前の二回は、特定秘密保護法について書いた。今回は、これまでの安倍政権の二年でそれに次ぐ大きなイッシューであった集団的自衛権について語りたい。
ここで取り上げるのは、大まかにいって、「バランス・オブ・パワー」という考え方は正しいのかという問題である。
バランス・オブ・パワーとは、ひらたくいえば、各国が軍事力を持ちその釣り合いをとることによって平和が保たれるという考えだ。集団的自衛権が抑止力を持つということは、この考え方を前提にしているとみていいだろう。
結論からいえば、私はこの考えに否定的である。
私が考えるには、バランス・オブ・パワーという発想は中世的形而上学の領域から出てきたものであり、経済におけるレッセフェールと対をなす19世紀的迷信にすぎない。
この話題では、「平和を望むなら戦争の準備をしておけ」というローマの格言(とされるもの)がよく引用される。平和を守るためには強い軍事力こそが必要で、それをもたずに平和を語るのは空論だというのである。しかし、ローマ人がそういったからといって、それは正しいのか? われわれは本当にこの警句を信用していいものだろうか?
これも、結論から先にいうと、私は懐疑的だ。
その理由は、「実際の歴史に照らしてみてとてもそうは思えない」ということに尽きる。もし手元に歴史の本があるなら、一つの実験として、でたらめにページを開いてみてほしい。それがどの時代のどのページであっても――文化だけをとりあげているような章でないかぎりは――たいていあなたは、そこに戦争の記事が載っているのを見出すだろう。それほど、人類の歴史は戦争だらけなのだ。ものの本によれば、これまでのところ人類の歴史で戦争がなかった時期は一割にも満たず、和平協定は平均して二年ぐらいしかもたなかった。はたしてそれは、人類が戦争の準備を怠ったからなのだろうか?
どう考えても、答えはノーである。
人類が軍事力と呼べるものを手に入れてからこのかた、ローマ人にいわれるまでもなく、各国、各民族とも戦争の準備にぬかりはなかった。それでありながら、実際に戦争を防ぐことはできていないのである。このことからも、軍事力を強化することによって戦争を防ぐという発想がきわめて胡散臭いものであることがわかる。すなわち、“軍事力によって平和を守る”という発想には実績がないのだ。私にいわせれば、平和のために軍事力を準備しておくという発想こそ、現実の裏づけをもたない空論である。
このことを示す典型的な例は、ヨーロッパだろう。ヨーロッパといえば、かつては戦争ばかりしていた地域である。それは、彼らが軍事力をもたなかったからか? これも、あきらかに答えはノーである。ヨーロッパ諸国は、それぞれに軍備を保有し、互いに同盟を結び、けん制しあうのを常としていた。そして、その結果としてしょっちゅう戦争をしていたのである。歴史を眺めてみれば、むしろそうして同盟を結びけん制しあっていることそれ自体が戦争の原因となり、また、戦争がいったん起きたときにはそれを拡大させる働きをしているようにさえ見えるのである。戦争の準備をしていた“のに”ではなく、戦争の準備をしていた“からこそ”戦争がやむことがなかったということだ。
後者の論点は、特に重要である。ここがまさに集団的自衛権の問題にもつながってくるが、いくつかの国が同盟を結んで対立する勢力をけん制するという方法は、じつは非常に危険である。たとえば、A、Bという二つの陣営があり、それぞれに十ヶ国が参加しているとしよう。そうすると、A、Bに属する国のどれか二ヶ国が戦争を始めて、同盟国がその同盟を理由に参戦していけば、二十ヶ国による大戦争になってしまう。
これはただのシミュレーションではなく、現実に起きたことでもある。そのもっともわかりやすい具体例として、第1次世界大戦が挙げられるだろう。
周知のとおり、この戦争はオーストリアの皇太子がボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボで殺害されたことに端を発している。オーストリアがバルカン半島に勢力を拡大することを快く思わない大セルビア主義者が、テロに走ったという事件だ。すなわち、本来はバルカン半島というヨーロッパの片隅で起きた衝突にすぎないのだ。ところがそこに、各国がなだれをうって参戦していき、“世界大戦”となった。
ここで、講談社刊の『クロニック世界全史』という本から第1次大戦に関する記事の一部を引いてみよう。1915年の記事である。
「この年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイープルの戦いでフランス軍に対して、はじめて毒ガス兵器を使用。さらに5月と翌年11月には、ツェッペリン飛行船とゴータ型爆撃機でロンドン空襲を開始する」
