ある昼下がりのこと、チョッキを着た白ウサギを追いかけて大きな穴にとぶこむとそこには……。アリスがたどる奇妙で不思議な冒険の物語は、作者キャロルが幼い三姉妹と出かけたピクニックで、次女のアリス・リデルにせがまれて即興的に作ったお話でした。1865年にイギリスで刊行されて以来、世界中で親しまれている傑作ファンタジーを金子國義のカラー挿画でお届けするオリジナル版。裏表紙より。
タイトルとウサギを追っかけることしか知らなかったから買ってみた。
この本の元は1991年2月だから24年前の訳。
1 ウサギ穴をおりるとチョッキを着た白ウサギを追っかける
<ワタシヲオノミ>だなんて、けっこうなはなしだけれど、そこはお利口さんのアリスのこと、さっそくとびついたりはしなかった。「だめだめ、まず<毒>って書いてないかどうか、よくたしかめなくっちゃ」なにしろアリスは、ひとから教わったちょっとした規則を守らなかったばっかりに、やけどしたりけものに食われたり、そのほかろくでもない目にあった子供たちの話をあれこれ読んだことがあってね。たとえばまっかに焼けた火かき棒をにぎったりすればやけどする、とか、ナイフで指をうんと深く切れば血が出る、とかいったようなことで、びんに<毒>とあるのにかまわず中身をのめば、おそかれ早かれひどい目にあうことだって、アリスはけっしてわすれてはいなかった。
→落ちる
→広間で謎のびんを発見(←今ココ)
アリスは賢い子。結局飲むけど。次の行で。
6 ブタとコショウ訊いた相手が悪かったと、ただプンスカはできない気分。
「そりゃ、あんたがどこへ行きたいかによるわな」とネコのこたえだ。
「どこだっていいんですけど――」
「そんなら、どの道だってかまわんだろ」
「――どっかへ行きつけさえすればね」アリスがいいそえると、ネコはネコで、
「あ、そりゃ行きつけらあ。ちゃんと歩きつづけて行きさえすりゃあね」
7 め茶く茶会かけてることに気付くのに時間がかかった・・・ちょ、ちょっと今日睡眠短かったしぃ!
ちなみに、どんな茶会だったかは、
「まあ、もっとお茶をのんで」とウカレウサギがしきりにアリスにすすめる。まぁこんな感じ。(#^ω^)
アリスは思わず口をとがらせ、「まだひとつものんでないのに、もっとだなんて、むりよ」
「ひとつものんでないのに、それ以上のむなってわけにもいかないやね」帽子屋がいいだした、「もっとのめってのならば、お安いご用じゃないか」
11 だれがパイをとった?そして物語は感動のフィナーレへ・・・。
アリスは、白ウサギがリストをごそごそやっているのを見守りながら、つぎの証人ってだれなのか、わくわくしちゃってね。「――だってまだ、ろくな証拠もでてないじゃないの」そうつぶやいたほどだ。だからまあ、白ウサギがれいの甲高い声をはりあげて、「アリス!」って名前をよみあげたときのオドロキようを、思ってもみてごらんって。
一貫して「め茶く茶な話」なのに、なぜか不快感は無い。むしろ温かくて、安心を感じるとは・・・。
兔穴と少女訳者解説より。
緊張のきわみにあるアリス。その健気さ、いたいたしさのようなものは、黙っていても少女の立居振舞のどこかににじみでて、その面ざしに微妙な陰翳を与えてくれることでしょう。それが余人の目に美しく映るかどうかは軽々に判断ができませんけれど、少くともわたしにとっての少女アリスとは、そのような孤独な存在の代名詞であり、またその孤独のゆえにこそ、性別を問わずおなじような痛みを裡に秘めた人々の永遠の友人であってくれるであろうと、ひそかに信じつづけてもいるのです。
ああ・・・。
流石に訳しただけある。ルイス・キャロル自身のリメイク作品について『作者は何をとち狂ったか』なんて書いてるのも、作品を読み込んだからこその言葉か。
「名作は伊達じゃない!」ことを感じさせられる本。
最近賞賛より批判の方が多い気がする・・・否、多い。だけど、批判した本は全ページ灰にするべきってことじゃない。そういうのはたまにしかない。
賞賛(=同意)できることは、大体「もう読んだことある」んだよな。ネタが被ってる。新しい本は次々世に出てくるけど、結局大事なことは不変なんだろう。
今考えるべき問題は、本の選び方が不偏と言えるかどうか、かナ。その辺意識してるつもりではいるけど、俺が選ぶ以上は俺がみえる本しかみえないし。
つまり今度ブックオフに行く時はサイコロを持っていくべきである・・・否、サイコロを持っていかなければならないのである!
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