気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

中皇命の運命を万葉集は物語る

2017-09-03 20:46:54 | 万葉集の冒頭歌

中皇命の愛と決意

万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629~641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。

中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」とという立場になったのでした。

 

中皇命が間人皇女だとして、 遊猟の時の皇女は十歳そこそこでしたから、天皇の遊猟に歌を献上することは難しかったでしょう。だから、代わって皇女の養育を担当する役だった間人氏が歌を詠んだというのです。

それにしても、舒明天皇の遊猟の時になぜ中皇命(間人皇女)がついて行ったのでしょう。そこで、歌を間人連老が代わりに詠むのなら、幼い少女を狩に同行させる意味が薄れます。

天皇の御猟にはたくさんの従者が仕え儀式を行いました。梓弓を鳴らし、いよいよ狩が始まる引き締まった朝の空気を、中皇命(間人皇女)の代わりに間人連老が詠みました。

この歌が詠まれた時期ですが、間人皇女が本当に中皇命になった時と考えることはできないでしょうか。

その理由ですが、ちょっと複雑です。

前回のブログで「間人(たいざ)」のことを書きました。間人皇后は、穴穂部間人皇后ではなく孝徳帝の皇后の間人(はしひと)皇后だったのではないかと。それというのも、穴穂部間人皇后は、用明天皇崩御後に義理の息子の田目皇子(用明天皇の皇子)の妃となりました。なぜ、義理の息子に? 

それは、穴穂部間人皇后が望んだことではなく、皇族の決まりのようなものだったのではないでしょうか。後宮の女性は自由に相手を選ぶことができずに、同じ皇統の男性のもとに置かれたということです。

同じことが孝徳帝の崩御後もあったのではないかと考えたのです。つまり、間人皇后は義理の息子の有間皇子の後宮に移された、または、移る決まりになっていた、と。

そうすると、中皇命が有間皇子を追って紀伊温泉に往った理由がはっきりしますし、「我が背子」と呼んだわけも分かります。中皇命は夫となるべき皇太子を心配して、牟婁の湯に護送された有間皇子を追って紀伊温泉に往ったことなります。

 

万葉集を繰り返し詠んでいると、巻一3の歌の題「天皇、遊猟したまう時…」の中皇命が同行した天皇が舒明天皇だったとは思えないのです。

「中皇命」とありますから時期は孝徳天皇崩御後になり、その時「遊猟したまう」天皇は誰でしょう。この天皇は男性ですから、斉明天皇ではありません。

その天皇は、難波長柄豊崎宮御宇天皇とよばれたのではありませんか。難波長柄豊崎宮天皇といえば孝徳天皇のことですが、有間皇子も同じ宮にすんだのであれば、同じ難波天皇と呼ばれたでしょう。

不思議なことに、万葉集には孝徳天皇代の歌は一つもありません。孝徳帝の歌は書紀には書かれていますから、歌が詠めなかったわけではないのです。華麗な難波宮の後宮では歌も詠まれたでしょう。しかし、万葉集には掲載されていない……のではなく、元々あったのではないか。そこに、若干の手が加えられた……

 

中皇命が同行した天皇は難波天皇の皇太子(同じく難波天皇と呼ばれた)だったのではないか、と思うのです。

巻二の冒頭に難波天皇と出ていますが、それは仁徳天皇となっています。もしかして、この難波天皇も仁徳帝ではないとしたら…

この難波天皇は難波長柄豊崎宮天皇だったとしたら、巻二の歌は大変身するのです。

このことは紹介済みですよね。

 

 


間人皇后が間人に逃れた理由(1)

2017-08-28 20:29:10 | 万葉集の冒頭歌

間人(たいざ)という町を知っていますか?

日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。

間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。

蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。

このことを誇りに思って、間人皇后を忘れないように地名を「間人(たいざ)」とし、祭りを続けてきたという町なのです。

でも、何か、落ち着きが悪いですね。

「間人(はしひと)皇后を守った」という伝承は、ほんとうに用明天皇の皇后だったという穴穂部間人皇后(聖徳太子の生母になります)にまつわることなのでしょうか。

わたしは、孝徳天皇の皇后だったあの間人皇后に関わる話ではないかと、思えてならないのです。

だって、穴穂部間人皇后の家族は、聖徳太子をはじめ皆が蘇我氏側について戦争(587年)に参加しています。母の間人皇后のみが逃げたのでしょうか?

用明天皇(585~587年在位)の在位は短く、586年からご病気でした。

病気だったかもしれない夫の用明天皇を残して皇后が逃げる……不自然です。

587年 蘇我馬子、敏達皇后を奉じて穴穂部皇子を殺す(6月)

     物部蘇我戦争(7月)崇峻天皇即位(7月)

蘇我物部戦争は仏教に関わる宗教戦争というより、皇位継承の争いだったのではないでしょうか。(憶測ですが)

 

では、間人(たいざ)の話に戻りましょう。

間人(はしひと)皇后は、用明天皇の皇后ではなく、孝徳天皇の皇后だったのではないかと思うと、わたしはいいました。

間人皇后(中皇命)は有間皇子を追いかけて、紀伊温泉まで行きました。そして、有間皇子は藤白坂で追っ手に追いつかれて殺されました。その傍に中皇命はいなかったのでしょうか。

有間皇子は「われは全(もはら)知らず」と答えて、中大兄の前を去っています。しかし、追っ手がかけられました。

藤白坂で追いつかれ、皇子は従者とともに殺されました。その惨事を中皇命が知らずにいたとは思えません。「わが背子」と詠んだ人が殺されたのですから。

 

中皇命は、牟婁の湯から戻った有間皇子を迎えたのではありませんか? そうであれば、皇子の最後を知った後、どうなったのでしょう。

中大兄の妹ではありますが、前天皇の玉璽を預かった中皇命という立場です。

中大兄に従わなければ、身の安全は保証されないでしょう。でも、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。何処へ?

