長屋王事件の悲哀と、そのあとさき
万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている
巻三の「長屋王の故郷の歌一首」
268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて
「我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる」
この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。
267 むささびは木ぬれ求むとあしひきの山のさつおにあいにけるかも
「むささびは木から木へと飛び移っていたが、その時にムササビを狙っていた山の猟師に会ってしまったのだなあ。まるで不運な人のようではないか」
長屋王の歌(268)だけ詠むと父の活躍した飛鳥を懐かしんでいるように読めますが、志貴皇子の歌と並ぶと「長屋王は、まるで待ち構えていた猟師に狙われたムササビのようではないか」と読めるのです。志貴皇子(715没)は長屋王事件の前に没しています。ですから、267番歌は長屋王を詠んだのではありません。志貴皇子は罠にはまった誰かを詠んだものでしょう。大津皇子か、弓削皇子か、川嶋皇子か…不運な当時の誰かを。万葉集の歌は「叙事詩」であって叙景詩ではないのですから。
何らかの意図があって、万葉集編集者はこれらの二首を並べました。それは、長屋王が罠に落ちたのだと暗示するためでしょう。長屋王は無実だったと。
長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町に在ります。
長屋王の父親は太政大臣高市皇子。
高市皇子は父の天武天皇を支え、壬申の乱でも大きな働きをして勝利に導きました。その後、皇親政治家として活躍し、持統天皇の御代には太政大臣になりました。
しかし、息子の長屋王は左大臣まで上り詰めながら、謀反の罪をきせられ自尽に追い込まれました。
(写真は平群町の長屋王墓です)
長屋王事件は、なぜ起こったのでしょう。
長屋王が自尽に追い込まれた理由は、長屋王が余りに恵まれていたからです。
既にこのブログでも書きました、高市皇子の墓は高松塚古墳と思われると。高市皇子は藤原宮の造営をし、太政大臣として活躍し、当代随一の権力者でした。
長屋王は天武帝の御子・高市皇子と天智帝の娘・御名部皇女の間に生れましたから、当代随一の皇統を継ぐ家柄でした。更に、室には元明天皇の娘・吉備内親王を迎えていました。
吉備内親王は長屋王との間に、男子を四人もうけていました。皇女は幸せの絶頂で突然の事件に見舞われました。四人の子どもたちの母として、妻として、無実の夫が糾問されるのを見てどんなに絶望したでしょうか。御身は現天皇の叔母でありましたのに。
そして、ついに四人の男子と共に自殺に追い込まれてしまったのです。
吉備内親王の兄が文武天皇、姉が元正天皇でしたから、長屋王一家は高貴な選ばれた人たちでありました。だからこそ、長屋王事件は起こったのです。
吉備内親王の母である元明天皇の愛が、逆に長屋王家の悲劇を生んだのでした。
元明天皇は娘の吉備内親王を愛し、皇女が生んだ子供たちを「皇孫扱い」にしました。
続日本紀・元明天皇、霊亀元年(和銅八年・715)二月に「丁丑(二五日)勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を、皆皇孫の例(つら)に入れたまふ」とあります。長屋王は皇孫ですが、子供たち(三世王)は皇孫扱いではなかったので、元明天皇の勅により皇孫扱いとなったのでした。
同じ年(715年)、首皇子(聖武天皇)は十五歳になります。
父の文武天皇が即位した年令と同じ十五歳で、前年には元服し皇太子となっていました。藤原氏は光明子を首皇子の夫人に差し出し、外戚になる準備を整えていたことでしょう。天武天皇の有力皇子である長親王(六月没)穂積親王(七月没)志貴親王(八月没)の三人はことごとく死亡し、いよいよ首皇子の即位かと思われました。九月に譲位となり…
なんと、元明天皇が譲位したのは皇太子ではなく、娘の氷高皇女(元正天皇)でした。
この即位は特異だったようです。
続日本紀(岩波)脚注には「文武天皇以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正の受禅・即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるにすぎない。これは元明即位の特異性を物語るか」とあります。
即位した元正天皇は独身でしたから子孫を残すことはできません。次の皇統は長屋王の家族に引き継がれると、誰の目にもそのように映ったでしょうし、それは元明天皇の判断だったのです。
一方、草壁皇子の孫・文武天皇の皇子の首皇子(聖武天皇)の夫人は藤原光明子でしたから、かなりの点で長屋王の皇統が勝っていると時の人は心の底では思ったことでしょう。
高貴な家に生まれた長屋王が後々左大臣となるのは当然のことでした。
神亀六年(729)、長屋王謀反事件が起こるのです。それは突然の出来事でしたが、長い間練られた計画の実行だったのです。
長屋王と吉備内親王の墓は150メートルほど離れています。
むかしは、もっと墓域が広かったでしょうからお隣にあったのかも知れませんね。