1月27日朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)です。
身長と体重だけ見て人物評を行うというようなことを、一般の世界では平気でやっている人がザラにいます。 西江雅之
ものごとはいずれも意味の「多面体」であって、どの角度から見るかで異なる相貌を現すと、言語学・文化人類学者は言う。自分がいま見ているのは「事物の一例の、そのまた一側面でしかない」のに、そこから全体を滔滔と述べ立てる風潮を憂える。教育をめぐる議論はとりわけその傾向が強そう。『新「ことば」の課外授業』から
このことは「言葉」についても言えそうです。「ものごと」になまえをつけたのが「言葉」なのですから、その人のつかう「言葉」もまた「「事物の一例の、そのまた一側面でしかない」のではないでしょうか。それぞれが一側面を見て話し合っているのですから、話はなかなかかみ合いません。「言葉は通じない」を前提として、話し合いはより慎重に「アクティブリスニング」(積極的傾聴の姿勢が必要になるのです。
とくに子どもと話すときは、気を付けなければなりません。気を付けるのは大人の方です。子どもの先入観のないものの見方に驚かされます。
七歳の孫となぞなぞをしました。ある「ひっかけ・いじわる問題」から私が出題しました。
机の上からペンケースを落としてしまいました。ペンケースの中には、消しゴム シャープペンシル ボールペン ものさし が入っていました。この4つの中で、命を落としたのはどれでしょう?
答えは「シャープペン」,なぜなら「芯が出る」から「死んでる」から。答えが分かった彼女は「それはおかしい」とクレームを付けました。「ボールペンも芯が出る」というのです。「シャープペン」だけにとらわれていた私は虚を衝かれました。確かに、ノック式のボールペンは芯が出ます。ボールペンも正解なのです。
彼女の柔軟なものの見方によって、私自身の固定化された考え方を反省させられました。たかが「ことば」ひとつのことですが、以前に読んだ以下の文章を思い出しました。
「言葉とか呼称とか、そんなこと、どちらでも良いではないか」と思われる人がいるかもしれない。そういう人でも(あるいは、そういう人ほど)、実は言葉に支配されている。ここで、「支配されている」というのは、言葉の画一的なイメージで自分の印象を固着し、新しい情報、多角的な視点を放棄すること、最近流行の言葉で言えば「思考停止」である。人が思考停止をするのは、楽をするためだけれど、やっぱり問題も生じる。
(『科学的とはどういう意味か』(森博嗣)
ものごとや言葉に対しての思い込みを避けるためには、分かったつもりにならずに、疑問を持ち続けることが大切になるのです。
たかが言葉一つのことだけれど、されど言葉一つでもあるのです。一つの言葉の意味はいつまでも完結しません。その人の体験によって、新しい見方によって重みや深みを増していくのです。そうはいっても、誰もがその意味を獲得できるものとは限りません。体験と言葉の意味を「分かったつもりにならず」絶えず見直している人によってしか、新しい意味は姿を現さないだと思います。