大陸旅遊倶楽部的日記

三国志・水滸伝・史記の旅と中国茶のほかモロモロ…

万里橋

2017年11月11日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

 2016/8/20、中国世界遺産の旅最終日。
本日は午前中に武侯祠、午後は楽山に大仏を見に行く。

岷山飯店側の錦江沿いを西に進むと、万里橋に着く。

 ▼錦江添いの遊歩道を万里橋方面に向かう 

▼錦江/川の奥が万里橋

かつて万里橋の辺りは航路の起点だったそうだ。
蜀の費禕(ひい)が使者として呉に赴く際に、見送りに来た諸葛亮に
「万里の行も此の橋より始まる」と言った事にちなんで
万里橋と名付けられたらしい。

▼万里橋/気づけば上に高速が通ってしまった。日本橋同様無粋よね〜。

▼万里橋のたもとにある碑/万里橋の由来が書いてある

万里橋の南側のたもとには、客船(?)の形をビルがある。
その名も万里号。その万里号の側に↑この碑がある。
万里号の舵をイメージしているらしい…。うーん(笑) 

▼万里号ビル


白龍江

2017年03月16日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

剣門関を出てから約2時間。
高速を降りて山を一つ、二つ越えたタクシーは、
白龍江沿いのガソリンスタンドでトイレ休憩。

マイカー流行りということは、ガソリンスタンドも一般的になっているんですねぇ。
ガソリンも配給券がないと購入できなかった時代もありましたが。 

▼白龍江に出来たダム

トイレ休憩から30分ほど車を走らせると、大きな橋が見えた。
白龍江の観光スポットのつり橋、筏子覇(はいしは)大橋。
既に17時を回っているが、日が長いのでまだまだ観光できる。

▼筏子覇大橋(はいしはおおはし/覇は土偏がつく)。

緑の湿地帯がとても奇麗。

▼山裾の合間の向こうに山というのも面白い感じ

▼観光客相手の土産物売りが集まっている。自撮棒も安く売ってる(笑)

