あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾 62  《野木メソッド》による鑑賞・批評

2024-06-18 15:21:15 | あすか塾 2024年

 

  あすか塾 62  《野木メソッド》による鑑賞・批評

 

         野木メソッド

        「ドッキリ(感性)」=感動の中心

        「ハッキリ(知性)」=独自の視点

        「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

       

野木桃花主宰六月号「小判草」から

童心に返るひと時蝌蚪に足

 おたまじゃくしに手足が生えはじめる季節、成長の季節。飽かず水中を見つめていた頃の記憶が蘇りますね。

美術館出て黄塵の街ゆがむ

 鮮やかな美術品の鑑賞をして来たばかりの眼に、黄砂に曇る街の景が、歪んで見えたのですね。フレームに収まる鮮やかな絵画の世界と、フレームなしの単色の街の対比が効いている表現ですね。

音もなく風の意のまま小判草

 小判草は、最初は緑色ですが、次第に金色の小さな小判色へと変わりますね。風が吹くと鈴のように揺れますが、音はしません。その小判草の可愛らしさを捉えた表現ですね。

涅槃西風言葉ひかへてゐる夕べ

「前田幸久様を悼む」の前書きの句。

山桜福島弁の友召され

「丹治キミ様を悼む」の前書きの句。

  二句とも哀悼句ですね。永年の俳句仲間のご逝去を悼み、それぞれに、その人に相応しい季語とことばによる表現がされていることと思います。わたしはお二人を存知あげないので、そのことについて解説はできませんが、一句目は涅槃西風の「涅槃」、「言葉控えて」に黙禱の思いが込められていて、二句目は山桜の花の下と、その方の顔と語調をありありと思い浮かべて、忍んでいる表現のように感じました。

 

 「風韻集」六月号から 感銘秀句

 

代掻や漂うひかり追いかけて      服部一燈子

 代掻きは淡々と規則的に行われる作業ですが、それを「漂うひかり追いかけて」と表現して、遊戯的な楽しさを感じる表現にしたのがいいですね。 

旅仕度ととのへ向かふ雪の果      丸笠芙美子

「雪の果」は冬が終わり春になる時期に「最後の雪」として降る雪を指す季語ですね。降り納めの雪の名残惜しい気持ちと、来る春への希望の混じる繊細な言葉です。旧暦の二月十五日前後にこの「雪の果」となることが多いので、「涅槃雪」ともいいます。この句は新たな旅立ちの表現として詠んだのですね。

冬籠古びてなじむ夫婦箸        宮坂市子

 永年、使い込んで手になじんだ箸という具象で、夫婦仲を表現し、上五に「冬籠」を置いた巧みな句ですね。 

蒼天の海辺に太る野水仙        村上チヨ子
 
潮風にも負けず、浜辺にすっくと立って咲いている野水仙の逞しさをその茎の勁(つよ)さの表現「太る」にしたのが独創的ですね。 

秒針の鈍き動きや春隣         柳沢初子

 壊れかけていたりしない限り、時計の針はどんなときも等しい動きをしているはずですが、それを「鈍い動き」に感じるという心象表現で余寒の厳しさを表現したのがいいですね。 

春愁石の枕に針ねずみ         矢野忠男

 「石の枕」というと、古墳時代の副葬品で、石棺内に埋葬者を安置する際、頭部を固定するために用いられた枕状の石製品を想起します。そして全身が棘に覆われた「針ねずみ」。その二つで「春愁」を表現した独創性に瞠目します。 

野梅咲くあっぱれ連呼村境       山尾かづひろ

「あっぱれ」は、平安貴族の「もののあはれ」の「あはれ」という言葉が、武士の時代になって、勇敢で健気である意味に変化して、漢字で「天晴」などと表現するようになった言葉ですね。この句の村人には、そんな武家気質を感じますね。 

祖母と居て陽射し追い掛け日向ぼこ   吉野糸子 

 自分がまだ幼い「孫」だった頃の回想句でしょうか。祖母と縁側で陽射しの移動に合わせて座る位置を少しずつ変えているという微笑ましい景ですね。 

片隅に柊挿してのぼり窯        磯部のりこ

 柊挿しは、節分の夜に、焼いた鰯の頭を柊の枝に刺したものを戸口に挿して、鬼や邪気が家に紛れ込むのを防ぐまじないですね。のぼり釜も神聖な場所として、家と同じようなことをしているのでしょうか。 

春一日平和の使者てふ白鳩と      稲葉晶子

 鳩が平和の象徴にされるようになったのは、旧約聖書の「ノアの箱舟」で、鳩が洪水で沈められた世界に平和が戻ったことを知らせたことに由来します。そしてパブロ・ピカソが平和に関する国際会議のポスターに鳩を描いたことで世界的に定着しました。この句は暖かい春の陽射しの中で、公園か庭先で見かけた鳩で、平和を噛みしめているのですね。

三月や初めて使ふ万年筆        大木典子
 
自分の体験の記憶か、または自分の子供か孫に進学・進級の祝いに贈った万年筆をめぐる記憶を詠んだのでしょうか。高価な万年筆を貰ったときのうれしさはひとしおでしたね。

畦道の蒼き点描犬ふぐり        大澤游子

 畦道に咲く犬ふぐりの小さく可憐な花を、新印象派のフランスの画家、スーラの点描画のようだと感じたという句ですね。色を原色の点に分解して描く方法の、その「蒼」の鮮やかさが見えたのでしょう。

青き踏む歩ける今を歩きけり             大本 尚

歩くところを、場所ではなく、今という「時」にした表現が独創的ですね。今という、返らぬこの一瞬一瞬を噛みしめているような、実存的な実感が胸に迫ります。

せせらぎに言葉を託し春野かな     奥村安代

 小川のせせらぎの音は人間のおしゃべりの声にどこか似ています。この句はその感覚をもとに、自分は聞き役にまわって、春の野散策を楽しんでいるのですね。 

路地裏の戸毎に誇る梅花かな      風見照夫

 家々が軒を寄せ合って建っている路地で、家ごとに玄関先に梅の木を植えているようです。そのいっせいの開花のさまを「戸毎に誇る」としたのが独創的ですね。 

異人墓地置かれたやうに落椿               加藤 健

 異人墓地ですから、墓参に来る人のいない、どこか寂し気な場所ですね。そこに椿の花がまるで、だれかが祈りを捧げた後のように「置かれて」いたという表現に詩情がありますね。


揺りかごの小さきまどろみ花菜風    金井玲子

 野外の木蔭の揺り籠の中で、すやすや眠っている赤ちゃんの姿が浮かびますね。それを「小さきまどろみ」と表現して詩情がありますね。
芹とんとん「春の小川」を口遊む    近藤悦子

「春の小川 」は文部省唱歌 で、 作詞は 高野辰之 、作曲は岡野貞一。誰でも口遊める歌でした。それを「芹とんとん」と台所に居るときの歌にしたのが効果的で詩情がありますね。

橋の名の江戸絵図のまま水温む     坂本美千子 

 東京の古い橋の名前は江戸時代に架けられたときのままの歴史遺産ですね。下五の季語が効いています。

物思う少女となりて卒業す       鴫原さき子

 物思う時期というのは、思春期の自我の目覚めに起源がありますね。ことばをたくさん覚える時期でもあります。「卒業す」が効いていますね。 

盆栽の梅に綻ぶ底ぢから        摂待信子

 盆栽というものは、何かそこだけ時間が止まっているような静的な雰囲気があります。この句はそこに動的な「綻ぶ力」を感じとったのですね。 

アパートにベトナム正月テト飾り    高橋光友

ベトナムの旧正月のことを「テト」といいます。漢字では「節」と書きます。桃の花や、金柑の木を飾ります。その飾りが日本のアパートに。留学か仕事で来日して異国で正月を迎えているのでしょう。作者は留学生の指導をしている方のようです。

妣の髪梳きたし桃を吸はせたし     高橋みどり

 作者の亡母にたいする尽きせぬ愛情を感じる句ですね。このように句で詠まれると切ないまでの哀悼感が立ち上ってきますね。
 

 「あすか集」六月号から 感銘好句

 

梅薫る旅館の揺り椅子飴色に      金子きよ

 揺り椅子というのは素材が籐で出来ていて、接地部分が弓なりになっていて、背を預けて揺らす造りになっています。使い込むほど光沢のある飴色になります。老舗の旅館の風格を感じますね。 

光り合ふ小石ごろごろ春の川      木佐美照子

 擬態語のところは、上五の流れでいうと「ぴかぴか」としてしまいがちですが、「ごろごろ」という小石の質感を感じさせる表現にしたのが効果的ですね。 

隊形は臨機応変鳥帰る         城戸妙子

 鳥の編隊飛行はほんとうに、さまざまな形に変化しますね。彼方の空に見えなくなるまで見送っている作者の視線を感じる句ですね。 

つばくらめ巣に戻り来るアーケード  久住よね子

 アーケードの下を行き交う人たちが、自分たちに危害を及ぼさない、という安心感のあるところでないと、燕たちは営巣しません。そんな町の人たちのことまで想像させる句ですね。 

千年の落花懐紙に野点果        紺野英子

 屋外で行われる茶会の景ですが、そこに散りかかる桜を「千年の落花」と表現して、格調がありますね。手元の懐紙に包まれた和菓子が想像されます。

北国へ三羽並んで雁帰る        斉藤 勲

 帰雁の景はふつうたくさんの雁の編隊が詠まれることが多いのですが、この句は「三羽並んで」。作者が感情移入している親しみを感じますね。

金縷梅やリボンほつれるやうに咲き   齋藤保子

 金縷梅(マンサク)はまだ寒い中に黄色の花を咲かせます。縮れたような花弁に特徴がありますね。それを「リボンほつれるやうに」とした直喩が効いていますね。

春風や三半規管狂いだす        須賀美代子
 
耳の三半規管は人間の平衡感覚のために大切な器官です。陽気のせいで少し眩暈を感じていることを、医学用語で詠んだのが、ユーモラスですね。

新聞に新語続々春燈し         須貝一青

最新の新語大賞に「地球沸騰化」がありました。他には闇バイト、蛙化現象、グローバルサウス、生成AIなども選ばれています。あなたは、時代に着いて来れていますかと問われている気分になりますね。

磨ぎ水に明日への力もらひけり     鈴木ヒサ子

 この「磨ぐ」は米磨ぎのことですね。棄て水が澄むまで数回稀返します。その水に「明日への力をもらひけり」として、詩情がありますね。 

鳥の声老木はいま花ざかり       鈴木 稔

 幹の皮が古びて弱っているように見える老木ですが、花は変ることなく咲き誇っているのでしょう。老境の自分を励ましているような句ですね。

囀や話上手になりたくて        砂川ハルエ

 対人の話術に困難を感じているようですね。鳥の囀りは屈託がなく感じられて、あんなふうに自由に話せたらな、という想いを詠んだ句ですね。

囀や鍵を預かる公民館         関澤満喜枝

 これは公民館の職員側ではなく、その一室を借りて何かをしている側の句ですね。すぐ思い浮かぶのが句会。上五の「囀や」で楽しい句会が予想されます。

彼岸会や煩悩を説く若き僧       高野静子
 お坊さん、警察官、学校の先生などを「若いなー」と思うのは、自分が大人になった証拠だといいます。特に説経されたりすると、その違和感が・・・。

