気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

文武天皇が天子になった日の決意

2018-02-16 12:24:25 | 72文武天皇は元号を建てた

(持統天皇と文武天皇が暮らした藤原宮の址)

持統天皇は太上天皇として孫の軽皇子を支え続けました。

それは、文武天皇が15歳という若さで即位したからです。政務について知らないことが多いので、持統天皇の援助は不可欠だったのです。その文武天皇の歌は、万葉集には一首あるのみです。それも「或は御製歌」とされています。

万葉集巻一「大行天皇、吉野にいでます時の歌」

74 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜(こよひ)も我が独り寝む

文武五年(701)二月の吉野行幸時の歌です。

臣下が献上したとしても、天皇御製歌としても、非常にさみしい歌ですね。この時、文武天皇は二十歳くらいで血気盛んな若者だったでしょうに、吉野宮に遊びに来ても、家族や夫人たちはついてこなかったのでしょうか。

二月は春です。鳥は鳴き、花は咲き始めていたでしょう。しかし、風は寒い。そこに愛する家族がいて行幸の宴を楽しんだ…感じがしませんね。持統太上天皇も一緒ではありますが、御付きの華やかな女性もいなかったのでしょうか。

藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人でしたが、文武天皇の傍にはいなかったのでしょう。宮子が首皇子(聖武天皇)を生むのは、この年の十二月です。宮子も後宮に上がって五年も子どもを産めなかったのです。さぞや父や兄たちから責められたことでしょうね。

さて、文武五年の吉野行幸ですが、吉野にどんな目的があったのでしょうか。遊びというより、翌月の三月に建元するので、その準備だったのではないでしょうか。身を浄めていよいよ建元するのだという、儀式を成功させるために心の準備をしていたのではないでしょうか。

75 宇治間山 朝風寒し 旅にして衣かすべき妹もあらなくに

    右一首 長屋王(高市皇子の長子)

この行幸には、長屋王も同行していました。この時二十六歳で無位でしたが、歌は文武天皇と並んでいます。高貴な長屋王より先に歌が載せられているので、やはり、74番歌は天皇御製でしょうね。

文武天皇の吉野行幸は、二度の記録があります。文武5年=大宝元年と、大宝二年です。持統天皇が足しげく通った吉野に、文武天皇が出かけたのは、「天子」になる準備だった、それは持統天皇の願いだった、と思うのです。持統天皇も「朱鳥」の元号を試みますが続きませんでした。孝徳天皇も「大化・白雉」と元号を持ったようですが途切れました。今度こそ、文武天皇に天子の道を進んで欲しい、持統天皇は願った筈です。

 

文武天皇が天子になったのはそれは即位年ではなく、大宝元年です

そうです。当たり前のことですが、持統天皇が譲位して、確かに文武元年(697)に軽皇子が即位しました。しかし、元号を建てたのは、文武五年(701)三月で、大宝元年になります。はじめて元号を持ったのですから、ここで「天子」となったのでした。私年号と言われる「九州年号」は700年で終わっていますから、ここで、年号を建てる権利が移譲されたのかも知れませんね。

元号を持ってはじめて、文武天皇は天子となった

文武天皇は藤原宮で政務を取りました。しかし、持統太上天皇が崩御すると、藤原宮からの遷都が計画されるのです。大極殿もあり、朝堂院もあるのに何がいけなかったのでしょうね。天子の宮殿は北にあるべきという思想に合致していなかった、律令にふさわしい都ではなかったからでしょうか。

藤原宮は都の中心にありました。北に天子の宮殿がある中国の都城とは違っていたのです。

文武天皇は在位中忙しかったことでしょう。新しいことの連続でしたから。

律令を持ち、元号を持ち、銅銭を鋳造し、遣唐使を任命し、諸国を巡察させる、後は史書を持つこと。

文武天皇は天子として邁進しつづけました。そのために、病に倒れたのかも知れません。夫人となった藤原宮子は首(おびと)皇子を生むとマタニティブルーになったのか、閉じこもりました。吾子も抱けないほどの状況で、文武天皇には心配だったでしょう。

そんな文武天皇は難波宮にも行幸しています。

それも、何らかの儀式だったのでしょうか。過去の難波天皇への報告の儀礼だったのでしょうか。文武天皇の難波宮行幸は、律令に取り組む前と、律令を発布行使した後です。そこには大きな意味があったはずです。

行幸に同行した人たちには、その行幸の真の意味は伝わらなかったようですが。

わたしは、持統天皇が難波宮天皇の話を十分にしていたと思います。ですから、文武三年に難波宮を訪れたと思います。そこには、長く役所が置かれていましたから、学ぶべき事が沢山ありました。そこで、律令についても学んだことでしょう。

文武天皇は懐風藻に残された漢詩の如く、天子として自分を律しながら生きた人でした。

余りに理想を求めて、体を壊したのだと思えてなりません。胸のそこで、父と母の言葉をかみしめながら、祖母の言葉を指針にしていたことでしょう。しかし、二十五歳の若さでの崩御でした。

この文武天皇を失ったとき、母の阿閇皇女はどう思ったでしょうね。やはり、その意思を継ぐべきだと考えたのではないでしょうか。

だから、涙をのんで阿閇皇女は即位したのでした。

また、次回に。


万葉集と書紀の食い違う記述・麻績王には如何なる罪があったのか

2018-02-02 13:16:38 | 71麻績王・万葉集と食い違う正史の記述

 

万葉集巻一23、24・番歌の麻績王(をみのおほきみ)とは何者か

 

麻績王にはいかなる罪があったのか・人が同情したのはなぜか

 

 

23 打ち麻(そ)を 麻績王 白水郎なれや 伊良籠の島の玉藻刈ります

 

24 空蝉の 命を惜しみ浪にぬれ 伊良麌の島の玉藻刈り食(お)す

 

巻一「明日香浄御原天皇代」に在るこの歌は不思議です。麻績王(をみのおほきみ)が伊良麌(いらご)の島に流罪になった時の歌で、物語のように掲載されています。それも、周囲はこの麻績王に深く同情しています。しかも、書紀と万葉集では流された場所が異なるのです。

 

