5月3日は憲法記念日である。日付は変わってしまったが、その記念日にあわせて、あらためて改憲に対する反対――とりわけ、9条の改訂反対を訴えておきたい。
それにあたって、以前にも紹介した伊坂幸太郎氏の小説『魔王』から、ふたたび一つのエピソードを紹介しよう。この作品の中で、登場人物が改憲について議論する場面である。憲法と現実を合わせるべき、と主張する改憲賛成派の「赤堀君」に対して、反対派の「蜜代っち」はこう反論する。
「たとえば憲法には、『人は誰でも平等に扱われる』って書いてあるでしょ。でも、現実には男女差別とかあるわけじゃない。その時に、『現実に合わないから、男女差別はあり、って憲法を改正しましょう』なんてならないでしょ」(※)
それに対して赤堀君は、「意味合いが違いますって。だって、男女差別のほうは、男女雇用機会均等法とか、差別をなくす方向で法律とかできてるじゃないですか。方向としては、憲法と現実は合ってるんですよ」
そこへ、蜜代っちは「でしょ?」と続ける。「憲法があるから、そうやって、法律ができるんだって。九条も一緒。本当なら九条に合わせないと駄目なのに、勝手に政治家が違う方向にしているだけじゃない。戻さないと。だってさ、勝手に家に他人が上がり込んできて、『現実に私がここに住んでるんですから、いっそのこと、ここを私の家であることに、しちゃいましょうか』って言うの、変でしょ」
これは、重要な論点だと思う。
憲法というのは、一種の理想を示したものだろう。そして、理想というのは、北極星のようなものだと私は考える。それは、次のような意味においてだ――磁石もなかったぐらいの昔の船乗りが、もし北にむかって航行しようと思ったらどうするか。北極星を目印にするだろう。北極星は、天の北極にあってほとんど動かないため、そこにむかって進めば、とりあえず北にむかうことができる。だから、北極星にむかって進む。
ここで重要なのは、いくら船を漕いだところで北極星に着くことはないということだ。どれだけ漕いだところで船は北極星にはたどり着かないし、実際のところ、その必要もない。あくまでも北にむかうための目印なのだから。
理想というのは、そういうものではないだろうか。
なにも憲法にかぎらず、“理想”と呼ばれるものは、往々にして実現不可能である。たとえば、生物学において、マウスを使った実験をやるとする。そこで対照実験というものをするわけだが、そのときに、実験のターゲットになっていること以外の条件をすべて完全に等しくすることは現実的には難しいだろう。個体間で遺伝子に違いがあるし、仮にまったく遺伝子が同じ一卵性の個体を準備したとしても、生活環境の違いで体質に違いがある可能性は否定できない。だが、実験をやる以上、科学者は“理想状態”に少しでも近づけるための努力をする。マウスを使うなら、なるべく遺伝情報に違いがないように工夫して交配・飼育した個体を使うのがふつうだ。この場合「どうせ完全に同じにするのが不可能だから」といって、そのへんにいるねずみを適当に捕まえてきて実験をしたら、正確なデータをえられないおそれがある。完全にできないからといってはじめから努力を放棄してしまったら、重大な誤りが生じてしまう危険があるのだ。理想と現実に乖離があるとしても、とにかく理想に近づくための努力は放棄してはならない。まして、現実に合わせて理想のほうを変えるなどというのは、もってのほかである。生物学のアナロジーでいえば、もしそのへんで捕まえたマウスを使って実験をしてもいいということになれば、生物学そのものが危機に瀕するだろう。
さて、ここで次に問題となるのは、理想そのものの妥当性だ。すなわち、憲法9条が掲げる平和主義というものが理想とするに値するか――ということが問われなければならないわけだが、この点に関しては議論の余地はないだろう。平和と戦争とどちらが人の目指す目的としてふさわしいかというのはあきらかだ。「平和こそが目的だ。どうしても平和を実現したいんだ」という主張はなんらおかしくないが「戦争こそが目的だ。どうしても戦争を実現したいんだ」という主張は、誰がどうみ見てもいかれている。
ところが、今の自民党の姿勢をみていると、まるで彼らがそのいかれた主張をしているように私には見えてしまうのだ。戦争そのものは目的ではありえないのだから、仮にその必要性を認めるとしても、あくまでも何かの手段としてであるはずなのだが、政府与党(一応、公明党は除いて)の言動は、とにかく戦争そのものを目的として、そのために無理な理屈をひねり出し、反対意見を無視し、既成事実化を進めているように私には感じられる。
「GHQが一週間で作った憲法」などというあきらかに事実に反した話がプロパガンダとして語られ、政府関係者が、「いきなり9条は変えられないから、まずは環境権といった当たり障りのないことで改憲をやる」といったようなことを堂々といっている。こういう現状に、あらためて危機感を表明しておきたい。
※おそらくこの論は、何かの本からの引用と思われる。作中で蜜代っちは「前に読んだ本の受け売りなんだけれど」と前置きをしているし、私自身も、故・小田実氏が似たようなことをコラムに書いているのを読んだことがある。