甘党の亡夫待つ彼岸参りかな      高橋富佐子

 もう亡くなっている夫への、作者の思慕の深さが胸に沁みる句ですね。

忘れ物か去り難きかや寒戻る      滝浦幹一

 「寒」自身を人格化して、擬人的に「忘れ物」をしたり、後ろ髪を引かれているかのように表現したのが独創的でユーモラスですね。

家族と会う約束反故の彼岸かな     忠内真須美

 お彼岸に家族で集まる約束になっていたのでしょうか。子どもたちが成人すると、それぞれ多忙になり事情が生じて、こういうことがよくありますね。 

揚雲雀鳥瞰さるるわたしたち      立澤 楓

 見上げる私たちの視点を逆転させて、雲雀からの「鳥瞰」の表現にしたのが効果的ですね。雲雀野の広さまで一気に視野が開けます。

夫の忌や山茶花の紅慎ましき      丹治キミ

 亡き夫の、花のある風情の中の、慎ましい風情をこよなく愛していらっしゃったことが伝わる句ですね。 

白木蓮未来へ心ふるわせる      千田アヤメ

 白木蓮の広い花弁には縮緬皺がありますね。それが自分の心の繊細な震えと共振しているような表現ですね。


スーパーのクーポン交換二月尽    坪井久美子

 スーパーで貰ったクーポン券が思わぬほど溜っていたことに気が付いたのでしょう。交換の期限付きだったのかも知れません。日数の短い「二月尽」の季語が効いていまね。

春の空大縄とびの弧を描く      中坪さち子

 大勢でいっせいに飛ぶ、壮観な大縄跳びをしている景でしょうか。それが大空まで巻き込んでいるように見えたという感慨の句ですね。

早今年鉄塔の森に初音聴く      成田眞啓


 初音が自然の森ではなく、空を突きさすように林立する鉄塔の高みから聞こえたという表現で、自然と人工建造物の取り合わせに独得の詩情があります。

幼児大の市松人形雛の間に      西島しず子

 幼児の大きさとは小さいものと普通は感じますが、それが市松人形だとすると大きく感じますよね。他の小さな雛人形に混じっていると、いっそう存在感が増します。市松人形は着せ替え人形で、木屑を練り固めて作った頭と手足に胡粉を塗り、布でできた胴につなげた人形で、手足が動かせます。ふつうは裸の状態で売られ、衣装は買った人が自作します。この句の市松人形も作者のお手製のものを纏っているのでしょう。贈りものでしょうか。

花の蕊朝な夕なの三千歩        沼倉新二

 朝夕で合計六千歩の散歩を日課にされているのでしょうか。脚からの老齢化予防のためでしょうね。上五の「花」といえば桜で晩春の季語。しかし、花と桜は同じ言葉ではなく、桜といえば植物であることに重きがおかれますが、花といえば心に映るその華やかな姿に重心があることばですね。肉眼で見たのが桜、心の目に映るのが花。その「蕊」、この句で「桜蘂」といわず、「花の蕊」と表現しているのは、その心の目でとらえた「花」の芯、つまり作者の心の投影なのでしょう。 

佐保姫の裳裾引くごと雲流る      乗松トシ子

 佐保姫は春をつかさどる女神。その裳裾を引くようにという比喩表現で、春の雲の軽やかな流れを表現して効果的ですね。

春の駅聞き覚えある着メロ音      浜野 杏

 駅の電車の発着のご当地メロディではなく、電車を待つ人たちの携帯電話から、作者が聞き覚えのある着メロが聞こえたという場面でしょうか。ふと心が和んだのかもしれませんね。 

花万朶園児の声の宙に舞う       林 和子

 上五の「花万朶」という言葉の「万朶」の「朶」は垂れ下がった枝のことで、「花万朶」は多くの花の枝と多くの花の意になります。「花万朶」という季語はなく、ここは桜という意味の「花」が季語ですね。その、たくさんの、という語感が、下の「園児」たちの大勢の声と響きあって、華やぎますね。

陶器屋も金物屋も消え桜散る      平野信士

 町の商店街が栄えていたころは、「陶器屋」「金物屋」などたくさんの商いの店が立ち並んでいて賑わっていましたね。それが消えてしまい町も寂れて淋しい景に変わっているのでしょう。そこに桜並木の花だけが変らず散っている、と表現して哀感のある詩情が立ち上りますね。 

春暖炉みがき込まれし喫茶店      曲尾初生

 冬の寒さが厳しい地方の、古い暖炉がある、歴史的な味わいのある喫茶店の景が浮かびますね。調度も古いのに美しく手入れされている、店主の姿勢まで感じられる句ですね。 

寒九郎雲掃き寒さ置き忘れ       幕田涼代

 「寒九郎」という言葉は俗語で、季語で使われる「寒九」は「寒の内」という晩冬の季語の子季語で、「寒中、寒、寒四郎、寒九」の一つですね。「寒四郎」があるので、「寒九郎」もあるだろうということで生まれた俗語ですね。「寒の内」は元々、寒の入(小寒の日)から、立春の前日までのことで、太平洋側はからりと晴れ、日本海側は鉛色の雪雲に覆われている時期です。「九郎」は遅い順番を表わしますから、寒気が緩んできている時期を指すのでしょう。この句で「寒さ起き忘れ」と表現されているのは、もう暖かくなってもいいのに、寒気がまだ居座っている、という感慨を表現しているのでしょう。

梅詠みて一夜寝かせば愚作なり     増田綾子

 
作句時から時間を置いて、自句の至らなさに気が付く。それが上達の第一歩ですね。特に、探梅、観梅などの句は類想句に陥りやすいので、推敲しているのですね。

知恵の輪がはずれたよママ春障子    水村礼子

 口語体の子供の声をそのまま書き写したような臨場感のある表現で、家庭内の空気感も伝わる句ですね。 

ジャスミンや廃屋飾る白き花      緑川みどり

 香水や茉莉花茶(ジャスミン茶)の原料として使用される香りの高い、真っ白の花と、永年、無人のままの廃屋とを取合せて、哀感がありますね。 

サザエさんの像のある町あたたかし   村田ひとみ

 東京都世田谷区の桜新町は、マンガ、サザエさんの作家である長谷川町子が美術館を創設したことによって、「サザエさんの町」として知られるようになりました。その像の、ほのぼのとした雰囲気と季語の「あたたかし」がマッチしていますね。

いぬふぐり踏まれしままに地を飾る   望月都子

 この「いぬふぐり」はきっと、近縁種の帰化植物である「オオイヌノフグリ」(色はコバルトブルー)の方ですね。在来種の「いぬふぐり」は色が淡いピンクで、「ふぐり」形の実をつけますが、「オオイヌフグリ」の実はハート型です。別名「星の瞳」と呼ばれるのもこちらの方です。この句で踏まれているのはこの星の瞳の方でしょう。けなげですね。

寒明くる遠く青磁の夜明富士     安蔵けい子

 夜明けの蒼くそびえる富士を「青磁」色に喩えて、何か硬質の輝きを思わせる表現がいいですね。 

鯉幟私の生れは農繁期         内城邦彦

 農繁期とは田植えや稲刈りの時期だけでなく、田植え前の育苗や荒起こし、稲刈りの際の乾燥や籾摺りの時期のことですね。赤ちゃんは「いじこ」という桶や籠に入れられて、親が農作業をする際に近くに寝かされていたそうです。この句の作者にはそんな記憶があるのかもしれません。上五の「鯉幟」が効いています。「いじこ」は地域によりイジコ・エンズコ(エンヅコ)・エヅメ・エジメ・イズミ(イヅミ、飯詰)・イヅミキ・コシキ・イブミ・ツブラ・ツグラ・チグラ・フゴ(畚)・ヨサフゴともよばれ、地方色豊かですね。

閉鎖せし児童公園木の根明く      大谷 巌

 「木の根明く」は仲春の季語で、樹木の根元の雪が他と比べて早く溶けること。溶けたところは丸い形になり、春の草などが芽吹きます。だが、この句の児童公園は閉鎖されていて、それを見る人はいなのですね。騒音防止とか少子化の行政の都合でしょうか。 

余寒なほ家居にありてジャムを煮る   大竹久子

 家居は「かきょ」とも、「いえい」とも読みます。「かきょ」は家に引きこもっていることで、「いえい」は家にいることの意味で使われる言葉ですね。この句はそのどちらにとっても良さそうですが、「ジャムを煮る」と、無為の時間にしていないところがいいですね。

日の嵩を添へて摘みたり芹の籠    小川たか子


 
太陽の光に質量的な「嵩」という厚みを感じている表現が個性的で、いいですね。春の陽をいっばい浴びて、瑞々しい芹の色と香りが伝わります。 

吾の息あんなに高くしゃぼん玉     小澤民枝

 しゃぼん玉が空高く舞い上がるのを見ていて、「ああ、わたしの吐いた息が空へ昇っていく」という感慨を抱く人はあまりいないでしょう。その自然との一体感のある表現が素晴らしいですね。

クローバー花冠を子に渡す      柏木喜代子

 今はあまりしなくなっていると思いますが、クローバーの花と茎を編んで花冠にする野辺の遊びがありましたね。その伝承ごと子供に手渡している句ですね。 

 

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あすか塾 61  野木メソッドによる「あすか」誌五月号作品の鑑賞と批評 

2024-05-13 18:39:09 | あすか塾 2024年

 あすか塾 61

 

野木メソッドによる「あすか」誌五月号作品の鑑賞と批評 

 

 野木桃花主宰 五月号「福島」から

鶯の半音狂ふ花見山

 まだ巧く鳴けないことを「半音狂ふ」と具体的な音程の表現にしたのがいいですね。

健気さを力となして嶺桜

 群生している場所から少し高いところに離れて咲いている桜に「健気さ」を感じたことを、「健気さを力となして」と表現されたのが、独創的ですね。

木の芽晴大地の気負ひ吸ひ上げて

 「大地」から水分を吸い上げているのは樹ですが、上五に「木の芽晴」置いて、その切れの働きで、春全体の自然の活力の目覚めが表現されていますね。

春塵の纏ひつく墓手で拭ふ

 春の墓参の景ですが、こう表現されると、春塵に霞みがちな空気感の中の墓域と、墓石を洗う前に、思わず「塵」を「手で拭って」しまう、心のちょっとした動きの表現で、父母への想いも立ち上りますね。

 

 「風韻集」四月号から 感銘秀句

 

鳥埋めし土のふくらみ春の雨     高橋みどり

 中七、下五の表現の柔らかな温みから、家で飼っていた鳥の死を、人間と同じように悼む作者のやさしい心が伝わりますね。

 

農夫来る春のにおいを纏わせて     一燈子

 上五の「農夫来る」という、きっぱりとした言い切りの響が春の到来を予感させ、「春のにおいを纏わせて」に繋いだ表現がすばらしいですね。

 

冬銀河けして眠らぬ港の灯       芙美子

 一晩中灯っている港の灯の孤愁を、「けして眠らぬ」と表現して詩情がありますね。

 

霙くる鳩一列に軒占むる        市 子

 「霙降る」ではなく、「霙くる」が寒気の厳しい暮らしを想起させますね。鳩たちが軒の竿などに避難して一列になっている様の描写も秀逸ですね。

 

大根引く夕日やわらぐ岬かな      チヨ子

 大根引きと夕暮れの気温とは、本来なら無関係ですが、俳句でこのように詠むと詩情がありますね。下五の「岬」の景で収めたのも見事ですね。

 

寒椿活けて一間の鎮もれり       初 子

 冬の和室の一角、床の間でしょうか、そこに寒椿が活けて置かれている景ですね。その一点の赤味で、華やかさではなく、部屋が「鎮もれり」とした表現がいいですね。

 

四十雀(から)のきて小雀五ッ零れけり     忠 男

 四十雀の大きさは、全長は約一四・五センチメートルで、雀とあまり変わりませんが、「小雀」にとっては、自分たちと色も違い、一回り大きい鳥の出現にびっくりしたのでしょうか。「五ッ零れけり」がユーモラスですね。

 

