての味わいがなくなってしまいます。眺めている表現になってしまうからですね。この句のように、形容詞で締めて現代俳句的な生き生きとした実感表現になっているところが見事ですね。空の奥行と広さを実感して仰いでいる心が滲みます。 

◇ 武良特選
運河より海に吐き出す余寒かな                   白石文男
※この文男さんの句も市子さんの句と同様、表現が実感の籠った動的な表現の現代俳句ですね。景と心にズレと隙がなく見事な表現です。余寒が身に沁みます。  
     
☆彡 ☆彡 ☆彡

砂川ハルエ
傘寿より年は引き算桜餅
草燃えや気は青のまま八十路口
流行病さけて野の風春の風

※一句目、「傘寿」は八十歳の祝いのこと。傘の略字が八十と読めることに因みます。還暦の六十歳はここから一に戻って新しい循環が始まることを意味しますが、ハルエさん八十から折り返して若くなりたいと詠みました。二句目も同じ気持ちが詠まれていて、「気は青のまま」若々しくありたいと。三句目、感染症は人混みで広がる恐れがありますから、「野の風春の風」を浴びて暮らしていたいと詠みました。

鴫原さき子
薄氷にゆうべの星を閉じこめて
少年のB面の恋風光る
せめぎ合う岬の水仙ひもすがら

※一句目、隠喩に富んだ表現ですね。何か儚き夢を思わせます。二句目、レコード盤が廃れようとしているご時世、この「B面」ということばには解説が必要になってしまうでしょうね。A面がレコード会社が売りたい曲で、B面の曲は付け足しのイメージがありました。でも意図に反してB面の曲がヒットしたという例もある面白い言葉なのです。少年の恋はそんなスリリングなものでもあるでしょう。三句目、実際にその景を視たという臨場感がありますね。「ひもすがら」は長い一日でのんびり感が出ますので、もっと相応しい言葉があるのではという評がありました。

坂本美千子
唱名の母の起き臥し青菜飯
マスクして白の時間の動き出す
髭面の夫の横顔春の闇

※一句目、病床の「起き臥し」ではなく、日常の規律ある暮らしぶりの表現で、その暮らしの中に仏壇に向かって「唱名」の時間が含まれている姿が浮かびますね。二句目、今年のコロナウイルスの流行を受けての表現でしょう。「白の時間」にはまっさらな新しい朝の意味も込められていますが、マスクをした集団の活動開始のイメージでもありますね。三句目、最初の句では「横顔」が「恐ろし」になっていて、句会で笑いを誘っていました。本当は怖がってなんかいない愛情を感じる表現ですが、みなさんから「怖い」とまで言わなくても伝わるのではという意見が出て「横顔」に直されました。

大木典子
青い空くすぐるやうに囀れり
曲り屋の厚き茅葺き日脚伸ぶ
春ともし小面の眉翳りもつ

※一句目、いいですねー。快晴の空を「くすぐったい」ような身体感覚に引き付けたところがこの句の魅力ですね。小鳥たちの囀りの声ですが直感的な訴求力がありますね。二句目、「茅葺き屋根」のぽったりとした厚み、その質感に焦点を絞ったのがいいですね。日没がしだいに遅くなる季節の移ろいを感じます。三句目、能楽の素養がないと詠めない句ですね。「小面」は若い女性役のお面で、若さ故の愁いを含んだ感じを「春ともし」「眉翳りもつ」で見事に表現しましたね。下五を「翳りつつ」としたら、能の動きも出るのでは、という意見もありました。

金井玲子
古びたる仁王の臍や春埃
青白く一本桜暮れ残る
小面に微かな笑みや冴え返る

※一句目、仁王像の重量感もいいですが、「臍」つまり存在の要ですね、そこをクローズアップしたところがいいですね。うっすらと「春埃」が溜まっている景が浮かびます。二句目、プルキニェ現象という視感度がずれる現象があって、これは人の網膜の視細胞は、明るい場所では赤を鮮やか知覚し、青は黒っぽく知覚し、逆の暗い場所では青を鮮やかに知覚し、赤を黒っぽく感じる現象です。だから夕方にはすべてのものが青っぽく見えるのです。この句は夕方の桜の木が「青白く」「暮れ残る」と表現したのは、よく観察している正確な描写ですね。三句目、玲子さんも能の「小面」のことを題材に詠みました。玲子さんはその微笑の「冴え返る」気配を感受しています。

乗松トシ子
梅の香に心残して女坂
草萌や紙飛行機のふうはりと
駅舎降りどの道行かふ梅日和

※一句目、「女坂」は東京の湯島天神に「男坂」と対でそう呼ばれる坂がありますね。全国的に有名なのは。京都の東山七条にある智積院と妙法院の間から東方向の阿弥陀ヶ峰へ延びていく坂道のことで、周辺に京都女子中学校・高等学校、京都女子大学などの校舎が並んでいて、朝夕に大勢の女子生徒や学生が上り下りするため、その通学路が親しみを込めて「女坂」と呼ばれているそうです。作者は自分も女学生になった気持ちでそこに「梅の香」を添えたのでしょう。上五の「梅の香に」で、やはりこれは湯島天神の梅でしょうか。歌謡の一節のような回顧感がありますね。二句目、下五の「ふうはりと」がお見事。「紙飛行機」が題材の句では飛んでいる姿か、地に落ちている場面が詠まれがちですが、トシ子さんは「ふうはり」と「草萌」の地にソフトランディングする瞬間を捉えました。三句目、「駅舎」から直接、外の道に「降りる」表現で、田舎の小さな駅の木造ふうの駅の姿と駅前の風景が浮かびますね。「どの道行かふ」で、来訪者の目線であることが解り、下五の「梅日和」が効いていますね。

