〈文化〉 街の情報誌編集長が見た震災の街 宮城・気仙沼市「浜らいん」編集長 熊谷大海
2017年3月15日 聖教新聞
悲しみを二度と繰り返さないために
東日本大震災から7年目に入った。宮城県気仙沼市の情報誌「浜らいん」の編集長・熊谷大海さんに寄稿してもらった。テーマは「街の情報誌編集長が見た震災の街」。
“人生を終えた人は皆、天の川に昇る”。幼い頃、そんな話を耳にしたことがあります。
2011年3月11日の午後2時46分――東北沿岸の被災地に住む私たちにとって、決して忘れることのない時。東日本大震災の発生から6年が経過した今、悲しみを乗り越え、少しでも記憶の風化を止める手だてになればとの思いが込み上げます。
私は07年、遠洋マグロ漁師の経験を生かしたジャーナリストとして、漁船漁業情報コミュニティー誌「みなと便り」を発刊。さらに10年11月1日、自分の街をもっと応援できないかと考え、気仙沼市の情報誌「浜らいん」を創刊しました。隔月発行で11年1月1日に2号、3月1日に3号を刊行しましたが、その10日後に震災が起こりました。
あの日――南三陸町の志津川魚市場近くの鮮魚商に取材を始めて1時間半が過ぎた頃でした。突然のごう音とともに、激しい揺れに襲われました。「津波が来るかもしれない。早く逃げたほうがいい」。数回にわたる長い揺れが収まると、山間部へ車をひたすら走らせました。車窓からは、倒壊した民家や、空き地に集まっている住民の姿が目に飛び込んできました。気仙沼の自宅へと向かうものの、水没した道に阻まれたため、宮城県と岩手県の県境まで戻り、岩手側から雪が舞う山越えの道を帰宅。地割れ等で道は激しく損傷、特に橋桁がずれ、大きい段差を越えることが難関でした。
すぐに港近くへ行きました。そこには大津波に襲われ、完全に破壊された町がありました。しばらくはショックで、ぼうぜんと立ち尽くすことしかできませんでした。それでも私は、ファインダーをのぞいては変わり果てた町の姿を記録しました。がれきをかき分けて町の中心部に入ると、今しがたまで人や車が行き交い、生活が息づいていた場所から物音一つ、聞こえません。あまりの静けさに鳥肌が立つほどの恐怖感に襲われる中、頰を伝う涙と震える指先を必死にこらえながら、シャッターを押しました。音を無くしたあの日の町の光景は、今も鮮明に記憶しています。
震災後は廃刊の危機に直面しましたが、大変な時だからこそ街の人々に尽くすとの一心で動きました。2人の娘も「浜らいん」「みなと便り」の在庫を車に積み、数日かけて市内47カ所の避難所全てに配布しました。見る物や読む物が何もなかった頃です。避難所の様子を自分の目で見て、避難者の意見を自分の耳で聞きながら、娘たちは多くのことを学んだはずです。
避難所で伺った声がきっかけとなり、震災2カ月後の5月に「浜らいん」東日本大震災特集号、7月には写真集「市民が撮った気仙沼」を発刊。さらに、自ら被災しながらも協賛広告で応援してくれた街の有志のおかげで、廃刊を何とか免れることができました。あの極限状態の日々を振り返ると、ただただ感謝しかありません。
がれきが散在し、ガソリンも手に入らないため、車は使えません。足が鉄板になるほど被災地を歩き、記録を続けました。私が見たものは、被災地の悲しみにどこまでも寄り添う人間の素晴らしさとともに、被災地の悲しみを横目に生きようとする人間の醜い姿でした。震災から7年目に入った今、あえて恐ろしい人間の裏の姿を書き残したい。
ミルクや紙おむつを必死で求める若い女性たちを前に、仁王立ちで腕を組んで冷酷に断るホームセンターの男性店員。リンゴ1袋5個入りを3000円で売る被災地外から来た業者。値がつかないような中古車を驚くほどの高値で売り付ける高慢な営業マン。
津波で現金を流された会社や店も多く、3000万円が消えた信用金庫。隣町のある書店のあるじは、避難した数十分の間に3店舗全てのレジが空になっていたと嘆きました。
震災後、被災した街に、俗にいう「震災バブル」が訪れました。
夜の街では、地方からの労働者が札束をチラつかせては意気揚々と酒を飲み、巨額な利益を得た人たちは、毎夜のごとく街へと繰り出しました。
さらに、多額の支援金や見舞金が入った人たちの中には、唄を忘れたカナリアのごとく、次の就職先を探すことなくギャンブルに興じる姿もありました。
こうした光景は、釣り銭を求めず、札束を豪快に使っていた、かつての遠洋漁業の隆盛時代を錯覚させるかのようでした。
貧富の差は被災地でも同じです。お金のある人ほど早期に自立し、復興を成し遂げる現実がありました。
震災で生活の場の3分の2を失った町には、全国から集めたのかと思うほどの無数の大型ダンプや自動車が、猛烈な砂ぼこりを舞い上げて行き交っています。震災の街は、家を求める人の需要と供給のバランスが崩れ、短期間で地価が高騰。物件を探すのさえ苦労するありさまです。それは現在も続いています。
人口減少が続く中、支援金を受けた会社は震災前にも増して巨大工場を建設しましたが、人手不足から稼働率は依然、低迷したままです。果たして巨大工場が本当に必要だったのかと疑問を感じます。
被災地には、さまざまなドラマがあります。私は、いつか「情報誌の編集長があの日に見た震災の街の知られざる出来事」をまとめて、被災地の真実を伝える本の出版をしたいと考えています。地震大国・日本で、これから起こり得る災害において、一つでも参考になればと思うからです。
震災の記録と記憶を後世に残し、二度とこんな悲しみが起きないよう、せめて減災になるよう、世代を超えて伝えていきたい。それが、街の情報誌の編集長である私の務めと、自らを奮い立たせる毎日です。
今は完全復興、そして、市民の皆さんが一日も早く自立した生活を取り戻せるよう願い、これからも街と共に歩み続けていきます。
被災地の現実が、心にグサグサ響いた…。
以前に訪れた場所はその後どう変化したのか、自分の目で実際に見てみたいと強く思った。