透析の空は小さし雁渡る        かづひろ

 透析治療を受けている処置室の、小さな窓。見えているのか、想像しているのか、下五に「雁渡る」の季語が置かれていて、心に沁みる表現ですね。

 

春小袖くるりと廻し二十歳の子     糸 子 

 機敏な仕草で体を回転させている二十歳の娘さんの清々しい姿が浮かびます。

 

餅の数聞いて厨の水仕事        のりこ

 日常の時間、空間の趣を、俳句でなければできない詩情豊かな表現で、見事に詠みこまれましたね。

 

心地よき距離のあるらし鴨の池     晶 子

 鴨たちが互いに絶妙の距離感を保って動いている景に、作者も人間関係もかくありたしという想いを投影しているのでしょうか。巧みな表現ですね。

 

先生の前に後ろにうららなり      典 子

 無邪気な子供達の無意識の行動に、生徒と先生の間にある温かい信頼関係のようなものを感じさせる表現ですね。

 

空つ風戦ふ駅伝太鼓の音        游 子

 駅伝に太鼓の音という取合せは、実景では見た経験はありませんが、この太鼓の音を下五に置いたことで、戦いというより、どこかお祭りのようなムードが立ち上ってきますね。

 

うすら日を集め蠟梅艶めけり       尚

 蠟梅のあのつやつやした温みのある色合いは、きっと「うすら日を集めた」からなのかも知れない、という表現に詩情がありますね。

 

凍蝶の哀しみだけを掌に包む      安 代

 もう凍え死んでしまった蝶なのでしょうか。それをそっと掌に包んでいる景ですが、それを「哀しみだけを掌に包む」と表現して深みがありますね。

 

蕗の薹限界と言ふ言葉尻        照 夫

 自分の何かが「限界」なのか、過疎化の進む村のことをいう「限界集落」のことなのでしょうか。作者はそのことばに何か違和感のようなものを抱いているようですね。それを「言葉尻」と下五で言い留めて味わいがありますね。

 

春めくや神父衣をひるがへし       健

 ユーモラスな描写表現ですね。結婚式に駆けつけるために急いでいるのでしょうね。

 

能登晴れて雪解雫の瓦屋根       玲 子

 災害の厳しい寒さが少しでも和らぐといいのに、という作者の祈る気持ちが伝わります。

 

しまひ湯を流し晦日の蕎麦の席     悦 子

 一年が無事に終わったな、という感慨を共有できる表現ですね。

 

百段小鈴高鳴る春着の子       美千子 

春着の衣装か靴についている鈴なのでしょうか。石段を登るたびに響きわたっている、春らしい景がうかびます。

 

山茶花や今散るのみにある時間     さき子

 山茶花の落花のさまは、連続した時間の中にあり、散る瞬間を切り取ると時間は止まります。作者はあえてそう表現することで、命の一瞬一瞬のかけ替えのなさを、巧みに表現していますね。

 

しばらくは動かぬ冬の雲あやし     信 子

 周囲をみるみるうちに暗くして空を覆う雲の分厚い層が見えます。「動かぬ」と言ってから「あやし」と、心情をぶっつけた表現が効果的ですね。

 

教え子の誤字が気になる年賀状     光 友

 先生という役目ゆえでしょうか。他人の文章の誤字脱字が気になるのは常のことですが、教え子の文章となると感慨ひとしおですね。

 

 「あすか集」四月号から 感銘好句

 

折紙の鶴が折れない掘炬燵       喜代子 

 健忘症で折り方を忘れたのが自分だという句意なら、認知症の心配がありますが、下五の「掘炬燵」で家族団欒の景が浮かびます。孫に教えているのでしょうか。 

 

この日差し頂きましようと蒲団干す   き よ

 口語表現によって、爽やかな晴れの日の、その動作まで浮かぶ表現になりましたね。

 

冬の月選ばぬ道を思はざる       照 子

 下五の「思はざる」は、その前に「何故にか」がつくと「思わずにいられない」と逆の強調の意味になりますね。その雰囲気を背後に漂わせた「思はざる」ですから、ただ「思いはしなかった」という意味とは思いの深さが違ってきますね。人生の岐路で選択しなかった道、それを捨てて、この道を選んできての今がある、という深い感慨ですね。

 

松明けや幾度も廻す洗濯機       妙 子

 洗濯物が溜まってしまって、やれやれという気分ではありますが、こうして「松明けや」という季語で始まる俳句にして詠むと、日々の暮しを慈しんで生きる姿勢が感じられて、味わい深くなりますね。

 

くつろぎの名残りひととき春炬燵    よね子

 「くつろぎの名残り」という余韻のある表現が詩的ですね。下五の「春炬燵」が効いていますね。

 

箸紙に一句書き込む花便り       英 子

 いつも愛用している句帳を持参していなかったのでしょうか。ふと句想が浮かび、忘れたくないと、手元にあった「箸紙」にメモしたのですね。読者もよく経験していて共感する句でしょう。

 

菜の花や江戸川堤一色に         勲

 大きな河の日当りの良い土手に群生する菜の花は、それだけに絵になり、春の到来を感じさせますね。この「江戸川」という固有名詞の使い方は効果的ですね。

 

予報士の来るぞ来るぞと冬将軍     保 子

 桜前線、台風前線、そして寒波などの気象予報。「冬将軍」の到来の予報は、冬支度を急かされて、「来るぞ来るぞ」の口語の繰り返しが、脅されているようで、効果的な表現ですね。

 

折り雛に白酒二杯ひなまつり      美代子

 立派な段飾りの本格ひな人形ではなく、立体的に折った手作りの紙雛人形を飾って、白酒は本物を飾り、それを飲んで祝っている景が浮かびますね。その手作りの感触に温かみがありますね。

 

買い置きの焼酎きらす余寒かな     一 青

 お酒を嗜む方には共感ひとしおの句でしょうね。日々の買物リストからは何故か漏れてしまって、改めて買いに行って補充するのが酒類ですね。

 

鉄瓶の湯の和らげる寒の明け      ヒサ子

 鉄瓶の湯の沸く音に、寒気が緩んで春を迎えようとしている季節の変化を感じ取っている表現で、味わいがありますね。

 

箒売りもう来なくなり春疾風       稔

 昔は色々な行商がありました。箒売りなどもその一つですね。売り声にも味わいがありました。大型スーパーやホームセンターの全国的販売網が発達して、そういう文化が失われてゆきますね、

 

白子干薄箱運ぶ浜広し         ハルエ

 浜の広さと、白子を干す専用の箱の小さな四角形の対比表現がいいですね。

 

蠟梅や鎮魂の碑の並び立つ       満喜枝

 何かの鎮魂の記念碑。それが一つではなくいくつも並び立っているという景。それに蠟梅の花を添えた表現がいいですね。

 

吾妻嶺の暮るる間ぞ無し冬日没る    静 子

 高い嶺はその麓が日没で暗くなってしまっても、夕陽を受けて朱く染まっているのが見えているという景ですね。それを文語で「暮るる間ぞ無し」と詠んで趣がありますね。

 

薪割を伝授されし子や山笑ふ      富佐子

 薪割にはコツがあります。木材の筋目を読み、刃物が垂直にその筋目に当るようにすると、あまり力を込めて振り下ろさなくてもきれいに割れます。そのコツを習得しようと子供が懸命に習っている景ですね。下五の「山笑ふ」が効いてますね。

 

寒卵語部がゐておもむろに       幹 一

 昔ばなしか、その土地伝承に纏わる話を聞いているのですね。その語りのゆったりとした趣のある調べと、上五の「寒卵」が合っていますね。

 

青空に冬の三日月白々と        真須美

 冬の昼間の青い空に細い三日月を発見したのですね。それも思いがけないほどの白々とした光を放って、まるで鋭い刃物のような様が見えます。ちなみに、別の句で「上五」に「ふと気づく」という表現がありましたが、この句のように三日月のことを詠むだけで、そのことに「ふと気づいた」ということは伝わりますので、「ふと気づく」ということばは、俳句ではあまり使わない方がいいですね。

 

宣言とは難き言葉や桜咲く        楓

 柔らかい色の桜が咲くことを、開花宣言という漢音の硬い響きで難しくいう風潮に、作者の繊細な感性は違和感を抱いているようです。共感しますね。

 

リハビリは輪投げの遊び木の根明く   キ ミ

 リハビリが「輪投げ」遊びで、しかも屋外でやっているという爽やかな景ですね。春の到来を感じさせる季語「木の根明く」を下五に置いたのが効果的ですね。

 

春日傘たたみじわだけ光ってる     アヤメ

 春になって使い始めるまで、仕舞ってあった日傘の「たたみじわ」の先端が、日差しを受けて光っています。その一点を切り取った俳句的描写が効いていますね。

 

春塵やあふる程に点眼す        久美子

 目玉まるごと洗いたい、という気分がよく伝わる表現ですね。

 

ヒップホップさらふ少女等風光る    さち子

 「さらう」は誘拐の「さらう」ではなく、お浚いの「さらう」で、稽古をしている様ですね。「等」で複数にして、下五を「風光る」の季語にしたのが効果的ですね。

 

思い切り足裏を曝す春の芝       眞 啓

 履物を脱いで、靴下か足袋類も脱いで、温かい日差しに足裏まで曝すように、芝生の上に投げ出している爽快さが伝わります。

 

水鳥の素潜り速し空青し        しず子

 暖かくなって、生き物たちの動きが機敏になっている様を「水鳥の素潜り」に代表させて詠んだのがいいですね。下五を「水温む」などとしないで、その上に広がる「空青し」としたのが見事ですね。

 

雨戸繰る空限り無し雁帰る       新 二

 雨戸を開け広げて、暗い室内に光が溢れます。その爽快感を「空限り無し」と詠み、さらに視線を遠くさせる「雁帰る」の季語を下五に置いたのがいいですね。

 

古時計五分遅れの余寒かな       トシ子

 「五分遅れの余寒」という表現で、古時計のある落ち着いた室内の空気感まで伝わりますね。

 

鳥の来ぬ雨乞いしたき春の土       杏

 しばらく晴天が続き、春の土がカラカラに乾いてしまっていたようですね。その乾きを「鳥の来ぬ」という、ものみな枯果てたような、意外な言葉で表現して、「雨乞したき」という想いに繋げたのが見事ですね。

 

淡雪や淡き恋などあったかも      和 子

 淡雪、淡き恋とくると、俳句ではふつう、近すぎる類語の重なりになって、余りいい表現ではないことになりますが、その後を「などあったかも」と、切れ切れのおぼろな記憶の彼方へ導く表現にすると、この類語重なりが独得のリズムの表現に感じられますね。

 

春畑の何はともあれ雨の事       信 士

 春の田起しの一番の関心事を、人々が口々にそういっているような表現にして、とても味わいがありますね。

 

春の風邪今も富山の置き薬       初 生

 風邪にはどんな季節でも罹患しますが、特に「春の風邪」として、昔からあった富山の置き薬へと繋げて、独特の味わいのある表現になりましたね。

 

ぷかりぷか柚子の輪切の冬至風呂    涼 代

 柚子風呂は実をそのまま丸ごと湯に浮かべることの方が普通だろうと思いますが、「輪切の」と表現されると、特に香りが強く立ち上りますね。

 

春一番ピコピコ急かす青信号      綾 子

 このオノマトペの「ピコピコ」音を、急かされているように感じるのは、だれもが素直に共感するでしょう。上五の「春一番」の風の中にした表現も効果的ですね。

 

青空を背に無心なる土筆摘       礼 子

 土筆摘みの「無心な」ようすを、「青空を背に」と俯瞰的に捉えた表現が独創的で効果的ですね。

 

