「おじさん」的思考
内田 樹
その中に
「私」は私の多重人格のひとつにすぎない
という項目がある
そうか
そうだったのか~
と思う
相手によって
使う言葉やキャラクターを変えて対応する
意思の疎通がきちんとできるよう
その時々
やり方を選ぶ
場所や内容によって服装も変える
個人的にも
音楽の話をする人
本の話をする人
食べ物の話をする人
それぞれに違う
みんなの前で発表するのと
夜中に仲間内でしゃべるのと
親友としみじみ話すのと
全部違う
でも
それぞれ
すべて自分なのだ
そういうものだと思っている
そんな風に生きていた
どこかで飽きたら
違うところへ
こんな自分
あんな自分
裏表のある人間
そんな風に思ったことはなかったな
ところが
現在は
「自分らしく」とか
「自己実現」とか
「本当の自分」とか
単一でピュアな「統一された人格」を
つねに貫徹することが望ましい生き方である
ということが
いつのまにか支配的なイデオロギーになった
というのだ
なるほど。。。
相手が誰であろうが自分流を通す人
いるよな
仕事上のミスを指摘されると
全人格を否定されたように感じる人
または
仕事上のミスなのに
全人格を否定してしまう人
そう
だから
オールマイティが要求される
勉強だけできてもダメだ
とか
運動バカじゃダメだ
勉強と運動だけじゃなく奉仕活動もでき・・・
現代のその流行は
人々を追い詰めて
病気を引き起こしているよな
良いか悪いか
合うか合わないか
裏か表か
単一同士のぶつかり合いに
融合はないからね
そりゃそうだな
コミュニケーション能力がないって
そういう風にしたんだから
それなのに
コミュニケーション能力がないって
人格否定みたい
辛いわなぁ
相手によってチューニングするコツが分かると
楽なんだよ
それに
自分の一部だけを見て
そこだけを自分だと決められるって
嫌じゃないのかな?
カトリック系の学校にいたとき
先生が
三つの自分がいる
自分が思う自分
人が見る自分
そして
本当の自分
全部自分です
そんな話をしていたな
思い出す
いろんな自分を楽しんでみたら?
って思う
内田 樹
その中に
「私」は私の多重人格のひとつにすぎない
という項目がある
そうか
そうだったのか~
と思う
相手によって
使う言葉やキャラクターを変えて対応する
意思の疎通がきちんとできるよう
その時々
やり方を選ぶ
場所や内容によって服装も変える
個人的にも
音楽の話をする人
本の話をする人
食べ物の話をする人
それぞれに違う
みんなの前で発表するのと
夜中に仲間内でしゃべるのと
親友としみじみ話すのと
全部違う
でも
それぞれ
すべて自分なのだ
そういうものだと思っている
そんな風に生きていた
どこかで飽きたら
違うところへ
こんな自分
あんな自分
裏表のある人間
そんな風に思ったことはなかったな
ところが
現在は
「自分らしく」とか
「自己実現」とか
「本当の自分」とか
単一でピュアな「統一された人格」を
つねに貫徹することが望ましい生き方である
ということが
いつのまにか支配的なイデオロギーになった
というのだ
なるほど。。。
相手が誰であろうが自分流を通す人
いるよな
仕事上のミスを指摘されると
全人格を否定されたように感じる人
または
仕事上のミスなのに
全人格を否定してしまう人
そう
だから
オールマイティが要求される
勉強だけできてもダメだ
とか
運動バカじゃダメだ
勉強と運動だけじゃなく奉仕活動もでき・・・
現代のその流行は
人々を追い詰めて
病気を引き起こしているよな
良いか悪いか
合うか合わないか
裏か表か
単一同士のぶつかり合いに
融合はないからね
そりゃそうだな
コミュニケーション能力がないって
そういう風にしたんだから
それなのに
コミュニケーション能力がないって
人格否定みたい
辛いわなぁ
相手によってチューニングするコツが分かると
楽なんだよ
それに
自分の一部だけを見て
そこだけを自分だと決められるって
嫌じゃないのかな?
カトリック系の学校にいたとき
先生が
三つの自分がいる
自分が思う自分
人が見る自分
そして
本当の自分
全部自分です
そんな話をしていたな
思い出す
いろんな自分を楽しんでみたら?
って思う