「明日香浄御原天皇代」の歌は六首で、うち三首が天武天皇の歌、一首は「十市皇女が伊勢に参詣する時の吹芡刀自」の歌です。ですから、ここに天武朝と何のかかわりもない人の歌が掲載されたとは考えにくいのです。が、麻績王がどんな人物か、その罪科が何かも分かりません。後の世の人も分からなかったのか、左注に説明があります。

 

左注によると「三位麻績王」ですから、決して低い身分ではありません。一子は伊豆の島に、一子は血鹿の島(五島列島)に流されていますから、子ども達は遠流(おんる)になります。父親より罪が重いのです。すると、吾子の罪により麻績王も流罪になったというのでしょうか。

 

 

 

また左注には、書紀を調べたことが書かれています。確かに「天武四年乙亥(675)に麻績王の記事があります。「(天武四年)辛卯に、三位麻績王、罪あり、因幡に流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」

 

因幡(いなば)と伊良麌(いらご)は別の土地です。地名が混同したのは、この歌が詠まれた時期が天武四年より後の時代だったからでしょうか。すると、麻績王の話がずっと残されていたことになります。歌枕としての「伊良麌の島」は、渥美半島にあります。当時は、志摩国はまだ成立していなくて、志摩半島から渥美半島の海上の島々は全て伊勢国に属していたそうです。ですから、対岸の伊良湖岬にちなんで「伊良麌の島」と歌に詠んだと云うことです。

 

また、書紀では因幡ですが、「常陸国(ひたちのくに)風土記」では、『行方郡板来村の西の榎木林に居らせた』と書かれています。流刑地が三か所もあると、異伝が残るような事件だったのでしょうか。麻績王の出自に関しては、大友皇子、美努王、柿本人麻呂などの諸説があるそうで面白いですね。

 

わたしは、万葉集の歌の掲載順が気になります。万葉集は事件を暗示する時、原因と結果が歌によって示されることがあるからです。23・24番歌の前は22番歌ですが、十市皇女が伊勢に参赴する時の歌です。伊勢? 確か、伊勢には麻績神社があります。麻績氏は忌部氏とも関係が深く、麻績王は神官の家系だったのかも知れません。

 

万葉集と日付けの干支が違いますが、天武四年に何があったのでしょうか。

 

では、万葉集巻一・22番歌をよんでみましょう。

 

 

何とも切ない歌ですね。十市皇女は当時28歳くらいでしょうか。額田王と大海人皇子の間に生まれた皇女でした。母の額田王について天智天皇の近くにいたからでしょうか、大友皇子の妃となり、将に皇后になるべき位置にいたのですが、壬申の乱で夫を失い、傷心の内に父・天武帝の元に子連れで戻っていたのでした。そこで、妹の大伯皇女が斎宮になっている伊勢に参赴したのです。目的は何でしょうね。

 

傷心の十市皇女を慰め、心の傷から立ち直らせるためだったと、神力で再生して別の男性に嫁がせるためだったと、わたしは思います。

 23・24番歌の前の22番歌「伊勢神宮に参赴する十市皇女のために詠んだ吹芡(ふふき)刀自の歌」

22川のべの ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常乙女にて

 もう何も知らなかった乙女に戻ることはできません。十市皇女は辛いことまで知り過ぎましたから。でも、天武天皇は、「何もかも忘れて、もう一度幸せになってほしい」と願っていたはずです。伊勢から戻った十市皇女を、事もあろうか高市皇子の妃にしたのです。夫の大友皇子を死に至らしめた壬申の乱の総大将の妃にしたのです。どう考えても、現代の私たちには十市皇女が幸せになるとは思えません。当時の男性にはその事が分からなかったのです。「女性は何度でも生まれ変わってくれる」とでも、思っていたのでしょうか、天武四年の頃。

十市皇女の伊勢参赴は2月で、麻績王の流罪は4月です。二つの出来事は無関係でしょうか。麻績王が伊勢にいたのなら、接点は十分にあります。

この後、心の傷も癒えない十市皇女は苦しみ続け、天武七年(678)四月、皇女は自殺します。皇女を支えきれなかった高市皇子も苦しみ、万葉集に挽歌を残しています。

 

では、麻績王の物語と十市皇女の伊勢参赴が並べられている理由

この事を考えようとすると、十市皇女の姿が脳裏をよぎります。23・24番歌は、持統天皇が伊勢に行幸した時に奉られた歌でしょうか。そうであれば、十市皇女も高市皇子もすべてこの世の人ではありません。だから、古を偲び伊勢に関してみんなが知っている出来事を歌にしたと云うことです。

あの時、麻績王は十市皇女のために様々な祈祷を行われたではないか。王の男子二人も心から皇女を助けようとされた。しかし、それも空しく皇女はお元気にはなられなかった。むしろ、過去の苦しみと向き合い苦悩は深くなられた。麻績王はその事で、流罪になられた。むごいことだと、わたしたちは、いまだに麻績王を偲んでいる。あの方の優しくも穏やかなふるまいを忘れることはない。 

23 打ちそを 麻績王 海人なれや 伊良麌の島の 玉藻刈ります

24 うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良麌の島の 玉藻刈り食す

人の世は、決して甘くはありません。どんなに身分が高くとも、そのことで幸せになることはないのです。

麻績王は穏やかな方でしたが、王の一生を思うとお気の毒ですと、万葉集は語っていると思うのです。

貴方は、どう読みますか?


万葉集3番歌の謎・たまきはる宇智の大野に立った大王

2018-01-24 22:55:16 | 70万葉集3番歌の謎・たまきはる大野

たまきはる宇智の大野に立った大王は、誰か?