なんということもない記事かもしれないが、はじめに衝突が始まったのがバルカン半島だったことを思い出してほしい。そして、ドイツ、ベルギー、フランスという国々がどこにあるかを地図で確認してほしい。なぜ、バルカン半島で起きた紛争の結果として、そのおよそ一年後にドイツ軍とフランス軍がベルギーで戦っているのか? しかも、さらにはロンドンを爆撃だって? いったいどういうことなんだ、これは……そういう素朴な疑問がわきあがってはこないだろうか。保守派は安全保障のうえでそんなことは当たり前だというかもしれないが、これを当たり前といえるようになったら、それは戦争という狂気に洗脳されているということだと私は思う。もっというと、この第1次世界大戦には、大西洋を越えてアメリカも参戦したし、日本も参戦している。日英同盟というものがあったために、ほぼ地球の裏側にある日本さえもが、地中海に艦船を派遣しているのである。そもそもの発端であるサラエボの事件に、日本はほとんど何の関係もないにもかかわらず、だ。これを狂気といわずして、なんといおう? 張り巡らされた同盟の網は、ひとたび衝突が起きると導火線の役割を果たし、戦火を拡大させていくのである。
では、ひるがえって今はどうか。
現在のヨーロッパは、かつてのように戦争が多発する地帯ではなくなっている。とくに、西欧――イギリス、フランス、ドイツ、スペインといった、かつてはヨーロッパで戦争といえば毎度のように顔を出していた常連たちが、この七十年ほど互いに戦争をしていない。いまのところ、しそうにも見えない。それはなぜか? 彼らが軍事力でけん制しあい、その釣り合いがとれているからだろうか? これも、答えはノーだろう。いまのヨーロッパの平和は、かつての誤った安全保障政策――すなわち、軍事力の均衡によって平和を維持するという考え方――をやめたからとみるのが妥当だ。
19世紀ぐらいまでは、戦争が起きても「ああ、また戦争が起きてしまった」ぐらいで済んでいたから、誤った安全保障政策をとり続けていても特に問題はなかった。だが、20世紀になると、近代兵器を駆使した総力戦がしゃれにならない結果を引き起こすようになった。ここにいたってヨーロッパ諸国は、次の戦争を防ぐことを真剣に考え始め、これまでの発想が根本的に間違っていたことを正面から直視し、同盟を結びけん制しあうというような愚行をやめた。それによって、この地域における平和の持続記録を更新し続けている――というのが私の見方である。
では、現在の東アジアではどうだろうか? 中国や北朝鮮の脅威がいわれて久しいが、果たして他国と手を組んでけん制することが、本当に有効な対応策となるのだろうか? 私は疑念を持っている。中朝の日ごろの言動を見ていれば、こちらがそのようなことをしたとしても引き下がらないのはあきらかだろう。いや、引き下がるどころか、面子を気にしてむしろますます前に出てくる可能性のほうが高い。そうしてお互いに“けん制”を続けていけば、いずれ導火線に火がつくのは時間の問題である。脅威が存在するからこそ、われわれは、過去の実績のない安全保障政策と訣別し、真に有効で現実的な方策をとるべきなのだ。
ここで取り上げるのは、大まかにいって、「バランス・オブ・パワー」という考え方は正しいのかという問題である。
バランス・オブ・パワーとは、ひらたくいえば、各国が軍事力を持ちその釣り合いをとることによって平和が保たれるという考えだ。集団的自衛権が抑止力を持つということは、この考え方を前提にしているとみていいだろう。
結論からいえば、私はこの考えに否定的である。
私が考えるには、バランス・オブ・パワーという発想は中世的形而上学の領域から出てきたものであり、経済におけるレッセフェールと対をなす19世紀的迷信にすぎない。
この話題では、「平和を望むなら戦争の準備をしておけ」というローマの格言(とされるもの)がよく引用される。平和を守るためには強い軍事力こそが必要で、それをもたずに平和を語るのは空論だというのである。しかし、ローマ人がそういったからといって、それは正しいのか? われわれは本当にこの警句を信用していいものだろうか?
これも、結論から先にいうと、私は懐疑的だ。
その理由は、「実際の歴史に照らしてみてとてもそうは思えない」ということに尽きる。もし手元に歴史の本があるなら、一つの実験として、でたらめにページを開いてみてほしい。それがどの時代のどのページであっても――文化だけをとりあげているような章でないかぎりは――たいていあなたは、そこに戦争の記事が載っているのを見出すだろう。それほど、人類の歴史は戦争だらけなのだ。ものの本によれば、これまでのところ人類の歴史で戦争がなかった時期は一割にも満たず、和平協定は平均して二年ぐらいしかもたなかった。はたしてそれは、人類が戦争の準備を怠ったからなのだろうか?
