――息子よ、なぜ顔を隠すのだ?
――お父さん、見えないの? 冠をかぶった魔王がいるじゃないか
(ゲーテ「魔王」)
さて、本年2回目の投稿である。内容とてしては、前回の続きとなっている。
タイトルの「魔王」というのはゲーテの詩をもとにしたシューベルトの歌曲「魔王」――ではない。勘のいい方はもう気づいておられるかもしれないが、そのシューベルトの「魔王」をモチーフにした伊坂幸太郎氏の小説『魔王』である。漫画化もされたので、ご存知の方も多いだろう。今から十年ほど前に発表され、その当時の社会状況を反映させた作品であるが、今でもなお――というより、まさに今の日本社会にこそ、ここで描かれた状況はあてはまると私は考える。そういうわけで、今回はこの『魔王』をテーマとして語っていきたい。
冒頭に引用した会話はその元ネタである「魔王」の一節(伊坂氏の『魔王』で引かれている訳)であるが、その後には次のようなやりとりが続く。
父「あれは霧ではないか」 子「お父さん、聞こえないの? 魔王が何か言うよ」 父「枯れ葉の音ではないか。落ち着くんだ」 子「お父さん、見えないの? 魔王の娘がいるよ」 父「見えるが、あれは柳ではないか」 子「お父さん、魔王が今、僕をつかんでいるよ」……
この詩でゲーテが描いている“魔王”というのは、あるいは人間の深奥に潜む芸術的創造性のようなものの象徴かもしれないが、伊坂氏はその無気味なイメージに21世紀初頭における日本の状況を託している。そしてそれはまさに、私が抱いている問題意識とつながっているものと思われるのである。すなわち、重大な政治的決定が強行突破の末に既成事実化されていくことについての恐怖であり、もっといえば、そうしたことへの国民のリアクションの問題である。
ここで、少し話題を変えたい。
ひところ話題になった広瀬弘忠氏の『人はなぜ逃げ遅れるのか ――災害の心理学』(集英社新書)という本によると、人間には正常性バイアスという心理的なトラップがあるという。たとえば、2003年に韓国テグ市で起きた地下鉄放火事件が具体例として挙げられている。放火犯が地下鉄の車内で火を放ち、火災が発生するのだが、黒煙が充満しているにもかかわらず乗客たちはなかなか避難するなどの行動をとろうとしない。広瀬氏はその様子を、「全体としてみると、何かおかしいと感じているが、誰も危険を意識したうえでの、危険対応の行動をとっているようには見えない。現実に自分たちの身に降りかかっている危険を、理解できないえいるのである。」と表現している。「これぐらいなんてことはないだろう」と考え、行動を抑制するのだ。あわてて避難して何もなかったら、恥ずかしいといったような心理も働き、「これは正常な状態なんだ」「なにも異常はないんだ」と自分に言い聞かせるわけである。この正常性バイアスというものが、いざ火事などの一大事が起きた時に“逃げ遅れる”原因になるともいわれている。これはおそらく、昨年韓国で起きたセウォル号の転覆事故にも共通しているのではないだろうか。あの事故では、傾き行く船内の様子が映像に残されていたが、それらを見ていると、乗客たちはある意味で非常に冷静に見えた。なかには、その状況を楽しんでいるようなふうさえ見えるものもあった。本当は致命的な事態であるにもかかわらず、そのことが認識されていないのである。たまたま先の地下鉄と同じ韓国の事件ではあるが、このような事態はひょっとすると日本でも起こりうるのではないかと私は思う。想像してみてほしい。もし船や飛行機、あるいはバスなどが予期せぬ事故に遭い、船内放送で「大したことはありません、待機していてください」というようなことをいわれたら……意外と多くの人がなんの行動も起こさないのではないだろうか。
そして私はこれを、この十数年ほどの政治状況に敷衍して考えてみたい。そうすると、おそろしい絵が見えてこないだろうか。
事態をわかりやすくするために、もう一つ――これは手垢のついたたとえかもしれなが――“蟹の安楽死”という話を紹介しよう。蟹(カエルのバージョンもある)に苦痛を感じさせないように殺すときに、水を張った鍋の中に入れて、少しずつ熱していくのである。いきなり熱湯のなかに入れると逃げ出そうとするが、少しずつ熱していくと気づかないうちに茹で死にしてしまうのだという。
