1月も下旬ともなると、すでに正月気分は無い。
プライベートでも最近は何かと忙しく、今日を逃したら・・・と思っていたけれど、本当に晴れてよかった!
今日も早朝の出立で、いつもの乗継。
熊谷駅に降り立ち、バスにするか、前回同様秩父鉄道にするか迷っていたところ、ナイスな接続があったので、秩父鉄道を再度「つまみ食い」して、上熊谷駅下車。
前回ゴールの八木橋百貨店前(鎌倉町交差点)に着いたのは、すでに13時近く。
こんなに時間かけてるけど、すでに峠越えもなく、大半は平凡な街中run。
そしてそれが分かってて、わざわざ名古屋から走りに来る俺。
相当アホやね。
とりあえず散策がてら、前回行きそびれた「熊谷寺」(ゆうこくじ)を見ていこう。
その名が示す通り、地名の由来にもなっている名刹で、八木橋百貨店の1本奥に入ったすぐのところにある。
残念ながら、中には入れないらしく、でも立派な山門が印象的だ。
さぁ、スタート地点に戻り、シャメだけ撮って、今日のトレーニングの開始としよう!
目の前の幹線道路は国道17号。
しばらくは国道runで、旧街道らしさはない。
せめて街中にわずかに残る史跡を求めて、ゆっくり走ろう。
何となく、美濃路編1を思わせる雰囲気ではある。
と、思った途端、最初の信号(本町1丁目)に「本陣跡」。
立て札だけなんだけどね。
熊谷市の中心街、というだけで、これといって見るべきものは、なーーんにもなく、「銀座1丁目」の交差点に出る。
ここで、右の道へ折れる。
雑居ビルの合間を縫うように南下。
ホテルなのかイベントホールなのか、大きなビルの間を通り、JR高崎線、続いて秩父鉄道の高架下を抜ける。
すぐにT字路となり、ここを左折のが中山道。
そのT字路に、「熊谷堤」を示す案内板が建っている。
少し寄り道しよう。
1580年頃に熊谷堤は築かれ、桜の木も植えられた。
江戸時代から大正に至るまで、桜の名所として関東一円で有名だったらしい。
残念ながら1925年(大正14)年、大火に遭い、その大部分が消失。
戦後に荒川の改修工事に従い、新たな場所に堤が築かれた。
万平公園。
これがその旧熊谷堤の一部とされている。
現在は、地元民の方がのんびり過ごす静かな公園となっていた。
折角だからと、すぐ南にある現在の堤防に上ってみる。
目の前には、「荒川」。
名前からして、いよいよ東京、もとい、江戸が近づいたことを実感する。
T字路に戻り、中山道run復活。
まだそれほど走ってないのに、一気に都心の喧騒を離れ、静かなくねくね道になり、ホッとする。
すでに住宅地の様相で、マンションも多い。
と思ったら、「八丁の一里塚跡」。
両側がマンションで、その間のわずかな広場の一角という、物凄く閉塞感のある場所に、ひっそりと建っている。
約500m、そのまま進むと、Y路の分岐路。
ここは、間違えないように、道なりに左を選択。
すぐ先で行止まりになり、今度は右折。
50mも進めば、広い道路を横断し、その先でさっきY字路で別れた道に再合流。
そのまま南下。
右手に「東竹院」というお寺を目印にして、そのまま道なりに。
分岐路は右を選択し、いったん荒川の堤防道路に昇る。
100mほどで、左の土手道を下りると、そこに「権八地蔵」。
白井権八なる人物がここで人を殺し、傍らにあるお地蔵さんに「他言無用!」と言ったところ、「お前の方こそ言うなよ!」と、お地蔵さんに返されたとか。
何やらこの話、歌舞伎の演目にもなっているらしい。
残念ながら、コスモタイガー、歌舞伎には疎くてね・・・。
100m弱で、さっき分岐した道と合流し、そのまま直進。
高架となっている県道257の下を潜る。
この辺りは、随分と街道オーラを感じる、独特のくねくね道だ。
久下神社を左に見て、さらに進む。
変則十字路では、堤防に上りきらず、そのまま直進を選ぶ。
あとはひたすら川沿いにrun。
左側は、一段低いところに、マンションが多く立ち並ぶ。
結構見通しが良く、遠いところに高崎線の行田駅らしき建物も・・・。
ただ、一段高い堤防道路を走っている感で、、「ホントに中山道かいな?」などと思ってたら、堤防脇のマンションの裏手に発見!
「久下新田一里塚跡」。
立て札があるのみ゛、その気がないと見落としそうだ。
堤防道路、2kmぐらい走ったかな?