「私なら咲いてしまうわ」花三分   緑川みどり

 開花を待ちきれないでいる気持ちを、ユーモラスな口語で表現したのがいいですね。

 

日陰にも日陰のちから梅ふふむ     ひとみ

 下五の結びを古語の「ふふむ」にしたのが効果的ですね。これは花や葉が芽がつぼみのままである状態のことで、万葉集にもこう詠われています。「卯の花の咲く月立ちぬ ほととぎす来鳴きとよめよ ふふみたりとも」〈四〇六六〉「卯の花が咲く季節が巡ってきた。まだ咲いてないが、まさに咲きそうになっているので、早くホトトギスよ来て鳴いて、開花を促してくれよ」という歌意ですね。「とよめよ」は「響もす」の命令形で、響きわたらせよ、ということですね。ひとみさんのこの句では、開花を促しているのは「日陰にもある光の力」と詠まれていて、視点が独創的ですね。

 

夜の雪静かに積もる外環道       都 子

 冬の静かな積雪のさまを、意外な「外環道」という環状線の道路の景にして、都会の夜景を浮かびあがらせたのが独創的ですね。屋根に雪を積もらせながら走る車の群れまで見えます。

 

耕運機擦れ違う町春動く         栄

 耕作地の多い町にお住まいのようですね。春耕の土の匂いを纏った耕運機の活動で、春の到来を感じる。下五の「春動く」がいいですね。

 

福寿草足湯に並ぶ膝小僧        けい子

 上五に「福寿草」の季語を置いてから、足湯に並ぶ膝小僧へのズームアップの表現がいいですね。のどかな春の空気が伝わります。

 

花巡りカメラを持たぬ気軽さよ     邦 彦

 なんでも手軽に写真に記録できるようになって、記憶の方がおろそかになりがちな現代人。それを手放してみると、意外な気軽さに気がついたという発見ですね。周りがよく見えるようになったことでしょう。

 

雪しまき学童の列黙として        巌

 春の到来の遅い地域でしょうか。みんなが俯いて黙々と歩く姿に厳しさを感じる句ですね。

 

妣好む呉須の絵皿に恵方巻       久 子

 「呉須」は磁器の染め付けに用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色または紫青色に発色します。天然に産した中国の地方名から生まれた日本名で、現在では合成呉須が広く用いられています。有田焼に使われていますね。有田での合成呉須の起源は、中国・イスラム圏から天然呉須を輸入していましたが、非常に高価だったので、明治三(一八七〇)年、深海平左衛門が、「呉須」の製法に詳しいゴットフリード・ワグネル氏を有田に招聘して学び、安価で発色の良い合成呉須が有田で使用されたのが始まりだそうです。

 この句は亡き母の愛用の皿の柄だったようですね。恵方巻とも馴染んで詩情がありますね。

 

うすみどりはいのちの色よ雛あられ   たか子

 この若葉の萌える色は、命のそのもの色なんだと、という発見の感慨ですね。子どもの景と相性のいい「雛あられ」を下五に置いたのも効果的ですね。

 

来年を約束かはす雛の指        民 枝 

 雛人形を仕舞っているときの一コマでしょうか。またのお目見えは来年。そんな愛おしむような思いと所作が、「指」の体言止めにした表現で伝わりますね。

 

 

 

 

 

 

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野木メソッドによる「あすか」誌四月号作品の鑑賞と批評 

2024-04-21 11:54:26 | あすか塾 2024年

 

野木メソッドによる「あすか」誌四月号作品の鑑賞と批評 

 

 野木桃花主宰 四月号「青き踏む」から

 

奔放に生きたる証し臥竜梅

 臥龍梅(がりゅうぱい)は龍が這っている姿に似ていることから名づけられたとされる梅の木のことですね。その姿に奔放さを感じ入っている句ですね。ひるがえって、人間の不自由さへの想いが滲みますね。

春の雪少女はいつも夢に生く

 この句も言われていない、反対の想いが滲む表現ですね。いつまでも夢見る少女のようでありたかったという思いが投影されているように感じる句ですね。大人になると社会がそれを許さないのです。

老松の根のさびさびと春しぐれ

 「さびさびと」がいいですね。日本人だけが理解するワビ・サビの世界ですね。

初音聴く段段畑発光す

 「発光す」という大胆な言い切りがいいですね。春の野の光が溢れます。

 

 「風韻集」四月号から 感銘秀句

 

宿題を釣瓶落としの一日終ふ      高橋 光友

 なぜか宿題は後回しにしてしまい、時間的に追い詰められてした経験が誰にもあるでしょう。それを季節の落日の速さにかけた表現ですね。

冬凪を割りロシア語の貨物船      高橋みどり

 横浜港は国際港ですから多国籍の船が往来する景が日常的に見られますね。でも時節がら、「ロシア」には特別な想いが去来しますね。それをそう言わずにそっと・・・。

青き踏む童の踊り山間に        服部一燈子

 色んな音が響きわたりやすい山間の村落の景が浮かびますね。元気な子供たちの、
祭の踊の音でしょうか。のどかな響きが伝わります。

足裏にやさしき銀杏落葉かな      丸笠芙美子

 銀杏落葉は厚く嵩があるので、踏んだとき独得の感触が足裏に伝わりますね。その感覚を「やさしい」と感じた繊細な表現ですね。

冬温しやはらかになる受け答へ     宮坂 市子

 温かい冬の陽射しで、自分を含めた人々の会話が「やはらかに」感じたという表現がいいですね。

冬うらら磴に躓く鴉かな        村上チヨ子

 思わず微笑んでしまう、動物のちょっとしたしぐさを切り取って、何かあたたかい 

気持ちになりますね。

人波を熊手のし行く神の道       柳沢 初子

 酉の市で買った飾熊手でしょうか。「のし歩く」ではなく「のし行く」という表現もいいですが、下五を「参道」ではなく「神の道」としたのも効果的ですね。

日脚伸ぶ背ナに虹帯び鳩の群      矢野 忠男

 「背ナ」というと歌謡曲の「背なに満月 さげをのたすき」という小粋な歌詞を想起しますが、この鳩たちが背負っているのが「虹」という色彩表現が独創的ですね。

煙草ならバット所望の雪女       山尾かづひろ

 作者は失われゆく日本の風俗を掘り起こすような句作りをされている方ですが、この「バット」は紙巻煙草の最初に発売され、ロングセラーとなった、値段が安い庶民の煙草である「ゴールデンバット」の略称ですね。それをこの句では「雪女」に吸わせる表現で、この雪女が安酒場にいるような景が浮かんできますね。

真青なる空が一枚お正月        吉野 糸子

 「空が一枚」に見えるのは雲一つない穏やかな天候のときでしょう。下五「お正月」で読者は納得させられますね。

陶の里足元太く冬の虹         磯部のりこ

 間近に見えた虹を「足元太く」と表現して独創的ですね。陶器作りの町らしい空気感が表現されていますね。

吾亦紅出会ひし人は皆わが師      稲葉 晶子

 自尊、尊大になることを慎んで、敬虔な学びの姿勢で日々を生きてきた方でなければ詠めない句ですね。上五の「吾亦紅」が効いていますね。

春節の街のランタン膨れ出す      大本 典子

 「春節」「ランタン」というと横浜の中華街界隈の景が浮かびますね。「春節」は中国・中華圏における旧暦の正月ですね。中華圏では最も重要とされる祝祭日で、新暦の正月に比べ盛大に祝賀されます。それを「膨れ出す」と独創的に表現されました。

街路樹は冬の深さを知らしめる     大澤 游子 

 「冬の深さを知らしめる」という感じ方は、日本詩歌精神で、例えば「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞおどろかれぬる」というように自然が「教えてくれる」という感性ですね。この句は街路樹の色の移ろいにそれを感受している表現ですね。 

最後の日捲り今年の終る音       大本  尚

 十二月三十一日のカレンダーを捲って外すとき、ああ、今年も終わったなという思いに誰もがなりますね。それを「今年の終る音」とした表現が俳句的で普遍的ですね。

踏むための落葉を求め山暮色      奥村 安代

 上五を「踏むための」としたのが独創的ですね。この季節ならではの、あの音、あの感触、あの感触を満喫したくて・・・という想いが共感を誘います。

餅搗の音にも潔よき若さ        風見 照夫

「潔よき若さ」という表現がいいですね。子どもや年配者の杵の音とは、切れと響がちがうことでしょう。美味しい餅が搗きあがる景が浮かびます。

通船の水脈立ちあがる寒夕焼      加藤  健

「水脈立ち上る」という表現が独創的ですね。冬の夕焼に煌めいている景が見えます。

凍空やクルスを秘する鬼瓦       金井 玲子

 長崎、天草の諸島部で見かける「潜伏切支丹」の秘め十字を想起する句ですね。上五の「凍空や」がその当時の世相の厳しさに想いを寄せているようですね。

名刺受畏まりをり屏風横        近藤 悦子

 初出の句会でも好句に選ばれた句ですね。厳かな催しの最初の「顔」となる受付係を担った人の緊張感まで伝わる表現ですね。

笑み零す祖父の遺影や白障子      坂本美千子

 この句の良さは下五を「白障子」としたことに尽きますね。上五の「笑み零す」から「遺影」の映像に接続し、「白障子」で仏間のある和室のような空間性への導きが効いていますね。

手捻りのぐい飲みいびつ冬ぬくし    鴫原さき子

 この句も初出の句会で好評だった句ですね。そのちょっとした歪みに、温かみを感じますね。

ひよつとこの加はる里の初神楽     摂待 信子

 「ひよつとこ」から句を始めたことで、初神楽という伝統を大切にしている集落の活気ある雰囲気が伝わりますね。

 

 「あすか集」四月号から 感銘好句

 

早過ぎる春一番や地球病む       柏木喜代子

 近年、季節の進行が乱れていますね。今年は早々と春一番が吹きましたが、桜の

開花は遅れました。「地球が病んでいる」とみんな思うようになるほど深刻化しましたね。

子等去りてチョークの線路冬の月    金子 きよ

 昔は路地などでよく見かけた景ですが、近年はあまり見かけなくなりました。何かほっとするような景ですね。すぐ念頭に浮かぶのが少子化問題ですね。

空つ風ブルカと見紛ふ女あり      木佐美照子

 ブルカはテント状の布で全身を覆い、イスラム教徒の女性が肌を他人に見せないようにし、女性の性的魅力を覆い控えめな見た目にして、性被害を避けることが目的だといいます。異文化の風習については、他国の者が軽々に云々はできませんが、アフガニスタンなどで行われている露骨な女性差別への批判の気持ちを背景に感じる句ですね。上五の「空つ風」の措辞にそれを感じますね。

裸木の纏ふ電飾異郷めく        城戸 妙子

 商業地区で見かける景ですが、「異郷めく」という作者の感慨を素直に受入れていると解するか、少し批判的な気持ちを汲み取るかは、それぞれでしょうね。

山吹の黄の弧を描き空き地かな     久住よね子

 中七まで読んだ段階では山吹の幹のしなりを「弧」と表現しているのだと思いますが、下五の「空き地」で、地を埋めつくしている「弧」状の表現だと解り、壮観ですね。

餅花や毬ふくよかに混みあへる     紺野 英子

 木の枝状の飾りの餅花の景ですね。「毬ふくよかに混みあへる」のやわらなか表現がいいですね。

寒月や月の兎もふるえてる       齋藤  勲

 メルヘンの世界を模して、冬の寒気をユーモラスに表現した句ですね。

山茶花の記憶遠くに揺れてをり     齋藤 保子

 山茶花、記憶、とくると、童謡の一節が浮かびます。山茶花には人それぞれの遠い記憶を呼び覚ますようなところがありますね。

犬ふぐりエンドロールに名の小さき   須賀美代子

 季語の「犬ふぐり」の、路傍の目立たぬさまと、映画などの配役名と俳優名のエンドロールに見つけた名前の小ささを取合せて、多数の脇役の中の一人の存在を噛みしめている、味わい深い表現ですね。

