ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

哀愁としての青春

2008-08-07 01:24:46 | 観想
○哀愁としての青春

いまさら何が青春か?と思われる方が多いと感じるが、いまの年齢になったいまも、僕は自分の裡なる青春という存在と伴に、この生を生き抜いていきたい、と懲りずに思い続けている。ただ、僕の裡なる青春のイメージとは、昔話として酒の肴になるごときものではない。そういうものは、すでに青春などではなく、単なる感傷でしかない。感傷に浸っていたところで何が生まれ出てくるのかは、酒場で昔を懐かしんだ翌朝の虚しさを思えば、それがいかに自分の<いま>というベクトルと乖離したものであるのかが自ずと分かるはずである。少なくとも、僕にはそんなことに費やしている時間はない。

たぶん、単なる昔話に過去の若かりし日のことを語るという習慣は、哀愁という概念を明らかに捉え損なっているからだろう、と僕には思われる。辞書的意味で言えば、酒場で哀惜たっぷりに昔を懐かしむのも哀愁という概念の中に含まれるだろう。ただ、僕は、この哀愁という言葉に、僕なりの概念性をかぶせておきたいのである。僕の云う哀愁とは昔を懐かしむことを全否定などはしない。過去とまったく切れたままに生きていられる人間などこの世界に誰一人いはしまい。それは未来への自己像の再構築という意味において、過去から意味ある教訓を引き出すことは、避けて通れないことでもあり、さらに言うなら、現在から未来へと通じる自己の世界像は、ゼロから創りあげられるものなどではなく、過去の原風景としての己れの青春の実像が、その土台になるのは必然である。また、原風景としての過去から、すくい上げるものと、捨て去るものとの峻別にはかなりの勇気が必要である、と思われる。感傷主義に陥る人々は、過去の総体をすくい上げてしまうということなるのが普通のありようである。過去を総体としてしか眺められない人々にとって、過去とはリアルな存在として思い起こされてくるものではなく、捨て去るべきことまでも、美化してしまうという心性が心の中を渦巻いているのではなかろうか?このような感傷主義は、過去の心地良い、胸糞の悪い事柄が入り乱れ、そうであるからこそ、胸糞の悪いことまでも、ある種の虚飾を自らの心の中で施し、その虚妄の中で過去を単なる昔話として、ただいっときの心の慰めとして利用するだけの意味しかない。当然の成り行きではなかろうか?

僕の云わんとする哀愁とは,もちろん言葉の響きから感じられるように、乾いた感情などではないし、敢えて過去を全否定などしない。哀愁としての青春とは、青春をとうの昔に通り過ぎた人間にとっての、老後などというおぞましい終末論的な未来像ではなく、あくまで自らの青春から、若き日の生のエネルギーの内実を拾い上げる精神的作業でなければならない、と僕は思うのである。青春とはどのように差っ引いても切なく、それらの思い出は、若さの残滓として心の襞に貼りついてなかなかに剥がれおちてはくれない存在である。物悲しさも否定し難く残るだろう。しかし、生の再構築を志すのであれば、敢えて心の襞に貼りついて剥がれず、なおかつ切ない存在である青春の時代の中から、残された人生をデ・コンストラクトするための必要不可欠な要素を拾い集めようではないか!課題は人それぞれによって異なるだろう。それが当然である。しかし、人間にとって大切な青春の時代性から、これから先まだまだ生き延びようとする意思があるならば、単なる感傷主義に青春を悪利用している場合ではない。青春とは、青春を遥か昔に通り過ぎた人間にこそ、己れの人生を見直し、悪しき諸点を正し、歳を重ねるに従って、自己の生のデ・コンストラクションの素材として、再び過去の良き価値意識、精神的・肉体的体力の在りか、そこから翻って、成熟した感性のスパイスをかけ直しつつ、自己の人生との折り合いをつけずして、何が人生か?と思う。懐かしい青春へと遡る精神的作業を感傷主義から始めようとする歩みである。切なさが伴わないはずがない。哀愁が襲って来るのを避けられるとも思わない。が、それらは、あくまで自己の未来を見渡しそうとする意思力が土台にあってこその哀愁なのだ。大いに感得しようではないか。今日の観想として書き記す。


○推薦図書「みぞれ」重松清著。角川文庫。今日のブログは、僕にとってはかなりひたむきな雑感です。希望を捨てずに生き抜いてみせようかという覚悟のような観想です。この作品集は、重松のひたむきな人生を、暖かな感性で描いた短編集です。お勧めです。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