私は田舎の開業医です。
私の医院は300坪ほどあって、(田舎の土地は、田圃の一反単位、我が医院は、一反です)車は25台ほど駐車可能です。
広いとは言え、片田舎の市街化調整区域なので、土地は安かったので開業資金は土地建物備品込みで5千万円以下でした。平成10年の話ですが・・・
銀座でこんな広大なクリニックを開いたら・・・・
何十億円必要なのでしょうねぇ
何十億円必要なのでしょうねぇ
それなのに、銀座でも、奈良の片田舎でも医療報酬には殆ど変わりはありません。私は、都会のど真ん中で普通のクリニックを開業されている方の経営感覚が理解できないです。美容整形系外科など、特徴があって売り上げも見込める医療機関は話は別です。
特徴のない「普通の内科クリニック」の場合、田舎で開業した方が圧倒的に有利だと私は思っています。
私が開業した20数年前、開業コンサルタントなる訳の分らん人々は、半径500m以内の人口だとか高齢者人口がどうこうとか言っていましたが、私は全く無視しました。我が医院、徒歩300m以内に住居はありません。市街化調整区域で一般住宅は建設できませんから。
今現在も、徒歩300m以内に住居はゼロのママです。老人ホームが一軒建ちましたが、私は全く関係しておりません。
我が、田原本町の坂根医院は田圃の真ん中にある人里離れた医療機関です。ですけれど、食うに困るどころか、忙しくて困るくらいです。
開業当初は、外来が暇だったら、往診すればいいやと思っていたのですが、今や外来診療も、往診も、こなし切れない需要があり、往診依頼は断っても断っても・・・と言う状態です。
一般的にクリニックの廃業率は5%程度。という事は、クリニックは20年程度で廃業されるという事ですよね。引き継いで長く開業されることも多いので、私の様に一代で終わる場合はもっと短いのでしょうね。
これまで、24年ほど、がむしゃらに働き続けて来ました。68.6歳になって、疲れを感じております。今後どうすれば良いのか迷っております。需要は有難いことに大きいです。でも、応えきれません。
倒れるまで働けば良いのかもしれませんが、倒れた時に多大な迷惑を掛けてしまいます。やはり、何とか危機管理含めて考えるべきだろうと思っていますが・・・さて、どうすれば良いのでしょうね!!!!
見た時、ホッとしました(笑)
都会のクリニック・・・
経営厳しいので、この国と結託して PCR検査 30,000円とか
そんな風になるんですかね??
都会のクリニックがどうなっていくのか?分からないですね。
よい後継者が見つかると良いですね。
とりあえずバイト医師を雇ってみるとか…
夫婦で老人ホームを家庭にして、勤務医に転向しました。
兄弟は全員、、放棄するという印鑑を押しましたが
実家が無くなるのは、、、さみしいですね。東京での話です。
政府は、、医師は金持ちと間違っていますが、、、閉院の方が
従業員に退職金支払うと、、開業より大変みたいでした。
86歳で現役の兄には、、、何十年も会っていません。
先生のサイトを見ていると、、父が和歌山で開業していた時のことを思い出します。あのまま、、和歌山に居たら、、
父は過労死は避けられたのにと、、思いますね。涙です。
やめられないのであります。バイトで後継者を考えるのが良いのでしょうねぇ。でも、人付き合い苦手で・・・
そんな事言ってられませんね。
花鳥風月さん、医者だらけの家庭も大変なのですね。
私は、親兄弟ではただ一人の医者で、跡継ぎもいないので自由と言えば自由です。でも、患者さんにたいする責任は感じますので、何とか後継者を見つけたいと思っています。
ペタンことすわって、子供のように泣いていました。その時
弟が言いました。「お姉ちゃん、、、僕は医師になるぞ!」
私たちは子供でしたが、、、一緒に涙を貰ってしまいました。
診療所を、心のよりどころにしている人を、幼い時,観ました。
僕、医者になると言って、実現された弟さん、凄いです。
私なんてモラトリアム医師、目的意識なく、なんとなくなっちゃった脱サラ医師ですから・・・・
ま、それが悪いとも思っておりません。人生遠回りしてきて良かった面もあるなと思っておりますので。
人生に無駄な時なんて無いのでしょうね
遠回りと表現されていることが基礎になっているのでしたら、
臨床医になられる先生方は、遠回りされた方が、疾患だけではなく人間を扱える先生になれるんですね。一人として同じ医師は居ないように、、、お見受けできます。
医師は「その人一代の芸術品」のようなものですね、、、。誰も、引き継ぐことはできませんね。
「医師の生き方は引き継ぐことができない一代だけ」の、ユニークな「オリジナル」なものだと、気が付きました。父の医者の有りようは、兄は引き継げなかったし、父の様な医師になりたかった弟は、全く別のタイプの医師になっています。医師は、「一代だけ」の、誰も「その魂は受け継ぐことのできない各人独特の芸術品」のように、「在りよう」と表現すればいいのでしょうか?「専門性に優れている先生」もいらっしゃるけど、、その細くて長いスイスの山の笛の様な音色に近い在りようは、多くのシェルパの荷物運びによって登頂成功したのだと思いますから、、マッタ―ホーンの様な生死の境の病気にかからないと、、出逢う事は無いので、、、ほとんどの人は判らないし、、、医師以外の職業から、、医師を語る事は無理ですね。一人一人、、、作品の様な人生の在りようですものね。
おなじ医師は、、居ないと言えばいいのでしょうか?
私は2歳の時、大やけどをして7回の手術を受けました。
開業医の先生、京大の教授、東京の警察病院の先生。治癒してゆく経過に沿って、その手術の専門家を探し当てて、17歳の時完治しました。開業医だった父が、毎日成長する私の指の骨が曲がらないように、切開してくれて、骨の成長を守ってくれました。団子のボールだった右手は指が切り離されマーサ―ジ
を続け、最後に植皮したヒキツレタ皮膚は、警察病院の先生が
「Zカット」という手術で、、引きつれを完治させてくれました。多くの専門の違う医師に継続してかかり続け、団子だった右手は、「エリーゼの為に」ピアニストだった母の為に、、、弾けるまで復活しました。やっと母の子供になれました。
開業医の父の執念に近い「骨を守る17歳までの切開」と「マサージ」が無かったら、、、どんな専門家の医師が居ても、「その技術の恩恵は受ける門」にまで
たどり着かなかったと思います。
私は、自分の右手を見るたびに、多くのジャンルの先生方が
あくことなく医学を注いで創り上げてくれた真珠輝きの様に
各分野の先生にお世話になりました。甲乙つける事は出来ませんね。「患者からの目」で「先生」を語らせてもらいました。
私は、それらの素晴らしい専門医と同じ医師免許を所有しながら、専門的なことは何も出来ません。でも、おっしゃるように医者は一人一人違っていてそれでそれなりの存在価値がある様にも思えます。私、今しばらく、それなりに頑張っていこうかなと・・・花鳥風月さんにお褒め頂いて、思っている次第でございます。ありがとうございます!