ここで、ふたたび伊坂幸太郎氏の『魔王』に話を戻そう。たとえば、作中のある登場人物は憲法改正について次のように語る。
「最初は大きな改正はやらないんだ。九条は、『自衛のための武力を保持する』とその程度にしか変えない。『徴兵制は敷かない』と足してもいい。……(中略)……そして、たぶん、憲法は変わる。大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミも一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続できないからだ。『もういいよ、すでに九条は改正されてるんだからさ、また変えればいいじゃないか』という感じだろうな。既成事実となった現実に、あらためて歯向かう気力や余裕はないはずで、『兵役は強制されない』の条文を外すことも容易だ。一度、認められた消費税は上がる一方で、工事は途中では止まらない」
さらに、こんなせりふも続いて出てくる。
「一度目の改正で、憲法改正の要件を、つまり九十六条を変えることができれば、もっと都合が良い。二度目以降の国民投票をやりやすくしておくわけだ。とにかく、賢明で有能な政治家であれば、唐突に大胆なことをやるのではなく、まずは楔を打ち、そこを取っ掛かりに、目的を達成する」
この作品がはじめに発表されたのは2004年のことであるが、憲法改正の発議には国会議員の3分の2が必要であるという憲法九十六条の要件を安倍政権が緩和しようとしていたことは記憶に新しい。それを踏まえれば、われわれは『魔王』の無気味な預言に耳を傾けるべきではないだろうか。
もとより、“既成事実化”という現象はなにも今にはじまったことではなく、この十数年の間にもペースの差はあれあったことだ。国旗・国歌法、日米ガイドライン、盗聴法、個人情報保護法、住基ネット……いまとなっては、そういえばそんなものもあったなあという程度のことに思えるかもしれないが、いずれもその当時は大きな話題となり、各方面で反対の声が上がっていた。こういったことが進められ既成事実化されてきたこの十数年の間に、日本の社会が少しずつ息苦しくなってきていると感じないだろうか? 私は感じている。
たとえば、つい最近気になったニュースとして、爆笑問題がNHKの新春番組に出演した際に政治家ネタをすべてボツにされたという件があった。これなども、私には世の中がおかしな方向に向かっている一つの表れではないかと私には思える。ここでわれわれは、立ち止まって考えなければならない。この問題、「お笑いのネタがボツにされるぐらいいいじゃないか」といってしまっていいものなのだろうか?
特定秘密保護法があってもいいじゃない、安全保障に関する情報を保護するのはは当たり前だよ、集団的自衛権の行使を容認したって別にいいじゃない、それでいきなり戦争になんてならないよ――そんなふうにいっている間に、少しずつ何かが決壊していっているのではないだろうか? ここで、伊坂幸太郎氏が出てきたついでに、氏の『グラスホッパー』という別の小説も紹介しておこう(ちなみ、『魔王』の漫画バージョン『魔王 JUVENILE REMIX』は、小説の『魔王』と『グラスホッパー』をミックスしたもになっている)。この『グラスホッパー』のなかに、「今まで世界中で起きた戦争の大半は、みんなが高をくくっているうちに起きたんだと思う」というせりふがある。安倍首相のいい加減な約束(前回参照)とちがって、改憲派が九十六条に手をつけようとするだろうという伊坂氏の”預言”は的中している。そのことを考えれば、われわれは高をくくってはいられないのではあるまいか。
「これぐらいなんてことはないだろう」「いや、これは正常な状態なんだ」と考えているうちに、事態は取り返しのつかないところに至ってしまうかもしれない。真夜中はもう五分前ぐらいにまで近いづいているんじゃないか――われわれは、いま本気でそういうことを考えなければならない状態になっている。