此の天皇は誰でしょう。前歌の2番歌に「高市岡本宮御宇天皇代」とあり、その次の3番歌ですから同じ時代として、この天皇は舒明天皇とされています。舒明天皇が宇智の大野で御猟された時、中皇命が間人連老に儀式歌を献じさせたということです。

この中皇命が今まで紹介したように、有間皇子事件の時に歌を詠んだ中皇命(間人皇后)だとしたら、この歌が詠まれた時の中皇命は十二歳から十歳前後の少女だったことになります。幼い少女が大王の御狩に従駕して、歌を奉らせたとはなんだか落ち着きが悪いですね。

中皇命=間人皇后=舒明天皇の娘・間人皇女であれば、舒明天皇は舒明十三年の(641)の崩御ですから、孝徳天皇の皇后に立てられた乙巳の変(645)の頃は十六~十七歳くらいの乙女で、上記の歌が舒明十三年の作歌としても、当時は十二歳以下の子どもとなります。

 

歌の意味を確かめてみましょう。

この歌は「雑歌」の部立におかれた「儀式歌」です。それも、天皇の儀式に詠まれたもので、大王を中心とした御猟が始まろうとしているのです。その張り詰めた緊張感が歌われています。

大王は常々愛用の梓弓を傍に置いていた。その弓の中筈の音がする。弦をはじいて音を出し、辺りの邪気を払い辺りは清浄に整えられている。いよいよ儀式(御猟)が始まるのだ。

梓弓の中筈の音で浄められた大野の空気は、張り詰めて緊張感が漂う。大王の御猟場に馬を並べて儀式が始まろうとしている。ああ、まだ誰も踏み込んでいない朝の草野に大王が踏み込まれるのだ。

この御猟は大切な儀式で、遊びではないようです。何の儀式でしょう。中皇命は、まだ子どもなのでしょうか。

その謎を解く手がかりは、「間人連老」にあります。

万葉集事典では「白雉五年(654)二条の遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」と記述があります。間人連老=中臣間人連老は同一人物だというのです。この人は、孝徳天皇の白雉五年二月に西海使(遣唐使)として唐に渡っています。遣唐使は誰でも行けたのではありませんし、また、帰って来る事も難しかったのです。この遣唐使の最高官は、大化改新の協力者の高向玄理で二度目の渡唐でした。高齢でしたので唐で客死しています。他にもたくさんの学僧が海に没しています。帰りもバラバラで、白雉五年の7月、斉明元年、天智四年、持統四年などに帰国記事があります。

白雉五年=唐の永徽五年で、「旧唐書」に『高宗本紀・永徽五年十二月条に「倭国、琥珀・瑪瑙を献ず」と書かれているので、孝徳帝が出した遣唐使の帰国は、白雉五年(654)ではないようです。この年に帰国したのなら、十二月に皇帝に謁見することはできなかったでしょう。

すると、西海使が帰国したのが655年であれば、孝徳帝は前年に崩御していました。誰に帰国の報告をしたのでしょうか。公の使いですから、報告はあるはずです。玉座についていたのは、難波高津宮天皇か、間人皇后=中宮天皇でしょうね。

 万葉集巻一の3・4番歌は、中皇命が難波天皇のために献上させたものだとすると、御猟が皇位継承の儀式の一つだったと詠むことができますね。

後の軽皇子(文武天皇)の阿騎野の冬猟を思い出してください。あれも草壁皇子の霊魂に触れて、皇太子の霊魂を引き継ぐための儀式でしたね。これらの魂触りの儀式は、単なる年中行事としての儀式ではなく、皇位継承の儀式だったのではないかと、わたしは思うのです。

3・4番歌にはそういう重要な意味があり、だからこそ巻一の3と4番の位置が与えられていると思います。


「持統天皇の紀伊国行幸を歩こう」和歌山県に提案します

2018-01-20 13:33:16 | 69持統天皇の「紀伊国行幸」の行程を旅する

春は万葉集の旅・持統天皇の紀伊国行幸を歩く

つらつら椿つらつらに…でもなく、爛漫のソメイヨシノでもなく、山桜の風情溢れた紀伊路が最高!!なのです

(玉津島神社の万葉歌碑)

春に向けて、和歌山県の方々に提案です。「持統天皇の紀伊国行幸の跡を歩く旅」の企画をされませんか。

これまで和歌山には幾度も出かけましたが、ヤマザクラの頃が最高でした。もちろん、高野山も南紀白浜も素晴らしい観光地ですし、とても満足させてもらいました。それでも、敢て提案させてください。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。いつまでも、心に残る木曽路の旅を。

万葉集の「大宝元年辛丑冬十月」の持統太上天皇と文武天皇の「紀伊国行幸」は冬ですから、冬の旅もおすすめですが、春風の中で歴史を紐解くのは最高です。(日前國懸神宮)

吉野から紀ノ川を下って真土山から紀伊国に入り、元明天皇が亡き夫の草壁皇子を偲んだ妹背の山を見遥かしましょう。「此れやこの倭にしては我が恋ふる木路にありとふ名に負ふ背の山」草壁皇子が亡くなったのは前年で、まだ一年しか経ていないのです。

紀ノ川を下りながら中流域の紀伊国国分寺跡や粉河寺に立ち寄るのもいいですね。

そして、日前國懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)に立ち寄り、紀伊国一宮にお詣りするのも大事でしょうね。

そして、ぜひぜひ玉津島神社に足を向けてください。持統天皇と柿本人麻呂も、文武天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇にもゆかりの玉津島。片男波公園まで足を延ばしましょうか。古代には、紀伊川の河口は此処でした。吉野から船で下れば、ここに着いたのです。

玉津島神社の裏山の奠供山には5分で登れます。登れば、称徳(孝謙)天皇の「望海楼」址があり、片男波の砂嘴(さし)が見られます。そして、対岸のかすむ桜が胸にせまります。

ここで、人麻呂の「玉津嶋 磯の浦見の真砂にも にほひてゆかな 妹も触れけむ」を読みましょうか。この歌が詠まれた時、持統天皇は崩御されていたでしょう。人麻呂が紀伊国に来たのは、あの方の「形見の地」だったから。高貴なあの方の霊魂漂う「形見の地」だったからです。 

人麻呂は、「万葉集の奏上をすべきかどうか」を持統天皇の霊魂に確かめるために来たのでした。と、わたしは書きました。文武天皇が崩御され、万葉集を献じ奉るべき人がいなくなったのですから、持統天皇の遺詔に応えるべきかどうか迷ったのだと思います。

「万葉集」の持統天皇の紀伊国行幸は「有間皇子事件」の跡を訪ね、皇子の霊魂を鎮める事が目的でした。孫の文武天皇を連れて、有間皇子が連行された行程を辿り行幸したのです。

持統天皇は白崎・由良の埼で歌を詠ませています。その歌はあまりに美しく哀しいのです。

白崎にも由良の埼にも「還って来なかった」有間皇子を偲ぶ持統天皇の思いが溢れています。

風なしの濱の白波いたずらに ここによせ来る見る人なしに(長忌寸意吉麻呂)

