よろしくお願いします。
藤原京のあった場所をお地蔵様をメインに巡っています、まずは写真2枚目、3枚目にある桜井市から橿原市へと至る大和長寿道から少し外れた所にあるお地蔵様から。位置的にはこの辺りが藤原京の一番東になり、西へと進むと藤原宮跡、大和三山が正面と左右に見える場所で旅人を案内してくれているかのよう。ここから左側に天香久山を見ながら進んで行くと、藤原宮跡の入口の辺りに古い石の道標が立っている、そこに刻まれた八釣山地蔵尊との文字、指の向きに進んで行くと古い町並の外れに静かな雰囲気の寺院があった↓↓↓
「585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀ったと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。」
写真4枚目~6枚目にある寺院、名前は興福寺だが、奈良にある興福寺とは関係はなさそう。その後は奈良文化財研究所へと向かう、ここでの目的はもちろん見学、なわけではなくこの施設の前を通る道が元は藤原京の頃にあった道だとのこと。位置的には東一坊大路になるのだが、その辺りの詳しい表示はなくただ道路跡や建物跡とだけ記されたあまり愛想のあるものではなかった。藤原京を囲む橿原市ではあまり都に関わった地名は見かけない、国道24号線沿いには四条と言う地名があるが、そこも四条大路・・・藤原宮は都の中央部にあったので、そこを境にして北と南に2つの四条大路がある・・・とは関係ない位置であり、町の中心部付近は都の痕跡などほとんど伺えない所となっている。
町では藤原京の跡は見つけられなくても、明日香村付近ではまだまだその跡はいろいろな所で見つけることができる。写真4枚目、5枚目にあるのは以前廃寺巡りでも訪れたことがある日向寺、聖徳太子所縁の寺院と言うことだが、何か見た感じは普通の民家みたい、境内、と言うか敷地に立ち入るには気が引ける感じだった。入り組んだ集落を抜けると、目の前には飛鳥の風景が広がり、背後には天香久山、ここはちょうど橿原市と明日香村の境界に当たる。写真上から8枚目にある道は藤原京の時代には条の通りだった所、先の方には自分(一人称)が骨折中、心の拠り所にさせてもらっていた大安寺の前身である大官大寺の碑が見えている。大安寺や興福寺、元興寺、薬師寺もそうかな、平城京にあった寺院は元は藤原京にあった寺院が前身となっている、都を移しても仏教の教えはそのまま残したいと言う気持ちがそうさせたのだろう、奈良がまあ斜陽的になってはいるものの、世界的な観光地であり続けられるのは、藤原京時代の人々の努力が礎になっているとも言える。だからこそもっと藤原京をいろいろと知りたいと思うのだが、その謎も痕跡もみんな1400年以上の歴史に埋もれさせてしまっている感じ、天武天皇も持統天皇も飛鳥の地で悲しんでおられるのかも・・・。
藤原京以前は天皇が変わるたびに都も移されていた、と言う話は前にお伝えしました。しかしそのほとんどが飛鳥や藤原京に近い場所であり、当時の政治の中心はやはりここでなければと言う気持ちがあったのでしょう。豊浦宮、御墾田宮、田中宮、岡本宮、厩坂宮などなど、近鉄橿原神宮前駅近くには、それらの宮跡が集中している、しかし当時は条坊制の都ではなく天皇の邸宅があっただけ、現在となってはその痕跡もほとんど見つけることはできないしここだと仮定するしかできない、ここでの写真はそんな場所を巡ってのお地蔵様巡りです。写真6枚目にある道は一応位置的には朱雀大路に当たる道、都を貫く幹線道路も今は住宅街に阻まれて途切れ途切れになっている、往時は奈良と当地をつなぐ中ツ道の方が道の幅は広かったとか。最後に訪れたのは本薬師寺跡、誰もいないひっそりとした境内の木々に囲まれた薄暗い所にはお地蔵様に上半身が切り取られた仏様の姿も、何か不気味です・・・。さて、ここで残念なお話が、毎年夏から秋にかけてこの寺院で見頃となるホテイアオイですが、今年は感染症禍のために植え付けをしていないとのこと、まあある程度は予想していたしこの状況なので仕方がないところ、でも残念です。一方これも気になっていた藤原宮跡の蓮の花、この間行ってきたのですがこちらの方は見事に咲いていました、その模様についてはまた別の機会にお送りしたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち
藤原京のあった場所をお地蔵様をメインに巡っています、まずは写真2枚目、3枚目にある桜井市から橿原市へと至る大和長寿道から少し外れた所にあるお地蔵様から。位置的にはこの辺りが藤原京の一番東になり、西へと進むと藤原宮跡、大和三山が正面と左右に見える場所で旅人を案内してくれているかのよう。ここから左側に天香久山を見ながら進んで行くと、藤原宮跡の入口の辺りに古い石の道標が立っている、そこに刻まれた八釣山地蔵尊との文字、指の向きに進んで行くと古い町並の外れに静かな雰囲気の寺院があった↓↓↓
「585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀ったと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。」
写真4枚目~6枚目にある寺院、名前は興福寺だが、奈良にある興福寺とは関係はなさそう。その後は奈良文化財研究所へと向かう、ここでの目的はもちろん見学、なわけではなくこの施設の前を通る道が元は藤原京の頃にあった道だとのこと。位置的には東一坊大路になるのだが、その辺りの詳しい表示はなくただ道路跡や建物跡とだけ記されたあまり愛想のあるものではなかった。藤原京を囲む橿原市ではあまり都に関わった地名は見かけない、国道24号線沿いには四条と言う地名があるが、そこも四条大路・・・藤原宮は都の中央部にあったので、そこを境にして北と南に2つの四条大路がある・・・とは関係ない位置であり、町の中心部付近は都の痕跡などほとんど伺えない所となっている。
町では藤原京の跡は見つけられなくても、明日香村付近ではまだまだその跡はいろいろな所で見つけることができる。写真4枚目、5枚目にあるのは以前廃寺巡りでも訪れたことがある日向寺、聖徳太子所縁の寺院と言うことだが、何か見た感じは普通の民家みたい、境内、と言うか敷地に立ち入るには気が引ける感じだった。入り組んだ集落を抜けると、目の前には飛鳥の風景が広がり、背後には天香久山、ここはちょうど橿原市と明日香村の境界に当たる。写真上から8枚目にある道は藤原京の時代には条の通りだった所、先の方には自分(一人称)が骨折中、心の拠り所にさせてもらっていた大安寺の前身である大官大寺の碑が見えている。大安寺や興福寺、元興寺、薬師寺もそうかな、平城京にあった寺院は元は藤原京にあった寺院が前身となっている、都を移しても仏教の教えはそのまま残したいと言う気持ちがそうさせたのだろう、奈良がまあ斜陽的になってはいるものの、世界的な観光地であり続けられるのは、藤原京時代の人々の努力が礎になっているとも言える。だからこそもっと藤原京をいろいろと知りたいと思うのだが、その謎も痕跡もみんな1400年以上の歴史に埋もれさせてしまっている感じ、天武天皇も持統天皇も飛鳥の地で悲しんでおられるのかも・・・。
藤原京以前は天皇が変わるたびに都も移されていた、と言う話は前にお伝えしました。しかしそのほとんどが飛鳥や藤原京に近い場所であり、当時の政治の中心はやはりここでなければと言う気持ちがあったのでしょう。豊浦宮、御墾田宮、田中宮、岡本宮、厩坂宮などなど、近鉄橿原神宮前駅近くには、それらの宮跡が集中している、しかし当時は条坊制の都ではなく天皇の邸宅があっただけ、現在となってはその痕跡もほとんど見つけることはできないしここだと仮定するしかできない、ここでの写真はそんな場所を巡ってのお地蔵様巡りです。写真6枚目にある道は一応位置的には朱雀大路に当たる道、都を貫く幹線道路も今は住宅街に阻まれて途切れ途切れになっている、往時は奈良と当地をつなぐ中ツ道の方が道の幅は広かったとか。最後に訪れたのは本薬師寺跡、誰もいないひっそりとした境内の木々に囲まれた薄暗い所にはお地蔵様に上半身が切り取られた仏様の姿も、何か不気味です・・・。さて、ここで残念なお話が、毎年夏から秋にかけてこの寺院で見頃となるホテイアオイですが、今年は感染症禍のために植え付けをしていないとのこと、まあある程度は予想していたしこの状況なので仕方がないところ、でも残念です。一方これも気になっていた藤原宮跡の蓮の花、この間行ってきたのですがこちらの方は見事に咲いていました、その模様についてはまた別の機会にお送りしたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち