ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

奈良町ふぁんたじぃ

2018-04-02 | 映像
この2月から3月にかけて放送されていた、奈良町オリジナルソング「奈良町ふぁんたじぃ」。続けてどこからでも聞けますようにと、YouTubeにアップしました。嶋田純子さんの伸びやかな声、ぜひお聞きください。奈良町の写真もお楽しみください。(青字をクリック)

「奈良町ふぁんたじぃ」



年の初めに「ホビット」をみて

2017-01-04 | 映像
以前、知人に、映画「ロード・オブ・ザ・リング」が良かったと話したら、その前日譚にあたる「ホビット」三部作のDVDを貸してくれました。お正月休みということもあり、一気に見ました。本編の「ロード・オブ・ザ・リング」には及びませんが、ドラマの核心となる「指輪」を持っていた、ゴラムが私は好き?!というか、とても気にいっていて、そのゴラムも登場するので、楽しみに見ました。映画「「ロード・オブ・ザ・リング」は2001から2003にかけて公開された三部作で、当時大変な人気で見た方も多いはず。私はトールキンの「指輪物語」の映画版と知っていたけれど、当時は全く興味がありませんでした。それがたまたまテレビで放送された時、主人公の水先案内人として登場した、ゴラムに釘付けになりました。ゴラムは骨と皮ばかり。目ばかりがぎょろりとして、言うことはその場その場で真逆になります。このゴラムが、話しかける時、「いとしいしと」(愛しい人、のこと)と言います。彼は目の前の相手にも、指輪にもそう言うのですが、この「いとしいしと」、人の「ひ」を「し」と発音し表記するところは、訳がすごいのか、元々の言葉がすごいのかわかりませんが、「ゴラム」そのものの空気をなんとも良く表していて、このゴラムが話しかける相手に「いとしいしと」と言うのをを聞くと、面白くも悲しく、哀れで、ゴラムこそがなんだか「いとしいしと」に思えてきます。
ゴラムのルックスは、病的で醜く、子どもが見ると怖いでしょう。ただ、地下の洞窟で光のないところに、たった一人でいるゴラムの楽しみは、自分や物に語りかけることしかないし、その語りかけるものへ「いとしいしと」と言うのは、唯一の楽しい、生きた時間に思えてきます。小さく貧弱で愚かなゴラムが美しい指輪に「いとしいしと」と言うのは、なんとも詩的で胸がうたれるのです。
さて「ホビット」三部作は、指輪がメインでなく、自分の国を取り戻すための王の旅にホビットが同行し、その中で闇の勢力と対峙するという展開でわかりやすいものでした。物語の核は、力のない小さなホビットが、知恵とユーモアと普段の暮らしの感覚で、武力を上回る助けをするところ。小さなものたちが世界を救うという、物語の根幹のテーマはこの三部作でも、わかりやすく描かれていました。
原作のトールキンがこうした「小さなもの」やゴラムのような「醜いもの」に背負わせた、本当に魔法をおこす力とは何か、考えさせられます。すっかり忘れてしまった「指輪物語」を今年は再度しっかり読もうと思いました。優れたファンタジーは、夢物語でなく、私たちの今いる世界の本質を代弁してくれています。

