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仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか

2017-06-08 17:06:20 | 59難波天皇

雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから

万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。

万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも」と響き合うと、「鹿が鳴かなかった=鹿は殺されていた」という暗示となりました。

鹿が鳴かなかった話が日本書紀「仁徳紀」にあるのです。当時の人は知っていた「兎我野の鹿」の物語です。「古事記」には 鹿の話はありません。

仁徳天皇は難波高津宮で八田皇女と鹿の鳴き声を聞いていた

 仁徳天皇は皇后と高殿で涼んでおられました。毎夜、兎我野から聞こえて来る鹿の声が澄み切っていてもの悲しかったのです。雄鹿が鳴く声を聞いて心慰められていた天皇は、或る夜に雄鹿が鳴かなかったので「今夜は鳴かないが、いったいどうしてなのか」と気になっていました。次の日、鹿肉が献上されました。「もしや」と思った天皇は、「何処で捕れた鹿なのか」と尋ねました。答は「兎我野です」という…毎夜天皇を慰めていた雄鹿であることを知るという展開です。

続いて、「昔、或人が兎我に行って野中に宿リした時に聞いた、二匹の夫婦鹿の会話」の物語があります。男鹿が見た夢は「殺されて塩にまぶされた姿」だったという、やはり「鹿と死」がつながる話です。この二つの話は仁徳紀に在りますが、そこにはどんな編集意図があるのでしょう。

聖帝と書かれた仁徳天皇は、宇治若郎子の自死によって即位した人です。八田皇后はその宇治若郎子の妹です。死に際に妹を献上しているのです。仁徳帝は八田皇女の妹の雌鳥皇女も後宮に望んでいます。倒した相手の血筋の女性を他に逃がさない為とも読み取れます。古事記では、「大后が強くて姉の八田皇女も後宮に入ることはできていない。だから、わたしは貴方の妻になりましょう」と、雌鳥皇女自らが隼別皇子を選んだことになっています。そして、二人は殺されたのです。

万葉集巻九・持統天皇の「紀伊国行幸」の歌群の前に置かれた「ゆうされば小掠の山に臥す鹿」の歌は、有間皇子の死を暗示したものだったと既に書きました。そうすると、巻八の鹿も、「鹿=殺された」という暗喩となります。1511は岡本天皇、1664は雄略天皇(*或本に岡本天皇御製歌という)どちらも岡本天皇かもしれませんから。

そうであれば、巻八・九の「鳴かない鹿=死」とは「有間皇子事件」を暗示したとなって、皇太子でありながら死なねばならなかったという事件になり、宇治若郎子ともつながるのです。

 万葉集には繰り返し『宇治若郎子』が読まれています。額田王『宇治の都の仮廬しおもほゆ』、柿本人麻呂「宇治若郎子の宮処の歌」などです。なぜ万葉代表歌人の二人が「宇治若郎子」を詠んだのかの答は「宇治若郎子が有間皇子と重なる運命だったから」なのです。二人は有間皇子を偲びました。

ここで、一つの疑問が出てきました。聖帝と言われた仁徳天皇は、弟の宇治若郎子と三年間極位を譲りあい、その弟の自殺によって即位したと、書紀に書かれていますが、日本書紀の完成は720年です。柿本人麻呂が柿本佐留であれば、彼の没年は708年となっています。12年も前に書紀の仁徳紀「兎我野の鹿」の内容を知っていたことになります。書紀の編纂は長きに渡っていますから、不思議ではないのかも知れませんが。たとえば川嶋皇子(691没25歳)は「帝紀及び上古の諸事を記定」という仕事を15歳から始めていますから、歴史や伝承は数多くちまたに伝えられていたのかも知れませんし、皇族貴族は自分の出自をはっきりと自覚していたでしょうし、それは口伝や文字として残されていたに違いありません。

むしろ日本書紀などのような「正史」こそ、ほとんどの人に知られていなかったのでしょう

万葉集の難波天皇とは誰か? 仁徳帝か孝徳帝か、謎はまだ解決されてはいません。


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