【明治期の文学者、夏目漱石の講演筆記。初出は「孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集」[実業之世界社、1915(大正4)年]。本文のはじめに「1914(大正3)年11月25日学習院輔仁会にて述」とある。将来権力と金力を手にするはずの学習院の学生を前に、漱石は「自己本位」という立脚地を得た経歴から、「個人主義」について、自己の個性の発展を望むなら他人の個性も尊重し、自己の権力や金力を使うならそれに伴う義務や責任を重んじなければならないと説く。】(Amazon)
夏目先生、若き学生たちにとても大切なことを教えてくれています。
大事なことは今も昔も変わらない。(しかも、わかりやすくて、読んでいて痛快です!)
他(西洋とか)からの機械的知識、鵜呑みではいけない。学んだ事を元に、自分で考え自分で確かめ自分で気づき、自分のものにしていく、自分で自分の人生を創っていくんだ、というような話の後・・・(以下引用です)
>権力というものを吟味してみると、権力とは先刻お話しした自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。
>権力に次ぐものは金力です。・・・・・これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。
・・・・こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。
>自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引き摺り込んでやろうという気になる。その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上がるし、また金力があると、それをふりまいて、他を自分のようなものに仕立て上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分の気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起こるのです。
>自分が他から自由を享有している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければならん
>近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。
>我々は他(ひと)が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
>金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。
>いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないということになるのです。
>もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、乱用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。
>他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する・・・朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。
>ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。・・・けれどもそんな馬鹿げたはずはけっしてありようがないのです。
国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。・・・・国家のために飯を食わせられたり、また国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。
>国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。
ひとりひとり人格・道徳心を高める努力が一番。人の自由を奪ってはいけない、押しつけてはいけない
(権力や金力を手にしている人は特に)ということですね!その通りですね!
星5つ
この本を今の権力者に読ませたいです。(笑)
>ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。・・・けれどもそんな馬鹿げたはずはけっしてありようがないのです。
国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。・・・・国家のために飯を食わせられたり、また国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。
その通り!
夏目先生はすばらしい。
今の日本は国家の為というお題目に向かっているように思います。
国家第一主義だから、福島原発に状況も国民に知らせようとはしていない。亡くなった第一原発責任者の吉田元所長の証言も遺言という名目で公開しない。
吉田所長は家族への遺言を書かれたわけではない!国に対して、国民に対して、第一原発の状況を遺言されたのです。
政府に対しての遺言ではないです。公開して国民に知らせるのが吉田所長の供養になると思います。
私も読みながら、みんな(特に権力者や金持ち)も読むといいなあと思いました。
でも、読めばいいと思う人はきっと「そんなことは分かっている!」とか「謙虚に承っておきます」とか言うんでしょうね。
大事なのは、こういうのを読んで謙虚に反省したり、自分はどうか振り返ったり、、、聞く耳があるかどうかなんですよね。
分かろうとしないのか、分かっててしようとしないのか、しようとしてもできないのか、どうなんでしょう?
人というのは難しいですね~^^;
自分のことならどうにかなると思うのですが・・・^^;