儒教というと、「親には孝行しなければならない」「目上の人には従わねばならない」など、堅苦しい上下関係の教えのイメージがあったのですが、それはただの勝手なイメージだったようです。
その人となりや、孝悌にして、好く上を犯す者は、鮮(すく)なし。
好く上を犯さずして、好く乱をなす者は、未だこれ有らざるなり。
その人となりが孝行悌順であり、よく目上にさからう者は少ない。
よく上を犯さずして、よく乱を作(な)す(本当の意味での調和をもたらす)者は、未だかつてない。
「よく」というのは「うまく、見事に」という意味。
主君の間違った判断を変えてもらうのが目的であるから、なるべく怒らせないように、うまくやらないと危険であるし、意味がない。
諫言は必要。でも上手にできる人って少ないよね。
イエスマン、ご機嫌取り、忖度ばかりではダメってことですね。
では、どう上手に上に仕えればいいのか。
能を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若(ごと)く、犯せども校されず。昔者(むかし)、吾が友、嘗(かつ)てここに従事せり。
能があるのに(謙虚で)、能がない者にも問い、
多くを知っているのに(謙虚で)、少ししか知らない者にも問い、
功績があっても(誇らないで)無いかのように振る舞い、
実があるけれども(誇らないで)虚であるかのように振る舞い、
それゆえ、上を犯しても刑罰を受けたりなどしない。
昔、吾の友は、かつてそうのように事に従っていた
(ちなみに、「校」は木を格子状に組み合わせたものを意味する。つまり、牢獄や手かせ足かせ!学校は学びの牢獄なのか??)
親に愛され親を愛している幸福な人は、親が間違ったことをしていると思えば、「それはおかしいよ」と言える。そういう人は主君に対しても、同じようにできるでしょう。それがよい関係といもの。
「孝」というのは、親子関係が親密であって本当に慈愛に満ちているときに生じる、子どもの自然な親への感情のことである。
親の慈愛がなければ、子の孝はない。
なので、親”孝行”は子どもの”義務”ではない。
義務とは言えないが、親から「三年之愛」(生まれて三年たって親から離れるまでの愛情)をしっかりもらった子どもは、人情として「孝行」したくなる。
そして、親から「慈愛」「恩」を受けたという事実を事実として受け入れることができたとき、恩返し、孝行をするということは当然のこととなるのでしょうね。それは、ただ従うことでも手かせ足かせでもない、もっと自由な関係だと思います。
自分の人格を高め、
上司に対しても、親に対しても、よい人間関係を築きたいものです。
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