ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

2025.2.9「或る町の物語〜未来から」公演

2025-02-18 | 演劇
ならまちセンター市民ホールで開催された、フォーラム×朗読劇「奈良町をつなぐ〜町家の記憶を未来に」で朗読劇を披露しました。フォーラムの第一部は、町家で実際暮らしている方のトークや、町づくりに関わる皆さんからの報告と提言、そして、宗田好史先生(関西国際大学教授)の講演「まちをつなぐもの」と、充実したものでした。それを受けての舞台公演です



これまで、奈良町にぎわいの家を企画運営するようになってから、奈良町の歴史や文化遺産をテーマに、市民参加の朗読劇を書く機会に恵まれ、奈良町の100年を町家が語るというファンタジー「町家よ語れ」、奈良が創業のテイチクレコードの社史からおこした「テイチクうたものがたり」、元興寺の鬼伝説からの「おにはうちものがたり」ほか、朗読劇にしてきました。これらは、私なりの視点も入りますが、歴史的な資料や社史があり、それをふまえての脚本になります。

町に関わる劇を作る時は、小町座のように自分の世界を自在に表現することとは別のファクターが加わります。それは、自分が住む町のことであり、演劇鑑賞の機会もそれほどない皆さんが見てくださるということ、この二つが大事になってきます。年を経たおかげで、この二つを考えながら書くスタイルが自分の中に出来てきました。

一方、今回の「或る町の物語」は完全オリジナルの戯曲となりました。唯一、モチーフとなったのが、短歌の師、前登志夫の短歌です。「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」 (『子午線の繭』1964)
今回のイベントのテーマは「未来」。温暖化に資源の枯渇、戦争は続き、時代が逆行するようなニュースを日々、耳にします。書き手としてはどうしても「未来はこのまま進むと危うい」という実感しか持てず…。いや、だからこその、舞台であり、文化系の踏ん張りどころ!と思うのですが。今回の作品は、過去を振り返るものでなく、「未来」なので、核となる資料もテキストもありません。そこで、前先生の「歌」が響いてきました。「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」この歌の「村」は「町」であり、未来の私たちの「夕闇」と「華やぎ」は何だろうと考えたのです。

「或る町の物語〜未来から」のあらすじは、木の家、町家が消え、町の全員が大きな共同住宅に全員、同じ生活スタイルで住み、朽ちた町家は危険なので壊されてしまう未来。ところが「しじん」と呼ばれる者が、ただ一人「町家」に住んでいるので、それをやめさせ、安心安全な共同の場に住まわせるとなります。その役目を任されたのが少女。少女は亡くなった父の遺品の中の古い本をみつけ、その中にある歌、「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」をみつけ、なんとなく声にすると…不思議な気持ちになっていきます。そして、古い詩を知っている「しじん」(詩人)のもとに通うようになって…。

こんな内容が、一体、町家のフォーラムの何と交わっていくのか…は、見てくださった方しかわからないのですが、そこに関しては、いつも温かく見守り、サポートしてくださる、天理大学の杉山晋平先生からいただいた、以下の感想に助けていただくとします。

最後の夕陽のシーン、本当に感動的でした。
姉弟、しじん、旅人が出会い、つながり、木の家が直され、町家に新たな息吹がふきこまれていく。
終盤で挿入される「町家よ語れ」の詩にじっくり耳を傾けると、あぁ、そうだったのかとも気づかされます。
長い時間をかけて自然が木を育て、その木が立ち、暮らしと重なり合って町家になっていく。
時代が移ろい、暮らしも変わっていく中で、木の家で人と人とが出会い、つながることで、町家は呼吸し続け、時に生まれ変わっていく。
翻って、旅人の力を借りて木の家を直していく姉弟には、そのことを通じて自分たちの暮らしを取り戻す姿が表現されていたように感じました。
姉が詩を読み終えた後、それぞれが自らの足で立ち上がり、みんなで西の夕陽をまなざす姿には胸にせまるものがありました。
山の木が立ち、町家が立ち直り、人が立ちあがる。<自然ー町家ー人>の関係性、その普遍性をたっぷり考えさせられました。
また、小野さんの脚本、今回の公演が、前先生の歌と対話的に進むと言いましょうか、物語が進むにつれて歌の言葉がどんどん脈打っていくようで、それが情景と合わさってすごく感動しました。
「<町家>のことを考える、残していく、未来につなぐ、ということは、<自然>と<人の暮らし>とのかかわりの中でそれを考えるということだ。」というメッセージが強くそこに表現されていたように思います。


