命のカウントダウン(健康余命3605日)

トレッキング、カメラ、陶芸、スキー、釣り、カヌー、遊びなら何でも大好き。仕事も好き、時間がない!

雨に打たれて考えた。

2022-04-11 23:34:00 | 思い出
雨が続いた梅雨でした。3,4日は何にもしないで家でゴロゴロしていたのですが、一週間近くになると流石に色々考えました。そして、車で走ってみる事にしました。
しかし、雨の中、チリ紙交換の車を走らせても、出て来てくれる人なんて皆無です。
雨の日は、オフィス街のビルの中で故紙を集めたりもしていたのですが、雨が続くと似たようなことを考える人も多くなります。大体、オフィス街に車を止めるところも少ないですし、苦労して車を止めてオフィスを訪ねて行っても、古新聞、古雑誌などがあふれるほど溜まって困っているなら歓迎してもらえるるでしょうが、・・・そんな状況に出くわす事は稀で、ほとんどの場合招かれぬ客、ゴミ野郎と、邪険にあしらわれます。そんなことは百も承知しているつもりですが、そうは言っても、ゴミ扱いされ続けると、心が重くなって動けなくなってしまいます。

私、もともと傘をさすのが嫌いなので・・・・雨の中、傘もささずに考えた・・・・のであります。


ま、雨の中に立っているというのは、なかなかに情緒があっていいもんです。

続く




人生の転機と天気(日本の雨季)

2022-04-10 22:46:41 | 思い出
日本には梅雨と言う雨季があります。
京都出身の私にとっては、6月中旬から祇園祭の山鉾巡行まで位の、蒸し暑い日々という位の捉え方でした。あの初夏までは。

チリ紙交換になってから、10か月ほど経って、初めての梅雨を迎えました。時はチリ紙交換全盛期、故紙の値段が高くて((新聞37円、雑誌36円、段ボール38円) 東京都製紙原料協同組合調べ)楽しい日々を送っていました。

梅雨入りしたばかりの頃、ひらめくものがありまして、トラック一杯古新聞等を集めたのですが、その日は荷下ろしに行かず、自宅の露天の駐車スペースにそのまま軽トラを止め置きました。その夜は篠突く雨でした。今と違って、昭和の時代に、夜に強い雨が降ることは珍しかったです。梅雨には細かな雨が続くことは多かったですが、今の様な暴力的な降り方をすることはありませんでした。篠突く雨と言っても、時間15㎜程度だと思いますが、当時としては珍しい一晩続く雨でした。

深夜になって突然「バーン」という何かが破裂するような音が鳴り響きました。音は自宅前だと思えました。交通事故だ!と、思いましたが、引き続いての音が何も聞こえてきません。交通事故なら、ドアを開ける音や人の声など聞こえてくるはずです。一体何が起こったのだろうと家の前に出たのですが、家の前には何もありませんでした。

何が起こったのだろうと見渡して、何もなくて、首をかしげながら家に戻って、原因が分かりました。
軽トラックの荷台の外枠が3方向とも垂れ下がっています。外枠はこんな金具でロックを掛けていたのですが、そのロックが二つとも吹っ飛んでいました。
金具を吹っ飛ばした原因は、新聞紙+雨!!
荷台に、束ねた新聞紙をきちんと1列に並べていました。普段は、その上に雑誌や段ボールを積むのですが、雨がよく当たる様に、雑誌や段ボールは地面におろしていました。
それで、荷台にきっちり詰め込まれた新聞紙に雨がザアザア降り注いだわけです。私の目論見は、それで吸い込んだ雨の分だけ重量が稼げる。
「雨が降るとチリ紙交換が儲かる」などとうそぶいていたのですが・・・・
甘かったのでありました。荷台にきっちり詰め込んだ新聞紙、雨を含んで膨張したのです。少しくらいの膨張なら、軽トラとはいえ、鉄で頑丈に作られている荷台ですから何とか耐えてくれたのでしょうが、いかんせん雨の量が多かった。それで、新聞紙がブワッと膨張(1割以上膨らんでいた?)し、ゲートロックの金具をぶっ飛ばしたのでした。

翌日、濡れた新聞紙を荷下ろしに行ったのですが、流石に、「今後は、こんなずぶ濡れの新聞は引き取らない」と、言われました。

まあ、この事件でチリ紙交換を辞めたわけではないです。そのシーズンの梅雨は、本当に雨が多くて、10日近く雨が続いたことがありました。それで、「チリコ殺すにゃナイフは要らぬ、雨の3日も降ればよい」などと強がって?おりましたが、本当に困りまして、「これは、何とか次の仕事を見つけないといけないぞ、出来れば、季節変動の少ない仕事が良いかな。」などと思っておりました。

