真夜中の2分前

時事評論ブログ
「真夜中の5分前」→「3分前」→「2分前」に

武力で平和はつくれない――9.11の教訓

2015-09-11 21:04:06 | 政治・経済
 今日は、9月11日である。
 このブログを開始してからはじめての9月11日となる。
 せっかくなので、2001年9月11日にアメリカで発生したあの同時多発テロに触れておきたい。単に日付の問題ではなく、いよいよ決着のときがせまる安保法案について考えるに際しても、そこには重要な教訓があると考えるからだ。

 あのテロが起きた後、アメリカはアフガン攻撃に突き進んでいった。「報復からはなにも生まれない」といった言葉は、報復を叫ぶ喧騒のなかでかき消された。

 日本のことをいえば、それは当時の小泉総理の訪朝、そこで北朝鮮が拉致を認めたことに端を発する“サヨク”叩きの時代と重なっていた。それ以前からそういう風潮はあったが、それがますます強まっていった。それが、後のイラク邦人人質事件での人質に対するバッシングなどにも表れていた。

 そんな状況の中で、アメリカはアフガン攻撃に進んでいく。
 このブログでは何度か書いたが、NATOはその結成以来はじめて集団的自衛権を行使し、アメリカの攻撃につきあった。そしてその後、さらにアメリカはイラク戦争に踏み切る。
 その結果、世界は平和になったか?
 安全になったのか?
 幸福になっただろうか?
 いずれも、答えはノーだと思う。

 アメリカを中心とするNATO諸国による攻撃は、多くの死者を出し、アフガニスタンを荒廃させ、いまなおアフガンの情勢は安定しているとはいいがたい。また、アフガン攻撃から続く中東での終わりのない戦いは、それに直接間接に参加した欧州諸国でのテロを誘発した。イギリス、スペイン、ドイツ、フランスなどでテロが発生している。そして、戦場となったイラクを中心にして「イスラム国」というモンスター集団が跋扈するようになった。結局のところ、9.11に端を発するこの十数年の戦争は、攻撃したアメリカ、集団的自衛権で行動をともにしたNATO諸国、そして攻撃されたアフガニスタンやイラク――関わったすべての人々を傷つけ、不幸にしただけではないのか。
 報復からはなにも生まれない。
 武力で平和はつくれない。
 この十数年で、そういった“きれいごと”のほうが正しかったということが証明されたのではないだろうか。

 ここでもう一度、日本の話に戻る。
 ツイッターやブログなどで安保法案賛成派の言説を見ているといつも思うのだが、彼らの多くはつまるところ“サヨク”的な言動が嫌いで、そういう生理的な嫌悪感から安保法案反対派に対して反発しているだけなのではないだろうか。
 そういった人たちにいっておきたい。そんな生理的な嫌悪感で、この国の行方を危うくするような法制をうかつに支持すると後で後悔することになるかもしれないぞ、と。
 “サヨク”的な“きれいごと”をむずがゆく感じるという気持ちは、わからないではない。かつては私にもそんな時期があった。
 だが、この十数年ぐらいの世界を見ていて思うのは、誰もきれいごとをいわなくなったら世の中は砂漠になってしまうということだ。「人権擁護」とか「平和を守ろう」とか、そういう青臭い“きれいごと”をいう人たちがいるおかげで、世の中はなんとかもちこたえている。誰もそういうことをいわなくなったら、世界は重力に引かれるようにして闇に落ちていってしまう。そして、いまの日本はだんだんそういう状態に近づきつつある――そんなふうに思えるのである。そのように思えたからこそ、このブログをはじめた。「真夜中の5分前」というタイトルは、単に有名小説から借りてきただけではなく、日本の社会が暗闇に引きずりこまれる一歩手前だという含意がある。
 
 「私たちは、暗闇のなかでこそ光の大切さを知り、沈黙のなかでこそ声の大切さを知る」

 昨年ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイの言葉である。
 いま、日本中で多くの人たちが声をあげているが、それらは沈黙を破る声であり、暗闇のなかの光だ。少なくとも、私にはそう見える。この国が完全な真夜中に陥ってしまわないために、この声を途切れさせてはいけないし、この灯りを消してはならない。だからこそ、きれいごとといわれようが、私はここでいっておきたい。
 武力で平和はつくれない。
 そして、安倍政権が進める安保法制には断固として反対することをあらためて表明する。

