季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

思いに耳を傾ける~絵本から学ぶ(5)

2020-10-29 09:20:37 | 子どもの本
 私たちは大人は,子どもの気持ちを先回りして考えてしまうのではないか。相手の考えを聴くよりも先に,自分の気持ちを押しつけているのではないか。
 小さな絵本『君のためにできるコト』(菊田まりこ・作 学習研究社)を読んでそう思いました。

 気のきくくまおくんは,口べたくまこちゃんのために何でも優しくしてあげます。
「どこか行きたい? 僕がどこでもつれてってあげる。」
「おなかがすいた? 僕がなんでもつくってあげる。」          
 口べたのくまこちゃんは,「あのね」と話しかけるのだけれど,くまおくんは聞いてくれません。次々と優しい言葉をかけてくれます。         
「暑くない?僕が木陰をつくってあげる」
「寒くない?僕がマフラーつくってあげる」
くまこちゃんの「あのね」の話しかけは無視されつづけます。
 何も言わない(言えない)くまこちゃんに,くまおくんは
「僕がきらいなの」「それなら君の前からいなくなってあげる」
と言ってしまいます。
くまこちゃんは涙をいっぱいため,「あのね,あのね」を繰り返し,言えない言葉を,ずっと言えなかった言葉を溢れ出させます。
「ずっといっしょにいてくれる。」

 先回りをして自分の思いを伝えることでなく,まず相手の思いに耳を,心を傾けること。それをしないと「君のためのできるいちばんのこと」が「あたりまえすぎて」分からなくなってしまうのです。

 季節は秋。秋には花鶏(あとり)や尉鶲(じょうびたき)などの美しい鳥が渡ってきます。」。
 小鳥の声に耳を寄せるのもいいでしょう。コロナ禍の学校で自分の思いを思いっきり話せない子どももいるでしょう。この時期だからこそ、子どもと向き合う時間も多く持ちたいものです。ただ向き合っているならまだしも、善意の押し付けみたいになっても困ります。子どもたちの「言えない言葉」を、「言えなかった言葉」を聴く時間にできたらいいですね。


虐待・・・絵本から学ぶ(4)

2020-08-05 20:56:17 | 子どもの本
 親の虐待による子どもの死。靴を履くのが遅いから,言うことを聞かないから、育てるのに疲れたから・・・。子どものしつけだからと当然のように暴力をふるう親、好きな男に会いたいと子どもを放置する親、辛くやるせない気持ちにさせられる事件が続きます。
 親の左手は,子どもを自分の左胸に抱え心音を聞かせて安心させるためにあり,右手は抱いた子どもを敵から守る武器としてある。その手が,子どもの命を奪うために使われるなんて。
 もう20年も前のことです、2000年5月17日「児童虐待の防止などに関する法律」が成立したのは。養育者による身体的な暴行・養育の拒否や放棄・心理的虐待・性的暴行などが禁止され,虐待を発見した者の通告義務が定められました。国によっては,子どもを自動車や部屋の中に一人で放置しただけで,虐待とみなされるところもあります。それなのに日本の虐待の多さには驚きあきれるしかありません。
 高度情報社会の「闇」の部分は,自分自身で判断する力の低下であろうと,日頃から危惧しています。たくさんの情報の中で,情報が多いためにかえって自己決定を混乱させてしまうのでは,というおそれを抱いています。さまざまな場面で「本能」がこわれてしまっているとも感じます。マニュアルの氾濫が子どもを育てる「本能」をこわし,情報の洪水が命を慈しむ「本能」までも失わせる。
 一人の死は大きな悲しみです。『いつでも会える』(菊田まりこ/学習研究社)みきちゃんの犬・シロがしずかに語ります。
「みきちゃんが,いなくなった。ぼくは,いつもさみしくて,かなしくて,ふこうだった。みきちゃんに会いたかった。」
 一人の子どもの死は、すべての人にとっての重く深い悲しみです。
シロはまぶたの裏でみきちゃんに会えるけれど、それはあまりも悲しく、失われた幼い命は帰ってこない。
 死や命の軽い現代,300字もない文章とかわいい絵が,優しく,温かく,かなしく,心に沁みてきます。
 夏休みに入り、ましてコロナ禍、家の中で生活する子どもたち。外からの眼も届きにくくなることでしょう。閉ざされた空間の中で「虐待」が多くならなければいいのですが。


教えたことと学んだこと・・・絵本から学ぶ(3)

2020-07-21 12:35:35 | 子どもの本


『さかなはさかな』(レオ・レオニ作 谷川俊太郎訳 好学社)

 池の中にすんでいたおたまじゃくしがかえるになり、池の外の世界を見てきます。それを、友だちの魚に報告します。

「どこにいってたの?」むちゅうになって さかなは たずねた。
「よのなかをみてたんだ-あっちこっち とびまわって。」かえるはいった。
「とてもかわったものを みたよ。」
「どんなもの?」さかなは たずねた。
「とりさ。」ひみつでもうちあけるように かえるはいった。「とりだよ!」 
つばさと二ほんあしをもち、いろんないろをしたとりのことを かれははなした。
かえるがはなすにつれて、ともだちのさかなは こころのなかで おおきなはねのはえた さかなみたいなとりが とぶのをみた。

