季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

思いやりと感謝(2)~絵本から学ぶ(10)

2020-12-02 13:13:11 | 子どもの本
『ひとりぼっちのかえる』(興安・作 三木卓・文 こぐま社)を読んで、改めて「思いやり・感謝」について考えてみました。
題名通り、たった一人で生きている蛙がいます。お日さまが尋ねます。「たったいっぴきでくらしていて きみはさびしくないのか?」雨も、風も、地面も、風が、月が、星が同じように質問します。君は一人でさびしくないのかと。
  蛙の答えはいつも同じ。「はい、さびしくなんかありません。」
太陽には「おひさまは、ぼくのお父さん」だからと。雨には「恵みの水をくれるお母さん」だからと。地面には、「優しく育ててくれるから」、風にはあこがれる「友だち」、月には「さびしくありません。あなたはとてもきれいで、やさしいめがみさまのよう。ぼくはあなたのあおいカーテンに つつまれているみたいです。」と。
蛙の答えを聞いたみんなは一様に喜びます。「そうおもってくれているんだ」と。蛙が周りの者たちの気持ちや思いを共有し、彼らとともに生きていることを伝えたからなのでしょう。

 蛙は自分を取り巻き,生かし、成長させてくれているすべてのものに感謝しているのです。星が、蛙の歌う歌に対して「ありがとう」といいますが、蛙はすべてのものに対して感謝の気持ちを持っているのです。「いたずらこぞう」の風に対してさえ「あこがれちゃうよ」と答えるのですから。この感謝の気持ち~自分を取り巻き、気が付けば自分に寄り添って育ててくれているものたちへの「ありがとう」の気持ち~が「こころをこめた」歌になるのです。その昔から蛙が歌ってきた「うつくしい」歌によって星たちは輝き、仲間の蛙たちも応えはじめるのです。

 蛙の歌は「思いやり・感謝」なのですね。周りの者への「恩」へ報いる行為が蛙の歌となって表出します。その歌うという恩返しの行為によって、周りの者たちは幸福な気持ちになるし、何より蛙自身が幸せになるに違いないのです。「思いやり」とはみんなが幸せになるために、なくてはならない大切な心性なのだと、この絵本は教えてくれています。


想像力~絵本から学ぶ(9)

2020-11-25 13:48:21 | 子どもの本
  教え子からもらう手紙は嬉しいものです。しかし,失意の内に相談してくる手紙には,何度ペンを持っても,返事が書けないものもあります。封筒の厚さが,そのままその子の悩みの重さになっている手紙もあります。何とか「先輩」として応えてあげたいと思いながらも,どうしても書き出せない手紙。夫や子どもが寝た後に書いているであろう手紙。読んでいる私の無力を痛感させられる手紙…。

 「足長おじさんへ」という書き出しの手紙をもらったことがあります。私立中学校に合格し,寮生活をし,剣道部に入った女の子でした。以前から『あしながおじさん』を愛読していた子でしたが,寮生活になり,より身近に17歳の「ジュディ」を感じたのでしょう。


ねえ,おじさま。だれもがもつべきもっとも大事な要素は,想像力だと思うんですの。それによって人は,他人の立場に自分を置くことができます。それによって人は,親切で同情深く,ものわかりよくなります。それはこどものうちに養うべきものですわ。ところがジョン・グリア・ホームでは,すこしでもそのきざしが見えると,必ず踏みにじってしまいました。(中略)こどもはすべて,愛情からの行動をするべきですわ。」
 J・ウェブスター著 中村佐喜子訳『あしながおじさん』


 この「想像力」-イメージを描けることは,何かが「わかる」ことにとって不可欠な要素です。「他人の立場に自分をおくこと」~思いやりと言い換えてもいいでしょう。他人の痛みを自分の痛みと感じ、他人の喜びが喜べる、これができないために、「利己心」「我執」にとらわれるために、私たちはいつも不幸な結果を招いているのではないでしょうか。
ジュディも少女の感受性で,想像力の大切さを明確に意識しています。そのうえで、それを踏みにじるものは「ホーム」だといっています。これを「家庭」「学校」「社会」と置き換えて読むと,痛烈な批判になります。想像力を育成する場所が「家庭」「学校」「社会」であるべきなのに、その場所が逆に「想像力」を踏みにじって伸ばそうとしていない。