恥を知れ、“不自由非民主党”

2015-09-09 20:56:53 | 政治・経済
 9月8日、自民党の総裁選において、安倍総理が無投票再選を果たした。
 直前まで出馬の道を模索していた野田聖子氏は結局必要な推薦人を集められず立候補を断念し、自民党内のすべての派閥が安倍総理を支持した。
 この件で、自民党には自浄能力もないことがはっきりした。彼らは、みずからの手で良識を示すことができる機会をみすみすふいにしたのである。あまりにも惨めで、あまりにも情けない政府与党の姿だった。誰がいいはじめたのか、“不自由非民主党”という言葉があり、民主党の枝野幹事長もこの言葉を使って安倍総裁の無投票再選を批判したが、まさに今の自民党にはその名がぴったりだ。彼らのオーウェル的世界では、戦争は平和であり、自由は隷属であり、民主は独裁なのだろう。

 党幹部のしめつけに屈してこの茶番劇に手を貸した自民党議員たちには、ただ一言、「恥を知れ」といいたい。

 世の中では、多くの人が安保法案に反対している。
 就職に不利になるぞなどと脅しのようなことをいわれながら、心ない罵声を浴びせられながら、それでも学生たちが声をあげている。
 そして、公明党の支持母体である創価学会のなかにも反対の声をあげる人たちがいる。学会内部で仲間はずれや嫌がらせといった目にあいながら、それでも彼らは抗議行動に参加している。
 彼らの勇気に、私たちは心を震わされずにはいられない。
 このように勇気と覚悟を示してくれる人たちがいるからこそ、安保法案に反対する多くの人たちは、絶望的な状況にもくじけることなく、何度でも立ち上がれる。苦しい状況で戦い続けている人たちがいるときに、あきらめてなどいられないと自分に言い聞かせて、また声をあげ続けることができる。

 それに対して、自民党議員らはどうか?
 なんの特別な地位ももたない市井の人々が危険を負いながらそれでも声をあげているときに、恥ずかしくないのだろうか? それとも、その負い目から、「デモに日当が支払われている」などというデマを口にするのだろうか?
 どうせいっても信じないのだろうが、デモに日当など支払われていない。私自身がその証人である。デモに参加したところで一円の得にもならない。どころか、交通費やらでむしろ損をする。それでも、抗議活動には多くの人が集まってくる。それは、そうしなければならない、そうせずにはいられないからだ。いま行動しなければ、日本が壊れてしまうと感じているからだ。自分がカネでしか動かないから他人もそうだと思いこんでいるような連中とはちがうのである。
 安保関連法案は、これまで審議されてくるなかで次々と問題点・矛盾点が出てきて、もはやボロボロである。それを、狂気じみた論理で押し通そうとする国家主義者たち、「これが通せなかったら政権の面子にかかわるから」というような理由でそれを後押しする党執行部、そして、保身のためにそれに抗議することもできないヒラ議員たち――路上で声をあげている名もなき人々と比べてみれば、彼らがいかに卑小にみえることか。
 最後に、もう一度いおう。
 自民党議員たちよ、恥を知れ。

それぞれのドラムで――9月6日「安保法案の廃案を求める市民集会」@福岡

2015-09-07 15:26:16 | 政治・経済
  もしも私たちの歩調が合わないとしたら、それはおそらく、私たちがそれぞれのドラムを聞いているからです。私たちはそれぞれに、内なる音楽に耳をかたむけ、それがどんな音楽であろうと、どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。                                                                               ――H.D.ソロー


 9月6日、冷泉公園で福岡県弁護士の主催による「安保法案の廃案を求める市民集会」が開催された。その模様をレポートしたい。
 今回は、音声を録音したものがあるので、そのリンクを貼っておく。あらかじめことわっておくと、残念ながら動画を撮影する機材がなかったので、録音した音声に静止画をつけただけのものである。その音質もあまりよくないが、それぞれのドラムに耳を傾けてほしい。
 いよいよ国会審議も大詰めをむかえるなか、今回は、私がこれまでに参加した中では確実に過去最大規模の集会・デモとなった。



 主催者発表で4500人。さらにこの日は、福岡県北部の北九州市小倉区にある勝山公園でもまた別の大規模な集会が開かれており、両方の合計で参加者は8500人になるという。確実に、安保法案反対の声は拡大しているのだ。

 集会には、民主・共産・社民の国会議員も登壇し、スピーチした。



 画像は、社民党の吉川衆議院議員。国会審議では影が薄い感も否めないが、社民党もがんばれ!


