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言論の自由と宗教――シャルリ・エブド事件によせて

2015-01-16 15:08:19 | 政治・経済
 順番からすると前回の続きで②を書くところなのだが、今回は、最近の出来事について意見をいっておきたい。
 フランスの新聞社襲撃事件についてである。先日、フランスの新聞社「シャルリ・エブド」の編集部が、イスラム過激派による襲撃を受けた。これに対してフランスでは、各国の首脳も参加してテロ行為に反対するデモ行進が行われた。
 いうまでもなく、テロ行為はいかなる理由があっても容認されるべきではない。各国がそれに対して屈しない姿勢を示したのは当然である。だが、その後シャルリ・エブド紙が再びムハンマドの諷刺画を掲載したことについては、ややすっきりとしないものを感じた人も多いのではないだろうか。かくいう私もその一人である。
 といっても、当然ながらテロ行為を擁護するつもりは毛頭ない。民主的な社会にとって言論の自由はきわめて重要であり、暴力によってそれを封じようとする行為は許されるべきではない。だが同時に、言論の自由はすべてに優先する価値ではない、とも私は考える。
 たとえば、ナチスが行ったホロコーストの存在を否定するような内容の記事を公の媒体に発表することは許されるか。ヨーロッパでは、まずできない。日本であっても、かつて『マルコポーロ』という雑誌がそういう記事を載せて廃刊になったという例がある。ホロコーストもまた許されるべきでない絶対悪であり、それがあったことを否定する、あるいはそれを擁護するというような言説を認めれば、社会を成り立たせている価値規範それ自体が深刻な危機に陥ってしまう。そのような言説は、言論の自由で許される枠を超えているのだ。ゆるがせにすることのできない、基盤となる公共的価値というべきものが社会には存在していて、そこに踏み込むことは言論の自由があるからといって許容されるものではない場合がありうる。
 ひるがえって、ムハンマドの諷刺画はどうか。
 イスラム教徒にとっては、ムハンマドを諷刺画のようなかたちで描かれることは、侮辱である。それはおそらく、彼らにしてみればホロコーストを否定する言説と同程度に容認しがたいものであっただろう。私は、そのような宗教のあり方にも一定の配慮が払われるべきだと考える。
 フランスという国は政教分離がかなり徹底していて、近年ではイスラム教徒の女子生徒が学校にスカーフを巻いてくることを禁止するかどうかといったことが問題になったこともある。それはそれで一つの価値観ではあろうが、同時に、信教の自由も近代社会の重要な価値の一つだ。宗教というものは多くの場合それを信仰する人の生活にわかちがたく結びついていて、その浸透のレベルは宗教によってちがう。その点には十分な配慮がなされなければならない。
 そもそも、ミルトンは言論の自由を語る際にプロテスタントの一派であるピューリタニズムをその根拠としたし、政教分離という概念も、もとはキリスト教内部の宗派対立を避けるために生まれたものである。そういう経緯から、欧米諸国が提唱する価値観というのは結局キリスト教に由来するものではないかという批判もあり、そこから、人権や民主主義を否定するような極端な相対主義が生まれてくることにもなる。
 言論の自由や政教分離といった価値観が真に普遍的なものであると主張するのなら、それがキリスト教的価値観の一方的な押しつけになってしまわないよう熟慮する必要がある。それには“言論の自由”を金科玉条として掲げるのではなく、それぞれの宗教の事情を酌まなければならない。「やつらは“言論の自由”を理解していない、前近代的だ」というような態度は、いたずらに対立を煽るばかりだろう。その観点からすると、ムハンマドの諷刺画を掲載するということにそこまでこだわる必要があるのかは、私にはやや疑問に思える。イスラムの側からすると、それはキリスト教世界で培われたキリスト教的価値観の押しつけと見えるかもしれない。悪くすれば、イスラム教に対する挑発のようにとられかねず、宗教的な対立を助長するおそれもある。過激主義がインターネットを通じて拡散する時代には、そうしたことも慎重に考えていく必要があるのではないだろうか。