ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

三笠公民館「マイ・フォト短歌」展

2022-11-18 | 短歌
2022年11月12日、奈良市立三笠公民館の開館50周年式典に招かれ参加しました。同時に公民館で活動する皆さんの書や写真などの展示、茶会、模擬店等もあり、そこに「マイ・フォト短歌」展も。5月、6月、7月と、月一回、公民館主催講座として「マイ・フォト短歌」の講師をつとめました。その講座の作品展です。
この企画は、とにかく、どんな方でも身近に短歌を…ということで、昨年より、写真家の河村牧子さんと、私の歌を入れた写真展を開催していることもあり、そうだ!自分で撮影した写真に歌をつけよう!と考え、「マイ・フォト短歌」としました。三回の講座で歌を作り、写真に入れて仕上げたものが、50周年事業の展示の一つとして掲示されたのです。
5月第1回目。まずは、写真を持ってきていただいて、その写真について、皆さんに解説してもらいました。語ってもらう中で、ご自身が何を大切にしているのか、どういう気持ちでこの写真を選んだのか、撮影したのかがわかります。いろんな言葉が出てくるので、それを歌のヒントにしてもらえたらと。ところが、歌のネタになる言葉を見つける、ということ以前に、参加者自らの人となりが、とてもよくわかる、というか、写真のことを語りつつ、実は自分を語っている…という場になっていて、なんだか新しい交流の風景を見るようで、写真や短歌で、こういうこともできるの!と、ちょっと目からウロコで、嬉しくなりました。
写真もいろんな写真があり、技アリの完成度の高いものや、身近な家族や風景、様々です。既に、写真が絵として十分に語ってくれているので、そこはあまり説明しすぎず、歌を作っていきます。
6月、第2回目。皆さんは限られた字数や言葉の選択で、中々、整えるのに工夫がいりますが、自作を披露してもらいながら、私が即興的にやりとりして、歌を完成していきました。その時の様子を、館長の松田さんが歌にしてくれました。それが以下の写真です。

左が松田館長さんの歌。元々、講座中のホワイトボードには文字は書かれてないのですが、そこに歌を入れたところがいいセンス!というか、こちら、講座中は頭がフル回転で、もう何も覚えてなくて…こんな風に温かく見てくださっているんだなと、ただ有り難く思った次第で…。
右は私の歌で、公民館の外観が鳥のようなので(「フクロウ」がモチーフとのこと)三人の学生さんたちは三羽烏!
7月、3回目は、完成した歌に字体を選んで、写真にレイアウトして、印刷して…できあがり!
この講座は、天理大学の杉山研究室の学生さんが、講座の筆記や歌の文字入れや印刷等、強力にサポートしてくれ、そのおかげでできたようなものです。若い人の声や言葉があると、講座も活気に満ちます。本当にありがとうございました。
さて、「マイ・フォト短歌」展示写真を一部、紹介します。人物写真は掲載しませんが、皆さん、大切な人への気持ちがよく出ていました。


最後に、式典には仲川げん奈良市長も来られましたが、その日は、市内の学校の150周年と100周年の祝賀式典があり、公民館は式典三件目?!ということでした。
学校も公民館も、地域にとってとても大切な場所です。この私たちの身近な場所が、学びと交流の場として、今後も良い時間を重ねていけますようにと願って。そしてその場に、これからも「歌」がありますように。

NHK短歌2022年11月号より

2022-10-23 | 短歌
前登志夫主宰の短歌結社、ヤママユに歌を出さなくなって随分たつ。短歌誌も読まないが、近しいところで、鑑賞や作歌の指導を依頼されるので、初めて短歌に向かう人の参考になるかな、というのと、写真も多く、楽に読めるので、春からNHK短歌を購読している。
そこに、前先生の歌が取り上げられていた。筆者は、佐佐木定綱さん。全く短歌を知らない方のために書くと、俵万智さんのいる短歌結社「心の花」の歌人である。以下、誌面通りに記します。

平和とはかく輕やかに日常をビニール袋に入れて運べる   前登志夫『鳥獸蟲魚』

平和とは何か。戦争や争いがない状態なのか。いやいや「日常をビニール袋に入れて運べる」ことが平和である、という。日々欲しいものを買うことができ、それはビニール袋に入れてもらえる。安定した社会をビニール袋に象徴して歌った歌だが、現代は持続可能な社会が叫ばれる世の中だ、取り組みによってはビニール袋に日常を放り込めなくなる世の中になるかもしれない。読みにも変化が訪れている。