初夢に妻との会話まざまざと      須貝 一青

 愛妻に先立たれた寂しさがひしひしと伝わる表現ですね。

寒厳し番地変りて通り雨        鈴木 ヒサ子

 全国的に行政上の理由で地名や番地が唐突に変わることがあります。そのことへの居心地の悪さを、下五の「通り雨」で巧みに表現された句ですね。

節分会妻は太巻き二本買ふ       鈴木  稔

 節分会の太巻きは恵方巻のことでしょう。「節分の夜に、恵方に向かって願い事を思い浮かべながら丸かじりし、言葉を発せずに最後まで食べきると願い事がかなう」とされていますが、その謂れはよく解っていません。「目を閉じて食べる」、あるいは「笑いながら食べる」という場合もあり、様々です。近畿地方の表現である「丸かぶり」という言葉から、元々は商売繁盛や家内安全を願うものではなかったのではないかとも言われています。この句の作者は二本の太巻きを夫婦で食べているようです。

水仙に元気を貰ふ余生かな       砂川ハルエ

 なにも水仙でなくてもいいのでしょう。今を余生と思う心の余裕と、何にでも感謝の気持ちで日々を見詰めて暮らしている作者の心構えに共感します。

白菜を割りて輝く朝 かな       関澤満喜枝

 大きな白菜を縦斬りにばっさりと。中心に向かって黄色の鮮やかなグラデーション。それを下五の「朝かな」で受けて、力のある表現ですね。

一月の温き日差しや七千歩       高野 静子

 健康のためのウォーキングで、一日の推奨歩数は六千歩以上といわれていますね。具体的な歩数を詠みこんだのが効果的ですね。一月の寒気の中というものいいですね。

どんと焼燃えて火の色空の色      高橋富佐子

「燃えて火の色空の色」というリズムがいいですね。炎の揺らめきと、その上の空の青さを感じさせる表現ですね。

霜強し鋼の音す山の水         滝浦 幹一

 液体を金属の「鋼」の直喩で表現して寒気が伝わりますね。

小春日の座り心地や車椅子       忠内真須美

 車椅子生活の不自由さの表現ではなく、日溜りでの居心地の良さの表現で、読者までほっこりとした気持ちになります。

臆病な猫のテリトリー犬ふぐり     立澤  楓

 攻めタイプではなく、引っ込み思案の猫ちゃんのようです。自己投影の表現でもあるのでしょうか。下五の地味な「犬ふぐり」の季語も効いていますね。

又ひとつさよならの影春の夜      千田アヤメ

 「又ひとつ」ですから、離別の体験が重なっているようですね。うららかな春だというのに・・・という喪失感が伝わります。

山茶花や蕾のままに啄まれ       坪井久美子

 作者の繊細な感受性が光る句ですね。

ひこばえの細きに未来八幡宮      中坪さち子

 伐られた大樹の根本の、まだ細い新芽。そのたよりないさまに、作者は逆に「未来」を感じているのですね。下五を「八幡宮」という祈りの場所にしたのが効果的ですね。 

湯煙や黒酢あんかけ春野菜       成田 眞啓

 湯煙ですから、温泉旅館で出された料理のひとつでしょうか。甘味のある酸味と羽歯ごたえ、そして湯の香り。取合せがいいですね。

柚子風呂や女はここでもかしましい   西島しず子

 いろんな状況のお風呂が想像されますが、「ここでも」という場所の表現を「柚子風呂」という冬至という季節の中に置いたのが効果的ですね。楽しそうです。

日だまりに笑顔ピチピチ成人式     沼倉 新二 

 肌などの若々しいさまを「ピチピチ」と、よく表現しますが、この句は成人の笑顔全体の表現にしたのが独創的ですね。

冬うらら葉擦れ清しき小径かな     乗松トシ子

「葉擦れ清しき小径」という表現自身が、清々しくていいですね。

団地の端庭一株の野水仙        浜野  杏 

 団地の庭には共有地か、その庭に面している一階の専有地か、いろいろあるようですが、この句はそのどちらかですね。いずれにしても狭い庭ですね。そこに春いちばんに野水仙が自生しているのを見つけたという景ですね。小さな春の発見ですね。 

画面より字面が好きで日なたぼこ    林  和子

 漢字では似た「画面」と「字面」ですが、読むと「がめん」と「じづら」で、最初は画像、後の方は書物のページのことですね。日なたぼこをしながら読書している人が見えます。本が読まれなくなっているご時世、共感する句ですね。

繕わぬ垣根の穴や石蕗の花       平野 信士

 「繕わぬ」は無精で放置している状態かなと思ったら、その前にひつそりと咲く「石蕗の花」のために、敢えてそうしているのだということが想像されて、詩情がありますね。

初電話一年分のおしやべりす      曲尾 初生

 女性はおしゃべりすると幸せホルモンが出るそうで、男性には出ないそうです。だから女性は長電話は快楽、楽しみの一つなのですね。年の初めを詠んだ句ですから、今年もずっとそうだよね、という想いも伝わります。

初雪やうたげのやうに舞ひて消ゆ    幕田 涼代

 「うたげのやうに」をひらがな書きにして、舞い散る姿を造形した表現ですね。優雅な祝祭的気分が伝わります。

夕さりの玄関前の石蕗明かり      増田 綾子

辺りが昏くなってきた夕刻、まるで玄関前だけ灯が点っているように、という表現ですね。「石蕗明かり」という表現はよく見かけますが、玄関前にしたのがいいですね。

深々と辞儀し起業の初出社       水村 礼子

 新年と同時に何か新しい仕事を始められたようです。何か晴れやかな出陣式のような空気感が伝わりますね。

春の雲童話の世界に遊びけり      緑川みどり

 春の雲を擬人化して童話の世界に遊ばせたのが愉しいですね。

雨戸引く音残る闇寒に入る       村田ひとみ

 この余韻の表現は巧みですね。寒気と闇の深さが伝わります。

凍てかへる崩れた街の欠片まで     望月 都子

 同時に投稿されている他の句で、この句も能登震災を詠まれたのだと推測できますが、「街の欠片」というズームアップが鮮烈ですね。

ミルフィーユ三寒四温の服選び     保田  栄

 洋菓子のミルフィーユ(mille-feuille)を直訳すると「千の葉」という意味で、何層もの生地や素材を重ねて作ることを表現したことばですね。「三寒四温」も気候の重なりで、それを、あれこれと服選びをしているさまを表現したのが巧みですね。

ガード下なべておでんの屋台かな    安蔵けい子

 電車のガード下を煉瓦造りのアーチ型の土台にして、その空間を店舗などとして利用し始めたのはドイツ発祥だそうです。山の手線のガード下にはそんな店舗がたくさんありますね。この句ではしかもその店にはおでん屋が多いと詠まれていて、なるほどと思いました。

立春の畑は獸の宴痕          内城 邦彦

 農業者にとっては困った食害の景ですが、それを「獸の宴痕」と表現したのが巧みですね。その双方の想いが交錯する句ですね。

着膨れてバスの座席を二つ占め     大谷  巌

 そういう人を見かけますね。この句はそれが自分自身であるかのように詠まれていてユーモラスですね。

冬日和一夜寝かせし稿を読む      大竹 久子

 まるで漬物か、パンなどの生地のように、自然発酵を待っているかのように詠んで、詩情がありますね。

しんしんと凍てじんじんと能登の闇   小川たか子

 しんしんと冷え込み悴んで、じんじんと心に沁みて、悼みの心が深まります。

夫まとふ薬酒のかをり寒明くる     小澤 民枝

「夫まとふ」という表現に、作者の愛情の細やかさを感じる句ですね。夫の健康を祈り、供に迎える寒明けの季節を生きてゆこうという気持ちが伝わります。

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あすか塾 野木メソッドによる「あすか」誌2024年3月号作品の鑑賞と批評 

2024-03-17 16:20:56 | あすか塾 2024年

     野木メソッドによる「あすか」誌三月号作品の鑑賞と批評 

 

 野木桃花主宰「淡雪」三月号から

被災地へ寒九の水を自衛官

「寒九の水」は晩冬の季語「寒の水」の子季語で、その冷たさ極まった様子から、神秘的な力があると信じられています。掲句は自衛隊による被災地への緊急給水支援を詠んだと思われますが、「寒九の水」と詠まれて特別な思いが籠った表現になっていますね。下五も自衛隊と複数名詞にしないで「自衛官」と、隊員の姿が浮かぶ表現になっていて心に沁みますね。

母の忌や一手間かけて煮大根

 亡母への思慕の情の籠る句ですが、「一手間かけて」にその思いのすべてが託されていますね。

寒月をしばし見上げる「SLIM」かな

 無事に着陸に成功した小型月着陸実証機「SLIM(Smart Lander for Investigating Moon)」は、その軽量化技術で将来の太陽系探査の要求に応えることができるようになったそうです。語の「寒月」で果敢にそんな最新ニュースを詠みこまれました。まさに時代が変ろうとしています。

日を宿す民話の里や木の根明く

 「日を宿す」の「日」は陽光の「日」と、歳月の「日」の両方にかかる表現ともとれますね。伝統のある牧歌的な暖かな響きを感じる句ですね。

 

 「風韻集」から 感銘秀句

木箱ごとりんご購ふ道の駅       摂待 信子

 上五、中七の内容は大家族らしい人たちの購買活動として見かける景ですが、下五の「道の駅」で別の風情が立ち上ります。きっと林檎の名産地に近い道の駅なのだろうと、その賑わいまで感じる句ですね。

 

木の葉髪ホテルに豪華な化粧室     高橋 光友

「木の葉髪」は初冬の季語で、夏の紫外線や暑さで髪が荒れて、晩秋から初冬にかけて抜け毛が多くなることを、木の葉が落ちるのにたとえた表現ですね。自分のすこし荒れた髪を、ホテルの豪華な化粧室の中に見出している対比が独創的ですね。

おもかげを拾ひ集めて初鏡       高橋みどり

初鏡は新年の季語で、子季語に初化粧、化粧初があります。新年になって初めて鏡に向かって化粧すること、またはその鏡のことですね。映している自分の容姿に、よく似た母の面影を見出しているということでしょうか。「拾ひ集めて」に独特の詩情と余韻が立ち上る表現ですね。

初詣麒麟が来ると告げる朝       服部一燈子

「麒麟」は架空の瑞獣の中の一つですね。古事記や日本書紀にも記載があり、年号にも取り込まれています。今年はいい年になって欲しいとの古代中国、日本の人々の願いが込められているのですね。特に「麒麟」は仁の心を持つ君主が生まれると姿を現す一角の霊獣とされていて、いかなる命も傷つけない瑞獣とされています。NHKの大河ドラマで「麒麟が来る」という大河ドラマがありましたね。

冴ゆる月眉に影置く観世音       丸笠芙美子

 「観世音」は世の人々の声を観じて、その苦悩から救済する菩薩で、人々の姿に応じて大慈悲を行い千変万化の相となるとされています。「眉に影置く」という表現は、観世音菩薩の弓なりの美眉の表現であると同時に、作者のどこか翳りを含んだ思いの投影でしょうか。

歯応へは無言のことば茸めし      宮坂 市子

 嚙んだときに感じる「歯応へ」に、茸の「声」ではなく、もう一歩踏み込んだ、その意味である「ことば」を聴いたという感慨を抱かれた表現で、味わいがありますね。

渡し船へママチャリ急ぐ秋夕焼     村上チヨ子
 夕焼に染まる港の、いろんな景が想像される句ですね。島か狭い海峡の港で、自転車ごと乗り込んで対岸に運んでくれる渡し船があるのでしょう。「ママチャリ」と特定したことで、買物帰りの自転車の籠の中に入っている食材の荷物まで想像されます。