もちろん、日本海側の間人(たいざ)へ。

わたしにはそう思えてならないのです。間人皇后の話が、平安時代の聖徳太子伝承の拡散と盛り上がりに支えられて、その母の穴穂部間人皇后の話にすり替わったと、思えるからです。

だって、

穴穂部間人皇后は逃げる意味がないのです。馬子は既に敏達皇后(推古天皇)を奉じているのですから。馬子は穴穂部間人皇后には何の期待もしていません。しかも、物部蘇我戦争(587)のすぐ後には皇后ではなくなり(天皇崩御)、やがて田目皇子の妃になっているのです。義理の息子の妃になった女性なのです。

588年、崇峻天皇即位。592年、馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させました。

592年には玉璽は敏達皇后に渡ったのでしょうか。推古天皇が即位しました。

上記のような状況では、穴穂部間人皇后はわざわざ日本海側に逃げる必要はなかったのです。間人(たいざ)の人々も「かくまった」ことを大きな務めを果たしたと誇りにくいでしょう。

でも、玉璽を預かった孝徳天皇皇后の間人(はしひと)なら、追われている状況で大変な緊張感があり、大変な秘密だったと思うのです。守り通したという誇りも芽生えたことでしょう。

そこは匿う力を持った氏族の支配地だったのかも知れません。間人(たいざ)に隠れて間人皇后は玉璽を守ったのでしょう。そのために、玉璽がなくて中大兄は即位できなかったとは考えられないでしょうか。

 

この中皇命(間人皇后)の決断と行動を万葉集は称えているのです。

気になる万葉集の冒頭歌・巻一

万葉集は不思議な歌集です。

冒頭歌・作者の歌の並び・歌の順番・使われた漢字の意味・歌われた時期と事件のかかわり、などなど、隅々まで意味深です。

その中で、巻一の「冒頭歌の並び」をおさらいしましょう。 

万葉集が誰のために編纂されたのか、何が書かれているのか、とても大事なことです。万葉集は歴史の大切な事実を伝えたかったと思うのですが、ある高貴な人(たぶん平城天皇)により編集の手を入れられて、その事実がストレートに伝わらなくなっていると、わたしは思っています。

間人(はしひと)皇后に関わる物語もその一つでしょう。それは間人(たいざ)という地名ともあいまって、わたしたちにはミステリーのように思えます。

長くなるので、今回はここまで。 

 

万葉集冒頭の歌の並びには編纂の意図が見え隠れしていますから、その事を再度考えましょうか。また。


万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?

2017-08-11 17:05:58 | 万葉集の冒頭歌

万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる

雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇允恭天皇の第五皇子

允恭天皇の長男は木梨軽皇子

 兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。

(埼玉県行田市の稲荷山古墳)

泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。

 「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると、被葬者は獲加多支鹵大王に仕えていたというのです。そのワカタケル大王が雄略天皇のことだという人がたくさんいて、今では定説となっています。それで、辛亥年は雄略天皇なら471年とされたのです。531年なら継体天皇になるからです。

しかし、考古学的には鉄剣以外の副葬品の年代が遡っても6世紀前半となるので、辛亥年は531年ではないかという説も根強く残っています。わたしも531年((稲荷山鉄剣の辛亥年)だと思います。

この鉄剣によって、雄略天皇の実在が確認されたというのです。

ホントでしょうか。(「宋書」倭国伝の倭王武も雄略天皇になるそうです。ホントでしょうか)

鉄剣の獲加多支鹵大王の宮は、泊瀬朝倉宮であり、斯鬼宮ではありません。金石文に残る斯鬼宮は何処にあったのでしょう。

更に、なぜ古代の詩歌集・万葉集の冒頭が雄略天皇の歌なのでしょう。

それも、名も知らない乙女に呼びかける歌で、しかも敬語で呼びかけていますので、儀式歌なのだそうです。

このような雄略天皇は、どのような神祭りをしていたと書かれているのでしょう。名を聞いて、婚約することになるのでしょうか。

古代の天皇はたくさんの有力な豪族の娘を娶り、婚姻関係で勢力を示したようです。

 またまた、明日


倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌

2017-07-26 13:10:53 | 64木梨軽皇子の周辺に万葉集

平群を詠んだ古代の英雄・倭建命

平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。

倭建の国偲び歌ヤマトは国のまほろば

父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。

そして、平群の熊白樫の葉をよみました。

なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。

まず、小碓命は少年なのに西に熊襲建二人を討ちに行きました。女性に化けて兄を殺し、次に弟を殺します。その時、熊襲建の弟から「倭建御子」の名をもらうのです。上のものが誅殺される者から名をもらいました。名付け親とかは、ほとんどが目上の人ですが、不思議です。
この時の武器は剣です。

山の神、川の神、穴戸の神を言向け和し、帰りに出雲国で出雲建の友になり、だまして殺します。
この時の武器は大刀です。

大刀と剣は違いますね。弥生時代の初期は剣が威信財でしたが、後期には五尺刀などの大刀が移入しています。
さて、倭建命は九州の熊襲建、出雲の出雲建を倒したことになります。

では、古事記にある歌謡ですが、東西に遠征し疲れた倭建命の歌です。

 

「古事記」の倭建が詠んだ歌は、国偲び歌と呼ばれていますが、5・7・5・7・7の短歌の形式とは違います。もちろん短歌の形式の歌もありますが、様々ですね。

 

倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(こも)れる 倭しうるわし

やまとは国で最も優れた所 青垣のように山々に取り囲まれた所、 倭こそうるわしい

命の全(また)けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫の葉を 髻華に挿せ その子
わたしの命はやがて終わるが、無事なものは、薦を畳のように広げた平群の神山の熊白樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするように、なあお前たち。

 倭建命は、続いて詠みました。


愛しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

ああ懐かしいなあ、吾家の方から雲が立ち、祖先霊が迎えに来た

 

嬢子(おとめ)の床の辺に我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

あの子の(ミヤズ姫)の枕元に置いて来た剣 あの刀剣があったならなあ。 こんな目に合わなかったかも ああ

 そうして、倭建命は亡くなりました。「かむあがりましき」と崩の漢字が使われています。

「崩」は、天皇の死去に使われる漢字ですね

倭建命は白鳥となって飛び立ちました。妃や子供たちは竹の切り株の足を破られながらも必死で追いかけました。道々歌った四歌(ようた)は御葬(みはふり)の歌として、その後、天皇の大御葬に歌うというのです。

白鳥は河内の志幾に留まったので御陵を作りました。白鳥の御陵です。しかし、またそこを飛び去ったのでした。

と古事記には書かれています。

いったいどこへ? 平群の神を尊んだのに、倭にも帰らず…何処へ行ってしまったのでしょう。先祖の霊雲がお迎えに来ていましたよね。

 