筏子覇大橋でみんな写真を撮った頃には17:10過ぎ。

道程からしたらまだ半分にも至っていないのに、この観光っぷり。
九寨溝にたどり着くのは何時だろう。


平襄侯祠~姜維衣冠塚 その弐

2017年03月14日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

姜維軍団の塑像が安置されている建物を抜けると、さらに階段があり
その上に授略堂(じゅりゃくどう)がある。 

▼授略堂

▼病床の諸葛亮が姜維に今後の策を授けているらしい。

授略堂の後ろに姜維の衣冠塚があった。
2000年当時とかなり違っていると思ったら、2010年にここに
移されたということだった。整備に伴う移動らしい。 

▼綺麗になりましたが、以前の方が赴きがあってありがたい感じ。

▼参道のカバのような馬が可愛いい


平襄侯祠~姜維衣冠塚 その壱

2017年03月13日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

▼入場券裏の地図
 /剣門景区の入口と姜維の墓、関楼の位置関係は以下の通り

時間がないので関楼から、元来た道を戻って姜維の墓へ。

入口脇の階段を上がっていくとちょっとした広場があり、馬上の姜維像が
出現。姜維の墓はかなり山の上部へ移された感がある。 

▼若者のイメージがある姜維だけど、結構ジジィ。

姜維像の後ろの階段を上っていくと、平襄侯祠(へいじょうこうし)がある。

さすが整備された観光地ともなると、祠堂まで作られるのね。
土地の人が衣冠塚まで作ったっていうんだから、その昔は
それは崇められていたのでしょうねぇ。 

境内にはお約束の香炉があり、線香を供える観光客も居ます。

誰だかわからないけど、姜維軍団…。

▼なんとなく、姜維隊長~って感じ。


剣門関2000

2017年03月09日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

以下は2000年当時の剣門関。内側から関楼に向かう道は
コンクリートで出来ていたが、橋のような造りで険しさが感じられる。

四川大地震で倒壊したという噂だけど、どんな感じに壊れたのか…。

久々に中国名勝辞典を引用すると、

剣門関は剣門ともいい、剣閣県市街の北方25kmの剣門山にある。
かつての蜀道の要害。
剣門山は剣山ともいい、かつては梁山、高梁山ともいった。
山脈が東西100km余りにわたって起伏しつつ連なり、
利剣(鋭い剣)の形をした72峰が聳え、絶壁の中断したところに
2つの山が門のように相対するので、剣門という。
(中略)
三国時代に諸葛亮が蜀の丞相になると官をおいて防備を固めた。
頂上の姜維城は、姜維が兵を留めて鐘会を迎撃したところで、遺構が現存。
登山口に「剣門関」という石碑がある。 

現在、関楼門から外側はすぐ下り階段になっているが、当時は山肌沿いに
作られた道+階段だった気がする…あまりにも階段が多くて大変だったので
よく覚えていないが、アップダウンに苦労した。 

▼こんな岩の側面に穿たれた階段で延々移動するのだ…。

▼一夫関に…の石碑

当時、入場券裏のざっくりした地図を元に姜維の墓を探して彷徨ったが、
全く見つからなかった。長い階段の昇降で足はガクガク、膝は笑うで
あわや遭難一歩手前だった…だって人が居ないんだもの(笑)

途中、岩だなに人影を見る。

………第一村人発見!!!

手相み兼ガイドをしている近所のおじいさんだった。
こんなに人通りの無いところで、客が来るのを待つのも大変そうだ。

「姜維の墓はどの辺ですか?」

「あっちだよ」と我々が来た方角を指すおじいさん。

「差し支えなければ、姜維の墓まで案内していただけないでしょうか」

「よしきた」

地獄に仏なのでこの手相見兼ガイドのおじいさんに、姜維の墓まで
連れて行っていただくことにした。
料金は10元。三人で10元か、1人10元かというところは交渉しなかった。
それほど疲労困憊していたのだ(笑)。 

……さすが剣門関育ち(;_;)

このおじいさんの健脚ぶりときたら大したもので、あっという間に
引き離される。

▼我々を待ってくれている、おじいさん/まだご健在だろうか…
 最初は一緒に登っていたんですよ。 

▼姜維神像2000/おじいさんが教えてくれました。

▼2000年当時の川陝公路/現在は風景区の敷地内
 川陝公路のすぐ脇に切符売場があり、ちょっと行くとすぐに関楼だった。
 姜維の墓に向かって移動する。 

▼山の斜面に出来た段々畑の途中にあった石碑「剣閣72峰」

▼姜維の墓2000/墓碑銘は「漢大将軍姜維之墓」


剣門関2016 その参

2017年03月08日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

テクテクテクテク歩いて、関楼到着。

剣門関は、

一夫関に当たれば、万夫も開く莫し
(いっぷかんにあたれば、ばんぷもひらくなし) 

といわれる要害。
平たく言うと、剣門関は1人が守っていれば、大軍で攻めかかっても
陥とせないという程の難所。

諸葛亮により設置され、1700年に渡り破壊と修築を繰り替えしてきた
剣門関は、古来100回以上の戦が起こったが、
正面から攻め落とされたことは一度も無かったという。

………黒い

四川大地震で城楼が倒壊したということで、再建されたらしいが
色使いがあまり中国らしくない。侘び寂び的な?感じ。

関楼前の道幅も観光客向けに広げてくれて、観光地としては良いと
思うが、剣門関の険しさが偲ばれず…趣が無くなった。 
旧剣門関は明日上げるので、比較してみてください。 

