ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

見ていたい…顔。~奈良市写真美術館「それぞれの時「大阪」展

2016-10-31 | アート
昨日最終日、あわてて写真美術館まで。主人と息子が「入江泰吉の文楽人形の写真が面白い。」とのことで。
この展覧会は、森山大道「大阪」・入江泰吉「文楽」・百々俊二「大阪」とサブタイトルがあるように、三人の写真家ならではの「大阪」が感じられる写真展です。
入江泰吉は奈良の方ならよく知る写真家。森山大道は、関西出身の海外でも評価の高い、ちょっとアングラ?なメジャーな写真家。そして、百々俊二。私はこの方の写真を見たことがなかったのですが、今回、一番、ぐっと来ました。なんでも、昨年、写真美術館の館長になられたとのこと。(百々は「どど」と読みます。まさに、「どどーん」の作品!)
さて、その百々さんの作品、六十年代、七十年代の新世界の写真がありました。街の写真は、七十年代に子どもだった者としては、なんともリアルで、それは懐かしいとか、ノスタルジィとか、少しセンチメンタルな感情を呼ぶ、それとはまた異質のものです。存在がドーンとあり、この風景は今はもうないとしても、写真が生きもののように、そこにあるのです。
新世界界隈の人物をとった写真は、飲み屋で笑うおじさん、夜の商売のお姐さん、日々の労働の後の一杯、それを味わうおっちゃんたち。あのフォークのカリスマ、岡林信康の「山谷ブルース」に「♪今日の仕事はつらかった、後は焼酎をあおるだけ」とありますが、そんなぎりぎりの暮らしの顔なのに、まあなんとも良くて、その顔の写真の前にずーっと立っていました。
演劇をしているから、というわけではないてずが、30代後半くらいから、なんとなくいつも「見ていたい顔」に会いたいな、と思うようになりました。
それは、たまたま、20代の頃に手に入れた「バートン・ホームズ」の展覧会カタログにあった、昔の日本人の顔の写真を見てからでした。バートン・ホームズは、まだ写真がめずらしかった百年以上前、世界各地を回り、各地の名所や人物を撮影、これらの写真を見ながら各地を講演して、好評を博した写真家です。彼の写真の中に、大正時代初期の日本の風景と日本人の写真があり、牛をひいている人、薪を背負って坂を登る女の人、子守をする女の子など、たくさんの日本人の顔があります。これを見ながら、ふと、こういう顔に会いたい、見たい、と思うようになりました。そうしていたら、NHKで番組名は忘れましたが、そのころの日本の映像をカラー化した番組があり、それで車夫(だったと思いますが)仕事を終えて、一杯の蕎麦を食べる映像があり、食べながら見せるその男の人の素朴な「笑み」に、ああ、いいなあ、と。同時に、こんな顔は、今、どこにあるのだろうとも。
平たくいうと、これら昔の日本人の顔は、その人がその時にそのままの顔なわけで、現代の、マニュアル化された接客の顔とは全く違います。また、昔は「見られる」という意識もなかったでしょう。食べるために、黙々と目の前のことをして、糧を得るだけ。では、それで悲惨な顔をしているかというと、そうでない。
百々さんの写真もまさにそうで、新世界近辺の、おっちゃん、おばちゃんの「顔」は、生きているなあと思う顔でした。
哲学者の鷲田清一さんが、百々さんの写真に一文を寄せられたものが紹介されていて、そこには「おっとり」という言葉がありました。さすがは鷲田さんの言葉です。つまり、百々さんの写真の人物たちは、日々の暮らしに余裕がないけれども、確かにその顔は「おっとり」しているのです。
「おっとり」というのは、優雅で余裕がある言葉だなと思います。ぎりぎりに生きている人たちが、そんな味わいを持っている、そういう顔をして生きていたことは、実に素敵じゃないか、と思います。久々に見ていたい顔に会えて嬉しい限りの写真展でした。
あ、入江泰吉の文楽の写真も良かったですよ!良弁僧正の人形の顔のなんとも端正で静かな思索を感じる顔であることか。そして、すごかったのが、亡霊「お岩」の顔。
これは、すさまじい迫力、人形ならではの力ある形相です。
百々さんの写真の顔、文楽の人形の顔、百年前のバートン・ホームズが撮った、日本人の顔…。
私たちは「私」の顔をして、生きているのでしょうか。
 
(バートン・ホームズ コレクション カタログより)