――お父さん、見えないの? 冠をかぶった魔王がいるじゃないか
(ゲーテ「魔王」)
さて、本年2回目の投稿である。内容とてしては、前回の続きとなっている。
タイトルの「魔王」というのはゲーテの詩をもとにしたシューベルトの歌曲「魔王」――ではない。勘のいい方はもう気づいておられるかもしれないが、そのシューベルトの「魔王」をモチーフにした伊坂幸太郎氏の小説『魔王』である。漫画化もされたので、ご存知の方も多いだろう。今から十年ほど前に発表され、その当時の社会状況を反映させた作品であるが、今でもなお――というより、まさに今の日本社会にこそ、ここで描かれた状況はあてはまると私は考える。そういうわけで、今回はこの『魔王』をテーマとして語っていきたい。
冒頭に引用した会話はその元ネタである「魔王」の一節(伊坂氏の『魔王』で引かれている訳)であるが、その後には次のようなやりとりが続く。
父「あれは霧ではないか」 子「お父さん、聞こえないの? 魔王が何か言うよ」 父「枯れ葉の音ではないか。落ち着くんだ」 子「お父さん、見えないの? 魔王の娘がいるよ」 父「見えるが、あれは柳ではないか」 子「お父さん、魔王が今、僕をつかんでいるよ」……
この詩でゲーテが描いている“魔王”というのは、あるいは人間の深奥に潜む芸術的創造性のようなものの象徴かもしれないが、伊坂氏はその無気味なイメージに21世紀初頭における日本の状況を託している。そしてそれはまさに、私が抱いている問題意識とつながっているものと思われるのである。すなわち、重大な政治的決定が強行突破の末に既成事実化されていくことについての恐怖であり、もっといえば、そうしたことへの国民のリアクションの問題である。
ここで、少し話題を変えたい。
ひところ話題になった広瀬弘忠氏の『人はなぜ逃げ遅れるのか ――災害の心理学』(集英社新書)という本によると、人間には正常性バイアスという心理的なトラップがあるという。たとえば、2003年に韓国テグ市で起きた地下鉄放火事件が具体例として挙げられている。放火犯が地下鉄の車内で火を放ち、火災が発生するのだが、黒煙が充満しているにもかかわらず乗客たちはなかなか避難するなどの行動をとろうとしない。広瀬氏はその様子を、「全体としてみると、何かおかしいと感じているが、誰も危険を意識したうえでの、危険対応の行動をとっているようには見えない。現実に自分たちの身に降りかかっている危険を、理解できないえいるのである。」と表現している。「これぐらいなんてことはないだろう」と考え、行動を抑制するのだ。あわてて避難して何もなかったら、恥ずかしいといったような心理も働き、「これは正常な状態なんだ」「なにも異常はないんだ」と自分に言い聞かせるわけである。この正常性バイアスというものが、いざ火事などの一大事が起きた時に“逃げ遅れる”原因になるともいわれている。これはおそらく、昨年韓国で起きたセウォル号の転覆事故にも共通しているのではないだろうか。あの事故では、傾き行く船内の様子が映像に残されていたが、それらを見ていると、乗客たちはある意味で非常に冷静に見えた。なかには、その状況を楽しんでいるようなふうさえ見えるものもあった。本当は致命的な事態であるにもかかわらず、そのことが認識されていないのである。たまたま先の地下鉄と同じ韓国の事件ではあるが、このような事態はひょっとすると日本でも起こりうるのではないかと私は思う。想像してみてほしい。もし船や飛行機、あるいはバスなどが予期せぬ事故に遭い、船内放送で「大したことはありません、待機していてください」というようなことをいわれたら……意外と多くの人がなんの行動も起こさないのではないだろうか。
そして私はこれを、この十数年ほどの政治状況に敷衍して考えてみたい。そうすると、おそろしい絵が見えてこないだろうか。
事態をわかりやすくするために、もう一つ――これは手垢のついたたとえかもしれなが――“蟹の安楽死”という話を紹介しよう。蟹(カエルのバージョンもある)に苦痛を感じさせないように殺すときに、水を張った鍋の中に入れて、少しずつ熱していくのである。いきなり熱湯のなかに入れると逃げ出そうとするが、少しずつ熱していくと気づかないうちに茹で死にしてしまうのだという。