古事記は意味深な歌が多いですね。


長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む

2017-07-23 21:35:14 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳

丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか

万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます

神亀六年己巳つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、

「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、

天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。長屋王事件の年の歌です。読んでみましょう。

443 天雲の 向伏す国の武士(もののふ)と 云われし人は 皇祖(すめろき)の 神の御門に 外重に立ちさもらひ 内重に仕え奉りて 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(親)の名も 継ぎゆくものと 母父に 妻に子に 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮(いはひへ)を 前に据え置きて 片手には 木綿取り持ち 片手には 和栲(にぎたへ)奉り 平らけく ま幸くませと 天地の 神を祈ひのみ いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさい来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おおきみ)の 命かしこみ おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして

天雲の垂れる国の強い男子と云われた人は、皇祖の神殿のような立派なお住まいの警護に、外に立って仕え、又は内に入ってお仕えし、いついつまでも祖先の名を継いでいくものだと、父母にも妻子にも語り聞かせて、故郷を立って来たその日より、国の母は神祭りの甕を前に据えて、片手には木綿を持ち、片手には和栲を奉げて、どうぞ平安でご無事で居てくださいと、天地の神々に祈り、貴方はどうしているだろうか、いつの年かいつの日か、元気なあなたが 苦労を乗り越えて帰って来ると、立ったり座ったりしながら待っていたであろう。待たれているその人は、天皇のお言葉をかしこまって聞き、難波の国で何年も年を経るまで、濡れた衣も干さないで、朝夕務めていた貴方は、いったいどのようにお思いになったのか、たった一度のこの世での暮らしを捨てて、はかなく逝ってしまわれた、まだその時ではないのに。

反歌

444 昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく

 昨日こそ貴方は生きていたのに、思いもしなかった、貴方が浜松の木の上の雲になって棚引いているなんて。

445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 事だに告げず 去にし君かも 

何時だろうかとあなたの帰りを待ち続けているだろう愛しい人に、一言も告げずに逝ってしまった貴方なのだなあ。

わたしはこの大伴三中(みなか)の歌を読んだ時、ハッとしました。

丈部龍麻呂は何故自経したのか、もしや長屋王のために殉死したのではないかと思ったのです。

彼はごくごくまじめに主人の王の警護をし、内でも外でも懸命に仕えていたのです。

龍麻呂という人物について、何の落ち度もこの長歌からは窺えません。

難波で仕えたと云うことは、後期難波宮の役人だったのです。

行政職のトップは長屋王でしたから、当然その人を知っています。

大伴三中は、龍麻呂の自経を悲しみました。そして、その忠誠ぶりを詠みあげました。班田の史生(ししょう)ですから、班田司の書紀として事務的な仕事を懸命にしていたモノノフともいうべき龍麻呂が死んだことを、ただただ嘆いているのです。でも、それだけでしょうか。

この歌は、「442 世間は空しきものとあらむとぞ此の照る月は満ちかけしける」の次に掲載されています。

読者は、長屋王の死を嘆く441~2番歌と切り離して読むことはないでしょう。

一連の歌としてつづけて読むと思います、同じ年ですから。

神亀六年は天平元年と改元されました。読者はその意味も理解しています。

長屋王を倒したことで「天下は平らかになった」というのですから。

そのあまりな元号のおぞましさと理不尽さを、長屋王は無罪だったという真実を、長屋王事件が陰謀であったと、一連の歌は訴えていると思うのです。

大伴宿祢三中の歌は「意味のある自経をした男をモノノフと表現した」のだと思うのです。大事な家族がありながら、彼は長屋王の賜死に殉じたのだと。

長屋王は誰にも尊敬された人だったのかも知れません。

平群町の長屋王の墓は、古代氏族の平群氏が丁寧に葬ったのでしょう。前方後円墳の後円部の中に長屋王の墓は造られていると、何かで読んだことがあります。何であったか忘れましたが、たぶん平群氏は自分の先祖の墓を王の為に提供したのだと思います。

長屋王は謀反の罪での賜死ですから、大きな墳丘墓は築けません。だから、敢て自家の祖先の墳丘の上に王墓を造ったのではないかと。その傍らの微高地に吉備内親王の墓を築いたと思われるのです。

今なお、小さな墳丘に平群氏の心使いが偲ばれます。

万葉集の巻三の挽歌441~5は、非常に意味深な五首ですね。

貴方はどう読まれましたか?


武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2

2017-07-20 16:05:13 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件を悲しむ歌

神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死

父の死を嘆いた倉橋部女王・残された家族でした。

長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…

では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。

巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首

441 大皇(おおきみ)の命かしこみ 大荒城(おおあらき)の時にはあらねど雲隠ります

大皇のお言葉をかしこんで承り、今はまだ殯宮(あらきのみや)などを建てる時ではないのに、わが父・長屋王は雲の彼方に逝ってしまわれたのです。(倉橋部女王は長屋王の娘です)

次に「膳部(かしわべ)王を悲傷する歌一首」

442 世間(よのなか)は 空しきものとあらむとぞ 此の照る月は満ちかけしける

世の中とはどうにも空しいものだと、この照る月は教えているのだろう、満ちたりかけたりしながら。それにしても、あの若い才能ある王子がお亡くなりになるとは、あまりに悲しい。

歌の後に、「右一首、作者詳らかならず」と脚があります。

誰が膳部王の死を嘆いたのか

(長屋王の室・吉備内親王の幸せを願った元明天皇は既に没していて、元正天皇には妹を救うことはできませんでした。)

膳部王(長屋王の長子)の死を嘆いた歌の作者不詳ですが、上の歌を詠んだのは身分のある官人で、役職もあった人でしょう。その名を明らかにはできない人だったと、わたしは思います。膳部王はこの事件がなければ、次の天皇だったかも知れないからです。官人としては、時の権力者を批判することはできなかったでしょう。

個人的には、「世間は空しきものと」の歌を詠んだのは大伴旅人だと思います。旅人の歌のなかに上の一首に非常によく似たものがありますから。または、旅人の近親者でしょうか。この時、家持はまだ子どもですから、作者は大伴家持ではありません。

それに、旅人は長屋王派だったといわれています。それが故に藤原氏によって大宰府に帥として遣られ、旅人が都を離れている間に長屋王事件は起こりました。長屋王の賜死を知った旅人はどう思ったでしょう。

都からの思いがけない知らせを受けて「いよいよますます悲しくなった」のではないでしょうか。

万葉集巻五の冒頭には「大宰帥大伴卿、凶問に報いる歌一首」があります。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

大伴氏は代々武人の家系でした。大将軍として旅人もふるまっていたと思われます。

七二〇年、征隼人持節大将軍として九州にも来ています。大宰府の帥になったのは最晩年になります。大伴旅人は大伴安麻呂の第一子です。大伴安麻呂と藤原鎌足は従兄弟でした。

