万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる
雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)允恭天皇の第五皇子
允恭天皇の長男は木梨軽皇子
兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。
(埼玉県行田市の稲荷山古墳)
泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。
「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると、被葬者は獲加多支鹵大王に仕えていたというのです。そのワカタケル大王が雄略天皇のことだという人がたくさんいて、今では定説となっています。それで、辛亥年は雄略天皇なら471年とされたのです。531年なら継体天皇になるからです。
しかし、考古学的には鉄剣以外の副葬品の年代が遡っても6世紀前半となるので、辛亥年は531年ではないかという説も根強く残っています。わたしも531年((稲荷山鉄剣の辛亥年)だと思います。
この鉄剣によって、雄略天皇の実在が確認されたというのです。
ホントでしょうか。(「宋書」倭国伝の倭王武も雄略天皇になるそうです。ホントでしょうか)
鉄剣の獲加多支鹵大王の宮は、泊瀬朝倉宮であり、斯鬼宮ではありません。金石文に残る斯鬼宮は何処にあったのでしょう。
更に、なぜ古代の詩歌集・万葉集の冒頭が雄略天皇の歌なのでしょう。
それも、名も知らない乙女に呼びかける歌で、しかも敬語で呼びかけていますので、儀式歌なのだそうです。
このような雄略天皇は、どのような神祭りをしていたと書かれているのでしょう。名を聞いて、婚約することになるのでしょうか。
古代の天皇はたくさんの有力な豪族の娘を娶り、婚姻関係で勢力を示したようです。
またまた、明日