にぎわい・おりがみワールド2016

2016-10-29 | にぎわいの家・奈良関連
奈良町にぎわいの家は今から百年前に建てられた町家ですが、蔵はさらに遡り、江戸時代後期の建築、奈良町でも古いものとのこと。
蔵ならではの暗い空間は、展示空間として、これまで「書」「現代アート」「地元学校作品展」「染色、立体作品」「季節行事展示」などなど、様々な企画を行ってきました。
さて、現在開催中の企画が、おりがみの展示。近隣の80代の方々が折ってくださった沢山の折り紙を、蔵に飾っています。
大きな折り鶴は、スタッフが部屋いっぱいに、つなげた和紙を広げながら苦心して作りました。幼稚園のお子さんが並ぶと同じ高さかもしれませんね。
外国のお客様に大変好評で、また、平日の修学旅行の生徒さんも、「これ、どうやって折ってるの?」など、自身でも折って、盛り上がってくれています。
11/13まで。ほっこりする「おりがみワールド」、ぜひ、ご覧ください。





ならうたものがたり

2016-10-23 | 小町座
奈良はこの土曜日から、正倉院展が始まり、近隣の商店街もにぎわっています。
さて、一家庭人としては、日々のお買い物に近所の商店街にでかけますが、よく行くスーパーは、近鉄奈良駅すぐの「小西さくら通り」にあります。
この小西さくら通りで、いつも流れている「歌」は、「ならうたものがたり」。これは平城遷都1300年祭参加の小町座の公演「ならうたものがたり」で私が劇のために作詞した歌です。続く、奈良県記紀万葉プロジェクトの小町座ラジオドラマでも放送、奈良在住の作曲家、小宮ミカさんのメロディーが素晴らしく、近くの椿井小学校の子どもたちは「知ってる。」と口ずさんでくれていました。
この「ならうたものがたり」、小西さくら通りと、もちいどの商店街で流れています。特に、小西さくら通りでは、ずっと流れているので、覚えてくださっている方も多いでしょうね。
奈良町にぎわいの家の受付のアルバイトの学生さんから、「あの歌がとても好きで、おのさんが作ったと知りびっくりしました。」と先日、言われました。他にも、通勤の時に、この歌聞いて、なんだかいいなあと思いながら仕事に向かう、とブログに書いて下さった方もあると聞きました。
歌詞は、奈良の春夏秋冬を、わかりやすい言葉で書きました。とにかく、メロディが素晴らしいので、1度是非、お聞き下さい。(YouTubeならうたものがたり で検索すればご覧になれます。→ https://www.youtube.com/watch?v=3cXtd_vzgyA )
この歌も商店街に流れて四年目を迎えます。通勤、通学、お買い物の途中で、少しでも奈良の空気を感じていただければ嬉しいです。