渋面のゴリラごろりと秋思かな     柳沢 初子

中七の「ゴリラごろりと」の音韻が愉快ですね。しかし下五で「秋思」ときて、作者の憂いが投影されている表現に意外性がありますね。ご気楽そうなゴリラが、もの思いにふけっているかのようです。

五分粥の全粥となり七日粥       矢野 忠男

 作者は正月を挟んで年末年始を入院生活で過ごされたようです。投句されている五句にすべてその生活のさまを詠みこまれました。「七日粥」は人日の節句(毎年一月七日)の朝に今年の無病息災を願って食べるものですが、手術後の恢復の過程を詠み込んで、辿り着いた「七日」と詠まれて、読者もご恢復を祈る気持ちになります。

縄地蔵目は巻かれずに花八ツ手     山尾かづひろ

 「縄地蔵」は人々の心身の苦しみの身代わりとなるという信仰の地蔵尊のひとつで、「縄解地蔵尊」ともいいます。その信仰によって罪ある者さえ解放されたと言い伝えられています。全身を縄でぐるぐる卷にされた姿が多いのですが、作者が見た地蔵尊は「目は巻かれず」にいたのでしょうか。その土地柄が出ていますね。初冬、小さくて細かい黄白色の花を鞠状につける「花八ツ手」との取り合わせが絶妙ですね。

錦秋に映えて高々時計台        吉野 糸子

 「錦秋」は紅葉が錦の織物のように美しい秋という季語で、鮮やかな色彩を持つ季語ですね。それを高い塔で孤独にひたすら時を刻む「時計台」と取合せて、秋の深まりゆく空気感を表現しましたね。

亡き夫の渡りし影か秋の虹       磯部のりこ

 文句なしに胸にぐっと迫った句でした。その深い喪失の悲しみの永い時を経て、このような俳句を詠めるようになられたことに、逆に読者が励まされます。

思ひ出を編み直しては子のセーター   稲葉 晶子
 
「編み直し」に、素材という「もの」を大切にする日本の文化の伝統と、親子の間に共有される、過ぎ行く「時間」の「編み直し」を感じさせる表現ですね。

大冬木走り根しかと揺るぎなし     大本 典子

 大樹の「走り根」の大地をしっかり掴んだ風情が目に浮かびますね。もう一つの、

燃ゆるもの内に秘めたる冬木の芽」も印象に残る句でした。二句とも自然の命の営みの力強さを感じました。

産土は日の本の臍空つ風        大澤 游子   

日本列島の「臍」候補に名を連ねている場所は、栃木県佐野市、山梨県韮崎市、長野県辰野町、岐阜県関市、群馬県渋川市、兵庫県西脇町があります。「空つ風」で有名な場所となると、その名物のひとつとして数えられている群馬県のことでしょうか。『赤城おろし』とも呼ばれ、「かかあ天下とからつ風(女性が働き者であること、からつ風が吹くことが群馬名物)」という言葉はとても有名ですね。群馬県が作者の生れ故郷か、現在のお住まいなのでしょうか。こういう地域愛の表現もあるのですね。

大枯木広げし先にある未来       大本  尚

 落葉した枯木はその枝先に芽吹く命を育んでいます。それを枝先ということばを省略した俳句の技法で「広げし先にある未来」と詠んで、詩情がありますね。

音を編む木の葉時雨の切り通し     奥村 安代

 切り通しのそそり立つ壁面の上に葉が茂って道を覆っているような景が目に浮かびます。雨音の音響のトンネルを進んでいくような感じですね。樹々を主語にして「音を編む」と擬人化したのが効果的ですね。

師の逝きて山茶花の白際立てり     風見 照夫

 師事した尊敬する方への哀悼句ですね。自分の喪失感や悲しみなどの感慨を直接的な言葉にしないで、「山茶花」の白色に託して、これぞ俳句という詩情が立ち上りますね。

隼の瑞雲の空飛びゆけり        加藤  健

「瑞雲」とは雲が赤や緑など虹のように彩られる雲で、幸運の予兆として昔から縁起がいいものとされています。それを上五で「隼の」として、下五で「飛びゆけり」と表現して、爽やかで力強い飛翔感を感じさせますね。

餅花や大きく小さく指の跡       金井 玲子

「餅花」は日本の一部地域で正月とくに小正月に、木の小枝に小さく切ったや団子をさして飾るものですね。東日本では「繭玉」の形にする地域が多いようです。一年の五穀豊穣を祈願する予祝の意味をもつとされます。掲句は家族で作ったのでしょうか。大人と子供の指の跡が残っていることを詠んで、その景が浮かびますね。

厨ごと甘辛くして金目鯛        近藤 悦子

 必要最小限のことばによる、俳句的な省略表現ですが、物語性のある景が目に浮かぶ表現ですね。厨に立ち込める香りが感じられますね。他の「亡夫のセーター背にかけちよいと小買物」もいい句ですね。

晴か雨下駄に委ねる神の留守      坂本美千子

 下駄を足先から放って着地したときの表裏で明日の天気を占う昭和の遊びの景ですが、下五の「神の留守」と取合せたことで味わい深くなりますね。

火口湖の霧の器になる速さ       鴫原さき子

 火口湖の擂鉢状の斜面に霧が流れ込んでゆく様が目に見えるような句ですね。

 

 「あすか集」から 感銘秀句

次世代の味のずらりとお元日      小澤 民枝

 世代の違う人の手による正月料理の違いに、時代の変化をつくづく感じ入っている思いが素直に伝わる句ですね。

忘年会まんまる月と帰宅せり      柏木喜代子

 「まんまる」をひらがなにしたのがいいですね。楽しい忘年会の帰りのようです。充実感と開放感のある句ですね。

露の世や迷ひ戸惑いひ二人連れ     金子 きよ

 「迷ひ戸惑ひ」と大きな悩みと日常の小さな戸惑いをリズミカルに詠みこんで、夫婦で過ごした来し方を、充実感をもって振り返っているようですね。

納豆の箸折るるほど糸引かせ      木佐美照子

 納豆は三冬の季語で、関東が主流の糸引き納豆と、大徳寺納豆に代表される塩辛納豆(乾燥した納豆)の二種類があります。掲句はもちろん関東系の納豆ですね。強度のある箸でないと折れる場合があります。割箸ではすぐ折れてしまいます。楽し気な食卓が目に浮かびます。

夢一つ持ちて幾歳石蕗の花       城戸 妙子
 若い頃はたくさんの夢があったりしますが、掲句は最初から一つに絞り込んで生きてきた、という強い意志を感じさせる表現ですね。下五に鮮やかな黄色に一際存在感がある「石蕗の花」を置いて取合せたのがいいですね。

鵙猛る指に刺したる棘深し       齋藤 保子

「鵙猛る」は三秋の季語「鵙」の子季語ですね。掲句はその高音に、自分の指に刺さった棘の痛みを取合せて効果的ですね。別の三秋の季語「鵙の贄」の、鵙が昆虫や蛙、蛇、鼠などを捕らえて尖った木の枝や有刺鉄線などに刺して蓄える習性のことが背景に連想され、癒えない心の痛みの暗喩のようにも感じられますね。

雪嶺や太古の魚の深ねむり       須賀美代子

 二通りの鑑賞法が浮かびました。一つは雪嶺の斜面に魚の形を見出している感慨、もう一つは雪を被っている眼前の山は、海底の隆起によってできたもので、そこに何億年も前の魚の化石を抱いて眠っているのだという感慨です。どちらに解しても味わい深い句ですね。

裸木の装ひ脱ぎて仁王立ち       高野 静子

 裸木の幹の隆々たるさまが、筋骨隆々の仁王像のように見えたという直喩が力強くていいですね。

すぐそこに深き闇持つ冬夕焼      高橋富佐子

 元旦の能登震災のことを思ってしまいますが、普遍性がある表現にしたのがいいですね。

セーターのまつさらを着て空眩し    滝浦 幹一

 真っ新のセーターと空の眩しさは、本来は無関係ですが、このように俳句で表現すると、心の状態まで真っ新になったような詩情が立ち上りますね。

初冬や会話のできぬ夫と居る      忠内真須美

 幾通りかの鑑賞が可能な表現ですね。「会話のできぬ」状態の病を得られた夫と厳しい冬を過ごされている情況のようですが、突然、そうなられたのか、もう何度目かの冬をそうして乗り越えられようとしているのか。深刻な情況ながら、それを介護される作者の静かで強い意志を感じる句ですね。

寒鯉の群れて力を溜めてをり      立澤  楓

 一尾では力というものを特には感じない鯉ですが、集団となって形成される力というものがある、という感慨は一つの発見でもありますね。

亡き夫の笑顔麨に噎せおれば      丹治 キミ

 麨(麦こがし)は、季語辞典では「はったい」とひらがな表記にされていて、三夏の季語と定義されています。新麦を炒って焦がし、粉に碾いたもので、砂糖を混ぜ、水や湯を加えて練って食べます。落雁や饅頭など、和菓子の材料になります。掲句の噎せて笑ったとき、亡き夫の笑顔が浮かんだという表現が独創的で心に沁みますね。

年の瀬の黒豆だけはマイペース     千田アヤメ

 お正月料理はどれも手間暇のかかるものですが、特に黒豆は時間のかかる食べ物でしょうか。そのことに自分の生き方を投影して許している感じがいいですね。

ロボットの手も借り神社の煤払     中坪さち子

 神社の煤払にまでロボットが働く時代になったのですね。どんなアームとハタキが付いているのか、違和感を通り越して愉快です。

熱燗や夫婦無口になるばかり      成田 眞啓

 仲が悪いための無口ではなく、お互い気の置けない、すべてを許し合った熟年夫婦の雰囲気を感じる温かい句ですね。

船乗りの祖父はセーター編んだと言ふ  西島しず子

 航海に時間のかかる遠洋船の船員だったのでしょうか。船員は持て余すほどの時間を使ってセーターを編んだのでしょう。

ひそと咲き花とも見えぬ寒葵      沼倉 新二 

寒葵は茎が短く地面に這うような植物ですね。花期は秋季で地面に接して咲きますが、花のように見えるのは花弁ではなく三枚の萼片なのですね。小さい筒型で地味な黄色です。作者はその目立たない姿に逆に趣を感じ魅かれているようです。

枯園に寂と響ける鹿おどし       乗松トシ子

 掲句の鹿おどしは、カンと響きわたるような音ではなく、水を含んだ竹筒の鈍い音を立てている、古い歴史のあるものでしょうね。それを「寂と響ける」と表現して趣がありますね。

バス終点冬日を浴びし雀瓜       浜野 杏  

雀瓜は原野や水辺などに生え、果実は球形または卵形で、はじめは緑色ですが、熟すと灰白色になりますね。果実がカラスウリより小さいことからとか、果実をスズメの卵に見立てたことからとか言われていますね。掲句は鄙びた田舎のバス終点の、何かに絡んでいるような景で、詩情がありますね。

新春や違いわからず辰と龍       林  和子

 辰と龍の違いは辰が干支上での言葉で、それ以外の一般的な呼称が龍ですね。漢字表記の世界だけの違いですが、今年は何年? というとき以外はあまり気にしていないですね。まさに新春の想いなのですね。