優れた批評によって、作品が新たに生き返るような言葉をいただきました。書き手としては、感謝しかありません。ありがとうございました。

さて、ここからは、キャストチームの話になります。今回、冒頭の町の住人を演じたのは、指導する朗読チーム「言の葉の羽」の四人。デストピア風で、かつ、人間的でない空気感たっぷりな人物を演じることは、とても難しかったようです。例えば、私は「人間の個別の声でなく、大多数が集まった時の、根拠のない自信と威圧感。なので、「記号」のような感触。しかし、ロボット的な発声では困る」とイメージを伝えます。キャストの良さやキャラクターが出たらダメと言われ、かといって、全員同じようなAI的なアナウンスでもない。そんな読みはしたことがないので、最後まで大変でした。冒頭部なので、ここが固まらないと、未来世界の感触が出ません。しかし、本番は一番、そんな難しい世界に近づいた芝居でした。どれだけ頑張ったかと思います。そして、後半、メンバーは「旅人」という、前半とは全く違うキャラクターで再登場します。こちらは、それぞれの個性全開で明るく生き生きと演じてくれました。またホール初舞台の弟役は、パワフルでとてもよかったと感想が届いています。

そして、物語の核である、詩人と少女。小町座で鍛えた二人ですので、さすがの安定感でした。詩人の西村智恵は、ほとんど顔が隠れている中、声と雰囲気で畏怖されるような雰囲気と、一方でユーモアと、性別不明のこちらも、抽象的な詩人をよく演じてくれました。

キャストの皆さんは、私が忙しく稽古も回数できないので、自主稽古を頑張ったと聞いています。キャストにしてみたら「…これ…朗読劇だったよね…。」いつのまにか、演劇になっていることに、「???」だったことでしょう。「台本、離してやってるよねぇ…。」…すみません。本当にその通りです…。

最後に、一部で講演された宗田好史先生からの言葉を。「(講演内容を事前に)打ちあわせもしていないのに、いろいろと重なるお芝居になりましたね。」

以下、舞台写真です。ご覧ください。(撮影…河村牧子)


未来の町は住民全員が共に同じ建物に住む世界…。


壊れた町家に一人住む詩人のもとに少女が。


父が残した「本」に夕日の歌を見つけた少女は詩人のもとへ。


夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ(前登志夫) 


2024年11月 小町座怒涛の三本の芝居!

2024-11-14 | 演劇
小町座は、11月は今週から、週末は三本の芝居の本番が続きます。しかも、二本が新作。我ながら、よく書くねえ…と思いつつ、それより大変なのが、セリフを覚えるキャストたち。関わる全員が「できるのか!」と…今も思っていますが、それぞれの形がようやく見えてきました。以下、告知をします。皆様、ぜひ、お越しください。

①奈良町にぎわいの家「百年語り」vol.4  11/17(日)午後1時半〜 無料  出演 井原蓮水 荒木涼介


●二人芝居「きりぎりす、ないた」(太宰治『きりぎりす』より) 
登録有形文化財の大正時代の町家で、近代の文学を戯曲化して演じるこのシリーズは、昨年までの三年間は、岡本かの子(小説家・歌人・芸術家、岡本太郎の母)の作品を一人芝居にして上演しました。そして、今年はなんと…現代でも人気の高い、太宰治の作品から作りました。太宰の書く女性の語りは「え?本当に男の人が書いたの?」というくらい、女以上に女?!なんですが、そんな短編の一つ、「きりぎりす」を二人芝居に脚色、夫と妻の微妙なやりとりを、なんと高校二年生と昨年まで大学生だった若いメンバーが演じます。これってかなり難しい芝居…と書いた私が思うんですが、17歳と22歳、セリフを覚えるのには苦労していましたが、画家とその妻というキャラクターが二人にあっていたのか、いや、この二人の若者たちが特別なのか?100年前の若い夫婦の感覚が、決して古くなく、現代によみがえってきます。若い二人の芝居をぜひ、応援ください。


●朗読「カチカチ山」(太宰治『御伽草子』より)  出演 西村智恵
日本昔ばなしも、太宰の手にかかると危ない危ない…子ども向きのお話とはとてもいえない、ドキドキ感があります。ご存じ、悪い狸をやっつける正義の兎の話が、実は…。ということで、こちらは原文をまま生かした構成で、小町座、西村智恵が朗読。物語の語り部と狸と兎、三者の演じ分けをお楽しみください。

②奈良市アートプロジェクト「言祝奈良」 まちなか舞台 参加公演が二本!
 