この歌が詠まれた大宝元年(701年)は、有間皇子事件(658年)から40年以上も経っています。しかし、この悲しみは癒されてはいません。

この玉裳を裾引いて、放心したように歩く女性は誰でしょう。顔は見えません。後ろ姿なのですが、きっと高貴な美しい人なのでしょう。この人に何があったというのでしょう。

紅の玉藻の鮮やかさが、読む者の心に迫ります。紀伊国の海岸ではこの歌と物語を味わってほしいものです。いずれも名歌です。(黒牛形は、藤白神社の辺りの黒江湾に有りますね)

宿は何処に取りましょうか。有間皇子が中大兄皇子と直接対峙した牟婁の湯のあたりで、しみじみと湯につかりましょうか。真っ白な砂がピンクにそまる夕暮れ時、独りで過ごすのはもったいないですね。誰かと沈む陽を見送ってあげたいものです。

旅の終わりはどのようにまとめましょうか

有間皇子ゆかりの藤白神社によってもいいし、少し200mほど歩いて有間皇子の墓を訪ねてもいいし、岩内一号墳(有間皇子の墓といわれている)を訪ねてもいいし、安珍清姫の道成寺を訪ねてもいいし、発見の旅はずっと続くでしょう。

岩内一号墳と岩代の結松の石碑

藤白神社の前は熊野古道です。

さりげない風景の中にこれほど詩情を感じる土地は有りませんね。

ぜひぜひ、持統天皇の物語や大宝元年の紀伊国行幸の行程を、春と共に味わってほしいと、わたしは思うのです。

和歌山県の皆さん、頑張ってほしいです。


呼兒鳥となって持統天皇を呼び続けるのは誰なのか

2017-12-29 00:49:27 | 68呼兒鳥は持統天皇を呼び続けた

巻一70 倭には鳴きてか来らむ呼兒鳥象の中山呼びぞ越ゆなる

なつかしい倭には、呼兒鳥がもう鳴いて来ているだろうか。この吉野では象の中山を吾子と呼びながら越えている。(いったい誰を呼んでいるのでしょう。やはり、あの方が別れた吾子を呼ばれているのでしょうね。)

謎の鳥・呼兒鳥(万葉集事典では下記のように説明されています)

かっこうか。郭公。渡り鳥。夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫を捕食。おおよしきり、ホオジロ、もず等の巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に、容鳥(かおどり)、ほととぎす等の説も。

結局どんな鳥なのか分からないのです。「呼兒鳥」は万葉集に9首ほどあります。

巻八(1419) 神奈備の伊波瀬(いわせ)の杜の喚子鳥痛くな鳴きそ吾恋まさる(鏡王女)

巻八(1449)よの常に聞くは苦しき喚子鳥声なつかしき時にはなりぬ(大伴坂上郎女)

巻九(1713)滝の上の三船の山ゆ秋津へに来鳴きわたるは誰呼兒鳥(吉野離宮に幸す時の歌)

巻十(1822)わが背子をな越しの山の呼兒鳥君呼び返せ夜のふけぬとに

巻十(1827~8・1831・1941)

 結局どんな鳥なのか分からないのだそうですが…

しかし、高市連黒人は「呼兒鳥」の意味を分かっていた。分かった上で持統天皇に献じたのです。

万葉集で詠まれる鳥は、人の思いを伝える存在であり、亡き人の思いであり、霊魂そのものでもありました。あこ―と哀し気に鳴く呼兒鳥は、別れた吾子を呼んでいる霊魂なのです 。その霊魂が誰なのか、持統天皇には分かっていると、黒人は理解して詠み献じたのです。鳥となって持統天皇を呼び続ける人は、藤白坂で刑死した有間皇子をおいて他にはないでしょう。その鳥は、紀伊国から吉野川を遡り、倭へ「あこー」と呼びながら入っていくのです。

持統天皇は高市連黒人の歌を誉めたことでしょう。そして、紀伊国の岩代の結松に通う鳥を思い出したでしょう。

巻一145鳥となりあり通いつつ見らめども人こそ知らね松は知るとも(山上臣憶良)

「結び松に通っていた鳥は、愛しい人を呼んでいた。あれは、呼子鳥だったかも知れない。あの方は鳥となって、松が枝を結んで共に幸い(命永からんこと)を祈った間人皇后の姿を求めて、幾度も幾度も松を見に来られたに違いない。人は気づかないけれど、松は知っていたと、山上憶良は詠んだのだった。そして、今日、呼兒鳥がわたしのことも忘れずに呼び続けていたと高市連黒人は詠んでくれた。何と嬉しいことだろう。」

高市連黒人は長忌寸意吉麻呂と並んで、持統帝を感動させ歌を認められました。

持統天皇のお気に入りの歌人として、近江朝を偲ぶ歌も詠みましたし、持統天皇の最後の行幸(東国)にも従駕して歌を献じました。もちろん、人麻呂は別格でした。万葉集を編纂できる歌人は彼をおいて他に在りませんでしたし、帝の心に深く入り込めた詩人は彼だけでした。

 

呼子鳥を詠んだ歌

「呼子鳥」にはいくつもの意味がありました。恋しいあの人を呼ぶ鳥、愛しい吾兒を呼ぶ鳥、誰か知らない人を呼び続ける鳥、ただならぬ因縁がある人を呼ぶ謎の鳥として、詠まれています。しかしながら、黒人の呼子鳥が何を意味するか、献じられた帝には理解できたのです。

 

 

高市黒人の呼子鳥の歌から浮かび上がるのは、癒されぬ持統天皇の愛・家族と哀しい別れをした心の傷だったのではないでしょうか。

 

自分を呼び続ける人がいると、持統天皇は深く思う所があったでしょう。それだから、最後の紀伊国行幸(701)はなされたのかも知れません。

大宝元年に有間皇子の霊魂を鎮め奉り(701)、次の年に参河から伊勢に行幸した後に崩御されるのですから。

女帝は何ゆえに最後まで凛々しく強く生きようとしたのでしょう。

何もかも手にしても、心が満たされなかった人でしたね。


持統天皇が選んだ東国への最終行幸

2017-10-29 22:29:42 | 67持統天皇の真意は何処に

大宝二年(702)十月~十一月、崩御前に東国行幸

最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)

