ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

映画「東京リベンジャーズ」を見て

2022-07-31 | 映像
子どもの頃から、テレビで映画の放映のおかげで、いろんなことを知ったり感じたり。それが今でも続いています。といっても、この頃は何気にテレビをつけているだけで、これを見ようということもないのですが。中学生の時の教育テレビのレトロ映画特集にはまり、「天井桟敷の人々」「椿姫」「モロッコ」「ミモザ館」「うたかたの恋」「カサブランカ」などなど…。まさに、ガルボ、デートリッヒ、イングリット・バーグマンなど、「銀幕の大スタア」たちにため息をついていました。
さて、そんなレトロ映画の世界とは全く違うのですが、テレビで「東京リベンジャーズ」という映画をしていました。昨年公開され、動員数が一位の映画。全く知らなかったわけではないのです。昨年、テレビでも紙媒体でも派手な宣伝がされ、しかも、ちょっと昔のヤンキーの抗争ドラマか?と、キャストの風貌を見てすぐわかるのですが、その見た目から、「こんな映画が一位でそんなに見られてるの?」と、こちらには全然関係ない世界でした。ただ、キャストは今一番のっている若い役者たちで、主役の北村匠海はいい役者だな、と他のドラマを見て思っていたので、なんとなく、そのままテレビをつけて見ていました。
そしたら。
面白かったのです。元々、原作は少年マガジンの漫画で、その実写なので、何もかもオーバーで、対立する不良グループのケンカなんか、エンタメとしては面白いけど、いやいや、それはあり得ないとか…。だって主人公の「タケミチ」はずっと殴られ続けているけど、こんな殴られ方ではとっくに死んでますよ…とか、思わず母親目線で見たりしてましたが。良かった理由は以下の三点かと思いました。

①登場人物の「気持ち」がよくわかり、「何かをする」時の動機には、その「気持ち」がはっきりとある。
主人公はヤンキーなんですが、全く強くなく、ケンカをすればボコボコにされるし、立ち向かう勇気もない。ところが、この弱い彼には素敵な恋人、ヒナタがいる。なれそめは、コンビニでバイトしていた、ヒナタが、レジで、強面のお兄さんに絡まれていたところを助けたから。ところが、この助け方が、秀逸!で、相手に立ち向かっていくのでなく、文句を言っているのに、相手に直接言うのでなく、自分に返ってくるといった、非常に高度な、まるで一人芝居のような「立ち向かい方」をするのです。そして、強面の兄ちゃんは「こいつ頭が変…」と怖がって逃げていくのですが。私はこのシーンに妙に感動しました。彼女を助けるために、何かしなければならなくて、その必死で立ち向かった結果が、直接的なケンカという方法でなく、自分がのたうち回るところを見せた、というところ。
この主人公の姿勢は、ドラマの中でずっと一貫していて、絶えず、のたうち回っています。それも、毎回ボコボコにされて。けれども、それが全て、恋人ヒナタを守ることにつながるなら、なんとか、なんとかしなければならない、とずっとあがいて強くなっていくドラマなのです。
現代において、周りばかりを気にして、空気を読むことを、言われなくても自分に強いてしまう人、若者も多いでしょう。私もそうです。そんな弱さを本当はみんな、自覚している。自覚しているけど、「勇気」がない…。それは、主人公のように、「ボコボコ」にされることが怖いから。
ところが、不良の世界では、この「ボコボコ」されながらもいかに、立ち向かっていくか、というところに、存在意義がある、といった価値感があり(このあたりが妙に昔気質で面白い)の不良グループなので、主人公はその総長(吉沢亮)に認められ「ダチ」友達になるわけです。
自分がボコボコにされても、曲げられない何かがあるなら、殴られても動け!と,見ているこちらに聞いてきます。
これは、「何かを守るためには犠牲にならなければ」という文脈にすぐなってしまう危険もありますが、この映画はそうでなかった。
自分の勇気が、愛する人を生かし、自分も生きることになる。「生きる」ということは「ボコボコ」になること、けれど、その姿を見てくれる人や、愛する人がいれば、乗り越えられるということ。単純なことなんですが、ここがストレートで胸をうつのです。要は、隠したり、取り繕ったりしない本音がドラマを作っていて、セリフに力がありました。