旅人の妹の大伴坂上郎女は、藤原麿の妻でもありました。麿は藤原不比等の第四子ですから、大伴氏としては、藤原氏を批判することは難しかったしできなかったでしょう。

しかし、旅人としては長屋王とその家族の悲劇を悲傷せずにはおれなかったと思います。ですが、武人である以上、愚痴など誰にも言えず、酒を飲んで酒の力で泣いたのだと思うのです。

長屋王を罠にかけた権力者を嘲笑し、何もできない自分を情けないと酒の力で泣いたのでしょう。中学生の頃に、恩師からこの歌を紹介されたわたしは「なんて恥じな大人だろう。酒飲んで泣くなんて」と好きになれませんでした。ですが、

今は、この歌を読むと切なくなるし、泣けてきます。

348 生ける者 遂にも死ぬるものにあれば このよなる間は楽しくあらな

349 黙だおりて賢しらするは酒飲みて 酔い泣きするに尚しかずけり

万葉集の大伴旅人の歌を詠むと、雄々しく生きようとした男の悲哀が偲ばれます。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

 


高市皇子の男子・長屋王の悲劇

2017-07-17 21:10:21 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の悲哀と、そのあとさき

万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている

巻三の「長屋王の故郷の歌一首」

268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて

我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる

この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。

267 むささびは木ぬれ求むとあしひきの山のさつおにあいにけるかも

むささびは木から木へと飛び移っていたが、その時にムササビを狙っていた山の猟師に会ってしまったのだなあ。まるで不運な人のようではないか

長屋王の歌(268)だけ詠むと父の活躍した飛鳥を懐かしんでいるように読めますが、志貴皇子の歌と並ぶと「長屋王は、まるで待ち構えていた猟師に狙われたムササビのようではないか」と読めるのです。志貴皇子(715没)は長屋王事件の前に没しています。ですから、267番歌は長屋王を詠んだのではありません。志貴皇子は罠にはまった誰かを詠んだものでしょう。大津皇子か、弓削皇子か、川嶋皇子か…不運な当時の誰かを。万葉集の歌は「叙事詩」であって叙景詩ではないのですから。

何らかの意図があって、万葉集編集者はこれらの二首を並べました。それは、長屋王が罠に落ちたのだと暗示するためでしょう。長屋王は無実だったと。 

長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町に在ります。

長屋王の父親は太政大臣高市皇子。

高市皇子は父の天武天皇を支え、壬申の乱でも大きな働きをして勝利に導きました。その後、皇親政治家として活躍し、持統天皇の御代には太政大臣になりました。

しかし、息子の長屋王は左大臣まで上り詰めながら、謀反の罪をきせられ自尽に追い込まれました。

(写真は平群町の長屋王墓です)

長屋王事件は、なぜ起こったのでしょう。

長屋王が自尽に追い込まれた理由は、長屋王が余りに恵まれていたからです。

既にこのブログでも書きました、高市皇子の墓は高松塚古墳と思われると。高市皇子は藤原宮の造営をし、太政大臣として活躍し、当代随一の権力者でした。

長屋王は天武帝の御子・高市皇子天智帝の娘・御名部皇女の間に生れましたから、当代随一の皇統を継ぐ家柄でした。更に、室には元明天皇の娘・吉備内親王を迎えていました。

吉備内親王は長屋王との間に、男子を四人もうけていました。皇女は幸せの絶頂で突然の事件に見舞われました。四人の子どもたちの母として、妻として、無実の夫が糾問されるのを見てどんなに絶望したでしょうか。御身は現天皇の叔母でありましたのに。

そして、ついに四人の男子と共に自殺に追い込まれてしまったのです。

吉備内親王の兄が文武天皇、姉が元正天皇でしたから、長屋王一家は高貴な選ばれた人たちでありました。だからこそ、長屋王事件は起こったのです。

 吉備内親王の母である元明天皇の愛が、逆に長屋王家の悲劇を生んだのでした。

元明天皇は娘の吉備内親王を愛し、皇女が生んだ子供たちを「皇孫扱い」にしました。

続日本紀・元明天皇、霊亀元年(和銅八年・715)二月に「丁丑(二五日)勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を、皆皇孫の例(つら)に入れたまふ」とあります。長屋王は皇孫ですが、子供たち(三世王)は皇孫扱いではなかったので、元明天皇の勅により皇孫扱いとなったのでした。

同じ年(715年)、首皇子(聖武天皇)は十五歳になります。

父の文武天皇が即位した年令と同じ十五歳で、前年には元服し皇太子となっていました。藤原氏は光明子を首皇子の夫人に差し出し、外戚になる準備を整えていたことでしょう。天武天皇の有力皇子である長親王(六月没)穂積親王(七月没)志貴親王(八月没)の三人はことごとく死亡し、いよいよ首皇子の即位かと思われました。九月に譲位となり…

なんと、元明天皇が譲位したのは皇太子ではなく、娘の氷高皇女(元正天皇)でした。

この即位は特異だったようです。

続日本紀(岩波)脚注には「文武天皇以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正の受禅・即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるにすぎない。これは元明即位の特異性を物語るか」とあります。

即位した元正天皇は独身でしたから子孫を残すことはできません。次の皇統は長屋王の家族に引き継がれると、誰の目にもそのように映ったでしょうし、それは元明天皇の判断だったのです。

一方、草壁皇子の孫・文武天皇の皇子の首皇子(聖武天皇)の夫人は藤原光明子でしたから、かなりの点で長屋王の皇統が勝っていると時の人は心の底では思ったことでしょう。

高貴な家に生まれた長屋王が後々左大臣となるのは当然のことでした。

神亀六年(729)、長屋王謀反事件が起こるのです。それは突然の出来事でしたが、長い間練られた計画の実行だったのです。

長屋王と吉備内親王の墓は150メートルほど離れています。

むかしは、もっと墓域が広かったでしょうからお隣にあったのかも知れませんね。


古代天皇家と饒速日と天香久山

2017-07-04 16:33:28 | 62古代の神々と万葉集

天香具山と饒速日命と天皇家

前回紹介した三人の天皇御製歌に、天香具山が詠まれていました。さて、天香具山とは如何なる山なのでしょう。香具山は藤原宮の東に位置する山で、万葉集巻一「藤原宮御井の歌」にも『日本の青香久山は日経(ひのたて)の大御門に 春山としみさび立てり』と詠まれています。畝傍山は日の横の大御門、耳成山は背友(そとも北)の大御門、影友(かげとも南)の大御門には吉野山、このように神山が都を守ると歌われているのです。香具山は大王家にとって大事な山だったと云うことです。

