35年ほど前に「分かるとは何か」という修士論文を書きました。「分かる」ためには想像力と視点の転換が欠かせない要素であると書いて以来、視点の転換についてはずっと課題意識を持ち続けてきました。
最近まとめた「『共に生きる』道徳の授業」の研究紀要にも以下のように書きました。
「私たちの視点は否応なく一つに限定されてしまいます。ものの見え方というのは、その人の見方考え方です。限られて、狭く、「三方よし」には至らず、一方的にならざるを得ません。「共に生きる」とは、(問題の解決には)たくさんの視点があることを理解し、共有することでもあります。」
最近「視点の転換」に関して興味深い本を読みました。放送作家・石原健次さんの書いた『10歳からの考える力が育つ20の物語』です。例えば「鶴の恩返し」―おじいさんとおばあさんが部屋をのぞいたのは鶴を思う優しさだったかもしれないなど、視点を変えることによって、一つの物事をいろんな角度から考える力が付くのです、という意図によって書かれています。
私たちの視点が一方的だという点については、以前から多くの人によって指摘されています。「われわれの日常生活を直接に支配するのは自我性または自己中心性の原理であって、これによって曇らされた我々の眼は決して世界を世界そのものとして素直に「視る」ことができない」(『教育学的認識論』野田義一)
「子どもがわかったというのに、おとながなかなかわかったと思わん場合が多いですね。それは邪魔者が多いからでしょう。長いこと生きてきたために、邪魔者が頭の中に詰まっているから、なかなか素直にわかったと思わない。自分の頭の中に詰まっているものと関係つくものはわかっても、そのわかりかたは非常にコンベンショナルなものになる。」
(『人間にとって科学とは何か』湯川秀樹)
『星の王子様』の中での「うわばみが象をのみ込んだ」絵を大人は単なる「帽子」にしか見えないという話は有名ですね。
これから何回かに分けて「視点」について考えてみます。