 国会議員らのアピールに続いて、福岡で粘り強い活動を続ける「福岡・戦争に反対する女たち」、先日学生団体が一同に会しての合同会見でも話題となった学生団体「Fukuoka Youth Movement」、そして「安保関連法案に反対するママの会」から、それぞれ代表者がスピーチした。

 集会後は、恒例のデモ。
 これだけの人数であるから、今回は3コースにわかれてのパレードとなった。



 私の参加したコースでは、イラストレーターのいのうえしんぢ氏プロデュース(?)による文字通りの“パレード”。
 先導のトラックに乗るのは、以前このブログでも紹介した“武装より女装”のいのうえ氏である。あの画像だけ見るとふざけているように見えるかもしれないが、これでこの人は新聞にもとりあげられたりする有名人なのだ。若い世代やこれまであまり政治に興味のなかった人でも参加しやすいようにということでさまざまな政治参加の形を工夫しておられ、今回はみずからがMCを担当し、歌あり、踊りあり、DJあり、シャボン玉も飛ばしてのにぎやかなパレードを先導したわけである。
 下は、その一部。弁護士の方がスピーチをして、それに続いていのうえ氏がコーラーとなってコールをあげる場面。動画でなくて恐縮です。

https://youtu.be/JupV4FKDNTQ



 トラックの側面には、「戦争で平和をつくれるの?」という横断幕。プラカードなどにも使われているこのイラストも、いのうえ氏によるものとのこと。



 ちなみに、学生団体FYMのロゴマークをデザインしたのも、いのうえ氏らしい。ふざけてるように見えて、案外ちゃんと仕事してるのである。

 このパレードでは、自作と思われる歌も披露されるなどさまざまな趣向が凝らされていたが、そのなかでヒューマン・マイクロフォンというのも行われた。これは、スピーチをフレーズごとに切ってコール&レスポンスの形式で全員で読み上げていくというものである。その全文を以下に掲載する。

  聞く耳をもたない総理大臣が 戦争を始めようとする夏
  私たちはいま 路上に出て声をあげる
  日本全国あらゆる場所から 戦争はいやだと声をあげる

  汗を流しながら
  涙をぬぐいながら
  大きな声で笑いながら

  踊ってみせること
  声をあげること
  デモで歩くこと

  伝えることはただひとつ
  戦争へのカウントダウンを止めること
  でも止めるだけじゃなく 私たちがほんとうに望むのは
  戦争のない世界を スピードをあげてつくること

  戦争は答えではなく
  命はうばうものでなく
  命は守るものだから

  私たちは伝えたい
  安保法案はいらないと
  私たちは伝えたい
  新しい世界は可能だと


 ネット上を探せばどこかに動画があるかもしれないので、もしできたら動画でも見てほしい。この場の熱気が伝わってくるだろう。


 学生団体FYMは、今回もドラムを打ち鳴らしてのパレード。「民主主義ってパンダ!」のパンダと「状況を変える」のカエルの姿もみえる。



https://youtu.be/nI7JRyul8aY

 FYMは7月に結成された団体だが、それに触発されて北九州でもその姉妹組織が結成され、勝山公園での集会に参加したようだ。若者たちの行動も着実に広がっている。



 私の参加したコースは、中央公園にたどりついたところで終了。しかし、その後の中央公園でもコールは続く。





 スネアドラムに和太鼓、そしてアフロ美女とのコラボで、「安倍はやめろ!」、「やつらを通すな!」、「いうこと聞かせる番だ、俺たちの!」とシャウトした。下は、その音声。