●寅さん鹿さん   11/23(土) 10:55 と 11:40 の二回公演 奈良市三条通り商店街 旭水公園   出演 荒木涼介
商店街ということで、物売りの語り芸ができないかと考え、書いてみた作品ですが、15分程度の短いものを、若手が一人で演じます。寅さんならぬ
鹿さんが、奈良の物産を紹介し、誉めるんですが…さあ、それは何でしょう。お買い物のついでにぜひ、立ち寄ってください。

●ピクニック  11/24(日) 14:15~  奈良市役所前南庭    出演 西村智恵 満田智子
市役所前の芝生の広場、せっかくなのでピクニックを…と書き始めましたが、さて、どんなピクニックになるのか…。二人芝居ですが、キャストの決定が遅れ、稽古を始めたのが10月の終わり。本番まで一か月もない中、三回目の稽古の時には、台本も持たず、それなりに形になってきていて…長いこと、私の演出につきあってくれている面々だからこそ、とつくづく感謝しました。が、リサーチ兼ねて、現場の市役所前で演じてみると…大宮通の車の音、風が吹いて小道具が飛ぶ、などいろいろなことが…。さて、どうなるんでしょうか、ドキドキしながら、皆様、ぜひ、リアルな野外のお芝居にぜひ、立ちあってくださいませ。

ということで、週末が二週続けて本番、皆、緊張感もちながらの稽古です。
全力でオリジナル劇をお届けしますので、ぜひ、お越しください。いずれも申し込み不要です。












2024年上半期のベストプレイ(舞台)~奈良町にぎわいの家の全館移動劇が!

2024-10-09 | 演劇
報告が遅れましたが、総合演劇雑誌「テアトロ」八月号の特集「2024年上半期ベストプレイ」に、神澤和明氏(演劇評論家・演出家)が、2024年2月に奈良町にぎわいの家で上演した、「花しまい」(作・小野小町 演出・外輪能隆)を、選び、評を記してくださいました。
他の取り上げられた作品は、断然、東京が多く、紀伊国屋ホールの「ケエツブロウよ」(青年座 作…マキノノゾミ)や劇団民藝の「オットーと呼ばれる日本人」(作・木下順二)などなど、錚々たる作家と劇団です。
そんな中で、奈良で上演された私の作品を選んでくださったことは光栄ですし、それは神澤氏が長年、関西を中心に演劇活動をしながら、丁寧に小さな作品まで鑑賞されているということかと思います。大ホール、メジャーな劇団での公演だけでなく、私たちのように地域で、しかし何とかオリジナル作品の上演を続けているものにとっては、大変な励みになります。
また、今回は、奈良町にぎわいの家という、登録有形文化財を全館舞台として移動しながら芝居をしたのですが、この家の空間の力の凄さに、この10年、何度も感動した私に、家が戯曲を書かせてくれたと思っています。
そして何より、演出家の外輪能隆氏のアイデアと力量による結果と思います。
以下、全文を掲載しましたが、神澤氏がとりあげたもう一つの「広島第二県女二年西組」の評も続いています。その中の文「(前略)文字で綴られた記録は生きていないことだ。言葉は口から発せられ耳に届けられたとき、生きることができる。」前後の下りは、まるで詩のような内容で、内容も文体も非常に優れていると感じました。演劇の現場を知っておられる神澤氏ならではの生きた言葉に胸をうたれました。
小さな演劇を見ていてくださる、演劇人に敬意と感謝を表します。ありがとうございました。

「特集2024年上半期ベストプレイ」
神澤和明(演出・評論)

小さな公演だが印象に残った舞台を記したい。「奈良町にぎわいの家」が上演した『花しまい』と、平和朗読劇「広島第二県女二年西組~原爆で死んだ級友たち〜」の二つだ。

奈良公園の隣、帝に捨てられた采女が身を投げたという猿沢池の傍を過ぎ、元興寺の旧境内辺りへ来ると奈良町だ。観光客は多いが、鹿は歩いていない。古い町並の風情のなかに「奈良町にぎわいの家」と名づけられた町家がある。かつて美術商の住居だった、大正生まれのこの登録有形文化財を使って、演劇公演が行われた。主屋、土間、通り庭、蔵等を観客が移動して、そこで展開される姉妹のやりとりに「同席」する。演技者は待ち受けていたり、追いかけてきたり。これまでに見た町家を使った芝居や、区画を歩いて回る街頭劇は、芝居を場所にはめ込んでいた。これは場所がまずあって、そこから場面が立ち上がったもの。演劇の大事な条件、芝居と劇場と観客が、幸せに適合する。一回の観客は10名で一時間という長さもふさわしい。

