○重くて、軽い。それが人生か?
親やら親戚やら、その多諸々のやたら人のことに口出ししたがる血縁のしがらみから抜け出して、やっと社会に船出した頃、それは人によっては親元を離れた大学生活なのかも知れないし、また別の人によっては、社会人として、自活できるときを指しているのかも知れない。まあそれらはさまざまに形体は別れるとしても、人が人生行路という長くそしていったん船出したらもうもとへは戻れない大きな世界の中に投げ出された頃の、青年の思想の構えとは、ある意味において、とても重いものである。未体験・未知なる世界ほど、青年を怖がらせるものはないからである。勿論、社会という名のだだっ広い世界に放り出されたからと言って、小鳥のようにうち震えているわけにもいかないわけで、当然に人は概ね虚勢をはることになるのはあたりまえの姿である。快活であると同時に、ふとした拍子にあられもない自分の心の暗黒にぶち当たっては、身が縮みあがるようなどん底へと、まっさかさまに落ちていくことだってめずらしくはないのである。大きな意味における家族という部族社会の名残りから一人身を剥がしてみて、一個の人間として自分一人だけで、立ち向かわねばならない身の構えは、同時に心の構えと同義語である。よく考える人ほど、誰にも邪魔されずに脳髄の中に蓄積しておいた思想の質量を入念にチェックする。当然、チェックした途端に自己の思想の不全感に気づいて、身の程知らずにもほどがある、などと心の底で呟くことになる。しかし、このとき、自己の思想の不全感に思い至った青年は、すばらしいのである。その瞬時、青年は未来への可能性に満ち溢れているからに他ならない。重くて、暗黒の思想に悩まされているからこそ、自己の未来のぼんやりとした枠組みなりとも見えてくるのである。そうであればこそ、ああ、これから先の俺の人生ってヤバクないのか?という不安感が胸の中をいっぱいにする。これこそが青年だろう、と僕は思う。若者である頃、生が重くて、暗い。大いに結構なことではないか!
人は大概においてこのような船出をするが、その過程で怠けるのもよし、自分の技量を磨くのもよし、なのである。スポーツ新聞しか読まない中高年になれば、それ相応の低能なる人生しか開けてはいないだろう。歳老いてもなお生に対して知的貪欲さを失わずして生きているような人は、若いころに劣らず、より深みのある世界観を我がものとし人生に対してあくまで前進する姿勢を失いはしない。このような生きざまは、命果てるまで続く。スポーツ新聞しか読まない人などと揶揄したが、この種の人たちほど、現代という時代においてはアブナイ会社にしがみついているタイプだが、仕事からリタイアしたら、年金でどうやって老後?の生活設計を立てようかとか、退職金で、残りの家のローンを決済してしまおうとかいったことを、おそらくは考えている人々であろう。勿論、それも否定はしないが、果たして終身雇用制度が日本社会から実質的に姿を消して、いつなんどきリストラに遭うやもしれぬ過酷な社会にあっては、どこまでの胸算用が有効であることか?耳触りのよい言葉に、長い間、僕たちは誤魔化されてきただけだ。
グローバライゼイションという名の、他国のエゴイスティックな叫び声に応えるように、日本政府は農業や漁業の保護政策までかなぐり捨てて、西欧諸国に対して、さあ、日本は自国の利益などより地球規模の経済的・社会的発展に寄与しますよ、などとお上品な施策を国内外で推し進めてきたのである。その結果がリストラ大国、日本であり、自殺大国日本というみじめな現実と向き合っているのが、いまという時代だ。グローバライゼイションと言いながら、西欧諸国は、農業政策にせよ、漁業政策にせよ、保護政策を離しはしない。自国民の食糧を確保できない文明国など、世界情勢が変化すれば、食糧が買えない。そんなとき、金など、何の値打もない。最も強く日本に対して保護政策を撤廃せよと迫ってきたのが、アメリカ政府だ。有り余る穀物の生産物を他国に売りたくて仕方がない。アメリカの議会では、農産物の団体のロビイストたちが暗躍している。日本が世界に対して誇れる国民健康保険制度に当たるものなどアメリカにはない。だから、アメリカの医療費は世界一高いし、その医療費を支払うには、自分で営利目的の保険会社に加入しておかねば、病気になっても治療すら受けられない。いま日本の国民健康保険は財政上破たん寸前だ。公務員の汚職も目立つし、このような状況の立て直しが簡単にできるとも思えない。そんなところにテレビではアメリカ資本を中心とした保険屋がごろごろ高い宣伝費を使って、日本人の安心を金に換算して売りつけることに躍起である。この分野では、アメリカばかりでなく、世界中の資本が投下されているのが現状だろう。日本の保険会社も細々とその後についてまわっているありさまなのだ。日本はこの分野においても、諸外国から見ればよき市場なのである。
こんなふうに考えてみると、とても重い現実が僕たちのまわりにはゴロゴロしているわけで、暗澹たる気分になられる諸氏もおられるだろうが、所詮われわれの殆どが権力とは縁のない庶民なのだから、ここは軽やかに生き抜くしかない。いくら心配してみても、現実は良くない方向へ行くばかり。何年かに一度の国政選挙なんて信じられたものでもないし、それならいっそ、病気をしない明るい気分で世界を生き抜くこと。お金が底をついたら、諦めて野たれ死にでもする覚悟を決めておくこと。重病になったら、病気と闘うなどと言って高い医療費を捻出して、体中を魚のように切り刻まれるような手術なんか諦めて、残された生をなるだけ元気に生き抜くこと。病院のベットでチューブだらけの状態で、たとえ、何か月かを生き延びたとして、それって、生きていることになるの?だからこういう、ぐちゃぐちゃしたことはすっぱりと自分の悩みの種から切り離すこと。そうして自然に訪れて来る死であるなら、気持ちよく受け入れる覚悟さえ出来れば、一介の庶民と言えども何ら怖いものなどないのではないかしらん。ハムレットの独白は、現代において「生か死か、それが問題だ」ではなく、「変化するか、さくなくば死だ」という意味合いへと確実に変化していると僕には思えてならない。でも、これは、かなり自分としてはまじめな軽やかな生き方の定義なのです。遠慮がちに、今日の観想として書き残します。