険しさ、荒々しさ共になし。空がきれいだ。この日も暑かった。

関楼下から来た道(関の内側)を振り返るとこんな感じ。
ここは風の通り道になるので、超涼しい。
天然のクーラーは気持ちよかった~。

外側は相変わらず切り立っているが、石の階段は幅広に整備された感じ。 

▼外側から見上げる関楼

泰山もかくや、という急階段。


剣門関2016 其の弐

2017年03月07日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

続いて剣門関の城楼を目指して林道を歩いていくと、いきなり蜀軍の
レリーフが出現。

▼レリーフ「北伐軍行図」/車に乗った諸葛亮が羽扇で前方を指している。

以前は山の斜面だった場所が切り崩されて、ある程度のスペースが
確保された道が敷きなおされている。

▼剣門関を守る姜維像/手下が疲れてます…
 曹操が死んだ後はほぼ興味が無い人間なので、あまり覚えていないが
 大変だったんだろうなぁ、姜維。 

▼こちらは劉備/入蜀時、ここを通ったそうだ。

テクテク歩いて、やっと剣門関の関楼が見えた。
再建された楼閣は黒基調で以前よりシックにまとまっている。
関楼の周囲も以前より平らになってすっきりしている気がする。 

関楼を見つつ道なりに行くと、撮影スポットの諸葛亮像が…。
側の売店では羽扇を販売しているので、 羽扇をゲットして諸葛亮と
同じポーズで写真を撮るか、車に座って撮るか(笑)。


剣門関2016 その壱

2017年03月06日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

明月峡桟道の観光時間は40分程度の予定だったが、
たっぷり2時間位かかってしまった。
文句を言わない中国の運転手さんは優しい(笑)。

来た道を戻って広元駅付近を通り過ぎて、剣門関へ向かう。

剣門関は諸葛亮が設置した関所で、切り立った岩場に作られている。
箱根の山も函谷関もおよびでないことは確か。
見た感じでは、攻めるのも嫌だが、守るのも嫌な雰囲気。
眩暈がするような階段ばかりの岩場で、ここに駐屯させられたら
一ヶ月もたたずにスリムになること請け合いの場所。 

着いてみると剣門関もすっかり整備された感じ。
駐車場、食堂や土産物屋が並ぶ入口を通り、切符売り場へ。

剣門関風景区はかなり広大でどの辺を見て回るかで料金が異なる。
時間の無い我々は、剣門関の城楼と姜維の墓が見られれば良いと
思っていたが、それでも入場券115元、保険料5元の
計120元(約1920円) 。…高い。 

▼剣門関風景区の入場券

入場ゲートを入ると、石坊がある。
この石坊の手前の右側の道を上がっていくと姜維の墓がある。 

▼姜維神像/緑が多すぎて判りにくいが、姜維の横顔と言われる岩。

▼山道脇の岩棚に「第一関」と書かれた石碑がある

雍正12(1734)年、ダライラマ6世をチベットへ送る命を受けた
果毅親王允礼(かきしんのういんれい)が剣門関の雄大な山や
険しい道に感嘆して題字したそうだ。
「宮廷の諍い女」の果郡王ファンの為に、サービス(笑)。


明月峡2000

2017年03月05日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

2000年の桟道は荒々しい感じで、これもまた良い。

…まだ整備途中だったのか、頑張って整備したけど老朽化したのか。
老朽化した方に掛ける(笑)。 

▲岸壁をこんなにも削って作ったなんて凄い。ほぼアーチ。

▼船から仰ぎ見るとこんな感じ。

▲昔の桟道ってこんな感じだったのだろうか。

▲桟道の杭(くい)を打つ坑(あな)。

▼2000年当時の遊覧船

▼宝成線のトンネル。線路上を近くの農民らしき人が歩いてた。


明月峡2016

2017年03月04日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

引き続き明月峡2016。
夏は山肌も緑豊かで川面も緑一色でいい感じ。
明月峡は朝天区にあるので、朝天峡ともいう。

▼写真の上の岩を削って作られた道は以前一般道だったが、現在は
 明月峡風景区の敷地内。下段の黒い柵が、昔の桟道をイメージして
 新しく作られた道。 

▼以前はここが「朝天峡先秦桟道遺址」の入口だった。

▼桟道は船で川から眺めることも可能。
 川面からだと桟道の杭を打ち込んだ穴がよく見える。
 今回は早朝の為か、船は営業していなかった。

▼桟道の対岸には鉄道(宝成線/宝鶏~成都)が走っていて
 時折列車が通る。我々が乗ってきた列車もここを通った。


明月峡(めいげつきょう)