 「ホビット」三部作

NHK「終わらない人~宮崎駿」を見て

2016-11-17 | 映像
ジブリの作品は、子育てと共にありました。幼稚園の運動会の入場行進は「となりのトトロ」の「♪歩こう、歩こう、私は元気」で、背が一番小さな三歳の次男が果たして、きちんと歩けるのかとどきどきしながら、トトロの音楽を聞きました。この歌の作詞は、中川李枝子。幼稚園の保護者なら、多くの方が知っている、ロングセラー絵本「ぐりとぐら」シリーズの作者です。トトロの主人公、さつきの妹、メイは、まさにこうした幼稚園の子どもたちの象徴のような存在でした。あの不安定で元気で、いつこけてもおかしくない動き。なんでも大騒ぎする元気なメイと、対して姉のしっかり者のさつきの凸凹に、きょうだいの良さを我が家に当てはめて見られたおうちも多かったことでしょう。
と言っても、私はジブリ映画が公開されたらすぐ見に行くタイプではなく、もっぱらテレビで見て知るタイプ。ですので、宮崎駿さんのことも、ファンのように詳細にはよく知りません。
ジブリのことで、有り難いなと思うことは、直木賞作家、野坂昭如氏の「火垂るの墓」をアニメにしてくれたこと。これは宮崎さんでなく、高畑勲さん。ジブリのもう一人の主です。平たい言い方になりますが、アニメの「火垂るの墓」があるおかげで、「戦争」についてのことを、お母さん方が情報の一つとして持てる、この意義は大きいと思います。余程、意識しないと、平和な暮らしの中で、ネガティブな戦争ということについて、お互い話すことはないでしょう。けれども、「火垂るの墓」の兄妹の姿を見ながら、自分の子どもがこういう状況だったら…と少なくとも、子育て中の人なら、この映画を見れば考えながら見ると思います。「戦争」を伝えることは、中々、難しい時代になりましたが、この
「火垂るの墓」があることは、とても意味のあることと思います。
さて、引退宣言をした宮崎さんが、テレビにとなると、ファンにしてみれば、それは大変なことですよね。私はたまたま、テレビがついていた延長で見た感じですが…これが中々、面白かった。理由は二つあります。
一つは、「毛虫のボロ」という作品をCGで作るための作業で、宮崎さんがCGで動き出す「毛虫のボロ」に対して、ダメ出しをします。ボロが誕生し、周りを見るために「顔を動かす」のですが、この「顔の動き」にダメ出しをする宮崎さん。その風景は、まるで演劇のダメ出しのようで、思わず見入ってしまいました。
何がダメかというと、宮崎さん曰く「初めて世界を見るボロが、そんなに早く首を回すわけはない」というようなことだったと思います。その通りで、CGの動きというのは、いわば物理的な計算式の果ての動きでしょうから、「初めての世界を目の当たりにする」毛虫のボロの「ものを見る」といった「個別」で「未熟」な赤ちゃんの手触りは、出ないわけです。宮崎さんは「メイだよ、メイ。」と言ってましたが、まさにそうで、子どもを知る手触り感がCGでは出てこない。なるほど、宮崎駿のアニメというのは、それぞれの登場人物の「個別」の動きの演出も兼ねているのだと思うと、これはものすごいことでないか、とやっと、この番組を見て、思った次第です。演劇ならば、それぞれの役者ならではの動きがあり、それが演出家の思うようになるところとならないところと、そのせめぎ合いが面白い共同作業のようなところがありますが、アニメの場合、絵は役者のように動いてくれないのだから、自分で動きをつける、それも、先に言った「毛虫のボロ」ならではの。これは凄いことです。
さて、番組を見入った二つ目の理由は、若手の方たちが、ある映像を宮崎さんに見せているシーンでした。それは頭がない、ゾンビのような、けれど、頭がないから、人間ではあり得ない、独特の動きをする生きものが動く映像でした。
宮崎さんはゾンビのような動きの画像を見て「非常に不愉快、いのちに対する冒涜」と怒りました。身近な知り合いに障がいを持った方がいて、ハイタッチをするのも難しい、とも言われました。画像を見ながら、そういう方たちのことが頭によぎるのは、やはり、本当に「動く」ということ一つがどれだけ大変か、宮崎さんがわかっているからでないかと思いました。「動くということ」を考え続けているから、「怒り」になるのでしょう。「絵」を「動かす」プロの宮崎さんにしてみれば、どれだけ障がいを持っている人が、「ハイタッチ」をするのに、一期一会のような動きをされるのかを、いつも切実に感じているのではと思いました。
というわけで、これまで漠然と宮崎駿作品を見ていましたが、この番組から、あらためて「絵」が「動く」ということの奥深さを感じた次第です。
「毛虫のボロ」の初めての「振り向く」動き、どんな風に、その「動き」から「初めての世界」を見つめるのか、興味津々でいます。