https://youtu.be/WD-bGroSjsU

 同じ中央公園の少し離れたところでは、このような牧歌的光景も。



 もちろん彼らもデモ参加者である。おそらくは「ママの会」関係の方々と思われるが、こうしてみてくると、いかに多様な人々が参加しているかがわかる。
 新しいタイプの活動にどうしても目がいってしまうが、労組関係など、旧来型のいわゆる活動家ももちろん参加していて旧来型のシュプレヒコールを挙げる伝統的なデモもあった。そうした活動が数十年にわたって脈々と続けられてきたことが、今回の反安保法案活動を下支えしていることも忘れてはならない。
 また、北九州の集会には、フォークシンガーの中川五郎氏も参加し、ベトナム戦争当時の反戦歌を披露したということである。政治家や弁護士、伝統的な市民活動家から、学生たち、母親たち、ミュージシャンにイラストレーター、そして私のように完全に個人で参加した人たち――この幅広い人々が結集し、それぞれのドラムにあわせて声をあげたことに意味がある。
 冒頭に引用したのは、ソローの『森の生活』の一節である。ソローといえば、米国の進める戦争(たしかメキシコ戦争だったと思う)に反対し、「私は戦争に協力するために税金を納めるつもりはない」と納税を拒否して収監されたという武勇伝を持つ人物であるが、今こそ、彼の言葉に耳を傾けるときではないだろうか。
 この先の国会審議がどうなるにせよ、安倍政権の暴走が続く限り、この運動は止まらない。止まらせてはいけない。これからも、それぞれのドラムにあわせて、この歩みを続けていこう。

ミサイル迎撃で日本の安全は守れるか

2015-09-04 16:48:58 | 政治・経済
 先日コメントをいただいたので、それについて書きたい。
 「ミサイル迎撃について」という記事に対してのものである。かなり長いコメントなので、ここには掲載しない。コメントの本文については当該記事を参照されたい。

 その記事でも書いたとおり、私はミサイルや艦船の種類に関してはまったくの素人である。そのため、迎撃システムの説明についてはそんなものかと思うよりほかないが、しかし、それでも私は、このシステムで安全が保障されるということについては懐疑的である。以下、それについて詳述する。

 まず、ミサイル迎撃の成功率は80%程度という。
 しかもこれはあくまでも実験でえられた数値であり、実際にそれだけの確率で迎撃できるかどうかはまったく未知数である。なぜ未知数かといえば、実戦で実際にその技術がフルに駆使されたという例がないためだ。冷静に考えれば、このような複雑なシステムが、一度のテストもなしに想定どおりに完璧に機能すると考えるほうが無理がある。もし実際にミサイルが何本も飛んでくる事態になったら、想定していなかったような不具合が次々に起きて「こんなはずじゃなかった」ということになる可能性は大いにあるだろう。
 また、現在のミサイル迎撃技術では、多弾頭型のミサイルには対応できないともいう。多弾頭型というのは、発射された後に弾頭の部分がいくつかのミサイルに分裂して飛んでいくというタイプのミサイルだ。いまのミサイル迎撃システムは、この多弾頭型ミサイルに対してはまったくお手上げだという。

 いっぽうで、迎撃システム自体を無効化させる技術も研究されている。
 たとえば、ミサイル発射時にダミーを大量に発射するということが考えられているそうだ。本物のミサイルと一緒に、ニセモノを大量に発射する。そうすると、迎撃システムはどれが本物かが識別できず、ニセモノにも向かっていく。その結果、本物のミサイルが迎撃システムをかいくぐる率が高まる――という策である。
 あるいは、衛星破壊兵器も研究されている。
 迎撃ミサイルは、GPSのサポートをえて標的にむかっていく。そこで、GPS衛星を破壊してそれをできなくしようというわけである。中国などは、過去に、実際に衛星破壊実験を行っている。
 そのように迎撃システムを無効化する研究が進めば、迎撃システム側のほうも進化していくというイタチごっこになるだろうが、どうもこの競争は迎撃システムを無効化する側が常に有利であるように見える。もともと「飛んでくるミサイルにミサイルをぶつける」ということ自体がおそろしく難しい技術であるから、それをかいくぐるためにはほんの少し工夫をするだけでよさそうなのだ。
 もう少しいえば、大量破壊兵器で敵国を攻撃しようと思ったら、方法は弾道ミサイルだけではない。工作員が持ち込んで爆発させるということだって考えられるだろう。そのようなやり方に対しては、ミサイル迎撃はまったく意味がない。

 このように考えてくると、ミサイル迎撃システムというのは決して完璧なものではなく、たとえ米軍との完全な一体化が成就したとしてもあちこちに穴があるのだ。もし実際にどこかの国との緊張状態が極点に達してミサイルが飛んでくるかもしれないという事態になったら、少なくとも私は、この迎撃システムがあるからという理由で安心して生活する気にはまったくなれない。
 イタチごっこで、もし“有事”の際に相手のほうが一歩先をいっていたら? こちらが想定もしていなかったような奇策をとってきたら? 「こんなはずじゃなかった」というような事態はそうして起きるのではないだろうか。軍事の専門家が「○○という技術で△△には対応できるから大丈夫です」といってそれで安全が保障されるなら、人類は過去にあんなに悲惨な戦争を経験せずにすんでいたはずである。