他にも、

巻一 「2 とりよろう天の香具山 のぼり立ち…」「28…衣乾したり天の香久山」「13 高山(かぐやま)は畝傍をおしと…」「14 高山(かぐやま)と耳梨山と相しとき…」

巻三「257 天降りつく 天の香具山霞立つ…」「260 天降りつく神の香久山「何時の間も神さびけるか香山(かぐやま)の…」「334 わすれ草我が紐に付く香具山の…」

巻七「いにしえの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山

巻十「1812 久方の天の芳山(かぐやま)この夕べ霞たなびく春立つらしも」

巻十一「2449 香山に雲位たなびきおほほしく相見し子らをのち恋むかも」

そして、「香具山」には天が付きますから、香具山を詠んだ天皇は物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。そうです、物部氏です。

「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)


続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)

天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」

すると、饒速日が大王になっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

さて、饒速日命が祭られているのは、国宝・七支刀が神庫(ほくら)に伝世した石上神宮ですね。ここは物部氏の祖が祭神を祀ったことに始まり、神殿後方の神聖なる禁足地は「大王家の武器庫」だったと考えられています。隣接する布留遺跡から多数の武器が出土したそうです。(埋められていた? 大切な武器を埋めたりしないでしょうね? さびるし傷むし使えなくなると思います。敵を欺くために一時的に埋めて隠したのでしょうか? それとも置き忘れられた? それで後世に出土した?)

さて、石上神宮は」書紀によると「崇神天皇7年(紀元前91年)の創建」とされ、七支刀は日本書紀によれば「神功皇后52年(252年)に記された、百済から献上された七枝刀に該当するとみられています。

でも、百済ができたのは「346年、近肖古王即位」ですから、252年では百済はまだ成立していません。ですから、120年足して七支刀の伝来は372年とされています。それは、七支刀に「泰和年の紀年銘」があるからです。泰和は中国の東晋の年号です。神功皇后の時代は120年足して年代が想定されていますね。

それにしても、なぜ饒速日命の石上神社に七支刀があるのでしょう。饒速日は東遷してきた人です、もちろん九州から。天氏を引き連れて来て長髄彦を服従させ、大王となったのです。七支刀を伝世したという事実と、天の香具山はどのように結びつくのでしょうね。

饒速日についてもっと知りたくなりましたね。

また今度。


天の香久山を詠んだ三人の天皇

2017-06-28 10:57:50 | 61万葉集時代の天地創造の神々

天の香久山を詠んだ三人の天皇

香具山は小さな山です。神代より信仰されていたようで、ヤマト攻略の時に香具山の土が使われました。香具山は藤原宮の東に在ります。藤原宮の北には耳成山。

耳成山は藤原宮のシンボルでした。なにしろ「耳に成す山」なのですから、〇〇ミミのように「耳」のつく大王がおられましたね。耳成山の麓に住む王こそ「大王」だったと云うことです。さて、藤原宮の西には畝傍山でしたね。

畝傍・耳成・香久山がヤマト三山です。では、天樫の丘は? 藤原宮の南にあるはずですが…

さて、天の香久山を詠んだ三人の天皇とは、もうご存知ですね。何度か紹介しましたから。

持統天皇と天智天皇と舒明天皇です。では、舒明天皇の歌を読みましょう。

舒明天皇の国見歌ですが、天の香具山から見渡す限りが舒明天皇の勢力圏であり、香具山こそが息長氏が神山とする氏族の山だったと詠めませんか。和風諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇となっています。

すると、天(アマ)氏には息長氏がつながり、タラシ系の王族だったということになりますね。そうしたら、子どもたちの和風諡号はどうなっているでしょうね。

既に紹介した中大兄(天智天皇)の三山歌覚えておられますか。

天智天皇の和風諡号は天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇で、「天」が諡号に入っていますから、天氏には違いないでしょう。

持統天皇の和風諡号を見ると、高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇となっていますから、高天原で「天」の文字はひとまず入っています。

では、持統天皇の夫だった天武天皇の和風諡号を見ましょう。天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇でやはり「天」の字をおくられています。天智帝と天武帝の母の斉明天皇はどうでしょうね。

斉明天皇天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇で、「天」の文字が入ります。すると、天地・天武の両天皇は、母の斉明天皇の血族として意識されていたことになりましょう。斉明天皇の同母弟の孝徳天皇は、天万豊日(あめよろずとよひ)天皇でした。明らかに、舒明天皇の系譜ではなく斉明天皇の系譜に意味があるようです。★と★、☆と☆は兄弟です。

欽明ー敏達★―押坂彦人大兄舒明ー古人大兄  

欽明ー桜井皇子★ー吉備姫女王・(茅渟王☆)ー皇極・(舒明☆)―天智・天武

父・舒明の系譜であれば、古人大兄が有力な後継者となるでしょう。天智・天武の皇位継承は母の系譜でつないだと云うことですね。それで、息長の文字を入れなかったと思うのですが…

天の香具山が詠まれた歌には、氏族の結束や系譜をしめす意味があったのですね。

では、持統天皇の「高天原廣野姫」にはどんな意味があるのでしょうね。

それは、また後日。


大巳貴こそ天地創造の神

2017-06-27 10:47:48 | 61万葉集時代の天地創造の神々

欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。

創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。

大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。

大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。

 大國魂神社は国府が置かれた後国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を集め祭祀を行って来たという経過があり、武蔵総社と云われています。

本殿の左右の相殿に神社六社を合祀したので、六所宮とも称せられています。

(西殿)

六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔208)

五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町750)

四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町1-3)

(中殿)

             御霊大神

          大國魂大神

          国内諸神 

(東殿) 

一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮1-18-8)

二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二宮2252)

三ノ宮 氷川大神(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407)

不思議なことに、ここには伊弉冉・伊弉諾尊も、天照大神も、八幡大神も神功皇后もおられません。地域の神々を祭祀しているからですが、此処ではもともと出雲の神を祀っていた、ここは出雲と深い関係があったから畿内につながりの深い神は祀られていないと云うことです。大化改新の頃の七世紀半ばの武蔵国の神は大国主でした。政治的には朝廷の支配を受けても、祭祀は僅かながら古代の形が残っているようです。

万葉集の時代、国土創生の神はオオナムチノ神でした。万葉集では、大汝、大穴道、於保奈牟知と書かれ、古事記では大穴牟遅、書紀では大巳貴と書かれ、大國主命、八千矛神などの別名もあります。

