道徳が教科になり、教員に評価されることになった。
道徳は人間が幸福に生きるための一番大切なものであり、きちんと教育されるべきものであることは否定できない。
けれど、「本当の道徳」を指導できる人間が現代のこの世にどれだけいるのか・・・。「道徳とは何か」という共通の理解、しっかりした定義はなされているのだろうか。
だれかの一方的な押しつけは道徳ではない。
道徳は普遍的な真理であるべきモノだと思う。
(為政者や社会によって変わるような道徳は本当の道徳ではない)
道徳には答えがない、、、という声を聞いたことがあるが、答えのない道徳なんてものがあるんだろうか。答えのない、あいまいなモノをどうやって教えるというのか。(教科とは教える科目ってことだからね)
幸福になりたくない人間はいない。不幸になりたいんです、という人間はいない。人はみんな幸福に生きたい、、、そのための道徳です。誰一人として、不幸にしないための道徳。みんながきちんと幸福になる道を教える道徳。
答えは、お釈迦様の教えにあると思います。
>仏教の道徳とは、「原因・結果に基づく理性的な行為」のことです。
つまり、
>「未熟な行為をすると不幸になり、熟練した行為をすると幸せになる」
>「未熟な悪い行為をすれば、必ず苦しむ」
>熟練した善い行為とは、慈しみやあわれみなどの、幸せの原因をつくる行為です。欲・怒り・無知のない心でおこなうことはすべて、行為をする人と受ける人を幸せにするのです。幸せをもたらす行為が、熟練した行為なのです。
(「エイトマインドフル・ステップス ブッダが教えた幸せの実践」バンテ・H・グナラタナ著 より)
行為には身体でする行為、言葉でする行為、心でする行為があります(身口意)。
ブッダは次の十の悪行為を示されました。身体では「殺生・盗み・邪淫」、言葉では「嘘・悪口・粗暴な言葉・無駄話をすること」、心では「強い欲・強い怒り・現実の本質を間違って理解する邪見」。納得です。
指導要領には色々な内容項目が示されていますが、例えば「郷土や国を愛する態度」は「道徳」で教えるものなのか。強い欲とか、強い怒りとか、排他的な邪見を伴ってしまってはもう道徳とは言えない。変な郷土愛や愛国心(慈しみではなく執着・エゴ)が育ってしまって、おかしな行為をするようになることだってある。
しかも、だれも他人に悪い行為をやめさせることはできないのです。自分自身でやめるしかない。だから、「愛国心」という項目ひとつとっても、指導する人が「本当の道徳」を理解していなければそれは、不幸につながってしまうこともあり得るのです。
さらに、内容項目も細かくて多すぎると思う。「集団や社会との関わりに関するもの」や、「生命や自然、崇高なものとの関わり」などは社会科や理科などを学ぶ中で育てられると思います。「自分自身に関すること」も「人との関わりに関すること」も、もっと毎日の生活指導を充実させていけば、学級指導や学級活動などで育てられるし、、、まあ、学校にもっとゆとりがあって教員が「教師」として高められていればですけど。(何でも教科にしてぎゅうぎゅうにして、教員の首を絞めて悪循環に陥っているように見える)
評価も、身体と言葉の行為は見えるけど、心の行為は見えません。教員には(誰にもですが)評価はできないと思います。無理なことを無理やりさせるのはどうかと思います。何のための評価でしょうか?何を評価したいのでしょうか?
社会や家庭の役割も大きい。評価するなら親も評価するってこと?それより、自分自身(子供だけじゃなく、教員も親も社会もね)を反省することの方が大切だと思う。
政府は(簡単に?)教科にしてしまいましたが、現場の教員は本当にきちんと指導できるのか、本当に大丈夫なのか、、、教員任せにしていいのか、、、そもそも(文科省の検定!した)”教科書”がちゃんとしたものかどうか、、、おばちゃんはちょっと心配です。
まずは、教員や私たち大人が「本当の道徳」を学ぶことじゃないかな。
生きとし生けるものが幸せでありますように・・・
したっけ。
教科にして評価するのは難しいと思いますが、始まってしまったので、何とか教員のみなさんには冷静に、理性と慈悲に基づいてやってもらいたいと思います。
(項目を減らして基本的なものだけにして、国語社会理科などの教科や学級活動や総合の時間、特別活動などでその都度指導を重ねる方がいいと思うんだけどなあ。評価?もその都度。評価のための評価はいらない、できない)