行政区域的には、熊谷市から鴻巣市に入ってすぐ。
Y字路になってて、ここで左折し、土手を降りる。
と、またまたお地蔵さん。
これまた「権八地蔵」。
何でやねん。
どっちもそれぞれの集落の人たちが、それぞれ大切にしたってことにしといて、次に進もう。
やがて左側に高崎線が近づき、併走。
道はゆるやかな右カーブを描き、高架となっている県道66号の下を潜り抜けて直進している。
が!
中山道はここで歩道橋を渡るのが正解。
手元の地図を確認し、さらに歩道橋から見下ろすと、高崎線が中山道を遮っていて、線路の反対側の道と、今走ってた道が、1本の線で繋がっているイメージが湧きあがってくる。
線路の上を通ったらすぐに歩道橋を降りるとすぐに、「吹上(間の宿)」とある説明板があった。
そう、東海道の有松や岩淵みたいなもんだね。(旧東海道編5、31参照)
変則交差点の「吹上本町」で右折し、そのまま県道66号を走る。
残念ながら、旧街道らしさはなさそうで、そのまま「駅前」の交差点に出た。
南側、少し離れたところにロータリーがあり、その向こうの駅舎は「吹上駅」だ。
「駅前」交差点もそのまま直進だけど、県道のナンバーが、「307」に変わったらしい。
その先でY字分岐となり、県道は左だけど、中山道は右の狭いほうの道で、高崎線に近づいていく。
ここでも高崎線がJRを遮っていて、踏切となっている。
「第四中仙道踏切」の表示に、少しホッとする。
渡ってすぐに左折。
そう、ここも地図上では1本の線になってるから簡単だ。
県道365、ってことだね。
しばらくは線路沿いの単調な道を快走。
と言いたいところだけど、注意しながら走ってたおかげで、無事発見したのが、「前砂一里塚跡」。
歩道脇に、ひっそりと細柱で表記されているのみで、これまたその気が無ければ絶対気づかなさそう。
引続き、道なりに。
郊外の住宅街、みたいな感じで、これといった見どころはない。
まさに、ここが中山道だから走ってるだけ、といったところかな。
しばらくすると、左後方からやってきた、県道76と合流。
ここは「箕田追分」とのことらしい。
追分の真ん中には、地蔵堂とともに、由緒についていろいろ書かれた説明板もある。
江戸から来るとここで2叉に分かれ、左が中山道、右が忍・館方面へ向かう館林道、ということになるんだね。
と同時に、この辺りは「箕田源氏」ゆかりの地でもあるらしい。
簡単にまとめれば、平安末期、都からこの地に遣わされた「源任」なる人物が、そのまま土着して豪族となったとか。
何せ10世紀前半の出来事らしいから、江戸時代からしても随分と昔の話。
源氏といえば、源平の合戦を連想するけれど、それよりさらに250年以上昔の話ということになる。
その源平合戦で大活躍した、頼朝や義経等とも遠戚関係ぐらいはあるんだろうなぁ。
さらにその後に活躍する新田義貞や足利尊氏も、源氏の流れを汲むとされているから、関東一円に源氏が根付くきっかけになったのか?
などと想像を巡らしたりしてみる。
さらに1kmぐらい走ると、左手に「氷川八幡宮」。
箕田源氏及びこの地域一帯の鎮守として古くから篤く信仰されてきたとか。
左に観音堂、白山神社と続くものの、立ち止まるほどの見どころはない。
途中には、ここが中山道であることを示す案内板もあるのはありがたいけれど、街道らしさはあまり感じない。
高崎線を越えるとすぐに「加美」の信号で、県道164号と合流。
ここもかつては「加美追分」と称されていたらしい。
しばらくすると、「鴻神社」。
まぁ、名前からして想像してたけど、コウノトリにまつわる伝説があったらしい。
詳細は省くけど、要するに、コウノトリが巣を作ったから、この辺りの地名が鴻巣なんだね。
ってことで、この辺りから鴻巣宿。
「駅入口」の交差点。
名前の通り、右手奥には「鴻巣駅」があるけれど、コスモタガーは素通りして、もう少し頑張ることとする。
そしてリサーチによれば、この交差点の一角にある古めかしい家屋が、脇本陣跡らしいけれど、何の説明もされていないため、確信もてない。
50mほど走ったところに、「鴻巣宿本陣跡」。
こちらもわずかに標柱が建つのみ。
ここで少しだけ寄り道。
右折して1本西の道に入ると、公園(鴻巣公園)になっている。
その隣にあるのが「勝願寺」。
徳川家から葵の紋を使うことを許可されていたという、名刹だ。(冒頭写真)
そしてその敷地の脇に、墓地。
実はこの墓地、内容盛りだくさんで、徳川家康の家臣、伊奈忠次・忠治親子のもの(ごめん、あまり詳しくない)。
そして仙石秀久の墓。
さらには真田信之の正室、小松殿。
随分と豪華メンバーが揃っている。
どのような経緯があって、こんなところに当時の有名人?の墓が集まったのか興味深いけれど、とりあえず今は中山道を走ることを優先ね。
中山道に復帰し、約800mほど走ると、今度は「是よりこうのす宿」の碑がある。
もちろんこれは江戸から来た場合の話で、コスモタイガーにとっては、ここで鴻巣宿終了。
いつのまにか県道の番号が57に変わってるけど、とにかく道なりに進むしかない。
単調な県道run。
さらに進むと、「深井2」の交差点で、県道57は右折していくけれど、中山道としてはさのまま直進。
県道の番号は「164」になった。
もうここまで来ると、今日のゴール予定地点、「北本駅」まで、特に見るべきポイントも無く、ひたすら道なりに走る。
右に浅間神社、左に勝林寺が、わずかに中山道の名残を伝えてくれるのみ。
さぁ、「駅前」の交差点を右折し、すぐに北本駅(東口)到着。
ここでゴール!としたいところだけど、実は1つだけ宿題が残っている。
実は今、県道164に沿って走ったのは、江戸中~末期の中山道なんだよね。
かといって、江戸前期の中山道は、その大半が消失状態で、今となっては辿ることも難しい。
西口にもやや小さめのロータリーがあり、すぐの路地のような、駅に沿う道を、戻る形で北上。
まぁ、しいて言えば、これが江戸前期の中山道に一番近いのかな?