万葉集に詠まれた大巳貴神と少彦名神

詩歌の冒頭に「おおなむち少彦名」が詠まれています。その中で、大伴坂上郎女は「おおなむち少彦名の神であるからこそ、始めて名付けられた名を名兒山という、その名を負う名兒の山と聞いても、わたしが(都に置いて来た)我子を恋しく思う心、その心には千重の一重も慰めにはなりません」と、筑前国の名兒山を越える時、詠みました。兄嫁が大宰府で没したので、太宰帥の兄を支えるために都から筑紫に来ていた大伴坂上郎女が、都に帰る時に船を下りて名兒山を越えて宗形神社に旅の安全を祈りに行ったのでした。その時の歌なのです。

この歌で大事なのは「名付けそめけめ」です。名兒山と始めて名付けたのは、おおなむち少彦名神だったというのですから。その土地の神だからこそ山川の名をつけることができたのでしょう。

柿本人麻呂歌集の歌も同じです。「おおなむち少名御神がお造りになった妹山と勢山を見るのは、心から嬉しく良いものだ」和歌山県の妹山・勢山を作られたのは、おおなむち少彦名の神だというのです。*妹背山は若の浦の同名の小島を詠んでいるかも知れません。

万葉集の時代は、九州でも和歌山でも天地創生の神は、大巳貴命(大国主)だったのでした。

と云うことは、どういうことでしょう。

案外、大国主は我が国の隅々まで統治していたのかも知れません。それが、六・七世紀に統治者が変わる政治的社会的変化が起こったと、そう考えてもいいかも知れませんね。日本書紀やや古事記と若干のずれがありますが。

古代の神と祭祀は、朝廷の意向や、武士の台頭による祭祀の変更や祭神の入れ替え、さらに明治維新による合祀や祭神交代等により、もう今ではもともとの姿が分からなくなっていると思います。

しかし、府中市の大國魂神社は、はるかなる古代を少しだけ見せているかも知れません


悲しみの王妃・祟り神となる(2)

2017-06-24 10:44:38 | 60十市皇女と天武朝の姫

十市皇女は祟り神となった

十市皇女は天武天皇と額田王の間に生まれた皇女です。そして、天智天皇の一子・大伴皇子の妃になり葛野王をもうけました。しかし、壬申の乱で夫は破れて自経しました。乱後は、敵将の高市皇子の下に嫁ぎ、ついに宮中で突然死(自死)に至りました。天武七年(678)当時の人は悲運の王妃の彷徨える霊魂を畏れたと思います。

それが比賣塚の伝承と重なったと思うのです。何時の時代か、比賣は十市皇女となっていた。土地の人はその伝承を守って来たと。

では、書紀には十市皇女が祟り神になったと考えられる記述はあるのでしょうか。

十市皇女の葬儀(4月)の後に、9月に五茎の稲が献上されたり、10月に「甘露」という綿のようなものが降ったり、12月アトリが天を覆い西南より東北に飛ぶとい記事があり、この月に筑紫大地震の記事が在ります。家屋の倒壊・地割れ・がけ崩れなど甚大な被害が記述されていますから、詳細な報告が有ったのです。皇女の死と直接かかわる記述は有りませんが、大地震と薨去を臭わせてあるのかも知れません。書紀が政変や王朝の衰退を天変地異で暗示するのは、珍しいことではありませんから… 

筑紫大地震の甚大な被害は都に報告されたのですが、人々はどう思ったでしょうね。人々は十市皇女と結びつけたでしょうか。やはり、はっきりしません。

前回紹介したように、新薬師寺の門前に比賣神社が昭和五十六年に鏡神社の摂社となってました。鏡神社は806年(平安時代の平城天皇の即位年)の勧請でした。

比賣神社の横に幾つかの石(神像石)が置かれていて、その謂れが書かれています。

神像石(かむかたいし)由来

弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ、四面楚歌の中にありながら、曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を 顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らんと願うものなりと、由来があるのです。

この文面だけでは誰が石を何処から勧請したのかとか、神像石が置かれた時期がいつか等、特定できません。たぶん確かな伝承や文献がないのでしょう。上記の淡海三船は、桓武天皇・延暦四年(785)に64歳で没した人で、刑部卿大学頭因幡守まで上り詰めた学者です。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→淡海三船と続く家系で、天平勝報三年に「淡海真人」の姓を賜わりました。「淡海」ですから、天智天皇の近江朝を十分に意識した姓なのです。

天智朝につながる四代の御姿石をここに置いたのは、比賣塚があったからなのか、御姿石があったから比賣塚が祭られたのか、前後も分かりません。しかし、一つ分かることがあります。比賣塚と御姿石はセットなのです。どちらも他方の意味を補完し合っています。十市皇女と大友皇子です。二人を共に奉ろうとする意図が地域に在り、鏡神社が祭祀を執り行ったと云うことです。

二人は共に無念の生涯を閉じた夫婦でした。ともに祟り神となり、強い霊力を持っていると 人々に信じられたのです。そして、光明皇后の薨去の後、淡海三船が御姿石をこの地に祭ったのかもしれません。その後、三船も没し皇統も変わり、806年に鏡神社の勧請となった。更なる祟り神が南都の悪霊を鎮めることになったのでしょう。

淡海真人三船は、三十代に「人臣の礼を欠く罪により大伴古慈悲と共に禁固刑を受けました。他にも、独断で下野国司の罪を責めたため巡察使を解任されています。それでも文字博士・大判事・大学頭などを歴任しました。そうとうに賢い人だったのですね。

鏡神社は、806年に唐津の鏡神社からの勧請され、本殿には藤原氏の氏神である春日神社の本殿社の部材が使われていました。春日神社も本気で祟り神を守護神に変えようとしたのですね。

 


悲しみの王妃、祟り神となる?

2017-06-22 20:49:40 | 60十市皇女と天武朝の姫

悲しみの王妃、祟り神となる?