ひよつとこは淋しがり屋か初神楽    平野 信士

 神楽は神様に奉納するために行う舞や歌で、それに登場して道化役として踊ったのがひょっとこのはじまりと考えられています。左右の目の大きさが違ったり、頬被りをしていたりします。名前の語源は、竃の火を竹筒で吹く「火男」がなまったという説や、口が徳利のようなので「非徳利」からきているという説があります。掲句はその道化師の孤独な内面に踏み込んで味わいがありますね。

ほこほこと靴底やさし落葉道      曲尾 初生

 落葉踏みの俳句で、靴底に伝わるやさしい感覚を詠んだ句にはじめて出会いました。視点が独創的ですね。

球根の花咲く頃は米寿かな       幕田 涼代

 球根植物は毎年繰り返し花を咲かせる多年草の一種で、植えっぱなしで冬越しできる品種は宿根草と言います。掲句はその花が咲くのが米寿、つまり八十八歳を迎えることを詠んでいるようで、現在はその一つ前の八十七歳ということでしょうか。ちなみに六十歳の「還暦」や七十歳の「古希」は中国から伝わりましたが、七十七歳の「喜寿」以降のお祝いは日本発祥と言われています。これからは日本式祝い歳を迎える年齢になられたということですね。

猫老いて縄張り縮小冬に入る      増田 綾子

 猫の世界にも実際にあることなのでしょうね。それを俳句で詠むと、まるで人の世の反映のような味わいが出ますね。

小正月耕人の腰鎌光る         水村 礼子

 旧暦では春ですが実質的には耕地の吹く風はまだ冷たいはずです。でも農作業をしている人がいて、その腰に刺した鎌の金属の光で、寒気を表現したのが味わい深いですね。

聴秋閣屋根に紅葉の二三枚       緑川みどり

 聴秋閣は横浜市中区の三渓園内にある建築物で、二層の楼閣風で、三渓園では臨春閣と並んで著名な建造物ですね。周りに紅葉の大樹があって、たしかに屋根に紅葉が散っていましたから、実景を素直に詠んだ句ですが「二三枚」と結んで風情がありますね。

十二月八日郵便受けに厚き文      村田ひとみ

 十二月八日はただの日付ではなく、歴史的背景を持つ特別な日でもあります。代表的なものは、やはり太宰治が小説「十二月八日」で描いたように、日本海軍の戦闘機による真珠湾攻撃に端を発する太平洋戦争勃発でしょう。この作品は「主婦の日記」の形式で記したもので、日記の筆者のモデルは美知子夫人。美知子は本作品について次のように述べています。

《長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。》 

 太宰治のみならず、大方の当時の日本人が抱いた感覚だったでしょう。それが悲惨な結末を迎える誤った道であることを見通すことは困難なのですね。

 掲句の「郵便受けに厚き文」は未開封の書状の束で、何かを訴えているような表現になっていて、味わいがありますね。

短日や欅は拳振り上げる        望月 都子

 落葉して裸木になった大欅の太い枝がまるで拳を振り上げているように感じられたようですね。それはつまり作者の心情の投影なのでしょう。何か叫びたいような理不尽なことが胸に蟠っているのでしょうか。

少年の自転車に揺れ注連飾       保田  栄

 少年が自発的な買物として、注連縄を買うことはあまりないと思いますので、買ってきてと頼まれたのでしょうか。家族の様子まで想像される温かみを感じる句ですね。

冬夕焼負けじとコキア朱をまして    安蔵けい子

 コキアの和名は、乾燥した茎を箒に使うので「ホウキギ」ですね。茎は枝分かれして球形になり、最初は緑色で後に赤くなります。掲句はそれを「冬夕焼」に負けまいとして朱になったと表現して詩的ですね。

上出来の甘夏ジャムや寒緩ぶ      内城 邦彦

 自前の甘夏ジャムつくりに挑戦されたようです。うまくできたようですね。その達成感を「寒緩ぶ」で表現して味わいがありますね。

無人駅一人降りゆく吹雪中       大谷  巌

 真冬の吹雪の厳しさを、「無人駅」「一人降りゆく」という孤独感で表現したのが効果的ですね。

冬紅葉残る一葉に宿る思慮       大竹 久子

 よくある景ですが、その残った一枚にそのように「思慮」を感じ取っているのは作者の豊な感性そのものですね。

名木の爆ぜるかに飛ぶ寒雀       小川たか子

 意外性のある表現にして、楽しませてもらえる句ですね。読者は「名木の爆ぜるかに飛ぶ」までは、名木がどうして爆ぜるのだろうと読んできます。ところが下五の「寒雀」で、たくさんの雀たちが一斉に枝から飛び立ったという、動的な景に瞬間で転換します。切れのある鮮やかな表現が効果的ですね。

 

 その他、心に残った句

初電話友はすつかり長崎弁       小澤 民枝

冬夕焼便りの絶えし友一人       城戸 妙子

味噌作り豆蒸す匂い寒の内       久住よね子

焼芋屋声と煙のコラボかな       斉藤  勲

横浜が終の住居に実万両        須貝 一青

アメ横で出し汁一椀飲む師走      鈴木ヒサ子

早足の若き僧くる年賀かな       鈴木  稔

終電へ二人疾走師走かな        砂川ハルエ

元旦や「津波にげて」に犬を抱く    関澤満喜枝

団欒の真中にありし丸火鉢       高橋富佐子

年の瀬や激しき声のひよの群      坪井久美子

 

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「あすか」誌2月号作品の鑑賞 2024年(令和6年)

2024-02-10 11:02:21 | あすか塾 2024年

             「あすか」誌2月号鑑賞 

 

 野木桃花主宰「寒卵」2月号から

 

早起きの夫の咳き根深汁

 リズム正しく生活されているご様子が見えるような句ですね。新聞でも読みながら咳をされたことを聞き逃さず、風邪でも引いたのかなと細やか気遣いをされている心の動きを、そうとは言わず下五の「根深汁」に象徴された表現ですね。

 

門松の風に直立夜の雨

 まるで門松が黙禱するかのように佇んでいるような表現ですね。そのように解釈する必要はないのですが、この句の前に「元旦の眼を覆ふ能登の地震」「全身の細りゆく地震大地凍つ」の二句がありますので、その哀悼の意の流れで読んでしまいます。

 

歳月の重みを負うて年男

 お連れ合いが今年の年男なのでしょうか。今年は辰年ですから、昭和二七年(一九五二年)生れの七二歳か、昭和十五年(一九四〇年)生れの八四歳でしょうか。それだけでも充分な「歳月の重み」を背負われたお歳ですが、「年男」はその年の神様の真意を代行する大切な役目を負う年ですね。

 

手のひらにいのち息づく寒卵

 寒中に生れた寒卵自身に、他の季節のものに比べて栄養素を多く含む滋養があることの意味があり、まさに「いのち」が息づいていますね。上五の「手のひらに」で、命の尊さを慈しむような響きがある句ですね。

 

悴みて古典繙く宇治十帖

 今年のNHKの大河ドラマは『源氏物語』の作者、紫式部がモデルのドラマですね。

 「宇治十帖」は、『源氏物語』の最末尾にあたる第三部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖のことで、宇治を主要な舞台とした話の展開で、それまでと異なる点が多く、別作者(紫式部の娘など)説もある、特別な「帖」ですね。主人公の内省的な姿の表現もあり、特に読者に好まれている「帖」ですね。それを新年早々に「悴む手」でページをめくられている姿が目に浮かびます。

 

 「風韻集」から 感銘秀句

 

改札を出てそれぞれの秋の暮       さき子

 起点を「改札」にしたことで、そこを通過する人たちが、それぞれ背負う来歴が思われますね。

 

バス停の椅子は切株雁渡し        信 子

 自然豊かな地方の景が目に浮かびます。下五の「雁渡し」の季語もいいですね。

 

満天星紅葉「ボンジーヤ」と受講生    光 友

 「満天星紅葉(どうだんもみじ)」は初秋の季語で、「ドウダン」は灯台の転訛で枝の分かれ方が灯台の脚に似ていることに由来します。この灯台のイメージと、「ボンジーヤ」(Bom dia:おはよう)というポルトガル語を取り合せて、異国からの受験生を見守る灯のような視座を表現していますね。

 

聖歌和すそれぞれ違ふ祖国の名      みどり

 民族純潔主義という閉鎖的な国家観を暗喩的に批判する思いを受け取りました。

 

風花せし十二月八日尋ね人        一燈子

 「風花」は晴天に花びらが舞うようにちらつく雪で、「十二月八日」は日本海軍が真珠湾攻撃をし、日本が米英に宣戦布告した日ですね。そして「尋ね人」。どれも当事者ではない者にとって降って沸いたような出来事の印象があることばですね。それを巧みに一句に取り込んで詠みましたね。最後の「尋ね人」にどんなドラマを想起するかは読者に委ねられています。

 

声のみの記憶なりけり十三夜       芙美子

 「十三夜」は旧暦の九月十三日~十四日の夜をいいます。十五夜が中国伝来の風習であるのに対し、十三夜は日本で始まった風習。十五夜では月の神様に豊作を願いますが、十三夜は稲作の収穫を終え、秋の収穫に感謝しながら美しい月を愛でる夜です。月はまだまん丸の満月ではありません。そのまだ満ちきっていない心象と、上五の「声のみの記憶」という措辞にドラマ性があって、いろいろ想像させる句ですね。 

 

夕づきて芒ゆらゆら花浄土        市 子

 奈良の長谷寺の紫陽花のことを想起する句ですね。長谷寺の紫陽花は二万株もあって花浄土と呼ばれています。この句は光の原のような芒の姿を、その「花浄土」のようだと詠んだ句ですね。

 

独り居の掛軸替える初秋かな       チヨ子

 茶室か、そうでなければ床の間がある和室を想起する句ですね。「独り居」の内容は読者がそれぞれ想像するところですが、掛軸の交換で夏から秋への季節の移ろいを、自分の境涯に引き付けた表現になっていますね。

 

爽やかや狛犬深く生きを吸ふ       初 子

 境内の「狛犬」の軽く口を閉じたさまを、さわやかな秋の空気を吸い込んで深呼吸しているように感じたという涼やかな句ですね。

 

柿たわわ錆を浮かべて猫車        忠 男

 柿の木の下に置かれている「猫車」。永年使い込まれていることが、「錆を浮かべて」で解りますね。伝統ある農家のワンショット。空気感も伝わりますね。

 

三山を地に置く大和秋深し        かづひろ

 中七の「地に置く大和」が荘厳でいいですね。三山とは大和三山のこと。飛鳥時代の持統天皇の頃に三山に囲まれた中心部に大極殿などの宮城が置かれていました。 
 天香久山あまのかぐやま一五二m)、畝傍山(うねびやま一九九m)耳成山(みみなしやま一四〇m)の三角形の真中に宮城があるのです。

 

炬燵にも父の座あり空けて置く      糸 子

 この句の父はもう他界されているように感じますね。こう詠むことで敬愛の情が伝わりますね。存命の父であっても同じです。

 

草ぐさの中に白花曼珠沙華        のりこ

 白い曼珠沙華はたまに見かけますが、赤いものより清楚で何か神秘性を感じますね。それを「草ぐさの中に」置いたのが効果的ですね。

 

古民家の縁先胡麻のはぜる音       晶 子

 この句でその景がピンときた人は、胡麻の収穫方法を知っている人ですね。鞘に実の入ったままの枝を天日干しにし、鞘が弾けてから実を収穫します。この句はその弾ける音に焦点をしぼって、秋を感じさせますね。

 

墓碑銘に「根性」とあり冬麗       典 子

 どういう方の墓碑銘でしょうか。現代はその言葉の持つ古風な精神論が厭がられる時代になって、時代の移ろいを感じさせる表現ですね。

 