そんな事がありまして、その前に学生下宿から大量に出された蛍雪時代の一部がまだ手許にあったので、それを読み始めたのです。

                        続く














見返れば その3

2022-04-05 00:42:59 | 思い出
出勤、退勤、いずれも自由、休日をいつ取るかまで全てFREEの身となった私は、面倒な上司もいないチリ紙交換業を大いに楽しんでおりました。

とは言え、朝は大体9時頃には仕事を始め、昼頃に最寄りの「餃子の王将」でチャーハンとギョーザ2人前を食べ、夕方まで仕事してました。、突然夜間早朝に呼び出されてしまう今の生活よりも規則正しい生活をしていたのかもしれませんね。

 チリ紙交換になって最初に驚いたのは、チリ紙交換の主戦場である平日の昼間の住宅街が、女性と子供の街であるという事でした。あれから半世紀近く経つので、今は少しく違っているのかもしれませんが・・・・当時のチリ紙交換車は、女性と子供ばかりの街を騒々しく走って(ローギアでアクセル踏まず)おりました。追いかけて、声をかけてくれる方、即ちお客さんは100%女性でした。1年足らずの間でしたが、男性客の記憶が殆ど無いです。 例外として、友人とピクニックがてら田舎に遠征した時、全く成果が無かったので、こちらから「古新聞ありませんか」と訪ねて行った先の和尚さん。この時は色あせ風化した戦前からの超大量(40年分位)の新聞が出ました。
新聞って、一社一か月分約10㎏なのです。なので、1年で120㎏、40年で約5t
当時の軽トラ、350kg積でした。そのタイヤ圧を目一杯上げて、1t以上積んで走ることがままありました。このときも1t以上積んで2台で2往復したのですが、途中で何度かパンクして、荷物を一旦途中の公園の一角にデポ(一旦荷物を降ろして、後で引き返して荷物を取りに来ること)せざるを得ませんでした。超過積載ですね。40年以上前の事なので時効にして下さいませ!

また、チリ紙交換を辞める前、梅雨に入る前に、下宿に残されていた大量の蛍雪時代や全国大学入試問題正解を「お願いだから持って行って、邪魔でしょうがない」と言って見返り無しに「お宝の山」を私に分け与えてくれた大学生になって間もなかったあんちゃん。男性客って、その二人位しか記憶にございません。覚えていないだけかもしれませんが・・・ちなみに、当時のチリ紙交換は、覚えている限り全員男性でした。助手席に恋人と思われる女性を載せている羨ましい人を時々見かけましたが、女性のチリ紙交換は見たことが無かったです。

私、釣りが好きなのですが・・・チリ紙交換業って釣りに似たところもあるのです。今日はどの方面に行ったら、新聞がたくさん集まるだろうか、作戦を考えたりするのです。例えば、休日なら、平日は機織り機の音が煩くて「毎度おなじみチリ紙交換でございます」という声が聞こえにくい西陣地方を回るとか・・・・雨の日は、雨にぬれずに回収が出来る(客も自分も濡れない)オフィスビルを縦に回るとか・・・気分の良い春の日は、友人とピクニックがてら超田舎に遠征に行くとか、いろいろ考え、色々遊んでいました。新聞、雑誌、段ボールなどを重さで売るのですが、雑誌の中で重さで測る以上に高く売れる本が時々あります。ごくまれに貴重な本や貴重なマンガも出てくることもあるようですが、そんなのは実際にはほとんどなくて・・・実際に抜き出して売りに出してある程度の価格になるのは殆どがエロ本でした。その中でも高値で売れるのが特殊な趣味の方々の雑誌でした。
古新聞が束ねて結わえてあるのですが、そのふくらみが妙な時があります。見慣れてますから、普通じゃないのは一目瞭然。そんなときは少し車を走らせてから新聞の間に挟まれたブツを確認します。
タダのエロ本の場合もありますが、そこまでして捨てるのは、多くの場合、特殊な趣味の・・・ホモ雑誌、SM雑誌、夫婦交換の雑誌もありました「月刊ホームダイアモンド」これは高く売れました!色々な世界があるものですねぇ。
ごく普通の方が、「あんこ」の挟まった古新聞を捨てられるのです。「別世界」は、隣にあるのかもしれないなと思った次第です。今のところ、私はまだ別世界には興味が無いですが・・・・
新型コロナに自分が罹患したり、家族がかかった方が言われます。「つい先ほどまで、テレビの中の世界の話だと思っていたコロナの世界が、急に現実のものとなってしまって、本当にびっくりした。」レベルは違うでしょうが、ウクライナの方々も、日常生活をしていた空間が、いきなり戦場に変わってしまったことに、本当に驚いておられるでしょうね。
色々な意味で、想像を絶する事が、この世では簡単に起こってしまうのかもしれませんね。要するに、人間って何をするのか、しでかしてしまうのか、想像しがたい生物だというのが私の結論です。逆に言うと、現状の日常生活がいつまでも続くと思い込むように出来ているのかもしれませんね。だから、ヒトはいつか必ず一回は死ぬ と頭で分かっていても・・・現代では生きている人の半分近くががんに罹患してしまうと聞かされてはいても、「あなた、がんですよ」と言われると、皆さん間違いなく顔色を無くされるのでしょう。がんです ガーンという定型パターンは何時まで続くのでしょうかねぇ・・・