その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                        *                *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *              *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を読みました。有間皇子事件を見事に読み上げた奥麿の歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望しています。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子については、既に紹介しています。)

東国へはお気に入りの者を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょうか。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を詠んでも、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」と勅が出されています。何とも、急な話です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないでしょう。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのですね。

六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり通したというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が…

               

 今回は、ここまで。またお会いしましょう。

 


別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌

2017-10-26 22:21:27 | 67持統天皇の真意は何処に

持統天皇・もう一つの紀伊国行幸

持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667~79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。

大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大宝元年辛丑秋九月」と「大宝元年辛丑冬十月」として分けて掲載しています。九月とある歌は巻一に、十月とある歌は巻九と巻二(人麻呂の歌)に掲載されています。

思い出していただきましたか? 紀ノ國の美しい風景の中にひっそりとたたずむ万葉集の物語が、旅人の心を締め付けました。

さて、持統天皇は孫の文武天皇を立派な後継者にすべく、紀伊国に共に行幸しました。そこで語られたのは、有間皇子の物語です。十三首が順序良く「どのような事件だったのか、どの道を辿って最後の地(藤白坂)まで逃げ、どのような最後を遂げたのか」語られていました。ですから、同じ行幸でも目的が違う部分は分けて万葉集は編集されているのです。

巻九には「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸す時の歌十三首」ときちんと括られて編集されていますので、十三首が他と混じることはないのです。

では、同じ大宝元年辛丑の九月の歌を読みましょう。これは、巻一にあります。

54 巨勢山のつらつら椿は咲いてはいないけれど、つらつら偲ぼうか。春の巨勢山に椿が咲いたその美しい春の野を。

季節は九月で秋なので、もちろん椿の花はありません。坂角人足は秋色に染まった山に春の景色を重ねて読んだのでしょうね。秋もいいけど、きっと春もいいよね、と。

55 麻裳で知られる紀伊の国の人は羨ましい。真土山をいつも見ていられるから。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人はいいなあ。

麻裳は紀伊国にかかる枕詞です。ヤマトから紀伊国に入る辺りに小さな真土山があります。ここを越えると紀伊国なのです。

56 河の辺りに咲くつらつら椿、その椿をつらつら見ても飽きることがないのだろうなあ、椿が咲く巨勢の春野は、きっと。

調首淡海も、春日蔵首老も紀伊國の土地をしきりと誉めました。旅に支障がないように行幸一行が何事も無く旅を続けられるように、従駕の者は土地を誉めながら奉仕していたのですね。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。

持統天皇と文武天皇の行幸は「有間皇子の霊魂を鎮める」ことが目的でしたが、もう一方では土地の神に旅の安全を祈りながらの旅でもあったのですね。旅で土地を誉める歌などを「羇旅歌(きりょか)」といいますね。

万葉集は羇旅歌と「紀伊国十三首」を別の巻に分けて編集しています。同じ行幸時の歌がこのように目的ごとに分けられている事は、ますます文武天皇を伴った紀伊国行幸が特別だったことを教えてくれます。

文武天皇は十分に理解したでしょう。だから、紀伊国に道成寺も建立したのでしょうね。


天智天皇の挽歌を詠んだのは、後宮の女性達

2017-10-20 23:15:22 | 66天智天皇の都と挽歌

天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌

天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。

倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。

 天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳

150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉であれば手に巻き持っていように、衣であれば脱がずに身に着けていように、わたくしが恋しく思っている大王がなんと昨日の夜夢に見えたのです。

  天皇の大殯(大もがり)の時の歌二首

151 こうなると前々から知っていたのなら、天皇の御魂が御乗りになる大御船が停留している泊(水門)に標を結って、舟が出ないようにしたものを… (額田王)

「天皇の船の泊まっている港に標を張って悪霊が入らないようにしたのに」と解釈されてもいますが、わたしは「魂がこの世を離れる時に乗る船に大王の魂が乗り込んで船出すれば崩御となるので、舟が出ないように標を張ればよかった。そうすれば蘇生されたかもしれないのに」という意味だと思いました。

152 この世を統治なさった大王が御乗りになった大御船、その大王の船が帰って来るのを待ち焦がれている志賀の辛埼(そしてわたくしたちです)

154 大王の宮があった楽浪の大山守は、誰のために山に標を結うのだろうか。大王はこの世を去られたのに。

そして、次の155は額田王の歌です。この歌は、既に紹介したでしょうか。

こうして、御陵への埋葬儀礼までの挽歌が残されました。

天智天皇の挽歌は九首も残された!のでした。

病が重篤となった時から倭姫の歌がありましたから、天皇の周りには平癒を願う儀式が行われていたのでしょうね。そして、崩御となり天皇の聖体の周りでは儀式が行われ、殯宮の準備が整い、大殯の儀式が行われるということなのですね。長い月日をかけて殯宮がしきたりにのっとって行われ、墳丘が造られ、ついに埋葬となったのでしょう。

天智天皇の場合はこのように儀式の流れに乗って挽歌が残されています。この九首によって大王の葬送儀礼がどのようなものだったか分かったのだそうです。天皇の後宮の女性たちが多く歌を残していると云うことは、葬儀での女性の役目は大きかったのでしょうね。

それにしても、天武天皇より以前の天智天皇の挽歌が多く残されているのは何故でしょうね。

では、また。


天智天皇の挽歌を詠んだ女性たち

2017-10-17 16:52:19 | 66天智天皇の都と挽歌

倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか

天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。

広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。

若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。

御病、崩御、殯宮、埋葬と一連の流れが挽歌として万葉集に九首掲載されています。歌を詠んだのは後宮の女性達でした。なかでも皇后の歌は四首あります。謎の皇后倭姫の歌を読んでみましょう。 

