ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

NHKドラマ「VRおじさんの初恋」ブラボー!

2024-05-27 | 映像
朝ドラの15分と、夜ドラの15分。どらちも適当に見ていますが、夜枠は中々、面白い。また、ここに来て、令和ドラマの最高作?!と言えるのではないかと思うようなドラマに出会えた。それが「VRおじさんの初恋」。これまで脇役でどちらかというと、不気味で不遜?な役も多かった、野間口徹が主役。他のキャストもとてもよかったが、それはおいといて、とにかく、脚本、物語そのものが素晴らしく、これは昭和生まれには書けないわ、ブラボーと思った次第です。
個人的には、AIとかVRとか、興味がなく、理解もできていないのですが、ただ、これほど、ゲーム人口が多いなら、そのゲームの物語が素晴らしければ、昭和にとっての「文学」の果たした役割が、ゲームの世界に持ちえるのではないか、と以前から漠然と感じてました。
で、今回のドラマを見て、そんな昭和的な啓蒙思考など飛び越えたものだったので、これは面白い!と思ったのです。
主役の冴えない中年男性、直樹は、VRの世界では、ナオキという可愛い少女として登場し、交流します。そこで出会った魅力的な女の子、ホナミと関わる中で恋?をするが、このホナミが、実は男性で老人というところに、この作品の面白さがあります。
例えば、いくら、外見が全く違ったものになったとしても、発する言葉は、外見ほどには変えられるものでしょうか。だから「この風景がいい、夕陽がきれい」というようなことは、やはり、元の人格の中にあるもので、外見がどんなに「今」を反映した自分とかけ離れたアバターでも、結局、自分の言葉というのは、良くも悪くも「実物」を裏切らず、VRの世界にあるという感じがして、そこは、これまでの文学の文脈で考えられることでした。
一方、そうでなくて、新しいな、令和的だな、と思った点こそが、このドラマを特別なものにしているのですが、それが、「初恋」の捉え方です。
この「初恋」をどうとらえるか、というあたり。これまでの男女の間の、また、同性の間での「初恋」というのと違う新しさがあったと私は思います。
主人公、直樹が、VRで好きになった女の子、ホナミに対する「初恋」なような気持ちが、実態の老人にまま重ならないとはいえ、しかし老人を知るほどに、直樹は感情を動かされ、老人の家族の現実に関わることになります。この現実的な関りが、VRの少女、ホナミとの世界と、全く関係ないとはいえない、というあたりが面白いのです。つまり、初恋の相手、VR少女はまさに老人、穂波であり、この真実こそが、「初恋」全体をとらえているような気がしたのです。
VRでの「初恋」と実体へ直接感じる気持ち、が重なり、それがなんとも透明な別次元の「初恋」が、立ち上がって行ったような感覚が私の中におきたということでしょうか。何かすごい詩的飛躍?をみているような、不思議な気持ちが、自分の中におきたんです。なんと現代的でリアルでファンタジーでウソがない、まことの世界なんだろう、と感心したわけです。
要は、虚構と現実の感覚が混ざり、VRで相乗効果がおき、本物と偽りの距離感どちらもあわせて、真実になる…というような。これって、優れた芸術に感じる「力」や「魔法」ではないか。大袈裟にいうと、そんな感じです。
ところで、VRのかわいい少女二人が現実では冴えない窓際の中年と、資産はあるが家族から拒否され孤独な老人とお互いわかってからは、いわゆる、昭和の優れたドラマと変わらず、きちんとした人間ドラマになっていました。それぞれのキャラクターの設定も秀逸で、マンガチックでもあり、とても面白かった。VRをきっかけに出会った二人の家族と会社の人間たちの、家族と脇役たちの再生のドラマなんです。
会社で干された人物たちが面白くて、特に堀内敬子演じる、変な浮遊感のあるおばさん社員、おせっかいでもあり、思ったことをそのまま言う、しかし真実なので説得力があり…。その彼女が作ったお弁当を主人公が家で一人で食べるシーンは、なんというか…いい感じで、胸が熱くなるというか。全然盛り上がるシーンでもないのにですよ、そのお弁当の中身は、たった一人の食の時間を温かく豊かなものにしていました。人はこんな感じで何気に力づけられている、と改めて思いました。
ドラマの骨組みの面白さに、こうした日常に一人暮らしで感じるのディテールがほんと、よく書けている。まだ20代の脚本家、森野マッシュという名前を初めて知りましたが、すごい新人が現れたものです。朝ドラ「カーネーション」の脚本家、渡辺あや以降の私の中でのスター脚本家になるのではと、期待しております。
原作のマンガをドラマにしようと思ったディレクターさんに、感謝いたします。ドラマの現場、令和でも頑張ってほしい…。
今回はざっくりの感想ですが、ドラマを見直す機会があれば、必見シーンなど振り返ってみたいです。