2017年02月27日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

広元に来たからには、ついでに観光したいスポットが数か所ある。

秦代の桟道址(さんどうあと)が見られる明月峡、嘉陵江(かりょうこう)
沿いの山肌に仏像が穿たれている千仏崖(せんぶつがい)、
姜維(きょうい)の衣冠塚がある剣門関、
明・清代の街並みが残っている昭化古城(しょうかこじょう)。
昭化古城周辺には葭萌関(かぼうかん)、戦勝坡(せんしょうは)、
費偉墓(ひいぼ/偉の字は衣偏)、鮑三娘墓(ほうさんじょうぼ)等
三国志所縁のスポットもある。

16年ぶりなので見たいところだらけだが、
九寨溝は結構時間がかかる道のりということなので、今回は
絞りに絞って明月峡と剣門関になった。
明月峡、剣門関共に四川大地震で相当な被害を受けたそうだ。
特に明月峡は2016春にやっと観光を再開したという話。 

明月峡は広元の北に位置する嘉陵江の峡谷で秦時代の桟道址が
残っている。広元駅から約50km程の道のり。
タクシーには広元駅の降車口で7:30ピックアップしてもらう約束に
なっている。
予定より数分遅れて、運転手さん登場。

広元駅から約45分で明月峡に到着するが、営業は8:30からで、
切符の売り出しも8:30からということだった。
15分ほど入口前で時間を潰すことになる。 

明月峡も観光範囲が広くなっているようで、入口周辺は2000年とは
随分と違った風景になっていた。

明月峡の入口を入ると諸葛亮像が出来ていた。
秦代の遺構だったはずだが、まぁ諸葛亮もこの辺の桟道を通って
いるのでポピュラーなところで宣伝役を仰せつかったらしい。

▼諸葛亮像 

▼明月峡に続く回廊
 通常はこの辺りで敷地内を運行するカートに乗れる模様。
 早朝なのでカートも運行開始前らしい。 

先に進むと見たことのある石碑が…。
これからすると、かなり前から明月峡の敷地に整備された模様。 

▼2000年の同じ場所
 このはるか彼方に秦代の明月峡址があった。 

この辺の道は一般道として普通に利用されていた。

▼2000年の山道

現在は、観光地内で通り抜けできないようになっている模様。

▼2016年


西安→広元

2017年02月24日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

西安~広元(こうげん)周辺には史跡、特に前漢~後漢末期所縁のものが点在している。
以下、青字が過去に訪れたことがある所で、赤字部分が今回も訪れるもの。 

………何故広元へ向かうのか

といえば、今回は広元から九寨溝へ陸路タクシーの旅となるから。

我々は時間の限られた社会人。
元々は九寨溝in/outとも空路(西安→九寨溝、九寨溝→成都)で、余裕のある日程を組んでいた。

飛行機のチケットも早割りで半年前から依頼をかけてお願いしていたのだが
航空券の依頼をした北京の旅行会社の対応が最悪で、
最後は音信不通になりかけたので、土壇場でキャンセルせざるを得なかった。