   天皇、聖躬不予(せいきゅうふよ)の時に太后奉れる御歌一首

147 天の原ふりさけ見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足らしたり

天の原を振り仰いで見上げると、わが大王の御命ははるかに長く天に満ち足りております

病に臥した天皇の傍で、皇后はその命の長くあることを祈ったのでしょう。しかし、御病は重篤になり天皇の意識は薄れてしまいました。

   一書に曰、近江天皇聖躰不豫(せいたいふよ)御病急なる時、太后奉献る御歌一首

148 青旗の木旗の上を通ふとは目には見えれど直(ただ)にあはぬかも

大王の魂が青々とした木幡の木々の上を行ったり来たりしているとわたしの目には見えます。でも、魂はお体を離れているので、もう直にお会いすることはできません。

木幡の山に風が吹いて木々が騒いでいたのでしょう。木々を震わせて大王は何か伝えようとなさっている、そう思っても既に話は出来なくなっているのです。太后と天皇の深い結び付が偲ばれます。

遂に天皇崩御となりました。皇后はぼんやりと来し方とこれからを考えました。そして、深く天皇を愛していたことを思うのです。

   天皇崩(かむあが)りましし後の時、倭大后の作る御歌一首  

149 ひとはよし思い止むとも 玉蘰 影に見えつつ忘らえぬかも

人は忘れることはあっても、まるで神の依り付く玉蘰のようにあの方の御姿が目の前にちらついて忘れようにも忘れられないのです。

殯宮(あらきのみや)の前でしょうか。皇后は天皇の面影を追っていました。

いよいよ大殯(おおあらき)の儀式が始まりました。近しい者は声をあげて泣き、天皇の蘇りを願います。殯宮は淡海の見える所に造られたのでしょうか。船の歌が続きました。

皇后も船を詠みました。「太后御歌一首」です。

広く大きな淡海の海を、遥かな沖から漕いで近づいて来る船。岸辺近くを漕いで来る船。沖の船の櫂よ、ひどく撥ねないでほしい。岸辺の船の櫂もひどく撥ねないでほしい。私の大切な嬬(夫)の魂が鳥となった、その魂の若い鳥が音に驚いて飛び去ってしまうから。

天智天皇の霊魂は鳥となりました。大王は鳥となり淡海を見ている若い鳥なのです。その神霊を驚ろかしてはならないと、太后は詠んだのです。

ここまで深く天智天皇に仕えた倭皇后でしたが、この後どうなったのでしょう。消息はないのです。

わたしは倭皇后はこの後も生き抜いたと思います。この後もいろいろあったことでしょうが。

倭皇后の人生は、人麻呂歌集の中にしっかりと読み込まれているのではないかと、わたしは思っているのです。

万葉集は天智天皇の挽歌を九首残しています。持統天皇が勅によって人麻呂に編纂させたのなら、人麻呂は女帝の意思を十分に承知して天智天皇の歌を掲載したことになりますね。持統天皇にとって天智天皇は懐かしく恋しい人だったのですね。

では、また。


ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

2017-10-15 22:56:28 | 66天智天皇の都と挽歌

ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

明日香が霊魂の都「飛ぶ鳥の明日香」となったように、近江の大津も霊魂の都となりました。

「ささなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名だそうです。地名としては滅びても枕詞として使われていると、古語辞典に書かれています。

「ささなみ」のという枕詞で始まる歌は、万葉集中に十一首あります。

巻一、巻二までは誰が詠んだ歌か分かりますが、巻七~十二までは「羇旅歌」などで作者名はわかりません。巻一の31の「ささなみの」は「左散難弥乃」と漢字があてられています。

ですから、楽浪・左散難弥・神楽浪・佐左浪。神楽聲浪の漢字が「ささなみ」に与えられているのです。

この中で、石川夫人と置始東人(おきそめのあづまひと)の歌は挽歌です。石川夫人(いしかわのぶにん)が天智天皇の殯宮の時に詠んだ歌ですし、置始東人は弓削皇子のために詠んだ歌です。二人の歌の「ささなみ」には「神」が付け加えられて「神楽浪」となり「霊魂漂う楽浪」の意味を負っているのです。

神となった霊魂はもちろん天智天皇なのです。

ささなみに「」が付くか付かないかで、枕詞の意味は大きく違ってきます。「楽浪という土地」ではなく「あの近江朝のあった楽浪」となったり、「今は亡き天皇の京があった楽浪」となったりするするのです。「楽浪」は、歴史の重みというか、滅びた王朝の物語を引き出してしまう言葉なのです。枕詞には十分意味がありました。

神楽浪の枕詞を冠した歌を読みながら、琵琶湖の湖岸に立つと何とも哀しくいにしえに心惹かれるではありませんか。

次回は、この地で生涯を終えた天智天皇の挽歌を詠みましょうね。

 


柿本人麻呂が長皇子を賛美した意味

2017-10-11 17:05:36 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子

と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子

長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。

天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。

皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じく臣下も畏れ多くもお仕えしているというんです。まるで、皇太子ではありませんか。

このような第一級の扱いを受けて長皇子は成長したのでしょう。すると、持統天皇も長皇子をそうとうに大事にし認めていたことになりますね。

反歌に至っては、まるで王者のようです。そして、或本の反歌に、

おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海をなすかも

とあったと、万葉集はいうのです。

驚くべきことは、人麻呂の歌の意味です。

人麻呂の歌を読むかぎり、草壁皇子亡き後の持統朝の皇太子と認められていたは「長皇子だった」と考えてもおかしくありませんね。

人麻呂は十分承知して長皇子を賛美する歌を詠んだのです。

しかし、長皇子に8歳遅れて、軽皇子(文武天皇)はどんどん成長していきます。持統帝も悩んだかも知れませんね。ここで誰でも持つ疑問です。軽皇子(文武天皇)の立太子に問題はなかったのか。

天武天皇の存命中に次の極位に着くのは、草壁・大津・長・舎人・弓削皇子のうちの誰かと考えられたでしょう。五人の男子は、天智帝の皇女を母に持つ皇子達でしたから高貴な血筋でした。しかし、天武天皇崩御(686)の後、大津皇子の賜死、三年後に草壁皇子の薨去と皇太子候補がいなくなり、そして高市皇子の薨去(696)となれば、臣下は誰を指示したでしょうね。まさか、幼い軽皇子ではなかったでしょう。