唐十郎、冥界へ。

2024-05-12 | 演劇
不覚にも…唐十郎が亡くなったことを一週間も知らなかった…。先ほどネット情報から知った次第。テレビは割と見ていますが、NHKのニュースにもなっているし、それを見逃したということか。いや、本来ならもっと、取り上げられていいはず。この10年以上の唐さん(と呼ばせていただきます)は転倒からの大けがで、メディアへの露出が減ったとはいえ、演劇界の大スター、唐十郎が消えてしまったことは、「演劇」が消えた、くらいの意味に等しいと思う。「演劇界」という言い方をすると、能、歌舞伎、ミュージカルなど大きな括りになるけれど、唐十郎の「演劇」は、演劇というものの、禍々しさ、危うさ、風俗的で、原初的パワーに満ちた、生きている人間と死んだ人間の交わる、泥臭くて、危険で、神聖な場所」といった、本来の要素を、包括しているという点で、やはり「演劇」の王道といえると思うのです。なのでこの国から一つ、核となる「演劇」世界が消えてしまったということを、私的見解ですが、令和にとどめておくことは大事ではと思って書きます。
こんな大きな物言いをしているのに、私はそんなに唐作品を見ていません。大学生の時の1980年代半ば前後、そのあたりなのです。1960年、70年代の政治と芸術が熱く絡んだ時代はとおに過ぎ、小劇場で一見やばそうな?役者さんや演出家さんたちが、どんどん、テレビや商業ベースの演劇に進出するのが当たり前になっていた頃でした。なので、私が初めて見た紅テントは、かつての紅テントのスーパースター、根津甚八も小林薫もいなくて、佐野史郎さんがいた舞台でした。なので、ピークは過ぎた紅テントではあったのでしょうが、それでも、紅テントの中の空気感を知りたい!とぎゅうぎゅう詰めの雨の中、見た記憶を思い出しています。(この時代の資料を紛失していて、以下、ネット情報に助けられつつ)
その作品が「住み込みの女」。中川淳一のレトロな少女のイラストが印象的なチラシでした。新宿西口にテントがあったので、あの伝説の「花園神社」ではなかったです。その日は雨で、しかし、テントは満員、観客席も地べたで観劇環境としては最悪でしたが、そんなことは関係なく、芝居を「観る」というよりも、今起きている事件のような演劇?に参加している、ような観客席でした。
見たかったのは、紅テントのヒロインというか女主人、李礼仙。小学生の時に見た大河ドラマ「黄金の日々」に出ていて、なんだか気になって頭から離れなかった役者さんをやっと見れる!とわくわくしていました。
ところが。私が役者として気になったのは、作・演出である唐さんでした。なんというか、他のアングラ俳優と違って、全然、別の空気を出しているんです。上手下手でくくられる芝居でない、自分で書いた戯曲の海をすいすい、泳いでいる感じ。つまり、演じている感じが全くしない。なので、役者というのでもない…つまり、別の次元で舞台に立っている「特別な人」に見えました。
もちろん、紅テントの怪優たちの圧のある芝居があっての唐さんの芝居であり、だからこその「海で泳ぐような魚」の感覚で舞台にいることが、きわだったと思うのですが、今にして思うと、まさに今、生きている「詩人」がテント内で、役者とは違う呼吸をしていて、それが唐作品においては、ものすごく重要であったのだ…と改めてその力の凄さを感じています。
役者「唐十郎」は舞台詩人!「唐十郎」であり、これはもう訓練や技術で得られるものではない、唯一無二のものです。この存在の明るさと開かれた空気感が、アングラの華を咲かせて、しかもそれを矮小で狭いものにせず、堂々と時代の正面を渡っていった「演劇」の王様として、唐十郎の存在があったのだなあ…そんな思いでいます。ああ、あんな空気感で舞台で立つ役者詩人は…もういないでしょう。だから、そんな役者を抱く「演劇」が…消えてしまったのです…。1980年代の「住み込みの女」を見てそんな風に思ったんですから、初期の役者としての唐さんは、さてどうなんでしょうか。
そして、同時に感じたのが、唐さんの芝居は、舞台の混沌としたアングラな空気の中で、なぜか「エレガント」なんです。「エレガント」はアングラ芝居とは無縁の言葉のように感じますが、何だか「優雅」なんです。それは作品としてきちんと立っていて、ものおじせず、「わたくし」そのものが醸し出す「スタイル」で表現として突き詰めて到達した優れた「かたち」の形容にもなるのでは、と私は思います。誤解を恐れずにいえば、寺山修司だって、横尾忠則だって、川久保玲だって、本物の「エレガント」といえるのでは。ただ、世間的に使う「エレガント」が、あまりにも狭い意味で使い古された言葉になっているので、「唐十郎がエレガント?!」なんていうと、「はあ?」となるのかもしれませんが。
晩年の唐さんが若い世代と共に自分の作品を作り上げていきましたが、あの唐十郎の言葉をどのように声にしているのか、以前、YouTubeで検索かけて見たことがあります。その時の感想は、「アングラスタイルとしてのセリフの発声」という感じでした。全部を見たわけでないし、生の舞台でもないけれど、もしか、唐さんの芝居を「紅テント風」とくくり、そのスタイルで読むのは、私は違うのではと思います。そもそも「唐さんっぽい芝居」という言い方は、その芝居の本質を語るものでなく、あくまで、広報のような文言に過ぎないからです。
演出としては「唐さん風」はあり、と思います。けれど、セリフをそちらでやると、そもそも、今、生きている人間が、コピーしたところで、アングラ風をやってます、では、AIの上手なアナウンスと変わりないようなものになってしまうでしょう。「今」の若者が自分を重ねて、大きなものに格闘していくところからしか、声は立ち上がってこないように思います。
それに、唐十郎の戯曲の言葉は古びないし、ものすごく音楽的です。優れた戯曲の韻律は、委ねれば何かしらの力をくれます。その力と共に…後は、自分自身をセリフにぶつけるしかないでしょう。踏まれ続け、虐げられて、それでもなお、舞台にうごめくものとして、影の声が光になる瞬間を、唐さんは書いてきたのではないかと思います。
そして、その活動は、日本の芸能の流れの中で、アメノウヅメの神話の世界から、現代の時間まで舞台という一瞬の場に、愛とエロスを立ち上げていった、稀有なものです。
そう、詩人というものは、そういうことができるのです。私の短歌の師、前登志夫もそうであったように。
唐十郎さんのご冥福を心からお祈りします。
とともに、「さらば!」でなく、そのセリフがきらきらと輝きつづけるところに、私たちの「肉声」があればと願って。


私の初、紅テント体験「住み込みの女」