大本 尚
現世の汚れあらはに残る雪
余寒なほ青面金剛像に罅
木の根開きどこも青空橅林

※一句目、清少納言が「枕草子」で「白きものいきつかぬ所は、雪のむらむら消え残りたる心地して、いと見ぐるしく」(訳・白粉がはげた所は雪がまだらに消え残っているみたいですごく見苦しく)と比喩に使っているように、残雪の斑雪を「見苦しい」と感じるのは昔からのようですが、尚さんは「現世の汚れ」と大胆に表現して新鮮ですね。残雪観に一興を書き加えました。二句目、「青面金剛像」の重量感と「罅」で永い時間の降り積もり感が表現されています。上五の「余寒なほ」は「なほ」の継続感は言わなくて、きっぱり「余寒」だけの表現がいいのではという意見がありました。三句目、「木の根開き」(きのねあき)は早春の季語で、立木の周りの雪が解け始めることで、雪国の人は木の周りの雪が溶けて土がのぞくと、春が来たことを実感していたようです。そこが「橅林」であること、その上空の「どこも青空」という言葉がその感じを強めて効果的ですね。

稲塚のりを
少し病み少し歳取る春炬燵
晴朗の空の青さよ梅二月

麦踏みの常に後ろ手腰を曲げ
※一句目、「少し」のリフレーンで、内容は「病み」「年取る」と変化させて、しみじみとした思いを刻むような表現が見事ですね。二句目、冬の空の透明感と紅梅の色の対比がすがすがしいですね。三句目、観察眼の効いている句ですね。下五の「腰を曲げ」は、「後ろ手」で前傾姿勢になっていることは判りますので別の言葉にしたらどうでしょうか。

近藤悦子
啓蟄や年年うする蒙古班
霾るや地上に出たるメトロ線
灯下なる雛の面差し祖母のごと

※一句目と二句目は、最初は一句目の上五の季語が「霾るや」でした。そして二句目の上五が「啓蟄や」でした。句会でそのままだと付き過ぎに感じられるので、入れ替えたらどうかという評があり、このように落ち着きました。こうしたことで、一句目は子どもか孫の成長を寿ぐ気持ちと季語が響き合う、いい表現になりますね。二句目も地上に出たその時、という場面感が全面に出るいい表現になりますね。三句目は「なる」の古文的表現に魅力があります。どこどこ「にある」が「なる」になった場所を示す表現です。雪洞の灯の浮かぶ雛に佇まいに祖母の面影を見ている表現にぴったりですね。

山尾かづひろ
築地署に多喜二面差し浅き春
青魚追ひし焼玉春の潮
黄泉に逢ふ休憩の火夫芽の木駅

※一句目、「築地署」はプロレタリアート文学者で活動家だった小林多喜二が不法に拘束され虐殺された所です。築地署はその事実を隠蔽し、「心臓麻痺」による死と発表しました。活動仲間と遺族に返された遺体には生々しい拷問の傷跡があり、それは写真で記録されています。直接、多喜二虐殺に手を下した三人の人物は、戦後、警察の要職を務めたりしています。まさに戦中戦後の日本の闇を呑みこんだ場所の象徴ですね。かづひろさんは、その歴史を忘れてはいけないこととして、そこに「多喜二」の「面差し」を詠みこみました。二句目と三句目も「焼玉」「火夫」と歴史的な言葉に拘る表現をしています。ただ三句目は意味が分かりにくいとの意見が多く出ました。野木先生は歴史的なことに拘るのも一つの姿勢だけど、かづひろさんにはそろそろ、今の社会詠もして欲しい頃ですとおっしゃっています。

宮坂市子
面取りのひと手間かけし煮大根
池の面を覆ふ水輪や雪雫

※冒頭に揚げた野木桃花特選の句以外の二句です。一句目、ファーストフード流行の世相を他所に、「ひと手間かける」スローフードの思想を大切にする気持ちが込められていますね。二句目、推敲の余地がありそうですね。雪の雫のしたたる位置と、池の面の位置関係がちょっと判り辛いですね。

白石文男
春なれや京の地酒の酔ごこち
既にして半身乗り出す春大根

※冒頭の武良竜彦特選句以外の二句です。一句目、上五の「なれや」の古文的な表現がいいですね。推測に春待ちの希望の気持ちが滲んで「地酒」の「酔いごごち」にぴったりですね。二句目、今年の暖冬の影響下の育ち過ぎぎみの大根を詠みましたね。上五中七の「既にして半身乗り出す」という表現はできそうでなかなかできない、切れのある表現ですね。

   ※   ※

〇 野木桃花主宰の句(解釈と鑑賞のヒント)

父ねむる母ねむる地よ梅二月
青春を探す裏みち梅の風
パンドラの箱から春が動き出す

※一句目、情感がリフレインで深まる表現ですね。梅で父母を忍ぶ産土を詠むのは、ちょっと普通は思い付きませんね。学ぶべき視点ですね。二句目、失われた青春は「裏みち」にしかありません。表通りは猛スピードで変化して昔の面影もないからです。「裏みち」には小川が今も寄り添うように流れていて、群れではなくひっそりと梅が咲いている風情にこそ、記憶は温められるでしょう。三句目、まさしく今年の春前夜の景ですね。「パンドラの箱」は不用意に明けると禍が起こると言われている箱の象徴です。晩冬、その箱の蓋が明けられてしまったような……ひやりとするような実感がありますね。

□ 武良竜彦の句(自解例)

冬晴や地球は青き涙壺
※最初は下五を「涙粒」にしていました。野木先生から「涙壺」の方が景も内容も大きくなるのではとのご指摘を受けて、このような最終形になりました。誰かの涙を絞るような情況が地上からなくなることはないのか、という思いを詠みました。
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