またまた横道にそれてしまいました。色々と面白い発見もあったチリ紙交換業だったのですが、大いなる転機に出くわしてしまいます。それは転機でしたが、天気でもありました。    続く



振り返って見ると その2

2022-04-03 22:08:35 | 思い出
従順なテクノクラート養成所であったKO大学工学部。折角補欠では入れたのだから、何とか卒業したい気も少しはあったのですが・・・押し付けられるのが大嫌いなのですよ。それで、授業に出ないから分からない。分からないから面白くないという悪循環に陥りまして、4年間通いましたが結局3年生に進級できず、中退となりました。マムシ谷を渡れなかったなんて言ってました。

それで、東京の下宿を引き上げて京都に戻ってきたのですが・・・親の勧めで名古屋の「経営後継者養成所」という名の専門学校に1年通わされました。そこも持ち前のさぼり癖が出て危うかったのですが・・・・何しろ全生徒数が6人!!だったので非常に手厚いフォローアップを受けまして、何とか卒業にこぎつけました。
父親が京都室町で着物の白生地の問屋を営んでおりました。それで、後継者となるべく教育を受けたのでした。・・・・何とか卒業後、京都に戻って同業他社、父親の知り合いの会社に就職、丁稚奉公ですね。
入社して、下働きがあまりに単調な仕事で・・・時間が全く進まないのです。一時間は経っただろうと思っても10分も過ぎていないなどと言う魔法の様な経験をしました。

そんな単調な生活に飽き飽きしていた私ですが、入社2か月でその単調な仕事から突然解放されることになりました。なんと、勤め先の会社が倒産したのです。突然会社がロックアウトされ、出勤不能となりました。そしてその一か月ほど後で、父の会社も連鎖倒産してしまいました。とうさんとうさんなんていっているばあいではありませんでした!

当時の室町通は呉服問屋の街でした。今でも呉服問屋の街ではありますが、生き残っているのは半分以下ではないでしょうか。「構造不況」などと言われていました。呉服自体の需要が下がる一方だったので、呉服白生地の問屋などと言う業種は、消えてしかるべきだったのかもしれません。

私としては、「嫌々継いであげようかな?」などと上から目線で鷹揚に構えていたのですが、継ぐべきものが無くなったのには少し驚きました。肩透かしを食らった感じでした。

2か月少々しか働いていなかったので失業保険も貰えず(ひょっとしたらもらえたのかもしれませんが、そう思い込んでいました)することもなく過ごしていた私に、高校時代の友人から声がかかりました。「暇やったらチリコせえへんけ!」

チリコ????なんやねんなそれ?
チリ紙交換や。結構おもろいで
ふうん、そなやってみよか

それで、チリ紙交換業を営むことになりました。
親方に軽トラを一日千円で借ります。その車で故紙(古新聞、古雑誌、段ボール等)を集めて回ります。それを集積所で種類別に下ろし、その都度カンカン(車ごと重さをはかる機械)に乗って車ごと重さを計測し、下ろした積み荷の重さを計ります。種類ごとに単価が決まっていて、たとえば新聞¥18/㎏、雑誌¥8/㎏ 段ボール¥10/㎏ 古新聞400㎏ 雑誌300㎏ 段ボール20㎏だったら、400×18+300×8+20×10=9,800円の売り上げとなります。そこから車の賃料¥1,000とガソリン代を引いたものが手取りになるわけです。
 始業時間:自由、終業時間:自由 休日:自由 

私、こういう単純明快なシステム好きなのですよ。それで、「天職やんか!」とか言って、大いに気に行って1年ほど働いていたのですが・・・
天職だと思っていた職業にも転職の時期がやって来ることに・・・・・

           続く



カムカムエブリバディを見て、自分の過去を振り返ってみた その1

2022-04-02 22:31:22 | 思い出
カムカムエブリバディ見てます。

ひなたがあんなに簡単に英語ペラペラになったり

音楽活動再開するよ!と言ったら、あららら、プロのキーボードプレイヤーになってしまった錠一郎!!!!驚きました。

ドラマやからなぁとは思っていたのですが・・・・

我が身を振り返ってみたら、似たようなことがあるのではと、気付きました。

どこにも就職できないチリ紙交換の兄ちゃんから、いつの間にか「お医者さん」になってしまている私!!!ドラマと似たようなものと違うの?
ウーム、そうかもしれない・・・・・