約400mほど先のマンションの庭先のような、あるいは畑のあぜ道のようなところから、と言うべきか、とにかく小さな看板に従って入り込むと、そこに「馬室原一里塚」が現存している。
当然ながら、元々両側にあったわけなんだけど、現存するのは、西側のみ。
ということは、目の前の道が、江戸前期の付替え前の中山道の残存部分ってことやね。
恐らくここからまた右にカーブし、さっきチラッと見た浅間神社の境内を横切ったりして、後の‘新’中山道に合流したんだろうなぁ。
いずれにせよ、この一里塚だけがポツンと存在している形で、リサーチしておかないとかなりの確率で発見は難しい。
再び北本駅に戻ったところで、今日の本当のゴールとする。
中山道だけなら、20km少々。
実走距離、22~23kmといったところか?
でも部分的な上り下りはあるものの、全体的にはほぼ平坦だから、そんなに激しく走った感覚はない。
さぁ、今日もあとは帰宅する「作業」だけ。
東京駅で駅弁を購入し、毎度おなじみ?となった「こだま」号で、のんびり過ごす、コスモタイガーであった。
熊谷宿の中山道は、八木橋デパートの中を通っていましたね。
ご存知でした?
はい、テパートの通路を、申し訳なさそうに通過させていただきました。
さすがに走る勇気がなかったです。
そうなんです、北本駅周辺は、コースから外れた「馬室原一里塚」があるだけ。
他に見どころはなく、単調でした・・・。
その気がない限り、ここを中山道と認識することはないでしょうね・・・。
街道の面影がないようですから、立て看板がないと昔を偲べないですね。
> 司馬遼太郎の本はほとんど読んだことありません ・・・ 池波正太郎の方が好きだったりします。
池波正太郎生誕地碑が浅草の待乳山聖天境内に建っていますょ。こんなトコロです。↓
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/82d9e73f383f6b67b4d2905adbd58c65
> 日本は多信教国家ですからね。良く言えば良いとこ取り、悪く言えば無節操。
日本は八百万の神のいます国ですし、好奇心が旺盛な国民性のようです。
それをカタチにすると、「この国のかたち」みたいなイメージになったりします。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/112067a46fe2ae5569d01689c7ad1230
はい、埼玉県内の旧中山道は、大半が市街地を走ってる感じで、歴史を感じるものは少なかったですね。
自分の場合、京都⇒江戸のルートでしたので、余計にそう思ったのかもしれません。
鳥居峠・和田峠・碓氷峠等の山越えの数々。
木曽路・信濃路の静かな宿場町の数々…。
みな、過ぎた後なので、あとは平たんな市街地をただ江戸に向かうだけ。
消化ゲーム?
あるいは、楽しい大宴会の後で限られた仲間と静かに喫茶店で語り合う2次会のような?ちょっと燃え尽きた感情を引っ張ってるような感覚でもありました。
逆なら「これからの道を思いながら…」の期待感もあるんでしょうけど。
>>待乳山聖天&池波正太郎生誕地
東京へ行く機会あったらぜひ訪問したいですね。
>>八百万の神
最近ではミョーな新興宗教もありますしね(笑)。
もっともどの宗教にも「始まり」があるわけで、そこまで遡ると、その時代では仏教もキリスト教も新興宗教だったのかもしれませんが…。
でも今の日本と日本人に大きくかかわってることは確かに感じます。
これは面白い話だと思います。