以上を一読し、「ん?なんか違う…。」と思ったので、このブログにその感覚を整理しておこうと思い、書いているのですが、「日常をビニール袋に入れて運べる」ことが平和である、という。」まず、ここが違うと思ってしまったということか。
前登志夫はそんなことを「平和」とは思っているのか?この歌にある「平和」という言葉をどう捉えるのか。個人的には、それは作歌当時の時代の空気感としての「平和」であり、戦争を体験した、前登志夫の「平和」とはまた別の「平和」であるように思う。
前登志夫は山住の歌人であり、自然や歴史を背景とした歌を詠みながら、山の暮らしから文明を撃つ歌を歌ってきた。なので、こうした一見わかりやすい、現代の表層を読んだ歌でも、必ず何かしら「今を撃つ」ものがあり、それが、前登志夫の歌の面白さかなと思う。
ただ、それはたまたま私が、前登志夫の下で学び、見聞きし、歌や評論を読んでいるからであって、時に、命の危険もあるような、山や海に対峙して、生業をたてる暮らしが、おとぎ話になってしまっている令和では、前の歌の感覚はおそらく、わからない、理解が難しいだろうな、とも感じている。
前登志夫の歌には、強靱な山の「肉体」がある。けれど、今やもう、自分の肉体なんかより、アバターを作って自分とは離れた架空の体で生きたい、と思う人も多いだろう。
となると、前登志夫の歌など、とてもリアルに感じられないだろう。だから、先生の歌の鑑賞はいよよ、難しくなる…となるか。

今回、取り上げられた歌に関していえば、山人の歌の肉体性が全面に出た歌でもなく、時代の表層を軽やかな皮肉をもって、歌っているので、今の私たちにも十分理解できるものだ。先述の鑑賞コメントの中で、「現代は持続可能な社会が叫ばれる世の中だ、取り組みによってはビニール袋に日常を放り込めなくなる世の中になるかもしれない。」とあるが、ここが気になってしまうのはなぜか。確かに、買い物袋は有料化が進み、「ビニール袋」は使われなくなるだろう。しかし、それとは別の次元に、前登志夫の読んだ「ビニール袋」はあるように思う。演劇的妄想?と笑うことなかれ。やがてこの「ビニール袋」は、「スマホ」にもなり、やがて、日常を統括するようなシステムにもなっていく…。そういったものに、日常を丸ごと入れて運び、これぞ平和?の私たち。「ビニール袋」の宇宙は決して過去にはならない、普遍性がある。

今回、師の歌の掲載があったおかげで、あらためて、令和にどのように前登志夫の歌が生きてゆくのか、考える機会をもらったと感じている。これからも是非、前登志夫の鑑賞をお願いしたい。
師の歌が難解であるということ。風土や歴史的背景、文語の声調、などなど…。それを噛み砕き、時代にあわせるのではなく、照らし合わせ、鑑賞し、残していくのが、師の主宰した「ヤママユ」の役目だろう。ヤママユの若い方たちの鑑賞を読みつつ、「???」となっている私。少なくとも、前の薫陶を受けた先輩たちは、若手の鑑賞を観念的なところから、前の歌の肉体のリアルな感性へと引っ張っていって欲しい。
とはいえ、ヤママユを離れ、歌の方へ向いていない私には、そんなこと言うのは、おこがましいというのもわかっている。
なので、これまでのように、今後とも、一般の方たちに広くわかる形で、イベントや展示事業で、前登志夫に関わる発信を続けていきたい。

ところで、「持続可能」という言葉は、今やまるでかつてのテレビ時代劇、水戸黄門の印籠のようになってしまった感がある。80年代、「エコ」という言葉が出現した時と全く同じにおいがする。「エコ」といいながら、全く「エコ」な世界を作らなかった私たち。経済活動は異様に膨らみ、資源は枯渇し続けていく…。
前登志夫の歌の肉体を読めなくなっている私たちこそが、持続可能な社会の出現を困難にしている気がしてならない。
逆にいえば、前登志夫の歌には、持続可能な社会を問うヒントに満ちていると言えないか?
演劇も自分の声と肉体があってこそ。
そこに立脚したい。歌もセリフも。






