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万葉集巻一・天智帝と天武帝の御代の歌の編集意図は、全く違っている

2018-05-22 00:17:14 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

初期万葉集は、皇統の正当性と歴史を文武天皇に伝えるために編纂された

「万葉集」の編纂の時期は、長期に渡ります。人麻呂による8世紀初頭、家持により8世紀半ば、平城天皇の臣下により9世紀初頭、といった具合です。人麻呂編纂のものを初期万葉集、家持編纂のものを後期万葉集とよび、平城天皇の勅により初期万葉集と後期万葉集が合体再編集されたと思っています。

なぜ編集の手を入れたのか。それは、触れたくない事実が歌として詠みこまれていたからです。平安朝の王家にとって、今さら蒸し返したくないことが。そこで、歌を入れ替え、題詞に若干の手を入れた。言葉が悪いのですが、改竄したと云うことです。詩歌は言霊ですから変えられません。ですから、題詞と配置を変えた…と思うのです。

では、今日は「すぎにし人の形見とぞ」の㉙からです。

巻一「天智天皇の御代」と「天武天皇の御代」の歌は、真逆の扱いを受けた

まず、16~21番歌が天智天皇の御代の歌であるが、何が詠まれているか

額田王・大海人皇子・井戸王の歌に、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれた 

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」

21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

 

㉚ 17番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

 

㉛ ・天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。宴の席で歌を詠むという文化的な宮廷生活が展開している。即位して4年で天智天皇は崩御となるが、その四年間は充実していたのである。

 

次の天武天皇の御代は、どのように詠まれているか

壬申の乱後の後宮の女性の悲劇・麻績王の流罪・天武帝の吉野脱出の思いで・吉野の盟約で天智帝天武帝の皇子達を家族として受け入れた喜びの歌、6首が選ばれている

 

㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。

 

㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女(とこおとめ)でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない運命を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。

 読み手も、ここで近江朝が滅亡した「壬申の乱」の悲劇を思い出してしまう。

㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからはないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も対等に極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う。

天武天皇の御代の歌は、壬申の乱を引き出すように編集されている。他の麻績王の歌も罪人として流される時の歌で、何があったのか分からないが、当時の読み手には事件の顛末が分かったのだろう。

 

天智帝と天武帝の御代の歌の扱いは、真逆である。短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれているとは、どうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えるのではなかろうか。

今日のまとめ

文武天皇のための教育書である「初期万葉集」には、天智帝の御代は幸福に満ちたように編集され、天武帝の御代は壬申の乱の後遺症が残っていたように編集されていると、わたしは思うのです。

また、明日。


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