②ファンタジーであるということ。
このドラマの冒頭は現在で、主人公はフリーターをしながら、何も楽しみもなく、バイト先でも蔑まれ、口からは「すみません」としか言えない、生きることを捨てているような、若者。ところがテレビでかつての恋人、ヒナタが殺されたとニュースがあり、そこからドラマが始まります。構造的には過去に戻って、昔の自分が、現在の運命を変えれば、恋人ヒナタが死なないのだから、そんな未来を作るために、過去の自分が動くのです。未来につながる伏線や出来事が沢山あり、そこに敢えて、火中の栗を拾うように、事件の渦中に主人公は入っていきます。こんな段取りで、過去と現在を行ったりきたりして、ご都合主義とはいえますが、それがあまり気にならなかったのは、主人公の必死さと、向き合う相手との気持ちのやりとりが、とてもリアルだから。ファンタジーという枠ならではの、誰もが思う「あの時、あの選択をしていたら、今は違っていたかも…」といった感覚に、アピールしたと思います。ほんと、あの時、自分がこうだったら…誰もが思い当たりますよね。その「後悔」に主人公はリベンジしていきます。なのでこの「リベンジ」というのは、他者でなく、弱かった自分への「リベンジ」なのです。

③肉体がぶつかるということ。
私の中高生時代は、ドラマ「金八先生」の「腐ったみかん」で有名な頃で、田舎育ちの私の学校にはなかったですが、学校のガラスが割られ、廊下をバイクが走り…といった話をよく聞きました。していることはハチャメチャで良くはないですが、自分の「体」はつながっています。映画の中でのケンカのシーンは、もちろん、エンタメなんですけど、「殴られた痛い」「傷つけ傷つけられたら痛い」実感は伝わってきます。ケンカを肯定するつもりは全くない、けれど、一方、体の感じる痛み、ひいては心が感じる痛みを、私たちは、触感的に、既に遠いところに置いているような気になります。何もかもがバーチャルで、自分に痛みが届かない匿名の世界で生きている私たち。そんな中、映画の人物は、名前も体も一番前に置いて、ケンカをします。良くはない、が、ケンカする肉体の「痛み」を、私はとっくに忘れているようで、ずっと見ていました。「後の祭り」と言う言葉はよくない意味ですが、それも含めて「祭り」のようにケンカシーンを見ていました。
私たちは「体」で「五感」で痛みを感じる…。痛みをわかるところに自分の「肉体」を置きたいな…そんなことを感じながら、若者たちのケンカ、祭りであり、戯れであり、爆発であり…を見ていました。
万が一、その爆発が間違っていても、それが後に何かを得たとなれるように、周りの大人たちに度胸がすわっていればよいのですが、私など、何か起きないように予防線をはってばかり…。

以上、「東京リベンジャーズ」面白く見ました。
昔の高倉健の任侠映画に若者が熱狂した感覚とは違っても、それでも何かしら重なるものも感じます。
健さんは強くて虚無的だった。令和のヒーローは弱くてずっこけながら、人をいっぱい愛しています。

追記…映画の始めの方で、主人公タケミチのバイト先の店長が出てきます。嫌な役柄でタケミチにひどいことを言いますが、この店長、ものすごく印象に残る…。誰?見たことない…。スタッフさん?いやぁ、目がいきました。




2枚の写真から 

2022-07-26 | その他
朝からゆっくり新聞を読む余裕もなく、日々のニュースはテレビやネットから知る生活…。朝刊夕刊はどんどんたまり…そして、時間ができた時、一気に読み、気になる記事や書評は切り取っておく…というようなことを続けているのですが。
先日、整理をしながら、何のつながりもない写真が、そのシルエットが、自分の中で混ざり…それは混沌として、憐れで、なのになぜか不思議な力があり、それは前にいくような、振り返るような、大きく飛ぶような、なんともいえない感覚と感情があらわれて…生きているような、既に死んでいるような、私は何を見ているのだろうという気持ちになりました。
一つは夕刊の文化欄の写真です。マリオ・ジャコメッリというイタリアの写真家のものでした。不覚にも私は、この写真家を知りませんでした。東京都写真美術館にあるその写真のタイトルは『自分の顔を撫でる手もない』から。モノクロの写真で、雪の上で輪になって踊る、イタリアの神学校の生徒たちを写したものです。神学校の服は、牧師が着るような黒い服ですから、当然、雪の上の輪舞は、白と黒の世界であり、その動きが白い風景に溶けるような様もあり…。なのに、「踊っている」のにどうしてこんなに「死」の気配がするのか…。高度に演出された舞台を見ているような。ただ、それは、若い頃、テレビで見て目を奪われた、ポーランドの偉大な演劇人、カントールの「死の演劇」とも違う…「死」の感覚なのです。
二つ目の写真は、奈良は西大寺駅前で起きた事件の写真で、もう既にあらゆるメディアの渦中の男性を、SPがかかえている写真です。斜めに体を倒し、足が不自然に曲がっています。
もしか、この二つの写真をそれぞれに別々に見ていたなら、私は、先に述べたような、不思議な感覚を持たなかったかもしれません。たまたま、まとめておいた新聞を整理していたら、この二つの写真の新聞が近くにあり、同じような時間に、同時に目にしただけのことなのです。
その同じ時間に見た、全くもって、何の関わりもない、この二つの写真に、どうしてこんなに胸をつかまれ、ざわざわと揺さぶられるのか…。これは「芸術」の力なのか?私たちは「芸術」という形のものから、「死」を学ぶことが多い。それは歌でも絵画でも写真でも。その「死」が「生」と表裏一体であることも、作品を読んだり見たりしていると、「なんとなく」わかる…。というか、時間をかけてわかるようになっていく…。「死」を孕んでいない芸術はおそらくないし、「死」があるからこそ、なにかしら作品を生もうとするのかもしれない…。そして「死」の近くには「詩」があって、先のイタリアの神学校の写真には、確かに「詩」があるのです。「死」と「詩」の在処を問うことは、私たちの身近にはなく、問う術となる「芸術」を話題にすることも、暮らしの中で日常的とはいえない。でも、作品から、なにかしら「死」と「詩」を感じられたなら…それは、明確な言葉に出来なくても、いや…逆に、生きていけるかも、と思えるような気がしてならないのです。
報道写真の渦中の人となってしまった彼の写真を見るたび、この行為に到るまでに、言葉、歌、絵、もろもろ…こういったものが彼の中でどこかで何か意味を持つようなシーンがなかったのか、と、そんなことばかり思ってしまいます。芸術は、余裕がある人たちだけがやっていること、と言われても仕方ない現実…。私たちのしていることは何の役にもたたないのか…。
いえ…それでも、芸術が大事と思うのは、私がこの何のつながりもない2枚の写真が並んだ時に感じたものが、あってはならないこの度の事件を,少なくとも考え続ける始まりになる、ということです。
神学校の生徒の輪舞と事件の彼の硬直した体軀のシルエット…。
そして、前者の写真、ジャコメッリの写真のタイトルは『自分の顔を撫でる手もない』というのです。
このタイトルが、報道写真に重なる時、何かしら大きな大きな渦がおきて、答えを持ってきてくれるようなそんな気持ちになるのはなぜでしょう。
そしてこの関係ない二つの写真が自分の中で一つになってセリフになります。
「踊ろうか」
「踊りながら死んでいるね」
「死んでから踊る?」
「いや、誰か止めてくれたなら…」
「そうだね。でもやっぱり踊ろうか。」

…傷ついた人たちが皆、少しずつ落ち着いていけますように。
一方で、私の中におこった二つの写真のさざ波は、落ち着かなくて…いつか大きな波になって戯曲になれば…。


朝日新聞夕刊7/12




次回小町座公演 2022.8.27 「十六歳」

2022-07-07 | 演劇
2010年に上演した、小町座2人芝居「十六歳」を再演します。キャストは当時とは違い、小町座代表の西村智恵と、中学生の2人が「十六歳」を演じます。この戯曲の初稿は、2001年のアメリカの同時多発テロ事件が起きた時に書きました。当時は次男が一歳で、演劇の現場にもいなくて、かろうじて、短歌で書くことにつながっていました。怒りを書くことで鎮める…そんな感じでした。9年後、小町座で上演するとは、その時は思ってもなく、そしてこの度の再演…。
ウクライナにロシアが侵攻して、2/24、侵攻のニュースを聞いた日にこのブログで書いてから、まもなく五ヶ月に…。この「十六歳」は、この度の戦争のことではないですが、西村が演じる、戦いに身を置いていた若者の声が、何かしら、代弁してくれるのではと願っています。
そして、今回は、「十六歳」の前に、あの文豪トルストイの「イワンの馬鹿」を朗読します。文庫版の原作を脚本化したものを読みます。100年以上前、近代はまさに戦争の時代。帝国主義、領土拡張…現代の問題につながる、多くの戦争があった時代。それでも、ロシアの文豪は、自分の国の民話から、自らの思想である「非暴力主義」を訴えます。幼い頃、「馬鹿なんて言葉、言ったらだめなのに。」と思ったものですが、この「馬鹿」こそが、真実、王であることを理解するには、時間がかかりました。「馬鹿」に託したトルストイの矜恃、面白く楽しく朗読劇にできたらなと思います。
というわけで、この暑い夏を、熱い稽古で乗り切ろう!?と一同、励んでいます。今回も、素晴らしいスタッフが支えてくれます。
どうぞ、是非、ご覧ください。詳細は小町座フェイスブックへ。→https://www.facebook.com/komachiza

 イラスト…川田葉子(初演時のイラストを使用)