2022.4.29まで 前登志夫作詞校歌展 

2022-04-16 | 短歌
「前登志夫の世界~作詞校歌紹介展」 奈良町にぎわいの家 4/2~29まで 9時~17時(最終日は15時まで)無料
2008年4月5日は、昭和戦後~平成期を代表した歌人、前登志夫の忌日です。あの西行も望んだように、桜のころに亡くなった歌人を偲び、4月に展示企画や、朗読、コンサートなどを企画開催してきました。今年は、前登志夫が、作詞した奈良県内の13校の校歌の紹介展です。既に3年前の2019年に、奈良町にぎわいの家で校歌コンサートを開催していて(歌…高橋晴子 他/ピアノ…小宮ミカ)、その音源を流しながらの展示空間となっています。
少し話がそれますが、子どもたちの数が減り、学校の統廃合と、最近では小学校と中学校を一体化した、小中学校が増えてきています。
前登志夫の地元、奈良南部は特にそうで、先生が作詞した、広橋小学校、吉野山小学校、國栖小学校は既にありません。南部の学校の歌詞は、師の地元ということもあり、
山人ならではのまなざしが、きわだっているようにも思います。そうした、今はもう歌われなくなった校歌も、この機会に知っていただけらと思います。
個人的には、川上小学校の校歌の「川しもへ 世界へ 光を流したのさ」の下りにいつも胸が詰まります。奈良町近くにいらしたら、是非、お立ち寄りください。

川上小学校 校歌  作詞 前登志夫 作曲 西浦達雄

みよしのの 
吉野の川の 川上は
大昔から 人が住んでた
川しもへ 世界へ
光を 流したのさ
明るく 笑い 
手をとりあって
さあ 森のかおりと 
友情を
おくろうよ ここから








4/5~29 2021年 前登志夫展 

2021-04-07 | 短歌
奈良町にぎわいの家の江戸後期の蔵で、歌人、前登志夫展を開催中です。2008年4月5日に逝去した前登志夫。2011年より毎年展示や朗読などのイベントを企画開催してきて、今年は11回目。今年は歌人、喜夛隆子さん(ヤママユ)に1ヶ月、一首を選んでもらい、わかりやすい解説をつけていただき、前浩輔さんの美しい写真をデザインしてみました。A1サイズで製作したのですが、データが大きくて、私の古いパソコンは思考停止?!に陥り、デザイン途中で消えてしまったり…が、何とか間に合いました。
さて、今回は、近隣の方から寄付をいただいた、直筆の色紙(写真)もご覧になれます。
いつもは、日々忙しく、師の歌の世界から離れてしまっていますが、この時期になると企画制作を通して、改めて前登志夫の残したものの大きさに、「ほおっ」としてしまいます。そう、「ぼおっ」?!とせずに、この歌世界が令和以後も、暮らしの中から離れていかないように…と祈るばかりです。先生の歌の世界にあったものが、令和になってから、なんとなくですが、身近ではなくなっているような感があります。演劇の世界にいる私の目線からは、やや、ぶっとんだ?解釈と見せ方がいるのかもしれないと考えています…先生の世界と演劇の世界をがっつりコラボしたい!と思いつつ…令和以降に生きる前登志夫を模索する力を、今回の展示の一首、一首は与えてくれます。短歌は難解という方にも、わかりやすい解説から、歌の世界観を感じていただけますので、コロナの勢いが加速する中ですが、機会があれば是非、お立ち寄りください。

 展示リーフレット



 蔵展示様子

 寄付していただいた色紙

奈良町にぎわいの家 蔵展示「前登志夫の世界~木々の声」より

2020-04-15 | 短歌
奈良町にぎわいの家は現在、5/6まで休館しています。蔵で開催中の前登志夫展ですが、5/26まで延期としました。現在、お家で過ごされる方も多いと思います。展示の様子を少し紹介して、前登志夫が歌った、山の空気を感じていただけたらと思います。(写真…前浩輔/歌意…喜夛隆子(歌人)



かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり『子午線の繭』
現代詩から出発した登志夫の第一歌集巻頭の名歌。 明るさのなかにすくっと立つ一本の木の一瞬の翳いに同化する、 いのちの根源的なかなしさ。

森出でて町に入りゆくしばらくは縞目の青く身に消えのこり『子午線の繭』
森にいる時間の方が長い作者は、森に差す陽光や風の匂い、 鳥獣の気配に包まれて野生の縞目を身に着けている。 その縞目は町に出てもすぐには消えない。




森ふかく入り来てねむる 青杉の梢を移る陽のひかり透く『繩文紀』
森へふかく入って眠っている。青杉の梢を移ってゆく透明な陽のひかりにつつまれて。

木を伐りしひと日の疲れいたはれば木伐りし森に月出づるなり『樹下集』
木を伐る仕事を終えた一日の身の疲れをいたわっておれば、その木を伐った山に月がのぼってきた。木も人も月のひかりに包まれる。



こんなにも木木たくましく在る日かな青葉の森にじふいち啼けり『落人の家』
こんなにも木々がたくましく存在する日、その青葉の森にジュウイチが啼いている。ジュウイチはカッコウ科の鳥、 慈悲心鳥ともいう。