 かえるを親や教師、さかなを子どもに置き換えたらどうでしょうか。親や教師が学ばせようとしていることと、子どもが学んだことの間には、しばしばこのように乖離した事態が生じているのではないでしょうか。子どものわかり方と大人のそれは違うのです。「何度話したらわかるの」「だから言ったでしょう。」と叱っても仕方がないのです。「言葉」が通じてないことが多いのですから。
  私たちは、子どものわかり方に沿って話をしなければいけないし、子どもが今何を理解し、何を理解していないかを確かめながら指導しなくてはいけないのです。


 親子の会話や授業の最後に親や教師が「わかりましたか!」と聞き、子どもたちが「わかりました」と答える。「わかりました」の言葉をもって子どもの理解を確認するのは、教える側の能力不足、自己満足に過ぎません。「わかりました」の言葉だけでは、子どもが何を、どのように理解したかは、知る由もありません。頭の中には、私たちが教えたかった「鳥」や「牝牛」とはまったく違う「魚鳥?」や「魚牛?」が思い描かれているのかもしれないのです。
 子どもに対してだけではなく、誰かに自分の思いを「伝える」ということは難しいものです。ほとんど伝わっていないという前提に立ち、伝え方を考えなければならないのです。 


思いやりと祈り~絵本から学ぶ(2)

2020-07-06 14:41:45 | 子どもの本
絵本から学ぶ(1)の最後には次のように書きました。

思いやり~「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする」ためには、まず相手に対して感謝や恩返しの気持ちを持つことが大切なのです。

 今回は、思いやりの行動が「祈り」から生まれていることを『きずついたつばさをなおすには』(ボブ・グラハム作 まつかわまゆみ訳 評論社)に沿って考えてみます。

とかいのたかいところで、まどガラスにトンとつばさがぶつかった。
 *都会に限らず、誰も自分のことだけで精いっぱいでお互いに無関心。だから目の届か
  ないビルの高い窓、そこにぶつかる翼、それも小さくトンと。小さくたって、小さな音だっ
  て傷ついているのです。幼稚園の滑り台の下、中学校の桜の樹の陰にもそんな子がい
  ます。

だれもきいていない。  
 *聴こえるものが違うのでしょう。うわさでありゴシップであり金儲けの話であり。
  子どもだって友 人の表情を見ていないことがある。
  人は聞こうとしなければ聞こえない、見ようとしなければ見えない。

いちわの鳥がおちてきた。
だれもみていない。
だれもきづかない。
 *いや、嘘です。見ないふり、気づかないふりをしているのです。面倒なことには関わらな
  い、近づかない。無関心・無理解・無感動・・。そして、みんなが言う。
  忙しい、忙しい・・
  大震災、大災害、コロナ禍、虐待、犯罪被害、性被害、家族の死、人間関係の軋
  轢、挫折体験、日々のニュースの中でも傷つく子どもたちがいるのです。

ウィルだけが・・・
 *大人ではなく子どものウィルだけが気づく。大人は、我執・偏見・羨望・欲望などで目が
  曇っているから気付かない。ウィルでありたい私たち。

つばさをいためた鳥に気がついた。
 *ウィルも翼を痛めたことがあるのでしょうか。そして、誰かに助けられたことがあるので
  しょうか。いい思い出を、あたたかな思い出を、優しく包まれた記憶を子どもにはいっぱ
  い残したい。あたたかくされた人があたたかくできるのだから。

ウィルは鳥をつれてかえった。
とれたはねはもどらないけど・・・
 *とれた羽ってなんでしょう。私たちには治せるものとそうでないものがあ る。強引に介
  入することによってより一層傷つけてしまうこともある。そっとしておくだけでもない、
  治そうとして自分の力を誇示しないのです。相手の幸せを優先するのです。何でもでき
  るという傲慢さはダメ。ウィルが両親の力を借りたように、専門家の力も必要なのです。
きずついたつばさはなおるかも。
ゆっくりやすんで・・・
ときがたって・・・・
ほら、きぼうが・・・・
 *強引に介入してはいけません。時間を限ってなにもしないことも大切。ここは、分析する
  のではなく総合的に見る、そう「物語性」の大切さです。長い時間かかって傷ついた心
  の修復には、その何倍も何十倍もの時間が必要なのです。その間は、ずっと回復を祈り
  ながら寄り添うのです。希望は傷ついた本人の瞳に宿るのです。
  ウィルも聴いてあげたのです、鳥の痛みを。だから、鳥も「話してよかった」「今
  まで言えなくて辛かった」「私が悪いのではないことがわかって安心した」と回
  復していったのでしょう。泣くことによるカタルシスもあったかもしれない。