「ならうたものがたり」作詞…おの・こまち 作曲…小宮ミカ 歌…奈良少年少女合唱団 

奈良の現代アートから ~はならぁと 高取町展示から

2016-10-19 | アート
9月3日から始まった「東アジア文化都市2106奈良市」は奈良市の八社寺と奈良町エリアで現代アートの展示をしています。奈良町にぎわいの家もその会場として、連日、たくさんのお客様が来館、岡田一郎さん、林和音さんの作品「FLOW」を興味深く見て下さいました。この日曜日、23日まで開催、まだの方は是非ご覧ください。
さて、奈良県では「アートによる地域価値の発掘作業を通して、奈良県の豊かな文化や暮らしを過去から未来に繋ぐ、今ここから発信するアートプロジェクト」(はならぁとHPより)はならぁとを5年前から奈良県の各エリアで、毎年開催、「奈良・町家の芸術祭」とあるように、近年特に問題になっている、住み手のいない空き家や古民家を、アートの力でその魅力を再生、その過程において、地域との共同作業も生まれ…といった、地域の特性と地元との協働、といったことを大事にしたものです。
現在、奈良町にぎわいの家も参画している「ならまちアートプロジェクト」も、「奈良町」という場所や空間を意識して作られているという点では、良く似た文脈もあると思いますが、企画全体のコンセプトはさておき…。
展覧会、という以上、鑑賞される形があり、その形の存在を鑑賞すると思っています。作品が好き、嫌いの問題はさておき、まずは鑑賞する形がなんだか希薄に感じられるのはなぜかなと思いながら見ました。展示方法がなんともハテナ?という印象でした。場の必然性と作品の存在が立たない、という感じでしょうか?
「見てもらって好きに、何でも感じれば良い。何を思ってもらってもいい。」とのことでしたが、確かに、それはそうですが、作る側が初めからそこに甘えてしまっていては、結局、見るべき「形」や「フォルム」は生まれないと思います。
私はアートの人間ではないですが、「ものをつくる」という土俵が同じというところから考えると、何かを生むのは、直感と思考、直感に客観的な力を与えるための思考力、思考力を保つための努力がいると思います。その「持続」の厚みが、見た時の作品の「厚み」に反映されてくるように思います。
今回のはならぁと、高取エリアの作品の希薄さ、これが意図された、仕掛けられた薄さなら、鑑賞もできる。けれど、そうでもなく、ほぼ「ほったらかし」な感じを受けるのはなぜでしょう。丁寧さにかけるのです。ある町家には、扇風機が回っていました。この扇風機の置かれ方がまた適当で、この「適当さ」が、作品全体の必然かというと、そうでなく、ただ、置いてある。
扇風機、というと、「ならまちアートプロジェクト」の黒田大祐さんの作品が、扇風機を使っています。この黒田さんの作品の扇風機は、天井から吊ってあります。扇風機の風の吹き方は、まるで音楽、リズムをとっているようで、その扇風機の奥に、不思議なダンスの影の映像が映るんですが、このダンスがかなり適当な振りで、この適当なところが、非常に利いていて、扇風機の風、踊りの映像が、この古い町家、集会所、山陰の海から遠くはなれた、大国主命をユーモアをもって呼び込むような、なんとも面白いアートなんです。(展示会場になっている集会所には大国主を祀った小さな祠があります)この扇風機はなくてはならないでしょう。何を意図しているかは、それぞれの感性に任せるとしても、作品を支える「扇風機」なのです。「扇風機」は存在しているのです。
ところが、本日のはならぁとで展示されている「扇風機」はどうも違う。先の黒田作品の扇風機の存在感が全くないのです。「リアルの無さが作品なんです」と、もしか言われても、人に見せるという前提がある以上、扇風機を置くなら、見られる「存在」として置いてほしい、と思いました。
さて、はならぁとのアートと同時に、高取町では、「かかし巡り」が開催されていました。それぞれのお宅に、等身大のかかしが、飾ってあります。私はかかしは楽しめました。かかしをアートが邪魔をしてない?と思いました。アートが、このかかしと融合する、しないは、大きな問題でなく、かかしの「リアル」な町の人の手作りの存在感に、アートが全く拮抗できる力をもっていない。ここが一番の問題かなと思いました。
「現代アートはわからなくていい」「百人100通りの見方があっていい」というのを、免罪符のような言葉にしてはいけないでしょう。わかる作品を作れ、というのではありません。町家を使うなら、その町の特性をつかんで、ここでなければならない、何物かが見つからなければ、「地域」はどこでも同じ場所になってしまうでしょう。その「地域」ならではの「力」を見つけるのは、本当に難しい。勉強がいります。歴史や風土も供えた視点もいるでしょう。まず、その「場所」でやる前に、いかに意識的に、客観的に、「地域」を見ることができるか、そして、その特性にあった作家を選ぶのか…大変な力量がいる作業です。
「地域おこしのアート」が何でもありになってしまった時、観客のアートへの興味も失せるでしょう。これは私自身、地域発に関わるものとして、いつも頭に置かなければと思いつつ、流れてしまうことも多い…。今後の「はならぁと」ならではの作品に期待を込めて。(写真は、町中のかかし人形、池をみています)

 

奈良町にぎわいラジオ、明日放送!

2016-10-14 | にぎわいの家・奈良関連
第3土曜日、お昼前、11時から30分間、奈良町にぎわいの家製作「奈良町にぎわいラジオ」放送です。前にも書きましたが、これは私が構成、脚本を、ナレーション、編集はスタッフがつとめる、にぎわいの家発のオリジナル番組です。にぎわいの家のテーマの二十四節気の紹介、ヤママユ編集委員喜夛隆子先生の節気短歌、そして奈良町で活躍する「奈良町ぴとボイス」からなります。
ならどっとFM、78.4Mhz から放送。エリア外れても大丈夫。インターネットで世界中?!からきけます。(http://www.jcbasimul.com/)
今回の目玉は二つ。一つは、先週、にぎわいの家のかまどで作った中華まんを作る様子。いつもはみんなでご飯を炊いていただく、かまど企画のスペシャル版。なぜ中華まん?!かというと、23日まで開催の「東アジア文化都市」にあわせて、アジアの味、ということで、かまど担当の西村さんが企画してくれました。
中華料理の教室をされている先生の指導の下、中華まんの皮から作るという、本格派。本当に美味しかったてですよ。
そして恒例の「奈良町びとボイス」のゲストは、奈良市総合財団の島崎隆則さん。長年、奈良町の振興に関わってこられた島崎さんは、16日、日曜日に奈良町わらべうたフェスタの中心メンバーとして活躍されています。わらべ歌フェスタは今年で24回。毎年、多くの子どもたちが、この日をめざして、奈良町に来ます。
にぎわいの家でも、紙すもうで遊ぼう、ケン玉名人とケン玉体験、お話レコード部屋など、ちょっと懐かしい遊びで、楽しんでいただけます。昨年は、1000人以上の来館者がありました。今年は、ならまちアートプロジェクトの展示に、わらべ歌フェスタに…。日曜日は晴れとのこと。懐かしい気分で、ぜひ、奈良町にお越しください。