持統帝の御代になって皇位継承が問題になった時、軽皇子の母は藤原宮子(不比等の娘)ですから軽皇子立太子には少し無理があったでしょう。

ですから、697年、弓削皇子は軽皇子(文武天皇・東寺14歳)立太子の時に、異議を申し立てたのです。弓削皇子は賢い皇子でしたから無理を通そうとしたのではないと思います。当たり前を正義感で指摘したのでしょう。しかし、弓削皇子の主張は通らず、三年後、彼は若い命を断たれました。母の大江皇女はあまりのショックでしょうか、半年後に亡くなりました。

長皇子は母と弟の死(699)という事態に動揺したでしょうね。

しかも、10年後、文武天皇が崩御(707)してしまいました。その為に、文武天皇の母・阿閇皇女(元明天皇)が即位しました。持統天皇と同じ道を選んだのです。そして、歴史は繰り返します。皇太子ははっきりしていません。

8年後、元明天皇の譲位・氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)の前に、三人の有力皇子が薨去するのは、歴史的に見て偶然ではないですよね。

長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)と亡くなるのですから、そして9月の氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)となるのですからね。

人麻呂も既に没しているので、これらのドラマは詠めませんでした。

万葉集や続日本紀を読むかぎり、人麻呂は長皇子を皇位継承者として「高光る日の皇子」皇太子として歌を献じたと思うのです。そんな地位にあったから和銅八年(霊亀元年・715)に長皇子薨去となったと思います。

人麻呂は、若い皇子を賛美しすぎでしょう! あなたはどう思いますか。

では、また。


大王は神にしませば~人麻呂が詠んだ王朝の皇子

2017-10-10 23:13:49 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

おほきみは神にしませば~と詠まれた歌は、六首

六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。

では、6首を見てみましょう。

王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二~205)

皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三~235)

©皇は神にしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも  (巻三~241)

皇は神にしませば赤駒の腹ばう田井を京(みやこ)となしつ(巻十九~4260)

大王(おほきみ)は神にしませば 水鳥の巣だくみぬまを皇都となしつ(巻十九~4261)

これらの歌はどんな状況で詠まれたのでしょうね?

Ⓐは、「弓削皇子が薨ぜし時、置始東人(おきそめのあづまひと)の作る歌一首 ならびに短歌」という題がある「長歌」の後に置かれた「短歌」です。つまり、弓削皇子のための挽歌なのです。そこに「王は神にしませば」と使いました。

Ⓑは、巻三の冒頭歌で、人麻呂の作歌です。「天皇、雷岳に御遊(いでま)すとき、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」とあり、歌の後に「右は或本に忍壁皇子に献ずる歌というなり。その歌に曰く、『王は神にし坐せば雲隠るいかづち山に宮敷き坐ます』」という脚が付けられています。

この天皇は誰か分かっていません。説明の文章がないからです。さて、誰でしょうね。

©は、人麻呂の長歌長皇子、狩路池にいでます時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の後に付けられた「反歌」の更に後に「或本の反歌一首」がありますが、其の或本の反歌として載せられているものです。

ⒹとⒺ は、「壬申年の乱平定以後の歌 二首」そして、Ⓓのあとに『右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作』とありますから、大将軍の役職にあった大伴旅人(薨去の後に『右大臣』の称号を送られている)の作です。しかし、Ⓔは『作者未詳』とあります。

壬申の乱後の二首とはいえ、大伴旅人は壬申の乱の頃はまだ生まれたばかりで、次の作者は未詳ということですね。そうすると、「大王は神にしませば~」という言葉を造り出したのは、人麻呂でしょうかねえ。

天武天皇の皇子だけに使われた「おおきみは神にしませば」

この言葉は、天武朝と天武天皇の皇子に使われた言葉です。弓削皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生まれた男子です。軽皇子(文武天皇)の立太子の時、異議を申し立てたと伝わります。兄の長皇子を皇位継承者と考えての意義申し立てだったのでしょう。そのためか、弓削皇子は若くして薨去しています。同じ年に、母の大江皇女も薨去しました。

弓削皇子は、額田王と歌のやり取りをしました。額田王も歌を返しています。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念(も)へるごと(巻二~112)

むかしを恋しがった鳥は、きっと霍公鳥でしょう。ひょっとしたら私の思いのように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。

若い皇子には悩みも多かったことでしょう。皇子に対して、額田王は優しく接したのですね。しかし、弓削皇子は、常に身に危険を感じていたのでしょうか。自分の命が長くないことを意識していたようです。

 このような弓削皇子が薨去した時、置始東人が挽歌を詠んでいます。

後日、この歌も読んでみましょうね。


柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献じ、警告した?

2017-10-09 00:22:52 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂が歌に込めたメッセージ

宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3) 

柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌は、計 四百六十首

このように多くの歌の中に、柿本人麻呂はどんなメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。

おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから、何かの事情や出来事を詠んだとすると、変な空気が漂っています。霧とか雲などは、霊魂とか人の思いとかが顕れたものだと古代の人は考えました。多武峰の山霧は藤原鎌足の霊魂なのでしょうね。すると、藤原氏側は舎人皇子を邪魔だと考えていたのですね。

舎人皇子の父は天武天皇ですし、母は新田部皇女(天智天皇の娘)ですから、高貴な出自の皇子となります。まだ幼い軽皇子には大きなライバルだったようですね。

その皇子に、人麻呂が献じた歌なのです。

この歌の通りの中身であれば、人麻呂は舎人皇子の成長を願い、その身の安全を危惧していたことになりますね。舎人皇子も十分に承知して、歌を返したと云うことでしょうか。1704・1075・1076と、三首は並べて置いてあるのです。

舎人皇子は、天武五年(676)の生まれです。人麻呂が活躍した持統朝では、藤原氏が力を発揮し始めていました。草壁皇子も、天武天皇が愛した大津皇子も既にこの世の人ではありません。草壁皇子の忘れ形見の軽皇子(文武天皇)は、天武一二年(683)の生まれで、舎人皇子より八歳ほど年下でした。藤原氏としても焦ったことでしょう。舎人皇子が成人していくほどに、不穏な空気が漂ったということでしょうか。

 

鎌足が眠るという多武峰の談山神社の今年の春の写真です。不比等と定恵がここに鎌足の亡骸を移して祀ったと云います。ですから、多武の峯といえば、藤原氏・天智天皇の忠臣である鎌足を意味したのです。