背景となる時代は大正。花の名を持つ三人姉妹(梅、あやめ、桜)と、不思議な少女、そして観客を誘導し、時に芝居に入ってくる案内人三人が登場人物。長女は好きな男と駆け落ちしたが、破綻して出戻ってきた。その引け目からか、二人の妹の暮らしぶり、しつけにうるさい。モガで自由恋愛に憧れる次女は、女学校の同窓生に恋しているが、跡取り娘として親が選んだ相手との結婚が迫っている。自由闊達な性格の三女は姉妹を明るくする存在。そして、白のドレスを来た幻のような少女。これは、東京に出かけて関東大震災に遭い亡くなった母親のおなかにいた、生まれなかった四女だろうか。

長女も次女も、当時の世間の見方や家族制度に反発したが、結局、「女だから」という旧来の考え方に自分の人生を収めた。何も考えていないような三女が、かえって自由に、今に繋がる人生を送ったようだ。社会規範を変えたいと活動する女性たちがいて、しかしなかなか(同性にも)変化の動きは広がらず、普遍たる根っこが動きだしてやっと、変化がもたらされるのが現実だろう。

場の雰囲気を吸い取った、穏やかでノスタルジック、明るく切ない上演だ。歌人でもある作者が書く台詞は、詩のリズムと気分をもつ。何気ない日常風景に「時を超えるイフ」をかぶせ、大正が現在に生きてくる軽快な演出も優れている。

[作]小野小町
[演出]外輪能隆(2月24日)


昭和二〇年八月六日、建物疎開地の後片付け作業中の女学生3人が被爆した。当日、体調不良で欠席して助かり生き残った作者は、級友たち一人一人の命を記録しようと、被爆後30年たって聞き書きをして回った。そして『広島第二県女二年西組~原爆で死んだ級友たち~』を出版し、演劇用脚本も執筆した。その脚本は朗読劇として関西の劇団で繰り返し上演された。今回の一日きりの公演は、亡き作者への追悼にもなろう

被爆者の悲しみ苦しみをテーマにした舞台は再々見ている。それでわたしの感覚は「すれて」しまっているが、この舞台を素直に受け止めた。節度ある落ち着いた演出は流れ良く、なにより「こんな風に見せてやろう」という邪さがない。上からの「同情」でなく、当事者の目線での認識と感覚に触れる感じがした。これまで、戦争を知らない世代が戦争劇を演じ、被爆の悲惨さを語ることに、どれだけの真実みがあるのか、わたしは気にしていた。だが、あらためて気付いたのは、文字で綴られた記録は生きていないことだ。言葉は口から発せられ耳に届けられたとき、生きることができる。言葉は文字よりも先に存在する。語られないままの言葉は記号にとどまる。生きた実感できるものにするには、誰かが語らなければならない。その誰かは、書いた人間でなくても良い。語る人間の声を借りて、その言葉を書いた人間の体験と心が生き返ってくる。その言葉は、代わって語っている人のものにもなろう。大阪芸大の授業で阪神淡路大震災に関わる詩を学生に与えたら、当時はまだ生まれていなかった彼女が、読みながら泣き出した。だから、こうした体験を語りつなぎ、演じ続ける意味はある。

誤解されるかもしれないが、一言。こうした劇作品がしばしば、「被害者」の悲しみを描くのに留まってしまうのは、もどかしい。戦争の進行に反対できなかった立場からの視点も大切だろう。「戦争の悲劇を繰り返さない」という文言の、主語は誰なのか。世界の権力者たちは原爆の惨禍を口にはしても、いまだに原爆投下を正当化したり、使用するぞと脅したりしている。その考えそのものを告発する力を、演劇が持ちたい。

[作]関千枝子[演出]熊本一(4月6日)



「花しまい」


奈良県立図書情報館で朗読劇「列車にのった阿修羅さん」

2024-08-03 | 演劇
8月10日(土)午後2時から奈良県立図書情報館一階交流ホールで開催の朗読劇(構成・演出…小野小町 出演…言の葉の羽)のお知らせです。
この朗読劇は「列車にのった阿修羅さん」という児童文学(作…いどきえり 絵…マスダケイコ)を一時間に構成して朗読するものです。
この企画は、絵本作家、イラストレーターである、地元奈良出身のマスダケイコさんの、絵本原画展(8/6~18)の関連イベントとして開催されます。

