80歳に達したら身内の訃報がつぎつぎと寄せられる。今朝は北海道に住む従兄弟が亡くなったとの知らせだった。
彼は当方の母方の親家に当たる従兄弟で、小中学の同級だった。彼は幼い頃母親を亡くし寂しい子供時代を送った。
それほど気が合うとかではなかったが、田舎の遊び相手としてそこそこに付き合った。ある時家の中に作ってあった厩で、馬栓棒から飼い馬の背中に乗り、驚いた馬が厩をぐるぐる回る背中で、得意然と乗って見せたことなどもあった。
当時、終戦直後の故郷飛騨では、どの家も農耕馬は家族同様の扱いで、冬は寒く外厩では何かと世話をするのも厄介で、玄関横が内厩の作りだった。
彼は高校へ進んだが、当方は就職し、まだ臨時職という不安定な身分で乏しい日給で、家から遠い高山市のある民家に間借りして自炊して通勤していた。
その民家は老いたお婆ちゃんが一人住まいの家で、前構えは立派ながら、昔は冬の天然氷を貯蔵し、飲食店に冷凍氷として売る商売をしていたとかで、家の裏側の1、2階は氷蔵になっていで深い大きい空洞だった。
2階に日本間の居間が襖で2部屋あり、1室を当方が借り、他方を若い板金職人が借りていた。
廊下に大臣コンロを置き、炭火を起こし、鍋でご飯を炊き、小鍋でみそ汁を作り食事していた。たまの御馳走は揚げ豆腐を焼いて醤油をかけて食べるのだった。
中学を出て1年間親戚で居候し、2年目で別の親戚の世話で、その又親戚がこの借間の家の前にあった縁で、ここに2年生活した。
子を高校へやれない貧しい親、特に父がいろいろ親戚に頼み、社会人の1歩を踏み出した訳だった。
その借間の家には驚いたことに大便所が無かった。市街地ながら隣は大きい畑で、境に肥桶を置き小用をした。私はそこで尻を出し大便はできなく近くにあった高山駅の便所や勤め先までへ行って用を足したのである。
そこへ今朝死んだ従兄弟が、親の頼みで同宿させてくれと頼んで来て、渋々だったが一冬を同宿した。彼は高校の卒業を控えて、最期の冬を遠いバス、汽車乗り継ぎの通学から頼んできた次第だった。私は夜間高校へ2年遅れで通学をして1年生だった。
迷惑千万だったが当時は皆、それぞれに助け合う時代で、そうしないと生きていけない時代だった。
ある時期、板金職人が廓から娼妓を隣へ請け出してきて連れ込んだ。で、夜ともなればセックスの喘ぎ声が筒抜け、そのうち娼妓は喰うにも困り、私の鍋ご飯を盗み食いする、乏しい日給の貯えを全て盗むなどもあって、廓「いろは」の女主人が連れ戻しに来たこともあった。
汽車賃もなくSLに空キップで違反乗車し家に帰り、窮状を聞いた親が驚き、また親戚に頼んで食事付下宿へ移ることができた。
ひと冬同宿した彼の姉が大ボケで11月初めに死に、その弟の二男が1週間後に死に名古屋へ葬儀に行った。そして3男の彼が今朝死んで、姉弟3人が2ケ月に満たない間に逝った。
名古屋の葬儀の際、本家の跡取りは時間の問題と心配していた。彼は昨年夏胃がんを手術し、今年9月に再入院していると奥様が言っていた。肺に転移していたらしい。
今朝兄から電話をもらい、家内の時香典を貰っているので同額の5千円を、本家の跡取りに預けてもらうよう、立て替えを頼んだ。跡取りは飛行機で北海道へ、今年は大変な年だった。彼は兄が勤めていた営林署へ望み通り就職し、途中で北海道へ希望転勤し世帯を持った。