では、舎人皇子に献じた歌を読むかぎり、人麻呂は藤原氏に対して心を許していなかったと云うことになりますね。ここは、重要ですね。

人麻呂は天智天皇を偲ぶ歌を作りましたから、天武天皇に対して気持ちに温度差があるのかと思いましたが、その皇子に対しては深い愛情を感じていたのでしょうか。

他の皇子に対してどんな歌を読んだのか、気になるところですね。

それは、今度。

 


石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

2017-10-05 09:08:50 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。

30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ

31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやも

ささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人の船はいくら待っても来ることはない。

ささなみの志賀の大わだはゆったりと淀んでいる。が、昔ここで船を乗り降りした人に会うことはない。

人麻呂が詠んだ「ささなみの志賀」は、多くの人に感銘を与えたのでしょう。持統天皇がほめたに違いありません。だからこそ、他の歌人もこぞって「ささなみの志賀」を詠んだのでしょう。32,33番歌には、高市古人(黒人)が詠んだ「ささなみの滋賀」の歌が置かれています。

    高市古人(黒人)近江旧都を感傷して作る歌

32 古(いにしへ)の人にわれあれや楽浪のふるき京(みやこ)を見れば悲しき

33 楽浪の国つみ神の浦さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも

高市古人は柿本人麻呂の歌に感動したのでしょう。追和するように「近江の荒都」を詠みました。

わたしが注目したいのは、持統天皇の御代の歌は、天皇御製歌「春過ぎて」の後は、人麻呂の「荒都を過ぎる歌」29・30・31番歌になり、続いて高市古人の32・33番歌となり、次は、川嶋皇子が「有間皇子を偲ぶ結び松」を詠んだ歌となる事です。川嶋皇子の次には「阿閇皇女が夫の草壁皇子を偲ぶ歌」となっていて、すべてが過去を思う歌です。

29~35番歌まで、持統天皇の新しい御代を寿ぐ歌はなく「古を追慕し追悼する歌」が続くのです。

これは何故でしょうか。なぜに、過去をこれほど懐かしむのか、慕い続けるのか、不思議に思いませんか? 34・35番歌は皇子と皇女の歌ですが、二人は共に天智天皇の子どもですから、異母兄弟なのです。裏を返せば、所縁の歌と人を並べてこぞって天智天皇を偲んでいる編集の仕方なっているようですね。よくよく考えてみると、持統天皇の「天の香具山」こそ、舒明天皇(天智の父)と天智天皇が詠んだ「神山」だったではありませんか。香具山を神山として詠んだのは、2番歌の「国見歌」と13番歌の「三山歌」でしたね。「持統天皇は初めから、天智朝を思っているのです。

   紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌

34 白波の濱松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ

(日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸すというなり)

  勢能山(せのやま)を越ゆる時、阿閇(あへ)皇女の作らす歌

35 これやこの倭にしては我戀ふる木路(きじ)に有りとふ名に負う勢能山

これらの歌は、既に紹介しています。

驚くべきことは、持統天皇の御代は、天智天皇を思い出し追悼することで始まったと云うことです。それを終えて、やっと36番歌「吉野宮に幸す時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」となって、持統天皇を寿ぐ歌になるのです。

万葉集の歌の並びは、見逃せませんね。

「ささなみの志賀」にせまりたかったけれど、話が反れました。「ささなみの」は他の時間にまわしましょう。

また、お会いします。


柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた

2017-10-02 00:23:24 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂の登場

人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。

しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠んだのは、滅びた王朝への鎮魂歌でした。

 

それにしても

 柿本朝臣人麻呂の「朝臣」は壬申の乱で活躍した臣下に与えられた姓(かばね)です。すると、柿本氏は天武天皇側で働いていたことになります。または、近江朝を裏切って天武天皇側に乗り換えたのか、です。

そんな天武朝側の臣下である柿本朝臣人麻呂が、滅ぼした近江朝を追慕し追悼しているのです。やや違和感があります。そして、近江朝こそ畝傍に即位した神々の皇統だと歌うのです。

では、人麻呂の歌を読んでみましょうね。

「玉だすき」の「たすき」は、「うなじ」に掛けることから「うね」にかかります。神祭りをする時、掛けるものが「玉だすき」なのでしょう。

神々しい畝火山を氏山とし、麓の橿原に王朝を開いた日知王の御代から 神として顕れられた神々のことごとくが、栂の木のように次々に天の下をお治めになられたのに、その倭を置き去りにして、青丹を均したような平山(ならやま)を越え、どのようにお思いになられたから、都より遠く離れた田舎であるのに、石走る淡海の国のささなみの大津宮で天の下をお治めになられたのであろうか。その天皇の神の命の大宮は此処だと聞くけれど、大殿は此処だと云うけれど、そこは春草が生い茂っている。春霞が立ち、霞んで見える大宮処を見ると悲しいのだ。

「空みつ倭国は畝傍山の王朝から始まり、その王朝は「日知り王」として倭を統治してきた」と、王朝の始まりを述べています。すると、畝傍を氏山とする一族が倭国のはじめの支配者だったと、人麻呂は認識していたのですね。

しかし、「天智天皇は、なぜか大和を捨て淡海の大津宮に遷都した」と、近江が田舎だったこと、人心が近江遷都をいぶかったことがわかります。

「その王朝は滅び、その宮殿跡は荒れ果てている」壬申の乱から二十年ほど経っていますから、草木は茂っていたでしょう。宮跡に住む人もいなかったのです。

この長歌を聴いていたのは、もちろん持統天皇です。詩歌の言葉の一つ一つが女帝を慰めたのでしょう。持統天皇は近江の都を十分に知っているのです。大宮も、大殿も、舟遊びの岸辺も、華やかな宴も、近江の穏やかな小波も、十分に知っていたと思います。

人麻呂は女帝に寄り添って近江朝を詠んだと私は思います。

ここでは、天武朝を詠んでいません。畝傍山の皇統を詠い、天智天皇を追慕しています。持統天皇の御代であれば、天武天皇崩御の後月日もたいして経っていないはずです。それでも、天武天皇ではなく天智天皇を懐かしみ、深く偲ぶ持統天皇。その心の内を人麻呂は知っていたのです。

 持統天皇がなぜ天智天皇を深く思っていたのか、以前も書きましたから、お分かりですよね。