【明治期の文学者、夏目漱石の講演筆記。具体的な文明批判、社会批判である。大阪朝日新聞社の依頼で関西・中国地方でおこなわれた連続講演会の三番目のもの。本文はじめに「1911(明治44)年8月堺において述」とある。「中味」のともなわない「形式」は「非完全な感じを与える」。したがって中味という内面的なものを重視した「明治に適切な型」が教育には必要だと説く。】
>すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優っているとか云って、一概に上下の区別を立てようとするのはたいていの場合においてその道に暗い素人のやることであります。(比較は意味がないと思う。上下優劣ではなくみんな違いがあるだけ。)
>どんな動物を見ても要するにこれは牛かい馬かい牛馬一点張りですべて四つ足を品しつ(品定め)されては大分無理ができる。門外漢というものはこの無理に気がつかない。(たとえが面白いね)
>物の内容を知り尽くした人間、中身の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、無理な形式を喜ばない傾があるが、門外漢になると中身が分からなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の知識として尊重すると云う事になるのであります。(^^)
>資本家とかあるいは政府とか、あるいは教育者とか云うものが、総て多数の人間を相手にしてそうして、何か事を手早く運び、手際よく片づけようと云うためには、どうしたって統一と云う事と、組織と云う事と、秩序と云う事を真っ向に振りかざさなければできない話である。
>形式上の矛盾を中身の矛盾と取り違えて是非纏(まと)めようとするのは迂闊だ
>歌を作る規則を知っているから、和歌が上手だと云ったらおかしいでしょう、上手の作った歌がその内に自然と歌の規則を含んでいるのでしょう。
>幾ら形と云うものがはっきり頭に分かっておっても、どれほどこうならなければならぬという確信があっても、単に形式の上でのみ纏(まと)まっているだけで、事実それを実現して見ないときには、いつも不安心のものであります。
>あらかじめ一種の形式を事実より前に備えておいて、その形式から我々の生活を割り出そうとするならば、ある場合にはそこに大変な無理が出なければならない。しかもその無理を遂行しようとすれば、学校なら騒動が起こる、一国では革命が起こる。政治にせよ教育にせよあるいは会社にせよ、わが朝日社のごとき新聞にあってすらそうである。だから世間でもそう規則ずくめにされちゃたまらない・・・
>なぜ徳川氏が滅びて、維新の革命がどうして起こったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。
>活きた人間、変化のある人間と云うものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。
何でも中味が大事。形式や見た目に囚われると間違えてしまいますね。形式より本質、中味。
無意味とはいわないけれど、いくら見た目がよくても中味が伴わなければ価値がない。
常に、中味をよりよくすることを意識したいです。
星4つ
>活きた人間、変化のある人間と云うものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。
夏目漱石先生の言葉を信じたいです。
不変と思われたベルリンの壁も取り除かれました。
ソビエト連邦も崩壊しました。
今、安倍さんは日本を軍事大国の道という箱に国民を詰め込もうとしています。
仮に一時的に詰め込めたとしても、長く閉じ込めておくことは無理だと思います。
日本人の理性を信じたいです。
いくら着飾っても中味が伴わなければ意味がないですよね。
安倍さんは日本を軍事大国にしたいのでしょうか?
軍事大国にすることは国民の幸せなんでしょうかね。
もし、そうなら安倍さんはそれが幸せ(誰の?)だと信じているということでしょうね。
人間というのは間違えるし、不完全だからねえ・・・はあ^^;
安倍さん(自民党)をあてにしたり、期待したりする人もいるけれど、
みんながそうではないということを知って、押しつけるのだけはやめてほしいと思いますねえ。
>日本人の理性を信じたいです。
理性的でありたいですね。