土壇場になって航空券の取り直しとなると、シーズン直前で馬鹿高い金額だったので
ひとしきり思案した。我々の選択肢は以下の通り。

1.成都か広元で現地のバスツアーに参加

2.成都か広元から長距離路線バス

3.成都か広元でタクシーをひっかける

4.旅行社依頼でタクシーチャーター

5.お高い飛行機

「1」は安くていいが、自由度低いし、ずっと人民の団体と一緒なのでパス。

「2」は現地で切符取りになるので、一日二日潰す覚悟で、最悪駄目なら行き先変更
となるが、同行の二人は「九寨溝・黄龍」に行くのが目的なのでこれはNG。 

「3」のタクシーは空港か駅で白タクと交渉するか、普通のタクシーの運ちゃんに
翌日の長距離をお願いする。
普通のタクシーの運ちゃんがお小遣い稼ぎに翌日の長距離をOKしてくれることも
あるので、このパターンが自由度高くて安価に済むので私は好きだが、確実性に欠ける。

やっぱり選択肢は「4」か「5」になる。

試しに、西安の旅行会社に「広元→九寨溝」の「ガイドなし、タクシーのみ」の
見積もりを出してもらったら、土壇場の航空券×3枚より若干安めだった。

何故、広元から九寨溝なのか、といえば、以前広元に行った時に
駅前で九寨溝ツアーのチラシを配っていたので
「ここからも行けるんだ」という刷り込みがされていたから(笑)。

百度の地図で見ると、成都→九寨溝より、広元→九寨溝の方が近いし
西安→広元は列車で一晩だから行程からしても丁度いい。

また、陸路であれば、途中の観光も可能だし、美しい風景も堪能できる。
味気ない飛行機よりも、個人的には好きだ。 


火車站東と游5(306)路

2017年01月30日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

その昔、フリー旅行者が兵馬俑坑を見に行くポピュラーな方法は、
東方ツアー(東方一日游)に参加することだった。
東方ツアーは朝7:00ごろに出発して、15時半頃戻ってくる日帰りの
バスツアーで、半坡博物館、始皇帝陵、兵馬俑坑、華清池を回っていた。
ツアーの切符は一部ホテルのフロントで販売されていたが、
西安駅前に行くと別のツアーバスが客の呼び込みをしていたので、
当日乗りも可能だった。 

現在は兵馬俑博物館まで観光用の路線バス306路が運行されている
ので、時間を気にせず楽に行ける。
百度地図で306の所要時間を確認すると1時間52分。
過去の経験から、百度のデータよりは早く着くので1時間半程度の
道のりと思われる。 

▲西安駅2016年と▼2000年
 看板や変なオブジェが無くなり、少し洗練された感が出てる 

西安駅前の城壁を潜って右に進むと、バスターミナル「火車站東」がある。

最近、中国のホテルは朝食の開始時刻が遅くなった。
早くて6:30、ところによっては7:00からというところもある。
7時ごろホテル出発のはずが、出遅れて火車站東に着いたのは
8時近くだった。

▼火車站東(フオチャーチャントン=えきひがし)方面

▼火車站東の306路乗り場/朝から長蛇の列

午前8時少し前、火車站東にはすでに長蛇の列が出来ていた。
この列はまさか…と思って先頭に行くと、看板に
「火車站→華清池→兵馬俑」、「国営陝西省旅游公交専線」、
「游5(306)」 、「西安火車站→秦兵馬俑」と書いてあった。

あいにくの日曜日、ところどころ乱れてはいるものの二列縦隊で連なり
途中で折れ曲がったその列は、50m以上続いていた。
炎天下日傘を差しながら、何時間待つことか。
タクシーで行こうか、などと考えながら見ていると、
バスは間をおいてもコンスタントに来ている様子なので、
このまま人間観察をしながら待つことにした。

列に並ぶこと30分弱、306路に乗り込む。思ったより待たなかった。
この路線は昔と同じく、車掌さん(?)が乗っていて発車後に料金を
回収にくるシステムだった。
西安駅から華清池まで6元(96元)、兵馬俑博物館まで7元(約112円)。

華清池をざっくり言うと、楊貴妃と玄宗のロマンスの舞台の温泉宮で
兵馬俑博物館の一つ手前になる。
…厳密に言うと、路線バスなのでこの間バス停はあるのだが
途中で乗降する客は居なかったので通過していた。
西安駅にはまだまだ観光客が待っているので、早く帰ってピストン輸送
しないとね…とは日本人の考え方かな? 