高校生の時は、劣等生とは自覚していませんでしたが、内申書の平均点は5段階評価で3以下で2.87やったかな。A,B,C,D,Eの五段階評価でDでした。
小学生の時から「やったらできる」とは言われておりましたが・・・そんなの全員が言われますよね。

やらんでも受かるのと違うのと考えて・・・・受験勉強が必要ない大学だという噂を小耳にはさんで国際基督教大学(ICU)を受験したのですが・・・・先ず、志望理由を英語で書きなさいという受験手続の段階で挫折しそうになりました・・・が、それは、担任の英語の先生に肩代わりしていただきまして・・・・・何とか関門突破!!
でも、英語のヒアリングのテストで、何を言っているのか、全く聞き取れず、そのうち、英語でジョークを言われたらしく、教室内が爆笑!!何も分かりませんでしたが、笑わないと監督官にチェックされるぞ!!と思って、周囲にあわせて作り笑いした事を苦々しく思い起こします。
試験の合間の周囲の会話も絶望的なものでした。「貴女なんて良いわよねぇ、マルAなんだから。私なんて、タダのAだから、難しいわぁ」とか、品の良さそうな、田園調布だか白金台だけに住んでいそうな(イメージだけです) 偏差値の高そうなきっちりとした制服に身を固めた生意気そうなお姉ちゃんが言っているのです。 私その下のBの、そのまた下のCのそのまた下のDなんだけどなぁ・・・、流石にこりゃ駄目だわと、その時になってようやく自覚いたしました。試験問題(虹に関する考察でした)に対してはある程度の手ごたえはあったとおもうのですが・・・英語が全くダメで内申も最悪、そもそも受験資格がございませんでした!!
結果は勿論・・・・でございました!!
だだっ広い三鷹のICUのキャンパスだけが印象に残っております。

当時の高校の数学担当の先生に 「お前なんて大学と名の付く所には入れたら、逆立ちして大阪を一周してやる」と言われておりました。その先生の言われる通り、現役の時はどこにも合格できませんでしたが、一浪で東京の某有名大学に補欠で引っかかってしまいました。

それで、嬉しくて、出身高校に報告に行きました。職員室に入って「KO大学に合格しました」と報告するなり、複数の「はっ?どこのKO?」
「SOUKEIのKOですけど」
しばらく間をおいて
「なんでやねん、なんで江川を落としてお前を入れるねん!!」
「そう言われましても、受けた学部も違いますし、私としては何とも・・・」

などと言うやり取りがございました。なんでおれが大学の弁解せなあかんねんな!!!!と思いましたが、その後、江川君を入学させなかった大学はアホではないかと思う様にもなりました。

入学後、ナマの江川卓さんを6大学野球で何度か目にしましたが・・・・役者が違う!!!と感じがしました。彼一人で完投し、9回裏にサヨナラホームランをかっ飛ばしたのを見たこともあります。
ランナーが出た時のストレートは無敵の剛速球でした。キャッチャーミットに収まる音が違うのです。チャンスで騒いでいたスタンドが、その音で静まり返るのでした。モノが違いました。

そりゃまあ、KO大学としては、私よりも江川君を入学させた方が何百倍も良かったでしょうねぇ。入学前に特訓をしてもダメだったのですから、まぁしょうがないと思いますけどねぇ。殆ど、出題問題を教えている様な特訓だったようですが・・・・江川君、試験には訓練されていなかったのでしょう。入試は、ある程度反射神経です。それに向けた神経を鍛えないと成果は得られないです。
何で江川を落としてお前を入れるねん と言うのは、その先生の魂の叫びでしょうねえ。それほどに私は、嫌われていたのだと思います。出席率は、文部省が定める最低出席率の2/3をきっちり守っていましたから。
その当時は土曜も授業がありました。週に6日授業がありました。そのうちの1/3をきちんと休んでいたので、私は週休3日性を引いておりました。
今週は月、火、水が休み。来週は水、木、金が休み、再来週は土、月、火が休みときっちり休んで、休みの日は雀荘、パチンコに入り浸っておりました。

そんな奴だったのでございます。落ちこぼれのカス野郎・・・

まぁ、そんなことを思い起こしました。
元々面白くない勉強が嫌いな私、入学したのが工学部でございまして・・・理念よりも現場で役に立つテクノクラートの養成に力を入れていた大学なので・・・合いませんでした。すぐに不登校になり・・・・何とかしがみついていてはいたのですが・・・・4年経っても3年生に進級できずで退学となりました。

それからは、今でいうフリーター、昔で言うところのプータローとしてふらふらしておりました。  続く