ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

連休は~クリスチャン・ボルタンスキー展、フェルメール展、東洋陶磁美術館へ

2019-05-11 | アート
折に触れ、手にとる美術パンフレットがあります。フランスの現代美術家、クリスチャン・ボルタンスキーの冊子。二十代のころ、現代アートを見る機会がわりとありましたが、ボルタンスキーを初めて見た時、かなりはまってしまいました。手元のパンフには1990年とあり、ボルタンスキー最初の日本での展示だったとのこと。名古屋まで見にいったなあと懐かしく思い出します。作品はいわゆる「インスタレーション」、空間全体で作品を見せるのですが、ライティングや、影を意識した展示方法は、当時、まるで舞台美術を見るようで、私の演劇的なアンテナが、ピピピと反応したのだと思います。それは表面的なこととして、何より心に残ったのは、今回の展覧会にもあった、「モニュメント・オデッサ」のような作品でした。オデッサというと、あの名作、映画「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のシーンはあまりに有名ですが、第二次世界大戦下で、ナチスが大勢のユダヤ人を虐殺した地でもあります。ボルタンスキーの作品は、その迫害された子どもたちの写真を掲げ、そこに灯りを照らします。ホロコーストによって命を絶たれた人たちの、白黒の写真がこちらを見つめ、光があてられている…。空間全体が「祈り」の場所になっている…というとありきたりな感想ですが、そのような空間であることは間違いありません。けれども、写真の1枚1枚や、金属箱の腐食の感触や、照明のコード…全体から受ける印象は、たしかに「死」を私たちの前に連れてくるのです。今、平和な場所にいる私たちとは違う、遠い人たちの「死」を身近に連れてきます。このあたりが、ボルタンスキーの作品の秀逸なところと勝手に思っていますが、「死」に対する独特の感触は、不思議なノスタルジーと透明感と、故人の写真がこちらを試すように私たちを見ている怖さ…は「人類の「死」の歴史を語るかのようです。優れたフィクションは「歴史」の核心を語る…と思うのですが、ホロコーストという、人類は素晴らしいことばかりしてきたわけでもないし、立派なわけでもない、という真実を、白黒の亡くなった人たちの、ぼんやりした眼差しの奥に見て、どきっとするのかもしれません。
今回の展示は、二十代のころ見た作品群と、それ以降のものも加わり、ボルンタスキーの集大成として、全体像を知るには良い展覧会でした。けれど、30年前に見た彼の作品が抱く「死」のもつメルヘンのようなイメージが、薄まっているような気もしました。今回、カラフルな電飾もあり、若い人たちはその前でスマホで撮影していました。全体の空間が、ボルタンスキー劇場のような劇空間として、ある種楽しめる場だったので、「死を静かに思索する」というところからは、かけ離れてしまったのかもしれません。が、彼の回顧展が開かれたことは、活気的なことでした。

同じ日に、後二つ、美術館のハシゴを。一つは大阪市立美術館のフェルメール展。当日チケットに長蛇の列が。多くの人でしたが、ガラスの奥の作品でなく、直接、フェルメールを見られたことは良かったです。が、東京のみの出品作品も多かったようで、レイアウトも含め、全体がやや散漫な印象を受けました。

最後は、中之島の東洋陶磁美術館へ。連休半ばでビジネス街はひっそり。でも、いやあ、もうすごく良かった!安宅コレクションが多いのですが、大大阪の富豪たちの審美眼のすごさ、大阪の商売人は、藤田美術館もそうですが、素晴らしいものを、ビジネスで得た財で購入したのです。本当にありがとうございました、と言いたい気持ち。もちろん、私など全く、専門家でも何でもないですが、通えるところにこんな場所があり、なんとも有り難い。今回の特集展の「朝鮮時代の水滴」は、かつての文人官僚たちのたたずまいが感じられるような…「書」の世界のお道具の楽しみというか、とにかくずっと見ていたい感じでした。常設の中で面白かったのが、「沖正一郎コレクション鼻煙壺(びえんこ)」。中国は清の時代に流行したもので、嗅ぎ煙草を入れておくための容器、つまり喫煙具です。装飾の細やかさ、色の華やかさ、材質の妙など、小さな鼻煙壺は、それ一つで世界を形づくっています。東洋陶磁美術館は本当にお薦めします。…あれ、ボルタンスキーが一押しだったんですけど…。

ボルタンスキー展


 朝鮮時代の水滴



 エレガントな鼻煙壺!