マスダさんとの出会いは、一昨年の奈良町にぎわいの家の全館展示、まるごと美術館企画(キュレーター・浅山美由紀)の参加作家として出会いました。このブログでも紹介しています。ユーモアがあり、ノスタルジックで温かい…絵画作品とオリジナル絵本から、作品を知りました。
奈良町にぎわいの家「まるごと美術館」2022  10/22まで。 - ことのはのはね~奈良町から

奈良町にぎわいの家「まるごと美術館」2022 10/22まで。 - ことのはのはね~奈良町から

奈良は観光シーズンを迎え、通りもにぎわいが戻ってきました。奈良町にぎわいの家も、約3年ぶりに、海外のお客様も来られています。さて、22日まで、大正生まれのエレガン...

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そのマスダさんが、児童文学作家のいどきえりさんのお話に絵をつけた「列車にのった阿修羅さん」。タイトルからして、「え?」と思われる方も多いでしょう。ぜひ、本を読んでいただきたいのですが、戦争のために、阿修羅像をはじめとする国宝が、寺を離れ列車で疎開をしたお話で、実話をもとにして書かれています。
戦争末期、大事な仏像が疎開したということは、なんとなく耳にしたことはありましたが、この本は丁寧に取材されていて、当時の様子がとてもよくわかり、「へえ、そんなこともあったのか。」と初めて知ることも多かったです。
子どもの眼を通して描かれる、戦前と戦後の180度変わった世の中への葛藤、怒り、疑問。阿修羅さんと向き合いながら、激動の時代を成長していった主人公。実は、この主人公のモデルとなった方と、私は以前出会っていて、当時、とてもよくしていただいた方とわかった時は、こういうこともあるのだなと、ただただ、びっくりしました。
そんなこともあり、この朗読劇は特別なものになりました。
本来、この本を全て読むと、1時間45分程度になります。それを1時間に構成しました。脚色等は全くせず、整理してつないでいます。
79回目の終戦記念日の前に、戦争の時代のお話を朗読できることの意味と大切さを、ひしひしと感じつつの稽古です。
なお、朗読劇は無料ですが、事前申し込みが必要ですので、奈良県立図書情報館に問い合わせてください。

さて、マスダケイコさんの絵本原画展は8/6より開催です。まずはこちらを是非、ご覧ください。








小町座次回公演(2024.9.29)への稽古から

2024-07-18 | 演劇
小町座、次回公演は9.29(日)午後二時から、ならまちセンター市民ホールです。なんと無料!(カンパ、歓迎!)
というのも、今回、新作でなく、テーマを「音楽」でくくってのイベントなので、多くの方に是非、見ていだたきたいということもあって。二部構成でのイベントです。
第一部は演劇「少年万博物語」→昨年公演で大好評の演目。70年代万博前後の歌謡曲満載の芝居を新たなメンバーで再演します。懐かしい音楽、必聴!
第二部は、これまで小町座の音楽の作曲家でもある、小宮ミカさんのピアノ演奏に、歌は、フサイフォンさちこさん(関西を中心にライブ活動を親子でされていて、明るくのびやかな歌声!)そこに、これまでの演劇やラジオドラマを、生演奏しながら振り返るというもの。小西さくら通り商店街で流れて10年になる「ならうたものがたり」も披露しますので、皆さん、一緒に口ずさんでいただけたら。