どう考えても、答えはノーである。
人類が軍事力と呼べるものを手に入れてからこのかた、ローマ人にいわれるまでもなく、各国、各民族とも戦争の準備にぬかりはなかった。それでありながら、実際に戦争を防ぐことはできていないのである。このことからも、軍事力を強化することによって戦争を防ぐという発想がきわめて胡散臭いものであることがわかる。すなわち、“軍事力によって平和を守る”という発想には実績がないのだ。私にいわせれば、平和のために軍事力を準備しておくという発想こそ、現実の裏づけをもたない空論である。
このことを示す典型的な例は、ヨーロッパだろう。ヨーロッパといえば、かつては戦争ばかりしていた地域である。それは、彼らが軍事力をもたなかったからか? これも、あきらかに答えはノーである。ヨーロッパ諸国は、それぞれに軍備を保有し、互いに同盟を結び、けん制しあうのを常としていた。そして、その結果としてしょっちゅう戦争をしていたのである。歴史を眺めてみれば、むしろそうして同盟を結びけん制しあっていることそれ自体が戦争の原因となり、また、戦争がいったん起きたときにはそれを拡大させる働きをしているようにさえ見えるのである。戦争の準備をしていた“のに”ではなく、戦争の準備をしていた“からこそ”戦争がやむことがなかったということだ。
後者の論点は、特に重要である。ここがまさに集団的自衛権の問題にもつながってくるが、いくつかの国が同盟を結んで対立する勢力をけん制するという方法は、じつは非常に危険である。たとえば、A、Bという二つの陣営があり、それぞれに十ヶ国が参加しているとしよう。そうすると、A、Bに属する国のどれか二ヶ国が戦争を始めて、同盟国がその同盟を理由に参戦していけば、二十ヶ国による大戦争になってしまう。
これはただのシミュレーションではなく、現実に起きたことでもある。そのもっともわかりやすい具体例として、第1次世界大戦が挙げられるだろう。
周知のとおり、この戦争はオーストリアの皇太子がボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボで殺害されたことに端を発している。オーストリアがバルカン半島に勢力を拡大することを快く思わない大セルビア主義者が、テロに走ったという事件だ。すなわち、本来はバルカン半島というヨーロッパの片隅で起きた衝突にすぎないのだ。ところがそこに、各国がなだれをうって参戦していき、“世界大戦”となった。
ここで、講談社刊の『クロニック世界全史』という本から第1次大戦に関する記事の一部を引いてみよう。1915年の記事である。
「この年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイープルの戦いでフランス軍に対して、はじめて毒ガス兵器を使用。さらに5月と翌年11月には、ツェッペリン飛行船とゴータ型爆撃機でロンドン空襲を開始する」
なんということもない記事かもしれないが、はじめに衝突が始まったのがバルカン半島だったことを思い出してほしい。そして、ドイツ、ベルギー、フランスという国々がどこにあるかを地図で確認してほしい。なぜ、バルカン半島で起きた紛争の結果として、そのおよそ一年後にドイツ軍とフランス軍がベルギーで戦っているのか? しかも、さらにはロンドンを爆撃だって? いったいどういうことなんだ、これは……そういう素朴な疑問がわきあがってはこないだろうか。保守派は安全保障のうえでそんなことは当たり前だというかもしれないが、これを当たり前といえるようになったら、それは戦争という狂気に洗脳されているということだと私は思う。もっというと、この第1次世界大戦には、大西洋を越えてアメリカも参戦したし、日本も参戦している。日英同盟というものがあったために、ほぼ地球の裏側にある日本さえもが、地中海に艦船を派遣しているのである。そもそもの発端であるサラエボの事件に、日本はほとんど何の関係もないにもかかわらず、だ。これを狂気といわずして、なんといおう? 張り巡らされた同盟の網は、ひとたび衝突が起きると導火線の役割を果たし、戦火を拡大させていくのである。
では、ひるがえって今はどうか。
現在のヨーロッパは、かつてのように戦争が多発する地帯ではなくなっている。とくに、西欧――イギリス、フランス、ドイツ、スペインといった、かつてはヨーロッパで戦争といえば毎度のように顔を出していた常連たちが、この七十年ほど互いに戦争をしていない。いまのところ、しそうにも見えない。それはなぜか? 彼らが軍事力でけん制しあい、その釣り合いがとれているからだろうか? これも、答えはノーだろう。いまのヨーロッパの平和は、かつての誤った安全保障政策――すなわち、軍事力の均衡によって平和を維持するという考え方――をやめたからとみるのが妥当だ。
19世紀ぐらいまでは、戦争が起きても「ああ、また戦争が起きてしまった」ぐらいで済んでいたから、誤った安全保障政策をとり続けていても特に問題はなかった。だが、20世紀になると、近代兵器を駆使した総力戦がしゃれにならない結果を引き起こすようになった。ここにいたってヨーロッパ諸国は、次の戦争を防ぐことを真剣に考え始め、これまでの発想が根本的に間違っていたことを正面から直視し、同盟を結びけん制しあうというような愚行をやめた。それによって、この地域における平和の持続記録を更新し続けている――というのが私の見方である。
では、現在の東アジアではどうだろうか? 中国や北朝鮮の脅威がいわれて久しいが、果たして他国と手を組んでけん制することが、本当に有効な対応策となるのだろうか? 私は疑念を持っている。中朝の日ごろの言動を見ていれば、こちらがそのようなことをしたとしても引き下がらないのはあきらかだろう。いや、引き下がるどころか、面子を気にしてむしろますます前に出てくる可能性のほうが高い。そうしてお互いに“けん制”を続けていけば、いずれ導火線に火がつくのは時間の問題である。脅威が存在するからこそ、われわれは、過去の実績のない安全保障政策と訣別し、真に有効で現実的な方策をとるべきなのだ。