それにあたって、以前にも紹介した伊坂幸太郎氏の小説『魔王』から、ふたたび一つのエピソードを紹介しよう。この作品の中で、登場人物が改憲について議論する場面である。憲法と現実を合わせるべき、と主張する改憲賛成派の「赤堀君」に対して、反対派の「蜜代っち」はこう反論する。
「たとえば憲法には、『人は誰でも平等に扱われる』って書いてあるでしょ。でも、現実には男女差別とかあるわけじゃない。その時に、『現実に合わないから、男女差別はあり、って憲法を改正しましょう』なんてならないでしょ」(※)
それに対して赤堀君は、「意味合いが違いますって。だって、男女差別のほうは、男女雇用機会均等法とか、差別をなくす方向で法律とかできてるじゃないですか。方向としては、憲法と現実は合ってるんですよ」
そこへ、蜜代っちは「でしょ?」と続ける。「憲法があるから、そうやって、法律ができるんだって。九条も一緒。本当なら九条に合わせないと駄目なのに、勝手に政治家が違う方向にしているだけじゃない。戻さないと。だってさ、勝手に家に他人が上がり込んできて、『現実に私がここに住んでるんですから、いっそのこと、ここを私の家であることに、しちゃいましょうか』って言うの、変でしょ」
これは、重要な論点だと思う。
憲法というのは、一種の理想を示したものだろう。そして、理想というのは、北極星のようなものだと私は考える。それは、次のような意味においてだ――磁石もなかったぐらいの昔の船乗りが、もし北にむかって航行しようと思ったらどうするか。北極星を目印にするだろう。北極星は、天の北極にあってほとんど動かないため、そこにむかって進めば、とりあえず北にむかうことができる。だから、北極星にむかって進む。
ここで重要なのは、いくら船を漕いだところで北極星に着くことはないということだ。どれだけ漕いだところで船は北極星にはたどり着かないし、実際のところ、その必要もない。あくまでも北にむかうための目印なのだから。
理想というのは、そういうものではないだろうか。
なにも憲法にかぎらず、“理想”と呼ばれるものは、往々にして実現不可能である。たとえば、生物学において、マウスを使った実験をやるとする。そこで対照実験というものをするわけだが、そのときに、実験のターゲットになっていること以外の条件をすべて完全に等しくすることは現実的には難しいだろう。個体間で遺伝子に違いがあるし、仮にまったく遺伝子が同じ一卵性の個体を準備したとしても、生活環境の違いで体質に違いがある可能性は否定できない。だが、実験をやる以上、科学者は“理想状態”に少しでも近づけるための努力をする。マウスを使うなら、なるべく遺伝情報に違いがないように工夫して交配・飼育した個体を使うのがふつうだ。この場合「どうせ完全に同じにするのが不可能だから」といって、そのへんにいるねずみを適当に捕まえてきて実験をしたら、正確なデータをえられないおそれがある。完全にできないからといってはじめから努力を放棄してしまったら、重大な誤りが生じてしまう危険があるのだ。理想と現実に乖離があるとしても、とにかく理想に近づくための努力は放棄してはならない。まして、現実に合わせて理想のほうを変えるなどというのは、もってのほかである。生物学のアナロジーでいえば、もしそのへんで捕まえたマウスを使って実験をしてもいいということになれば、生物学そのものが危機に瀕するだろう。
さて、ここで次に問題となるのは、理想そのものの妥当性だ。すなわち、憲法9条が掲げる平和主義というものが理想とするに値するか――ということが問われなければならないわけだが、この点に関しては議論の余地はないだろう。平和と戦争とどちらが人の目指す目的としてふさわしいかというのはあきらかだ。「平和こそが目的だ。どうしても平和を実現したいんだ」という主張はなんらおかしくないが「戦争こそが目的だ。どうしても戦争を実現したいんだ」という主張は、誰がどうみ見てもいかれている。
ところが、今の自民党の姿勢をみていると、まるで彼らがそのいかれた主張をしているように私には見えてしまうのだ。戦争そのものは目的ではありえないのだから、仮にその必要性を認めるとしても、あくまでも何かの手段としてであるはずなのだが、政府与党(一応、公明党は除いて)の言動は、とにかく戦争そのものを目的として、そのために無理な理屈をひねり出し、反対意見を無視し、既成事実化を進めているように私には感じられる。
「GHQが一週間で作った憲法」などというあきらかに事実に反した話がプロパガンダとして語られ、政府関係者が、「いきなり9条は変えられないから、まずは環境権といった当たり障りのないことで改憲をやる」といったようなことを堂々といっている。こういう現状に、あらためて危機感を表明しておきたい。
※おそらくこの論は、何かの本からの引用と思われる。作中で蜜代っちは「前に読んだ本の受け売りなんだけれど」と前置きをしているし、私自身も、故・小田実氏が似たようなことをコラムに書いているのを読んだことがある。