ここで、ふたたび伊坂幸太郎氏の『魔王』に話を戻そう。たとえば、作中のある登場人物は憲法改正について次のように語る。
「最初は大きな改正はやらないんだ。九条は、『自衛のための武力を保持する』とその程度にしか変えない。『徴兵制は敷かない』と足してもいい。……(中略)……そして、たぶん、憲法は変わる。大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミも一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続できないからだ。『もういいよ、すでに九条は改正されてるんだからさ、また変えればいいじゃないか』という感じだろうな。既成事実となった現実に、あらためて歯向かう気力や余裕はないはずで、『兵役は強制されない』の条文を外すことも容易だ。一度、認められた消費税は上がる一方で、工事は途中では止まらない」
さらに、こんなせりふも続いて出てくる。
「一度目の改正で、憲法改正の要件を、つまり九十六条を変えることができれば、もっと都合が良い。二度目以降の国民投票をやりやすくしておくわけだ。とにかく、賢明で有能な政治家であれば、唐突に大胆なことをやるのではなく、まずは楔を打ち、そこを取っ掛かりに、目的を達成する」
この作品がはじめに発表されたのは2004年のことであるが、憲法改正の発議には国会議員の3分の2が必要であるという憲法九十六条の要件を安倍政権が緩和しようとしていたことは記憶に新しい。それを踏まえれば、われわれは『魔王』の無気味な預言に耳を傾けるべきではないだろうか。
もとより、“既成事実化”という現象はなにも今にはじまったことではなく、この十数年の間にもペースの差はあれあったことだ。国旗・国歌法、日米ガイドライン、盗聴法、個人情報保護法、住基ネット……いまとなっては、そういえばそんなものもあったなあという程度のことに思えるかもしれないが、いずれもその当時は大きな話題となり、各方面で反対の声が上がっていた。こういったことが進められ既成事実化されてきたこの十数年の間に、日本の社会が少しずつ息苦しくなってきていると感じないだろうか? 私は感じている。
たとえば、つい最近気になったニュースとして、爆笑問題がNHKの新春番組に出演した際に政治家ネタをすべてボツにされたという件があった。これなども、私には世の中がおかしな方向に向かっている一つの表れではないかと私には思える。ここでわれわれは、立ち止まって考えなければならない。この問題、「お笑いのネタがボツにされるぐらいいいじゃないか」といってしまっていいものなのだろうか?
特定秘密保護法があってもいいじゃない、安全保障に関する情報を保護するのはは当たり前だよ、集団的自衛権の行使を容認したって別にいいじゃない、それでいきなり戦争になんてならないよ――そんなふうにいっている間に、少しずつ何かが決壊していっているのではないだろうか? ここで、伊坂幸太郎氏が出てきたついでに、氏の『グラスホッパー』という別の小説も紹介しておこう(ちなみ、『魔王』の漫画バージョン『魔王 JUVENILE REMIX』は、小説の『魔王』と『グラスホッパー』をミックスしたもになっている)。この『グラスホッパー』のなかに、「今まで世界中で起きた戦争の大半は、みんなが高をくくっているうちに起きたんだと思う」というせりふがある。安倍首相のいい加減な約束(前回参照)とちがって、改憲派が九十六条に手をつけようとするだろうという伊坂氏の”預言”は的中している。そのことを考えれば、われわれは高をくくってはいられないのではあるまいか。
「これぐらいなんてことはないだろう」「いや、これは正常な状態なんだ」と考えているうちに、事態は取り返しのつかないところに至ってしまうかもしれない。真夜中はもう五分前ぐらいにまで近いづいているんじゃないか――われわれは、いま本気でそういうことを考えなければならない状態になっている。