この路線の観光コースは、先に華清池、次に兵馬俑という回り方を
推奨している模様。
ほとんどの観光客は華清池で降りるので、兵馬俑まで行くと言ったら
三回聞き返された。今回は時間がないので華清池は回らない。 

▼306路車内/車内は普通の路線バス 

▼306路は途中、高速道路を通る


斉雲塔と狄仁傑墓

2017年01月24日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

斉雲塔(さいうんとう)は白馬寺の東側にある仏塔で、
金の大定15(1175)年の創建。13層、高さ24m。

過去、何度訪れても入口が閉まっていて近づけなかったが、
現在は白馬寺と共に整備されていつでも見られるようになっている。
2016年8月現在、修復工事中。

▼1988年の斉雲塔。86年当時は観光客も見られず、閉まった斉雲塔前に
 人相見(手相見)のおじさんがウロウロしているだけだった。
 観光用の白馬は1987年頃から見かけるようになった。 

斉雲塔前に出没する手相見のおじさんは当初中国語で「手相見ようか」と数少ない
観光客に声をかけていた。言葉がよく判らないから見てもらえないと断っていたの
だが、翌年には日本語で「手相見ましょうか」と声をかけるようになっていた。
素晴らしい営業努力(笑)。
現在は韓国人観光客が多いようだが、この頃は日本人観光客が多かった。 

▲白馬寺と斉雲塔の間に新しく出来た「大雄殿」。この辺りは尼寺のようだった。

▲白馬寺と斉雲塔の間には、生活感あふれる場所も健在。

▲狄仁傑(てきじんけつ)墓▼狄仁傑は武則天時代の有能な官吏。
 最初に見た時はどぶのような池の前に墓石が傾いて立っているだけだった。
 現在は土饅頭も再建されてすっかり見違えた。 



漢魏洛陽故城遺址

2017年01月22日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

白馬寺前の鄭洛公路(310国道)を東に行くと、漢魏洛陽故城遺址がある。
漢魏洛陽故城遺址といっても、以前は畑の中に土を盛った旧城壁跡が残っている
だけだったが。
現在は鄭洛公路の南側が発掘されているという噂を聞いたのでこの旅でも行くつもり
…だった。
が、真夏の炎天下、友人に畑の中を小一時間歩こうとも言えず諦めた。
やっぱり遺跡の旅は冬に限る。

ということで、昔の写真を。

▼1986年3月/鄭洛公路(310国道)。この辺りの主要幹線道路だった。
 翌1987年は中国でビリヤードが流行っていて、この道端に台を置いて昼間から
 青空ビリヤードに興じる若者がいた。今思えば、彼らはなんだったのか。 

▼同鄭洛公路(310国道)で撮った写真。凄く好きな一枚。

 

▼鄭洛公路(310国道)の南には、鉄道が走っている。街路樹が並んでいるところが線路

▼1988年2月漢魏洛陽故城遺址
 左右の一段高くなっている所が洛陽城の西側の城壁。この辺が西南門だったらしい。 

▼このコンクリートで出来た碑には1986年当時、漢魏洛陽故城雍門と書いてあったが、
 1988年時点で既に判読できなくなっていた。

▼1998年9月の漢魏洛陽故城址/いつの間にか畑の中に石坊が立っていた。

▼漢魏洛陽故城の石坊(コンクリート製)/ここだけ農道が広くなっていた

▼漢魏洛陽故城址をずーっと北上していくと、ボウ山(ボウは亡+おおざと偏)に至る。
 ボウ山(北ボウ)は洛陽城の北にあり、古来皇帝や貴族の陵墓が造営された場所。
 以下の写真の土山もお墓。 近づいてみると結構大きい。