 中1の教え子が『あしながおじさん』を読み続けている。自らの想像力を高めながら、次第に「思いやり」の心を育て、自分の考えを形成しつつある。嬉しく思う反面,ぬるま湯に浸かっていられないとも反省した記憶があります。

今後も子どもたちは,ともに人生を生きる仲間として成長していくでしょう。今、Daddy Long Legs-そう呼ばれるのは照れくさいけれど,子どもの成長とともに,いつまでも「人間を」「生き方を」一緒に考えられる「あしながおじさん」でありたいと思います。


勇気~子どもの本から学ぶ(8)

2020-11-15 17:59:50 | 子どもの本
『モチモチの木』(斉藤隆介・作 滝平二郎・絵)は次のようなあらすじの童話です。

  峠の猟師小屋にじさまと住む豆太は臆病者で、夜はじさまを起こさないと雪隠に行けないほど家の前にある「モチモチの木」と名づけたトチの木が怖いのであった。そんなある晩、じさまは腹痛で苦しみだす。じさまを助けるには暗闇の中、半里(約2km)も離れた麓の村まで医者を呼びに行かなければならない。豆太は勇気を振り絞り医者を呼びに行き、じさまは助かる。そのときにじさまの話していた木に雪明かりがともり、モチモチの木とはこのことだったんだと意味を知る。しかし相変わらず豆太はじさまを起こさないと雪隠に行けないのであった。(ウィキペディア)

「まったく、豆太ほどおくびょうなやつはない…」で始まるこの絵本、最後には勇気を振り絞ってじさまのために夜道を駆けた豆太にじさまが言います。「にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ…」と。これは、作者が講演で語ったという次の言葉と一致します。
「私が言いたいのは、人間、やさしささえあれば、やらなければならないことはやるんじゃないか そう思うんです。」
「おのれをなくしてみんなのために尽くすことによっておのれの次元が上がるということを言いたいのです」。

 大好きな絵本「花咲き山」のあやもあんちゃんも、「三コ」も「八郎」もみんな自分にとってつらく悲しく苦しい事でも、誰かのために勇気をもって我慢したりやり通したりします。それを作者は「やさしさ」だと言うのです。人を思う優しさこそが勇気を生み出す源だと。
「仁者必ず勇あり、勇者必ずしも仁あらず」―論語の言葉を思い出しました。
 
 仁者とは、相手に対する思いやりも持った人、その仁者には必ず勇気がある、でも、勇気がある人だからと言って必ず優しい心遣い、思いやりがあるわけではないのだ。

 豆太は、ひとりでは「雪隠」に行けないけれど、じさま思いの優しい勇気のある子なのですね。


思いやり~絵本から学ぶ(7)

2020-11-07 15:47:38 | 子どもの本
「『花咲き山』に添えて」~作者の斎藤隆介さんが次のように書いています。

「(前略)日本の人民は、自分たちをおさえていたものをとりのぞかれて、自分を一杯に生きる自由の喜びの中から戦後の歴史を始めました。/しかしまた、戦後の歴史のもう一つの太い心棒は、われわれは一人ではなくてみんなの中の一人だ、という自覚を持ったことです。/みんなの中でこそ、みんなとのつながりを考えてこそ、自分が自分だと知ったことです。/そして更に、一杯に自分のために生きたい命を、みんなのためにささげることこそが、自分を更に最高に生かすことだ、と信じてその道を歩きはじめた人々がおおぜい出てきました。/『花咲き山』はそういう人々への讃歌です。/ そしてそういう少年少女が、この国にたくさん生(お)い育ってほしいという作者の祈りの歌です。(後略)」

 作者の子どもたちへの願いは明快です。「一杯に自分のために生きたい命を、みんなのためにささげ」自分を最高に生かしてほしいと願っているのです。『花咲き山』の「あや」はそんな少女なのです。祭りが近い日、妹の「そよ」は「おらサも みんなのように 祭りの赤いべべかってけれ」と泣いて母親を困らせたとき、姉であるあやは家が貧乏で二人分の祭り着は買えないと知り、自分は「しんぼう」し「おっかあ、おらはいらねえから、そよサかってやれ」と言います。その時に「花咲き山」に赤い花が咲いたのです。
 双子の兄弟の兄は、弟が飲む母親の「おっぱい」を、「あんちゃん」だからと思い、目に涙をためて「しんぼう」します。その涙が咲き初める青い花の露になる。「あや」も「あんちゃん」も自分のしたいこと、ほしいものを、自分より弱い弟や妹のために我慢し、譲ります。自分の生きたい命を、みんなのためにささげ、それが自分を最高に生かしている生き方なのだという具体的な姿がここにはあります。
 