それで今日も第一部の芝居を稽古しましたが、今日は、主人公、博の姉の芝居に関して、私自身が言ったことが、役者さんにはやや、抽象的だなと思ったので、整理するつもりで書きます。
以下、ややネタバレありですが、この芝居は、1971年の地方の農家の家族の話で、中学卒業した主人公の姉は、進学を諦めて大阪の工場に勤めるというところで終わります。弟である主人公が、姉を見送りに大阪までついていくのですが、その時の二人のシーンでの姉が、やや明るすぎたので、私は「この時の姉は、太陽でなくて、月の光の方。」という抽象的な言葉で伝えました。弟と別れる前の姉の明るさは、家族に心配をかけたくないがゆえに、明るいことは必須なんだけど、それだけではない。「どうかみんな無事で。」という切実な祈りもあるでしょう。このあたりの姉の透明感は、太陽の明るさでなく、「月」の青い光なんです。しかし、では、これをどう芝居に反映するかというと、とても難しい。
これは表情の問題もある。弟に明るい顔を見せつつも、どこかでふと、自分の将来を空の色にみるような。不安はあるが、暗いというだけでない。一人でいる、一人で立つことの、本質的な孤独が、そこはかとなく、立ち姿や表情に出るというか…。
ということを思いながら、今、関わってくれている若いメンバーにとって、半世紀前の農家の現実が、果たしてリアルかというと、そうではないだろうな、とか考えていました。
けれど、演じるということは、時代背景を客観的に知識として入れつつ、今の時間にリアルに立たなければならない。
演劇のマジック=魔法は、二度と見られない過去が、今、生きている人間によって蘇ることでもあり、それが「再現」でないところに意味がある。
過去を知らない私たちが、過去の人間のリアルを、今、命のある者が舞台にあげることで、私は、かつて必死に生きた人たちの「供養」になるような気がしてくるんです。
え?舞台が「供養」?なんておかしいけれど、どう考えても長い歴史の中で、名もなく生きてきた人がほとんどで、それはもう、ただただ、日々の暮らしを続けることに必死で…昔の農家の女性たちは、さてどうだったか、と振り返ると、今の私たちには想像もつかない暮らしだったでしょう。けれど、そういう人たちの上に、私たちの「今」が立っていると思うのはなぜでしょう。それが親だとか、親戚だとか関係ない、遠いところの人たちも含めて全部。

見たこともないかつての人に、なぜ、そのように思うのか…。ちょっと話題が外れますが、例えば、戦後、現憲法の下で、男女平等や言論の自由が当たり前のようになっているけれど、ここに来るまでに、そんな自由や権利を求めて声を上げて亡くなった先人がどれだけいただろうか、ということをいつもなんとなく思っている自分がいます。つまり、そうした人たちの屍があって、私たちは当たり前のように、「自由と権利」享受しているということになるでしょうか。言論の自由も平等も、「人間」が考え、思考し続け、行動をおこしてきたゆえにもたらされたものであり、簡単に得られたものではない。私たちが健やかで平和に生きられている背景に、「過去」を生きた人の声が必ずあると思うと、それを今、物語や演劇で語れたなら、なんだか「供養」になるように思うのです。

演劇に関わっていると、過去の人はどう生きたのか、どう感じたのかが、気になります。一方、セリフに書く以上に、過去の人間を「今」の人間が演じることは、難しいことです。ただ、喜怒哀楽、孤独や寂しさなど、感情は頼りになります。喉が渇いたら水がのみたい。これは過去も現在でも同じです。こうした肉体のリアルから、過去の人間を追求していくのは確かなことと考えます。生身の肉体に基づくリアルがあるからこそ、今の人間も昔の人に近付けるんでしょう。もちろん、背景を知ることは大切です。そのヒントに以下の写真を。
この写真を昔見た時の感覚は、今でも強烈です。



写真家、南良和の「21歳の嫁の手」。撮影が1963年とあり、今回の芝居の年代の8年前なんですが、高度経済成長の一方で、地方の農家はこのような若い嫁の手が日々の生活を支えていたのですから。
歴史の長い時間の中では、この手こそが、大多数だつたことでしょう。私は1900年、明治生まれの祖母が好きだったので、農家ではないのですが、手仕事が全てだった時代なので、同じように苦労した手をしていました。こうした手に「よく頑張ったね」と言いたい自分がいて、それが芝居を書く時に出てくるようです。
この手の苦労とは違うけれど、進学を諦めて、家のために働くということを、自分の役割として人生を前に進めてきた多くの若者もいたことでしょう。芝居の中の、まず親や弟妹のことを考える姉は、弟と別れる時、青い空の明るさと、闇夜の月の清かな透明な光を同時に見つつ、自分の暮らしを進めていくのだろうな…稽古場の二人を見つつ、そう思いました。

というわけで、役者論なのか、芝居を書くことの理由なのか、なんだかよくわからない文になりましたが、最後は、稽古を始めたころに、キャストの一人がくれたメールでしめたいと思います。
「私という肉体を通して、見ている方とお芝居の中の人物が共感やリンク出来れば良いなぁと思ってます。で、願わくば、見てる方が少しだけでも心動いてくれたら嬉しいなぁという気持ちでいます。」
キャスト四人、半世紀前の家族を作り上げていっています。二か月先の公演、ぜひとも、ご覧ください!