 そして、もう一つの問題は、これが新たな軍拡に道を開くということである。
 先に中国が行った「戦勝70年記念パレード」は、日米に対するけん制という意味合いがあるというが、こちらが連携して迎撃システムを作るということになれば、向こう側もそれに対するリアクションをとるわけである。互いにそういうことを続けていくのは、リスクを高めることにしかならない。
 先ほどミサイル迎撃システムを無効化する研究のことを書いたが、そんなたいした技術でなくとも、相手が迎撃ミサイルを百本しか持っていないところに二百本のミサイルを撃ち込めば少なくとも百本は撃ち落されずにすむというのは小学生でもわかる計算である。迎撃システムの構築は、文字通りの「数うちゃあたる」で“敵”の側がミサイルを大量に保有しようとする動機にもつながりかねない。
 また、衛星破壊兵器のことも書いたが、軍拡の舞台はサイバースペースにも広がっていく。コンピューターシステムを攻撃して不全に陥らせるという方法が考えられているのだ。こうして、陸海空ばかりでなく、宇宙やサイバースペースも含めた“全次元”の軍拡競争の扉が開かれることになる。
 先ごろ、2016年度の概算要求で、防衛省は過去最大となる5兆911億円を要求した。4年連続の要求増であり、中国を意識した「南西シフト」を強めるねらいだという。このまま際限なく防衛費を増額させていくとしたら、たださえ火の車となっている日本の財政はそれに耐えられるのだろうか――そういう心配もしなければならない。防衛費を確保するために社会保障を削減するということになれば、国民はセーフティネットの不十分な社会で不安定な暮らしを強いられるということにもなる。「軍事栄えて国滅ぶ」という状況では、なんのための安全保障なのかという話である。

 最後に、これはおそらく軍事の専門家でも同意すると思うが、ひとたび破局的な事態が生じて万が一弾道ミサイルが飛び交うということになったら、そのすべてを撃ち落して被害をゼロにできる可能性はかなり低いだろう。北朝鮮ぐらいならともかく、中国とガチのミサイル合戦となったら、すべてを確実に撃ち落せると断言する人はそういまい。何発かは迎撃の網をかいくぐってくると考えたほうがいい。そして、それが核弾頭であったら、たとえ数発でも被害は甚大なものになる。
 であるなら、ミサイル迎撃などという不確実なものに頼るよりも、まず破局的な事態を引き起こさないような外交努力のほうに力を注ぐべきである。
 スズメバチは脅威的な生き物だが、こちらが攻撃したり縄張りに近づいたりしなければ、むこうから攻撃はしてこない。蜂が怖いからといって武器を持ってその巣のまわりをうろうろするのは、いたずらに危険を高める愚行である。安全を確保したいなら、どうにか相手を刺激しない方法を考えたほうがよほどいい。そちらのほうが、一度も実戦で使われたことのない穴だらけ隙だらけの迎撃システムよりも、はるかに現実的で、確実で、しかも低コストである。