鳥はとべるかもしれない。
 *飛べるかもしれない。飛んでほしい。傷をなおして羽ばたいてほしい、この鳥のために
  ある空に。この強い願いが「祈り」なのだと思います。
  鳥のために祈るのです。あの日、ドミンゴが日本のために「故郷」を歌ってくれたよう
  に、上皇様がお言葉を述べたように・・・。被災した少女が海に向かって鎮魂のトランペ
  ットを吹いたように・・・。自分のためでなく、誰かのために祈る祈りは通じるのです。
 
ウィルがりょうてをひろげたら・・・・。
鳥はちからづよくはばたいて、 
そらたかくとびさった。
  *子どもの傷に沿って、包むようなあたたかさで、そう「育む」という言葉の語源が「羽根
  で包む」「はくくむ」であるように、優しく子どもの「生」をいとおしみ成長させたいもの
  です。ウィルのしたように。

思いやりと感謝・恩返し~絵本から学ぶ(1)

2020-05-20 10:42:00 | 子どもの本
 思いやりとは何なのでしょう。私は「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする心づかいと行い」と考えています。
 思いやりは、私たち日本人が昔から持ち続けている心的特性なのではないでしょうか。聖徳太子の「和をもって貴しとす」やこれまた日本独特の宗教観である「山川草木悉有仏性」などに見える思いやり。昔話や民話にも思いやりを示す人物がたくさん登場します。
この相手を思いやる気持ちはどこから、何によって生まれるのでしょうか。

 『かさじぞう』(松谷みよ子・作 黒井健・絵 童心社)を読んで考えてみました。
 大晦日に貧しいおじいさんが、お餅などを買うためのお金を得ようとスゲで編んだ笠を売りにでかけます。ところが、笠が売れない上に雪まで降ってきてしまいます。途中の「のっぱら」に雪をかぶって立つ六体のお地蔵さま。「さむかろ、つめたかろ」とおじいさんは、お地蔵さまに「うれのこりで もうしわけねえが」と、笠をかぶせてあげます。笠は五つ、お爺さんは自分のかぶっていた手ぬぐいまで取ってお地蔵さまにかぶせて差し上げます。このお爺さんも家で待つお婆さんもとても優しい思いやりの心をもっていました。

お地蔵さまが「さむかろ、つめたかろ」と思って笠をかぶせて差し上げたお爺さんは優しい、思いやりのある人です。つまり、思いやりは、かわいそうだという同情の気持ちから生まれています。もちろんそれは間違いではありません。はたしてそれだけの理由で思いやりの気持ちは生まれるのでしょうか。
 お爺さんお婆さんの生活はどのようなものだったのか、もう少しこの絵本を読みこんでみましょう。
 貧しい二人は、日の出とともに力を合わせて一生懸命働いていたことでしょう。朝に夕にお地蔵さまの前を通ることが何度もあったでしょう。二人が黙って通り過ぎるわけがありません。「今日も一日、何事もなく働けますように」「いいお天気にしてくださってありがとうございます」「おかげさまで今日も無事に働けました」小さな野の花を手折って捧げたに違いありません。二人はいつもお地蔵さまに手を合わせ、お地蔵様と共に生活していたのでしょう。
お地蔵さまに合掌する理由はほかにもあります。その方がもっと大切な理由なのだと思います。
 この絵本の冒頭部です。
「ふたりのあいだに六人、こどもがうまれたけれど、ちゃっこいうちにみな、あのよへいってしまってねえ、ふたりぐらしだった。」
 お地蔵さまは子どもの守り神です。お地蔵さまと言えば、赤い頭巾とよだれかけ、これはお地蔵さまが子どもを災厄などから守る菩薩として信仰されていたため、自分の子どもが無事育つようにとの想いを込めて奉納するのだそうです。赤には魔よけの意味があるそうです。還暦を迎えた人も、赤い頭巾とちゃんちゃんこを身に着けてお祝いをします。これはお地蔵さまが赤いものを身に着けるのと同じく、干支が巡って赤子に還るという意味から来ています。
 六体のお地蔵さまはなくなった六人の子どもでもあったのではないでしょうか。
 二人はお地蔵さまが子どもの守護神であることを知っていたからこそ、毎朝、毎夕、あの世での子どもたちの幸せをお地蔵さまに祈ったのです。お地蔵さまに子どもたちの幸せをお願いし、安心して毎日の生活を送ることができたのでしょう。六体のお地蔵さまは、二人にとっては六人の子どもでもあったのです。
 そうであるからこそ、お爺さんはお地蔵さまの雪を払い「うりもの」の笠をかぶせ、手ぬぐいで「ほっかむり」して差し上げたのです。それを知っていたからこそ、お婆さんは帰って来たお爺さんを怒ることなく「そりゃ いいことしなさった」とあたたかく迎えたのです。
 お地蔵さまへの感謝、恩返しの気持ちが、単なる同情だけでない思いやりの行動を生んだのです。
 思いやり~「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする」ためには、まず相手に対して感謝や恩返しの気持ちを持つことが大切なのです。