この小さな神社のご祭神は十市皇女、天武天皇と額田王の間に生まれた長女になります。比賣神社に十市皇女が鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日となっています。脇座には、市杵嶋比賣が寄り添っています。市杵嶋比賣は、女神として十市皇女の周りを祓い清めているのでしょう。

この小さな神社は、奈良の新薬師寺の門前に在ります。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した寺院です。有名な十二神将像がある寺院です。

十市皇女は額田王の娘なのですが、母と違って万葉集に皇女自身の詠歌はありません。が、十市皇女のために詠んだ歌は四首あります。一首目は22番歌です。22番歌の前にある20番歌と21番歌は、額田王と天武帝の歌です。十市皇女の両親の歌が、20・21番歌なのです。

20 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

21 むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人嬬ゆゑに我れ恋ひめやも

次は、22番歌です。「十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、風芡(ふふき)刀自が作る歌」と題があり、ふふき刀自については詳細は分かりません。

22 川の上のゆつ岩群に草生さず 常にもがもな常処女(とこをとめ)にて

川の中にある岩は常に清められていて草が生えないが、常にそうであったらいいですね。そうであれば常乙女でいられるのですから。

書紀によると天武天皇の四年(675)春に、十市皇女・阿閇皇女が伊勢神宮に参赴しています。当時、伊勢神宮には大伯皇女(大津皇子の姉)が斎宮として赴任していました。そこへ出かける時の歌ですが、何をするために二人の皇女は出かけたのでしょう。

十市皇女は壬申の乱(六七二)の時の、敵将・大友皇子の妃でした。阿閇皇女は天智帝の皇女で、後に草壁皇子の妃となる人です。十市皇女は大友皇子が勝利したら皇后になっていたかもしれない女性です。しかし、大友皇子は天武帝に破れました。父が夫を倒したのでした。大友皇子の忘れ形見の息子(葛野王)を連れて明日香に戻った十市皇女の心は晴れなかったことでしょう。そこで、同じ天智帝を懐かしむ皇女(阿閇)と一緒に伊勢に参赴させたと云うことです。身も心も再生するようにと、天武帝の娘への心使いだったのではないでしょうか。

祟り神となっていた藤原 広嗣

さて、案内板によりと、比賣神社は鏡神社の摂社でしたね。

十市皇女を祀る比賣神社は、新薬師寺の門前に在りますが、そこは鏡神社の鳥居の前でもあります。鏡神社と云えば、九州の唐津に「鏡神社」があり、藤原広嗣を祀っています。ここは、その鏡神社から806年に勧請されました。

806年に、鏡神社は光明皇后所縁の寺・新薬師寺の守護神として勧請された…のです。広嗣は祟り神から守護神へと転身しました。806年は、桓武天皇の没年であり、平城天皇の即位年です。平城帝の御代が平安であるように、祟り神を鎮めようとしたのでしょう。奈良教育大の辺りまであった新薬師寺の境内は、火災により縮小していたので、鏡神社が現在地に造られることになったのでしょう。

で、では、十市皇女は祟り神の神社の摂社であれば、 十市皇女は祟り神だったのでしょうか? もともと比賣塚があったらしいのです。そういう謂れのある塚だったと思います。

天智帝の後継者・大友皇子の王妃だった十市皇女ですから、大きな悲しみを背負っていたのは間違いありません。なのに敵将の妃となり、苦しんだ挙句の自死ですから、祟り神となったでしょう。恨みを持って没したと、誰もが思ったでしょう。

 悲しみの王妃の霊魂をどのように慰めたらいいのか、当時の人は悩んだと思います。残された息子の葛野王だけでなくその末裔も悩み続けたでしょう。そのささやかな名残が、比賣神社の横に残されていました。

それは、次に紹介しましょう。


衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する

2017-06-18 14:02:50 | 59難波天皇

衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ

木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけられたのは允恭天皇の崩御後、この時はどなたも相当にお年だったのではないでしょうか。その時、抑えられない衝動で妹と道ならぬ恋? ですか…

(古事記)あしひきの山田を作り 山高み 下樋をわしせ 下どひに 我がとふ妹を 下泣きに我が泣く妻を 昨夜こそは安く肌触れ

(また歌ひたまひしく)笹葉に打つや霰のたしだしに い寝てむ後は人は離(か)ゆとも うるわしとと さ寝しさ寝てば刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

と謡ったので、百官人心が皇太子の木梨軽皇子に背いて穴穂皇子に傾いたというのです。事の起こりは歌謡なのです。書紀では、器の汁が凝ったので占って姦通が分かったという展開です。どちらも何とも理解しがたい展開でした。軽皇子は大前小前宿祢の大臣に逃げて兵器を備え、穴穂皇子も兵器を用意しました。どう読んでもクーデターですね。

木梨軽皇子が同母妹との姦通罪で皇位継承権を奪われ死地に追い込まれたのは、古事記でも書紀でも同じです。然し、古事記では大前小前の大臣が軽皇子を捕らえて献進し、皇太子は伊予の湯に流されました。その後を追って軽大郎女が詠んだ歌が「君が行きけ長くなりぬ 山たづの迎えを往かむ 待つには待たじ」なのです。85の磐姫の歌に似ていますね。書紀では「伊予に流されたのは皇女の方」です。

磐姫皇后と軽大郎女の歌は、愛しいあの方がお出かけになってからずいぶん日が経ってしまった、までは同じです。磐姫皇后は「迎えに行こうか、このまま待ち続けようか」と悩みますが、軽大郎女皇女は「お迎えに往こう。待っているだけなんてできないこと」と言い切っています。そして、古事記では「すなはち共に自ら死にたまひき」となりました。

万葉集には90番の歌の後に長い文章があります。まず、仁徳天皇が磐姫皇后の留守に八田皇女を召したことで、皇后が怒ったこと。しかし、恨んだ皇后が帰らない天皇を恋慕うという書紀とは矛盾する4首(85~8)が並びます。書紀では、帰って来なかったのは天皇ではなく皇后なのですから。

古事記の軽大郎女皇女の歌は「待ってなんかいないで迎えに行こう」という歌なので矛盾はないようにも見えます。書紀では伊予に流されたのは皇女の方でした。皇太子は流されていませんが、流されたはずの皇女が「お迎えに行こう」と詠んでいる歌が、万葉集にあるのです。ですから「今かんがうるに、二代(仁徳・允恭)二時にこの歌はない」と、脚注を長々と入れているのです。どう読んでもおかしいというのです。

衣通姫は内部告発した

では、古事記の展開ならば、「君が行き」の歌は矛盾がないのでしょうか? いえ、矛盾があるのです。「皇太子は伊予に流されましたから、待っていても許されて帰れるかどうかわかりません」し、迎えに行っても罪人であれば帰れませんし、皇女だから何とかなるわけはありません。でも、迎えに行くというのです。なぜ? 理由は一つ、罪はなかったと皇女は思っているからです。古事記の物語や書紀の話に対して、抗議しているのではないでしょう。万葉集の歌は、別の物語・事件を告発していると思われます。