 なぜ「あや」や「あんちゃん」はこのような「思いやり」のある行動がとれるのでしょう。もちろん、弟や妹の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする拓かれた心にあることは明らかです。
 しかし、それだけで、とらわれやすい利己心を捨て、他の人のために生きられるのでしょうか。共生のための積極的な心情・行為はさらに「大きなもの」とのつながりがあるのではないでしょうか。それが「恩」であるという。松浦勝次郎氏は「思いやりの心は誰にでもあるのですが、その原点は、恩を感じ、恩に感謝し、恩に報いることです。」と書いている。(「モラロジー教育」№132 「恩にもとづく道徳教育」)人間の心を持った人~精神的な親~に育てられ、その恩を知ること抜きに本当の思いやりの心は育たないと指摘しています。

「あや」や「あんちゃん」に思いやりのある行動をとらせた「恩」とは何でしょう。二人が感じている「恩」とはそれぞれの兄弟や親に対する恩ではないか。ふたりは同じ時に同じ環境に生まれ、ともに影響しあいながら生きている兄弟への感謝、その兄弟として生んでくれた親への感謝、さらにその親につながる祖先への、産土への感謝を「恩」として感じているのです。そのような「恩」への「恩返し」として「思いやり」の行動が表出するのだと思います。

「思いやり」とは、根底にある「恩」への感謝として、相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようという心遣いに支えられ、「恩に報いる」行動として表出するのです。

品性 ~ 絵本から学ぶ(6)

2020-11-01 18:54:35 | 子どもの本

この花さき山一面の花は、みんなこうしてさいたんだ。つらいのをしんぼうして、自分のことより人のことを思って、なみだをいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、こうして花になって、さきだすのだ。
 やさしいことをすれば花がさく。うそではない、ほんとうのことだ・・。
              『花咲き山』(斉藤隆介・文 滝平二郎・絵)

 こんな人間にはなりたくない~そう思うことの一つに「品性のない人間」があります。「あなたは品性がない」と言われるのは辛いです。他人から私は「品性がない」と見られているのか不安でもあります。
 「品性」とは、何かといえば、挨拶ができること、本能より理性が優っていること、お金に卑しくないこと、自我を抑制できること、恥ずかしいと思えること、自分より相手の幸せを優先して考えられること、足るを知ることなどではないでしょうか。
     
  では、その「品性」はどのようにして身につくのでしょうか。
品性は、人が嫌がるつらいこと・からだが汚れること・苦しいことなどを行うことによって磨かれるのだそうです。日本人はいつからか、それらの多くを外国の人たちに任せてしまった。だから日本人には品性がなくなったのだと、聞いたことがあります。確かにそれもあるかもしれません。大人も子どもも,自己中心的になっていると嘆く人もいます。そうかもしれません。

『花さき山』には「つらいのをしんぼうして、自分のことより人のことを思って、なみだをいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、こうして花になって、さきだすのだ。」と書かれています。「やさしいことをすれば花がさく」と。
  この「花」が品性なのです。「自分のことより人のことを思うこと」、その行為が「品性」と言う花を人知れず心の中に咲かせるのです。自分ではその花が咲いたことを知らないかもしれません。でも、誰かが高いところからきっと見ているのです。いや、近くにいる人でも、花を見ようとする人には見えるのです。

  実はこのように、自分のことより人のことを思い、やさしく健気に生活している子どもたちはたくさんいるのです。子どもの心が成長するのは、つらいことをがんばって続けたり、困っている友人や障がいを持つ人などにやさしい言葉をかけたりしたときです。それを人知れず行っている子は多いのです。それを認め、励ましてあげなければなりません。認め励まされることによって、子どもたちはまたそのことを続け、花を咲かせようとするのです。
 
今は「秋蒔き」の季節です。
庭や畑に花や野菜の種を蒔くだけでなく、心の中にもたくさんの花が咲くような行いをし「品性」のある大人にならなければならないのです。私はそう思います。