安倍政権は外交も失敗続き

2015-09-02 19:06:56 | 政治・経済
 少し前まで、安倍政権のこれまでを検証しようという記事をシリーズで投稿していた。その続きとして、今回は、安倍政権の外交について考えてみたい。
 まず中国、韓国との関係が冷え込んでいるというのは、いうまでもないことだろう。もうそれが当たり前の状態になってしまっていてほとんど問題にもされないぐらいだが、ここまで冷却した関係が続くのも異常である。そして、中韓がともに日本との関係を悪化させると、この二国が連携してしまうから厄介だ。そして、安倍政権が続くかぎり、根本的な関係改善は不可能だろう。総理や閣僚たちが関係改善しようと思っても、閣外にいる自民党議員たちの言動でそれが相殺されるということが延々と繰り返されるにちがいないからだ。
 また、北朝鮮の拉致再調査もどうなってしまったのかよくわからない状況だとなっている。
 一部報道によれば、北朝鮮側はすでに調査を終了させその結果を出しているが、日本側がその受け取りを拒否しているもという。8月22日の朝日新聞電子版にアップされた記事によると、訪朝した日本の民間団体関係者に対して北朝鮮高官がそのように話した。「日本政府の従来の主張と食い違うので、誰かがその責任を問われることになると懸念して受け取らないのではないか」といったという。
 当然というか、政府側はそのことを否定しているし、もちろん、北朝鮮という国のいうことだからそのままに受け取ることはできないのだが、安保法案反対の署名受け取りを拒否するなどという対応をみていると、いまの政府・自民党ならそういうことをやりかねない、と思えてしまうのもまた事実だ。
 いずれにせよ、再調査の結果がいまだ公表されていないというのは事実である。北朝鮮側にもともとまともに調査する意志などなく、孤立状態を打開すべく、北朝鮮包囲網の足並みを乱すための切り崩し工作に日本を利用し、安倍政権はそれにまんまと乗せられただけ――という線が濃厚である。このことが明るみに出れば、政権は致命的なダメージを受ける。それをおそれて報告書の受け取りを拒否している、というのもじゅうぶんありそうなことではないか。
 報告書受け取り拒否というのが事実であるにせよないにせよ、北朝鮮の「拉致再調査」が切り崩し工作だったとすれば、それはある程度成功したということになるわけだが、それもまた、中韓との関係が冷え切っているためだろう。もともとぎくしゃくしているところに、安倍総理は安保法案審議で中国を名指ししてその脅威を訴えるなどということをしている。これでは、日中韓の三カ国が結束して北朝鮮にプレッシャーをかけることなどできようはずもない。つまりは、安倍政権は、その稚拙な外交のために、北朝鮮にも足元を見透かされているのだ。

 先日のロシア首相による北方領土訪問も、そういう背景があってのことなのである。
 先月ロシアのメドベージェフ首相は北方領土訪問を強行した。この訪問だけでも大問題だが、それを批判する日本人に対して、ロゴージン副首相がツイッター上で「彼らが本当の男だったら伝統に従って“ハラキリ”をして静かになっていただろうが、ただ騒いでいるだけだ」という暴言を吐いた。信じがたいような発言である。しかし、なぜこのような発言が出てくることを許してしまったかということを考えなければならない。日本が孤立しているからこそ、ロシアもいろいろな“配慮”をせずにこのように好き放題の挑発的言動に出られるのだ。この副首相の暴言に対して、菅長官は「びっくりしている」というしかなかった。これが日本外交の現状なのである。

 肝心の日米関係についても、じつは安倍政権がこのまま続いていけば危ういと私は考えている。
 日本が集団的自衛権の行使を容認し、米軍の行動を後方支援するというぐらいのところまでなら、アメリカも手放しで歓迎するだろう。だが、それ以上に踏み出すことはアメリカの側も望んでいない、というか、むしろそれはしてほしくない。それがアメリカの本音だ。安倍総理らの目指していることは、あきらかにアメリカが望ましくないと考える領域に入り込んでいる。そして、自分の望ましくないことをする国家に対しては――たとえそれがかつて友好的な相手だったとしても――アメリカが容赦なく手のひらを返すということは、歴史が示している。前回の記事にも少し出てきた話だが、アメリカはかつてイランに対抗するためにイラクのフセイン政権を支援していたものの、自分に都合が悪くなると、あっさりイラクを敵として攻撃をくわえ、二度の戦争でフセイン体制を崩壊させた。

 また、安倍一味の歴史認識とアメリカ側のそれには、致命的な不一致がある。安倍総理とその一味のネトウヨ的歴史観は、太平洋戦争を「アメリカを中心とする“正義”の連合軍が“悪”の枢軸国を破った戦い」とみなすアメリカにとって到底受け入れがたいものである。それを前面に押し出せば、アメリカとの関係もギクシャクし始めることは請け合いなのだ。つまり、いまはまだいいが、安倍政権の路線をこのまま進めていけば、やがてアメリカからも愛想をつかされることになる。そうなれば、中国、韓国、北朝鮮と敵対し、ロシアからは足元をみられ、アメリカからも見放され、日本は極東で孤立する……
 上記のように、安倍政権の外交は現時点でも相当に行き詰まりをみせているが、安倍政権が続けば対外関係がますますおかしくなっていくのは目に見えている。