おはようございます。
万葉歌碑巡りで桜井方面へと向かっているわけですが、その途中で見かけたのがJR万葉まほろば線、山の辺の道にそう鉄道線には「万葉」「まほろば」と言う言葉が似合います・・・って思ったら踏切の片隅にある石碑、そこに彫られた文字が「大東亜戦」と言うところまで確認できる、多分この下にも文字が刻まれているのだと思うが、古代の雰囲気を感じる場所にはちょっと不似合いな碑であります。桜井市の中心地を過ぎて多武峰へと向かう道にある等弥神社、町から近い所にあるのに境内を入って行くと暗い森になっていてその奥にひっそりと歌碑が立っている。
「射目立てて 跡見の岡辺の なでしこの花 ふさ手折り 我れは持ちて行く 奈良人のため」(巻8-1549・紀鹿人)
「跡見」というのがこの神社の名前につながっているようです、この付近に咲いているなでしこの花を奈良の人のために持って行こう、この奈良の人というのは女性でしょう。神社のある辺りが小高い丘になっていて、ほぼ真西に進んだ所に・・・と言っても直接真っ直ぐ行くことはできないので一旦町へと下らなければならないが・・・安倍文珠院がある、前にコスモスの迷路があるのをここで紹介したことがありました。その寺院の境内にひっそりと立つ歌碑↓↓↓
「つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ」(巻3-282・春日蔵首老)
磐余、泊瀬と桜井にちなんだ地名が織り込まれています、しかしそれよりも大きく目立つ場所にある大きな歌碑が一番下にある歌碑、安倍氏の氏寺と言うことでこの歌が刻まれているのですが、この歌は万葉集にはありません、馴染みのある詩と言う気がするのは百人一首で詠まれているからでしょう。
桜井市の東部、初瀬へと向かう道は大阪からの横大路と奈良からの上ツ道が合流して初瀬街道となり、山を越えて伊勢神宮へと通じている。現在は国道165号線、そのバイパスとなる中和幹線が通って奈良を東西に貫く幹線になろうとしているが、その中和幹線も朝倉を過ぎた辺りで終わりそこから先はまだまだローカル風の国道と言った感じ、その道沿いでもいくつかの万葉歌碑を見ることができる。それよりも興味を惹かれるのが、写真1枚目、5枚目にある碑とそのそばにある説明が書かれた看板、その場所は天皇が住んでいた場所だと記されている、初期の歴代天皇は変わる毎に都を移していたとのことで、この2つの場所も天皇の都があったと言うことがうかがえる。桜井、橿原周辺にはこのような場所が多く、それぞれの天皇がその場所で政治を発信していたと思われるが、その場所も別の機会で巡っているのでまたここでのお伝えを予定しています。
国道165号線宇陀ヶ辻交差点から大宇陀方面へと分かれている道が忍阪街道、この道も何度かここで取り上げたことがありました。旧街道の雰囲気が漂う町並を通り過ぎて行くが、その途中には舒明天皇天皇陵への大きな古い道標が立っている、そちらの方へ急な上り坂を進んで行くと写真3枚目にある天皇陵へとたどり着く。もうすぐそばが山なのでどれが古墳なのかわからない感じ、その古墳の脇の山道を進んで行くと、川の隅に小さな歌碑が立っている↓↓↓
「秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ増さめ 思ほすよりは」(巻2-92・鏡王女)
天智天皇から歌を贈られた作者が返しに詠んだ歌と言うこと、今で言えばメールの返信みたいなものですか、1400年も昔となると時の権力者も思いを寄せる人には歌を贈って思いを打ち明けるピュアな一面があったと言うことですか。それに比べて現代と来たら、権力を持った人間と言えば、ペン先を記者に向けてひん曲がった口から出てくる言葉が「おまえら知ってるか」だもんな、あんな失礼な態度の人間が大臣をやってるんだもんな・・・だから政治家もみんなおかしくなってしまうんだよ、NHKを何とかの人も何したいのかよく分からないし、面白がられているのに気づいてないみたい。まあそんな話で締めるのも何か、何かなあ~と言う感じですが、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち
万葉歌碑巡りで桜井方面へと向かっているわけですが、その途中で見かけたのがJR万葉まほろば線、山の辺の道にそう鉄道線には「万葉」「まほろば」と言う言葉が似合います・・・って思ったら踏切の片隅にある石碑、そこに彫られた文字が「大東亜戦」と言うところまで確認できる、多分この下にも文字が刻まれているのだと思うが、古代の雰囲気を感じる場所にはちょっと不似合いな碑であります。桜井市の中心地を過ぎて多武峰へと向かう道にある等弥神社、町から近い所にあるのに境内を入って行くと暗い森になっていてその奥にひっそりと歌碑が立っている。
「射目立てて 跡見の岡辺の なでしこの花 ふさ手折り 我れは持ちて行く 奈良人のため」(巻8-1549・紀鹿人)
「跡見」というのがこの神社の名前につながっているようです、この付近に咲いているなでしこの花を奈良の人のために持って行こう、この奈良の人というのは女性でしょう。神社のある辺りが小高い丘になっていて、ほぼ真西に進んだ所に・・・と言っても直接真っ直ぐ行くことはできないので一旦町へと下らなければならないが・・・安倍文珠院がある、前にコスモスの迷路があるのをここで紹介したことがありました。その寺院の境内にひっそりと立つ歌碑↓↓↓
「つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ」(巻3-282・春日蔵首老)
磐余、泊瀬と桜井にちなんだ地名が織り込まれています、しかしそれよりも大きく目立つ場所にある大きな歌碑が一番下にある歌碑、安倍氏の氏寺と言うことでこの歌が刻まれているのですが、この歌は万葉集にはありません、馴染みのある詩と言う気がするのは百人一首で詠まれているからでしょう。
桜井市の東部、初瀬へと向かう道は大阪からの横大路と奈良からの上ツ道が合流して初瀬街道となり、山を越えて伊勢神宮へと通じている。現在は国道165号線、そのバイパスとなる中和幹線が通って奈良を東西に貫く幹線になろうとしているが、その中和幹線も朝倉を過ぎた辺りで終わりそこから先はまだまだローカル風の国道と言った感じ、その道沿いでもいくつかの万葉歌碑を見ることができる。それよりも興味を惹かれるのが、写真1枚目、5枚目にある碑とそのそばにある説明が書かれた看板、その場所は天皇が住んでいた場所だと記されている、初期の歴代天皇は変わる毎に都を移していたとのことで、この2つの場所も天皇の都があったと言うことがうかがえる。桜井、橿原周辺にはこのような場所が多く、それぞれの天皇がその場所で政治を発信していたと思われるが、その場所も別の機会で巡っているのでまたここでのお伝えを予定しています。
国道165号線宇陀ヶ辻交差点から大宇陀方面へと分かれている道が忍阪街道、この道も何度かここで取り上げたことがありました。旧街道の雰囲気が漂う町並を通り過ぎて行くが、その途中には舒明天皇天皇陵への大きな古い道標が立っている、そちらの方へ急な上り坂を進んで行くと写真3枚目にある天皇陵へとたどり着く。もうすぐそばが山なのでどれが古墳なのかわからない感じ、その古墳の脇の山道を進んで行くと、川の隅に小さな歌碑が立っている↓↓↓
「秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ増さめ 思ほすよりは」(巻2-92・鏡王女)
天智天皇から歌を贈られた作者が返しに詠んだ歌と言うこと、今で言えばメールの返信みたいなものですか、1400年も昔となると時の権力者も思いを寄せる人には歌を贈って思いを打ち明けるピュアな一面があったと言うことですか。それに比べて現代と来たら、権力を持った人間と言えば、ペン先を記者に向けてひん曲がった口から出てくる言葉が「おまえら知ってるか」だもんな、あんな失礼な態度の人間が大臣をやってるんだもんな・・・だから政治家もみんなおかしくなってしまうんだよ、NHKを何とかの人も何したいのかよく分からないし、面白がられているのに気づいてないみたい。まあそんな話で締めるのも何か、何かなあ~と言う感じですが、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち