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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

額田王と中皇命は大事件を歌に詠んだ

2018-05-22 00:17:52 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に編纂させた歴史書・皇統の歌物語」であるというスタンスでこの、回を通して紹介しています。歴史書として詠むと、どの歌も非常に分かりやすいし、何故その一に置かれたかがよくわかるのです。では「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。

 

この歌は中皇命自身の儀式歌ではなく、臣下に献じさせた歌なのである

万葉集3・4番歌の中皇命とは間人皇后、難波天皇の儀式歌を間人連老に献じさせた

⑳ 万葉集巻一の3番歌「天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌」を読む。

中皇命(なかつすめらみこと)とは誰か。舒明天皇の皇后の皇極天皇とも、娘の間人皇女とも、以前から様々な説がある。間人皇女であれば、十歳そこそこの少女と云うことになる。

うら若い姫だったので、代わりに間人連老に歌を献じさせたというのである。老(おゆ)は、同じ「はしひと」の姓を持つが、皇女の同族と云う意味ではない。間人皇女を守り育てる経済的支えを「間人氏」が担っていたので、皇女を「間人皇女」と詠んだのである。間人氏が、養育担当の壬生部だったのである

㉑ 万葉集の3番歌は、中皇命が奉らしめた歌である。高市岡本宮御宇天皇=舒明天皇への献上歌になっている。当然、公の儀式で使われた歌となる。何の儀式なのか? 単なる遊猟(みかり)には思えないが。 弓で中筈の音を立て邪気を払う儀式は、天皇即位の儀式で行われた。元明天皇の即位儀式の時の歌に「ますらおの鞆の音すなり もののべの大臣 楯立つらしも」という76番歌がある。

 ここで問題なのは、中皇命が本当は幾つなのかと云うことである。舒明天皇の遊猟ならば、十一、二歳である。其の年齢では幼ずぎるから、間人連老に代わりに献上させたという解説がある。だが、そもそも大切な儀式に若い姫を参加させたのなら、違和感がある。

題詞には「間人皇女」ではなく「中皇命」=「天皇の玉璽を預かった人」と書かれている。中皇命という立場の女性が歌を献じさせ儀式を行っているのなら、答えは一つ。これは、新大王の即位の行事の一つである…では、誰の即位なのか。もちろん難波宮御宇天皇、有間皇子に他ならない。

 

㉒ わたしの読み取りでは、これは孝徳天皇より玉璽を預かった中皇命が「次の大王となるべき遊猟の儀式」をする時、唐から帰った間人老に奉らせたとなる。間人皇后=中皇命としての解釈した理由であるが、他の巻の歌とも関わるのでその事は後述したい。

 

次の5.・6番歌は、讃岐国の幸す時に軍王が山を見て作る歌である

㉓ 次は、万葉集巻一の5~6番歌「讃岐国行幸」の時の歌である。ここは史実とのすり合わせが十分ではないので、紹介しない。しかし、この天皇と四国との縁は深いようだ。

 万葉集巻一の7・8・9番歌は額田王の歌

額田王は、皇極天皇の傍近くで大事件の歌を詠んだ

7番歌は皇極天皇の御代の歌である。額田王は「宇治の京」を詠んでいるが、「京」とは天皇=大王の住いが在る処 のはずなのに、宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は「宇治の京」を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮庵の屋根を葺いて旅宿リされた。あの宇治の京の仮庵のことが思い出されてならない。」と詠んだ。どんなことがあったのか。わたしは、ここにはある事件が詠まれていると思うのである。

架空の物語ではなく、ある出来事を詠んでいるのだが、万葉集では実態が見えないのである。脚注には「大化四年(648)年に皇極上皇が近江の比良の宮に行幸した時の歌の御製と類聚歌林にある」と書かれている。「宇治の京」の歌は額田王の作ではないかもしれないというのである。額田王の歌と題詞に書かれた四例のうち三例までが「或は天皇の御歌」となっている。

「宇治の京」の歌が額田王の歌だとしても、またもや年齢の問題が起こってくる。この時、十代の娘ということになるのである。額田王は非常に若い時から皇極天皇の傍で歌を詠み、この後は天智天皇の傍で歌を読み続けることになるという才女だったようだ。

7番歌に続く8・9番歌も、額田王の歌となっている。

 巻1の7~9番歌は、額田王の歌になっているが、それぞれ詠まれた時期が違うのである。

7番歌では、皇極天皇の時、宇治の都を詠んでいた。

8番歌と9番歌は重祚した斉明天皇だが、時期が逆になっている。百済救援(661)に出かけたまま斉明天皇は崩御となられるから、斉明天皇の紀伊国行幸(658)は船出の前の有間皇子事件があった時の行幸になる。本来は、9番歌・8番歌の順であったはずである。意識して入れ替えているのだろう。

9番歌が入れ替えられたのは、次の10・11・12番歌と関わらせるためである。

 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがない。

読みが定まっていない漢字には「しづまりし うらなみさわく」という読みがつけられています。他に「ゆふつきの あふきてといし」「ゆうつきの かげふみてたつ」「みよしのの山みつつゆけ」「紀ノ國のやまこえてゆけ」「しづまりし 神ななりそね」「ゆうつきのかげふみてたつ」などなど。(紀ノ國のやまこえてゆけ? しづまりし 神ななりそね? ゆうつきのかげふみてたつ?などなど。)

 

額田王は斉明天皇の傍近くに仕えていた時、大きな事件を歌に詠んだ 

万葉集の巻一の7・8・9・10・11・12番歌から、万葉集が何を伝えようとしているのか。歴史の闇に消された事実が見えるのではないか。斉明天皇の御代の大事件は有間皇子事件であろう。それは、皇位継承にかかわる事件だったと思われる。

 

㉖ 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがないというが、実は、額田王は故意に詠めなくしたのではないか、という解釈もある。此処に額田王の本音があるのではないか、というのである。 読めないような漢字を使ったのなら、漢字そのものを読んでみたいと思う。(個人的な読みの紹介)

忘れてはならないのは、この歌は「斉明天皇の紀伊国行幸に従駕しての歌」と云うことである。額田王の歌には「幸」と云う字があるから、天皇の行幸時の歌である。

 次が中皇命の紀伊温泉にいでます時の歌

斉明天皇の「紀伊国行幸」時の額田王と中皇命の歌が並んでいる。10番歌~12番歌は中皇命の歌で、紀温泉に往った時の歌なのである。ただし「幸す」と「往す」と「いでます」の字が変えてある。「中皇命、紀温泉に往す時」は、天皇の行幸について行ったのではない。

では、中皇命は、何をしに紀伊温泉に往ったのか。(また、12番歌には「天皇の御製歌」という、異説があるが、誰天皇の御製なのか。)

 

玉璽を預かった間人皇后は、護送された有間皇子を紀伊温泉に追って往った

㉗ 紀伊国行幸の10・11・12番歌の中皇命であるが、巻一には、中皇命という女性が二度登場する。同じ巻一に登場するので、同一人物と考えられる。別人であれば、脚注がつくはずだから、この巻一の中皇命は「斉明天皇」ではありえない。

そもそも、この歌の意味は、「あなたと私がいつまで生きられるか分からないけれど、この岩代の草はそれを知るかもしれない。さあ、草を結んで神に命永からんことを祈りましょう」という歌意である。「私の大切な方が借廬を作っておられます。草が足りないのであれば、先ほど神に祈った子松の下の草をお刈りくださいませ」この次に、12番歌。

しかし、後世の人は、12番歌の位置と意味が分からなかったらしい。「私が見せたいと思っていた野嶋は見せた。だが、底深い阿胡根の浦の真珠を拾いたかったのに拾わなかった」この歌は何だ? どういう意味で此処に置かれたのだ? と疑問を懐いたらしい。いえいえ、ここはポイントで、この歌を読んだのは「中皇命ではなく天皇だ」と脚注があるのをみのがしてはならない。ここには敬語も使われていないので、中皇命が目下の者に向かって詠んだと解すべきだろうか。いえ、ここは高貴な人(難波天皇)が中皇命に向かって読んだとするほかはない。

つまり、この三首は相聞歌ではないか、と思う。岩代に護送されてきた難波天皇と中皇命の相聞歌なのである。

 

㉘ 書紀では、斉明四年11月、有間皇子は蘇我赤兄の罠に落ちた。11月3日赤兄が有間皇子に近づき、5日密談をした夜中に、守君大石(もりのきみおほいは)、坂合部連薬(くすり)、塩屋連鯯魚(このしろ)と共に有間皇子は捕らえられ紀伊温泉に送られた。9日、牟婁の湯での中大兄との会見の後、いったん許されたように見えたが追っ手がかけられ、11日に有間皇子は藤白坂で絞刑に処された。舎人新田部連米麻呂と孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は藤白坂で斬られ、他は流罪になったと書かれている。

孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は殺される時に『願わくは右手をして、国の宝器を作らしめよ』と言ったという。』この書紀の記述の意味は何だろうか。文官の鯯魚がいう「国の宝器」とは、律令の仕事以外には考えられないではないか。彼は、文官として自分の仕事を続けたかった。それは、有間皇子に従って難波宮で行っていた仕事以外には考えられない。当然、有間皇子は文官をつかった行政のトップにいたと云うことになる。

 

7~12番歌(額田王と中皇命の歌)から読めることのまとめ

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に皇統の正当性と歴史を分かりやすく編纂させた歌物語」歴史書であると、初めに述べている。すると、7~12番歌で詠まれた有間皇子事件は、皇統の歴史にとって重要だったと云うことになる。少なくとも、持統天皇はそのように考えたのである。

 

 また、明日。


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