難波宮に暮らした難波天皇と皇后
難波宮は謎だらけですね。大阪城の南に広がる難波宮は、難波長柄豊崎宮とされています。孝徳天皇の宮であり、天武天皇が副都とした宮であり、文武天皇が行幸し、聖武天皇が後期難波宮を造営しました。
孝徳天皇の前期難波宮は掘立柱の建物で瓦は葺かれていませんが、聖武天皇の後期難波宮は瓦葺きです。双方の宮殿は、ほぼ同じ位置と規模で立て直されましたので、発掘された遺構が重なっています。
双方とも広い朝堂院の庭がありまして、まさに「朝廷」で様々な儀式が執り行われたのです。八角形の建物に東西に挟まれた門は、内裏・大極殿への出入り口でもありました。
このような立派な難波の宮に暮らしたのは、孝徳天皇でした。皇后は間人皇女でした。地方から采女も召し上げていますから、孝徳天皇の後宮は整っていたのです。然しながら、万葉集では孝徳天皇の御代の歌は取り上げられていません。孝徳帝自身の歌は、書紀に取り上げられているのに、です。なぜでしょうか。持統天皇が何度も何度も追慕して鎮魂した有間皇子の父親が、孝徳天皇であるのに、非常に不思議、不可解な事実です。このことを考えてみましょうね。
さてさて、慌てることはありません。