映画監督 アンジェ・ワイダ 死す

2016-10-10 | 映像
なぜか…子どものころからポーランドに興味があったのは、ノーベル賞を二度受賞した、あのキュリー夫人の故国であったことが始まりだったように思います。児童書のマリー・キュリーの話を何度読んだことでしょう。それから…ショパン。家にたまたまあったのが、1896年、十九世紀!末に生まれのピアニスト、アレキサンダー・ブライロフスキーのショパンのポロネーズ2曲、軍隊と英雄。なんというか…今聞けば、本当に昔の演奏で、ただ、これが私の一番初めのショパン体験で、こういう昔の音が馴染むと、好きになるものの時代背景が、そのあたり、十九世紀末から20世紀初頭のものに、必然、なっていきます。グレタ・ガルボにデートリッヒに…小学六年生で手に入れたのが、この伝説の美女の写真集なんて…やはりかなり偏ってるなあと我ながら思います。
ポーランドは他国に占領されていた悲劇の歴史を持ちます。その悲しみをショパンも弾いたのですが、そういう、何か辛いもの、悲しいものを背負うところには、何かしら、生まれてくるものに、陰影と深みがあります。ショパンの次に出会ったポーランドの巨匠が二人、演劇のタデウシュ・カントールと映画のアンジェ・ワイダ。カントールは「死の演劇」を標榜する大演劇人。まあなんとも、前衛でかっこよくて、しかも国の悲しみも背負うような、すごい演劇人です。これはまたの機会に。
で、ポーランドを代表する映画監督が、アンジェ・ワイダ。私は10代の終わりから20代にかけて、丁度町の映画館でも見られる機会がありました。80年代は今と違って、マイナーな洋画も割合、小屋にかけられて、それを見ることのできるいい時代でした。ワイダ作品は、抵抗三部作といわれる作品が有名で、「灰とダイヤモンド」の有名なシーン、兵士に銃撃されて青年が白いシーツの中に倒れ込むシーンは、まるでイコン画のように伝説的で…。
ワイダ監督の生きた時代のポーランドは、戦前はナチスによる占領、戦後はソ連による支配と、政治力学が国を左右するただ中にいました。映画を作る時も、そこがいつも必然となります。当時、まだ東西ドイツの壁がある中で、ポーランドの連帯の動きを映画にした「鉄の男」(1981)など、今、自分の国で起きていることを、ワイダは作品にしました。当然、当局からは弾圧も受けます。西側諸国で認められても、東側では認められない。イデオロギーの対立で本来、芸術の良し悪しが決まるはずもない、けれどもそういう厳しい現実と格闘しながら作品を作り続けた監督。政治色の強い映画だからといって、プロパガンダ映画ではなく、胸を打たれるのは、ポーランドに生きる人たちの、真面目さ強さ、大らかさ、、必死に与えられた場で生きる人たちの絵が、しっかり大きなフォルムとなって描かれているからでしょう。
母国が長年、大国の影響を受け、苦労してたきた歴史を持つことを自覚する監督は、大の親日家でもあります。以下、東日本大震災の時にワイダ監督から送られたメッセージを抜粋します。(ポーランド広報センター HPより)

「ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
「私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」
「日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。」
「それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。」


さて、実は奈良町にぎわいの家で、私はこの夏、「アンジェ・ワイダ」体験をしました。外国のお客様で、リュックを背負いタンクトップの若い女性がいました、外国の方にいつもフレンドリーなスタッフが声をかけると「ポーランド」から来たとのこと。思わず私は「アンジェ・ワイダ!」というと、彼女も「アンジェ・ワイダ!」と返してくれました。奈良の町家でまさか、自分の国の映画監督の名前を聞くとも思わなかったのかも、本当に喜んでくれました。こんな若い女性が、自分たちの国を代表する監督の名前をきちんと心に持ち、伝えられる…。果たして、日本の若者が少なくとも「黒澤明」を海外で語れるのか…と思いながらの、町家「アンジェ・ワイダ」体験。作品と再会したいと思いつつ。監督のご冥福をお祈りします。