風一陣木の葉しぐれに舞ふわらべ     游 子

 中七の「木の葉しぐれに」が素敵な表現ですね。その中で舞うように遊ぶ無邪気な子供達の姿が目に浮かびます。

 

撥を打つ津軽三味線黍嵐          尚

 「撥」の音で切れのあるリズムを生み出す津軽三味線の演奏は、厳しい風雪の景が浮かびます。この句は雪ではなく、手前の季節の「黍嵐」と取合せた表現ですね。風が強まってきて、倒れんばかりになびく黍の穂や葉先のふれ合うざわざわとした音も重なって嵐めいてくることを表わす秋の季語ですね。澄んだ秋の空気感が伝わります。

 

億年の地層あらはに水澄めり       安 代

 壮大な崖の断層の景が浮かびます。悠久の時間の推移を閉じこめた景でもあるのですね。下五に「水澄めり」を置いたのが効果的ですね。

 

満天の冬の星座や友の通夜        照 夫

 親しい友人を失くした通夜の帰り見た満天の星座が忘れられないのでしょうか。友の記憶とその星座の記憶が悠久の時に中に刻まれてゆくような、哀しみを託した表現ですね。

 

挨拶状に天寿とありぬ冬ぬくし       健

「天寿」は天から授かった寿命、自然の寿命のことで、「天寿を全うする」というように、亡くなったことを表現するときに使う言葉ですね。親しい方の逝去の書状でしょうか。下五の「冬ぬくし」の季語で、哀しみを越えた、祝福するような思いが込められているように感じる句ですね。

 

駆け込み寺白侘助の一花かな       玲 子

 近世、女房が夫から離別するために駆け込む尼寺や縁切り寺が各地にありました。そんな女性の苦難の歴史を背景に詠みこんで一輪の「白侘助」を添えた句ですね。椿より小ぶりの一重咲きの花で、半ばまでしか開かない「筒咲き」であること、また、
おしべが退化して花粉がなく、結実しないというきわだった特徴もある花で、その心象も背景に詠み込んだ表現ですね。 

 

お仕舞ひは刈田の隅を手で刈りて     悦 子

 「田仕舞」という稲作の収穫祭に繋がる直前の景を切り取って風情がありますね。中七、下五の表現に丁寧な仕事ぶりまで見えます。

 

赤とんぼ風になるまで流されて      美千子

 中七の「風になるまで」が独創的な表現の句ですね。透き折った蜻蛉の翅の軽やかな飛翔が目に浮かびます。

 

 「あすか集」感銘秀句

 

星飛びぬぶつかる音のなき孤独      たか子

 茫漠とした孤独感を、宇宙的なスケールの比喩表現で詠んだ句ですね。

 

手作りの二十個ほどの柿すだれ      喜代子

 専業農家の仕事ではなく「我が家の」という手作り感がいいですね、

 

穂紫蘇しごく水の流れにのるように    き よ

 爽やかな比喩表現が効果的ですね。穂紫蘇の香りも届きます。

 

煤払ひ古き写真に手を休め        英 子

 煤払いは他の掃除と違ってあまり頻繁にはしませんね。どこか特別感がある掃除ですね。その仕草の途中で「古き写真」に目を止めて立ち止ってしまったというストップモーションのような表現が効果的ですね。特別な記憶を呼び覚ましているようです。

地下鉄の路線図のごと柿落葉        勲

 大胆で風変りな比喩が効果的ですね。色とりどりの柿落葉の散乱するさまを、地下鉄路線図の、各線の色が違っているカラフルな路線図に喩えたのが独創的ですね。

 

冬の山太古の貝の深ねむり        美代子

 冬山を眠っているようだと詠むのは常套的ですが、それをまるで貝塚でも内蔵しているかのように「太古の貝の」としたのが、悠久の時間も取り込んで独創的ですね。

 

軒先に軍手地下足袋破芭蕉        一 青

 田畑か山仕事のような肉体労働の終りを想起させる表現ですね。下五の「破芭蕉」の季語で疲労感まで伝わる句ですね。

 

病む夫と俳句を糧に冬に入る       ヒサ子

病む夫と、それをやさしく介護する妻の親密な一コマが目に浮かびます。共通の趣味が俳句を詠むことで、俳句仲間の共感を誘う句ですね。

 

老ふたり半分こして食う蜜柑        稔

 年老いて食が細くなったという生理的な理由よりも、その仲の良さが心に残る句ですね。

 

初冬やほうとう幟立ちし甲斐       ハルエ

 山梨の方面を車で通過したとき、白地に朱か、朱の地に白抜きのひらがな文字で「ほうとう」と染め抜いた幟がはためいていたのを思い出しました。まさに「甲斐」の風景というべき幟だったのですね。

 

文化祭かがんで愛でる松盆栽       静 子

 中七の「かがんで愛でる」に、盆栽とそれを丹精こめて育てた生徒たちへの優しいまなざしが感じられる句ですね。「盆栽部」という部活があるのでしょうか。

 

渋柿やひよいと猿蟹合戦を        幹 一

 干柿作りをするのに、木の上から渋柿を捥いで下で待ち受ける人に抛っているとき、あの昔ばなしを思い出したのでしょうか。ユーモラスな句ですね。

 

朝寒やスープに添える木のスプーン    真須美

 木のスプーンが持つ温かな質感で、寒い朝の食卓にぬくもりを添えた、心も温まる句ですね。

 

小盆栽のけやきも黄葉水を打つ       楓

 なにもかもミニマルな世界の、可愛らしく美しい世界ですね。

 

六園児散歩車で秋惜しむ          杏

 四角い枠のある手押しの四輪車で、中に可愛い園児が載って、町中を「散歩」している景を見掛けます。「六園児の散歩車や」で切れて「秋惜しむ」なら秋を惜しんでいるのは第三者ですが、この句では園児たちがまるで過行く秋を惜しんでいるような表現にしたのがいいですね。

 

鍋奉行煮えた食べよと十歳児     林 和 子

 鍋奉行というと、おせっかいな大人を思い浮かべますが、この句の「鍋奉行」はなんと十歳児なのですね。ユーモラスで可愛い句ですね。

 

凩を追ひ抜いて行く救急車        信 士

 「凩を追ひ抜いて行く」が切迫感のある表現ですね。

 

すいと来て暫し影置く赤とんぼ      初 生

 中七の「暫し影置く」というひととき感がいいですね。上五の「すいと来て」という動的な表現も効果的ですね。

 

寒柝の二時間早まる皆老いて       涼 代

 「寒柝(かんたく)」は冬の夜に打ち鳴らす夜回りの拍子木、またはその音のことですね。火の用心と防犯対策の見回りで、地域コミュニティがしっかり機能している町のようです。でも町民が皆老いて、その夜回りの時間が二時間早まったという、切実さをどこかユーモラスに詠んだ句ですね。

 

北鎌倉のホームは長し秋日和     緑川みどり

 そこに永く暮らしている人でないと詠めない発見と慈しみがある句ですね。

 

冬の朝スマホに友の涙声        宮崎和子

 どんなことが親友の身の上に起きたのか想像されます。それを「スマホ」で聞いているというのに時代を感じます。

 

度だけ父の涙を冬の虹         ひとみ

 父の男泣きを見てしまった娘の心情。ひとことでは言えない哀しみを抱えているらしい父の、知らなかった側面を初めて知った娘。そこに心を動かされたのは、娘自身の成長の証でもあるでしょう。下五に「冬の虹」を置いて、美しく表現した句ですね。

 

十三夜やさしき俳句に出会ふ旅      都 子

 「十三夜」の月の、まだ満ちきっていない心象と、これから出会うだろう「やさしき俳句」表現への想いを取合せた表現ですね。

 

短日の影を濃くして転害門         栄

 「転害門」とは源頼朝を刺し殺そうとして平景清が潜んでいたという伝説のある門で、景清門ともいわれていますね。三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構です。「短日の影を濃くして」という表現が歴史的な何かを刻んでいる趣のある表現ですね。

 

青龍の元旦襲う能登地震          椿

 自然災害禍を詠むのは難しいですが、上五に「青龍」という趣のある言葉を置いたのがいいですね。中国の伝説上の神獣で、東西南北を守護する四神の一つで、東方を守護し、蒼竜とも呼ばれ古来瑞兆とされています。幸運の天之四霊とは蒼竜、朱雀、玄武、白虎のことで、青龍は春を司ります。この句はこの言葉と取り合わせることで、「こんな吉兆の年だというのに」という作者の想いが間接的に伝わります。

 

灯を消せば闇の重さよちちろ鳴く     けい子

 秋の灯が俳句で詠まれるとき、灯っている景が多いのですが、秋の「闇」の方を詠んだ視点が独創的ですね。下五を「ちちろ鳴く」にしたのが秋の空気感を呼び込んで、いいですね。「ちちろ」はその澄んだ鳴き声からの蟋蟀の別称ですね。

 

アフリカの国名諳ず日向ぼこ       邦 彦

 お孫さんかご本人が日向ぽこをしながらアフリカの国名を暗記しようとしている景でしょうか。ヨーロッパの人権無視の支配から解放されたアフリカは、泥沼のような内戦を経て、独立した国が多いですね。わたしたちの年代が覚えたころのアフリカとは、もう様子が違います。ご本人が暗誦しているのなら、その記憶の刷新のご意志に敬意を表します。

 

開拓地住む人はなし尾花満ち        巌

 国策による強引な開拓の結果の空しさを感じる句ですね。人の替わりに尾花だけが地に満ちているという表現にアイロニーを感じます。

 

みちのくの伊達の五十沢柿すだれ     久 子
「硫黄燻蒸 五十澤あんぽ柿」を名産とする「五十沢」地区ですが、原発事故の放射性物質禍に遭った地区ですね。美しい飴色の干し柿を完成されるまでの苦難の歴史の上に、文明禍の放射線被害があったことを思うと、胸に沁みます。

 

「あすか集」佳句

 

毛糸編む幸せの目を繰りながら      たか子

りんご煮るりんごに酔が回るまで     たか子

縄跳びの風にぽとりと実千両       民 枝

星満つる笑みてさざめく枯木立      照 子

アイドルは並べて丸顔秋うらら      妙 子

茅乃舎のだし巻玉子大晦日        よね子

一切経山初がすみして羽衣めく      英 子

鳥渡る別れし人の笑ふ顔         保 子

病む母に雪見障子を途中まで       美代子

煮こぼれの五徳を洗ふ小六月       ヒサ子

野仏の前垂れほつれしぐれけり       稔

茶のマフラー妻と購ふクリスマス      稔 

菰卷やおくになまりの警備員       ハルエ

秋の虹入日に溶けて登り窯        満喜枝

初霜や駆け足に鳴るランドセル      静 子

稲架掛の束を下ろして静かなる      富佐子

一人居の記憶とけだす鏡餅        キ ミ

木の実置きまずは夕餉の仕度する     アヤメ

秋さぶや少し下りし骨密度        久美子

木枯や列の乱るる登校児         さち子

裏木戸を通ればそこは石蕗明り      眞 啓

張り替えし唐紙軋む六畳間        眞 啓

背の高い御巡りさんの案山子かな     しず子

奥津城の開かずの門や冬紅葉       新 二

くつきりと板碑の梵字冬うらら      トシ子

閉店と開店の街年の暮          信 士

冬うららシャンプーの底叩くなり     信 士

浜つ子の聖歌「いいじゃん」二つ買ふ   信 士

撒き餌にボスがいるらし冬の鳩      涼 代

収穫し火の消えしごとみかんの木     綾 子

瞬にしてふるさと浮ぶ焚火の香      礼 子

センサーでともる門灯秋の暮       けい子

暮早し断り辛き長電話          邦 彦

くぬぎ道綿虫百匹連れ歩く        久 子

 

 

 

 

 

 

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