ヘンデルはバッハとは違い音楽一家ではなく、いつ何処でどのように音楽を修行してきたのかは非常に興味深いものがあります。勿論、天賦の才能(突然変異!?)ですが、イタリアでの修行時代がもっとも彼の将来を決定したようです。三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂き、イタリアでのヘンデルの活動について簡単に触れたいと思います。
イタリア時代は1706-1710年ですが、彼はイタリアの前にはハンブルグに滞在しています(1703-1706年)。ハンブルグは宮廷を持たない自由都市で、その当時、宮廷以外でオペラを上演する国民オペラが盛んでした。その中心人物がカイザーという人物で、彼からオペラについて大きな影響を受け、ヘンデル初のオペラ「アルミーラ」もこの時に作曲しています。
当時、ハンブルグには多くの著明人が集まっており、ヘンデルはイタリアのメディチ家のフェルディナンド(1663-1713)と知り合っています(フェルディナンドの弟のジャン・ガストーネであったとういう説もあるようです)。フェルディナンドの父は、トスカナの君主、大公コジモ三世ですが、二人の息子(フェルディナンドとジャン・ガストーネ)にも、また大公の弟のフランチェスコにも世継ぎがなく、500年にわたるこの名門(メディチ家)の危機が迫っていたようです。フランチェスコは音楽に造詣が深く、積極的に保護しており、ヘンデルにイタリアに音楽の勉強に来るように誘ったようです。イタリアは16世紀半ばからスペインの支配を受けており、ヨーロッパでの指導的地位を失っていたばかりではなく、1700年初頭からスペイン王位継承権をめぐり、イタリア北部は戦火が絶えなかったようです。
ヘンデルは1706年の夏から秋にかけて、このような政情不安定な危険なイタリアに、自費留学で入っています。ヘンデルはそこまでしても本場でオペラを勉強したかったのでしょう。感服!。最初の滞在地はフィレンチェのフェルディナンドの宮殿(ピッティ宮殿)であったと考えられており、フィレンチェ滞在中にヘンデルはA.スカルラッティ(1660-1725)のオペラ《偉大なるタメルラーノ》の上演を観たようです。しかし、フィレンチェには長居せず、1706年の末から1707年1月始めには既にローマに移動しています。
ヘンデルが滞在していた頃のローマは人口約10-14万人で、ミラノ、ヴェネツィア、ウィーンと同等で、ナポリやライプツィッヒが約25万人、ロンドンの約50万人と比べれば約1/4であり、あまり大きな都市ではなかったようです。(続く)
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