ここに隠れた事件を引き出す鍵があるはずです。磐姫皇后から難波天皇、「君が行きけ長くなりぬ」から帰って来れない高貴な人・天皇、軽大郎女から導き出される軽皇子・皇太子、皇女は相手を思い迎えに行った、何より「軽」皇子です。軽皇子は孝徳天皇のことです。軽皇子という名を当時の人が忘れるわけはありません。難波宮の天子なのですから。

では、ここで衣通姫が誰をさすのか、云うまでもありません。有間皇子を迎えに行った間人皇后意外にはありません。万葉集は「衣通姫」の歌で事件を告発しているのです。

 

深く信頼し合い愛し合っていた二人の運命を、その悲しい物語を、万葉集は繰り返しなぞり告発しました。


難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌

2017-06-16 20:53:40 | 59難波天皇

難波天皇の御代を寿いだ歌

難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花

また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他にも、この歌を記した木簡が出土しているそうです。平安時代には「難波津の歌」は誰もが知っていたのですね

この歌は、宇治若郎子と大鷦鷯尊が皇位を譲りあったため、極位が三年間空位となっていたが、難波高津宮に大鷦鷯尊が即位した時、治世の繁栄を願って詠まれた歌となっています。ここに詠まれた花は梅だということですが、この歌が仁徳天皇の御代を寿いだ歌と云うことに、とても違和感があります。実在さえはっきりしない仁徳帝の時代の歌が平安時代になって流行するというのも不自然だし、三年間即位しなかったうえに、更に三年間民から税を取らずにいた仁徳帝の御代をいつ寿いだのでしょう。皇位を譲りあっていた三年間は、皇太子は宇治若郎子ですから大鷦鷯尊に即位を促すのは変ですし、税を取らない切り詰めた生活の時の歌としても変です。

ですから、同じ難波天皇である孝徳天皇の御代を寿いだ歌だと考えると、違和感はありません。日本書紀にも「いふべからず」と言われた壮大な難波宮を構えた孝徳天皇の御代、難波津にみなぎる新しい時代の風を詠んだと。大化改新によって今までと違った時代が来る、物流の豊かな難波津にまるで春になったような期待感が漂う、という歌になるのです。

これが、孝徳天皇の御代を寿ぐ歌だとすると、万葉集に孝徳帝時代の歌が何故ないのか、気になってきます。わたしは孝徳帝の御代の歌はあったと思います。それは万葉集の中に在ったのだと。その事に、そろそろ触れなければなりませんね。

 また、後で。


仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか

2017-06-08 17:06:20 | 59難波天皇

雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから

万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。

万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも」と響き合うと、「鹿が鳴かなかった=鹿は殺されていた」という暗示となりました。

鹿が鳴かなかった話が日本書紀「仁徳紀」にあるのです。当時の人は知っていた「兎我野の鹿」の物語です。「古事記」には 鹿の話はありません。

仁徳天皇は難波高津宮で八田皇女と鹿の鳴き声を聞いていた

 仁徳天皇は皇后と高殿で涼んでおられました。毎夜、兎我野から聞こえて来る鹿の声が澄み切っていてもの悲しかったのです。雄鹿が鳴く声を聞いて心慰められていた天皇は、或る夜に雄鹿が鳴かなかったので「今夜は鳴かないが、いったいどうしてなのか」と気になっていました。次の日、鹿肉が献上されました。「もしや」と思った天皇は、「何処で捕れた鹿なのか」と尋ねました。答は「兎我野です」という…毎夜天皇を慰めていた雄鹿であることを知るという展開です。

続いて、「昔、或人が兎我に行って野中に宿リした時に聞いた、二匹の夫婦鹿の会話」の物語があります。男鹿が見た夢は「殺されて塩にまぶされた姿」だったという、やはり「鹿と死」がつながる話です。この二つの話は仁徳紀に在りますが、そこにはどんな編集意図があるのでしょう。

聖帝と書かれた仁徳天皇は、宇治若郎子の自死によって即位した人です。八田皇后はその宇治若郎子の妹です。死に際に妹を献上しているのです。仁徳帝は八田皇女の妹の雌鳥皇女も後宮に望んでいます。倒した相手の血筋の女性を他に逃がさない為とも読み取れます。古事記では、「大后が強くて姉の八田皇女も後宮に入ることはできていない。だから、わたしは貴方の妻になりましょう」と、雌鳥皇女自らが隼別皇子を選んだことになっています。そして、二人は殺されたのです。

万葉集巻九・持統天皇の「紀伊国行幸」の歌群の前に置かれた「ゆうされば小掠の山に臥す鹿」の歌は、有間皇子の死を暗示したものだったと既に書きました。そうすると、巻八の鹿も、「鹿=殺された」という暗喩となります。1511は岡本天皇、1664は雄略天皇(*或本に岡本天皇御製歌という)どちらも岡本天皇かもしれませんから。

そうであれば、巻八・九の「鳴かない鹿=死」とは「有間皇子事件」を暗示したとなって、皇太子でありながら死なねばならなかったという事件になり、宇治若郎子ともつながるのです。

 万葉集には繰り返し『宇治若郎子』が読まれています。額田王『宇治の都の仮廬しおもほゆ』、柿本人麻呂「宇治若郎子の宮処の歌」などです。なぜ万葉代表歌人の二人が「宇治若郎子」を詠んだのかの答は「宇治若郎子が有間皇子と重なる運命だったから」なのです。二人は有間皇子を偲びました。

ここで、一つの疑問が出てきました。聖帝と言われた仁徳天皇は、弟の宇治若郎子と三年間極位を譲りあい、その弟の自殺によって即位したと、書紀に書かれていますが、日本書紀の完成は720年です。柿本人麻呂が柿本佐留であれば、彼の没年は708年となっています。12年も前に書紀の仁徳紀「兎我野の鹿」の内容を知っていたことになります。書紀の編纂は長きに渡っていますから、不思議ではないのかも知れませんが。たとえば川嶋皇子(691没25歳)は「帝紀及び上古の諸事を記定」という仕事を15歳から始めていますから、歴史や伝承は数多くちまたに伝えられていたのかも知れませんし、皇族貴族は自分の出自をはっきりと自覚していたでしょうし、それは口伝や文字として残されていたに違いありません。

むしろ日本書紀などのような「正史」こそ、ほとんどの人に知られていなかったのでしょう

万葉集の難波天皇とは誰か? 仁徳帝か孝徳帝か、謎はまだ解決されてはいません。