○推薦図書「この世の悩みがゼロになる」小林正観著。大和書房。ちょっとハウツウ本に近いものですが、国際情勢を分析した書などよりも、今日の僕の観想にはぴったりかもしれません。お厭でなければ、どうぞ。あるいはこの種の本がお嫌いな方は、シェィクスピアのいくつかの作品でもどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
親やら親戚やら、その多諸々のやたら人のことに口出ししたがる血縁のしがらみから抜け出して、やっと社会に船出した頃、それは人によっては親元を離れた大学生活なのかも知れないし、また別の人によっては、社会人として、自活できるときを指しているのかも知れない。まあそれらはさまざまに形体は別れるとしても、人が人生行路という長くそしていったん船出したらもうもとへは戻れない大きな世界の中に投げ出された頃の、青年の思想の構えとは、ある意味において、とても重いものである。未体験・未知なる世界ほど、青年を怖がらせるものはないからである。勿論、社会という名のだだっ広い世界に放り出されたからと言って、小鳥のようにうち震えているわけにもいかないわけで、当然に人は概ね虚勢をはることになるのはあたりまえの姿である。快活であると同時に、ふとした拍子にあられもない自分の心の暗黒にぶち当たっては、身が縮みあがるようなどん底へと、まっさかさまに落ちていくことだってめずらしくはないのである。大きな意味における家族という部族社会の名残りから一人身を剥がしてみて、一個の人間として自分一人だけで、立ち向かわねばならない身の構えは、同時に心の構えと同義語である。よく考える人ほど、誰にも邪魔されずに脳髄の中に蓄積しておいた思想の質量を入念にチェックする。当然、チェックした途端に自己の思想の不全感に気づいて、身の程知らずにもほどがある、などと心の底で呟くことになる。しかし、このとき、自己の思想の不全感に思い至った青年は、すばらしいのである。その瞬時、青年は未来への可能性に満ち溢れているからに他ならない。重くて、暗黒の思想に悩まされているからこそ、自己の未来のぼんやりとした枠組みなりとも見えてくるのである。そうであればこそ、ああ、これから先の俺の人生ってヤバクないのか?という不安感が胸の中をいっぱいにする。これこそが青年だろう、と僕は思う。若者である頃、生が重くて、暗い。大いに結構なことではないか!
人は大概においてこのような船出をするが、その過程で怠けるのもよし、自分の技量を磨くのもよし、なのである。スポーツ新聞しか読まない中高年になれば、それ相応の低能なる人生しか開けてはいないだろう。歳老いてもなお生に対して知的貪欲さを失わずして生きているような人は、若いころに劣らず、より深みのある世界観を我がものとし人生に対してあくまで前進する姿勢を失いはしない。このような生きざまは、命果てるまで続く。スポーツ新聞しか読まない人などと揶揄したが、この種の人たちほど、現代という時代においてはアブナイ会社にしがみついているタイプだが、仕事からリタイアしたら、年金でどうやって老後?の生活設計を立てようかとか、退職金で、残りの家のローンを決済してしまおうとかいったことを、おそらくは考えている人々であろう。勿論、それも否定はしないが、果たして終身雇用制度が日本社会から実質的に姿を消して、いつなんどきリストラに遭うやもしれぬ過酷な社会にあっては、どこまでの胸算用が有効であることか?耳触りのよい言葉に、長い間、僕たちは誤魔化されてきただけだ。
グローバライゼイションという名の、他国のエゴイスティックな叫び声に応えるように、日本政府は農業や漁業の保護政策までかなぐり捨てて、西欧諸国に対して、さあ、日本は自国の利益などより地球規模の経済的・社会的発展に寄与しますよ、などとお上品な施策を国内外で推し進めてきたのである。その結果がリストラ大国、日本であり、自殺大国日本というみじめな現実と向き合っているのが、いまという時代だ。グローバライゼイションと言いながら、西欧諸国は、農業政策にせよ、漁業政策にせよ、保護政策を離しはしない。自国民の食糧を確保できない文明国など、世界情勢が変化すれば、食糧が買えない。そんなとき、金など、何の値打もない。最も強く日本に対して保護政策を撤廃せよと迫ってきたのが、アメリカ政府だ。有り余る穀物の生産物を他国に売りたくて仕方がない。アメリカの議会では、農産物の団体のロビイストたちが暗躍している。日本が世界に対して誇れる国民健康保険制度に当たるものなどアメリカにはない。だから、アメリカの医療費は世界一高いし、その医療費を支払うには、自分で営利目的の保険会社に加入しておかねば、病気になっても治療すら受けられない。いま日本の国民健康保険は財政上破たん寸前だ。公務員の汚職も目立つし、このような状況の立て直しが簡単にできるとも思えない。そんなところにテレビではアメリカ資本を中心とした保険屋がごろごろ高い宣伝費を使って、日本人の安心を金に換算して売りつけることに躍起である。この分野では、アメリカばかりでなく、世界中の資本が投下されているのが現状だろう。日本の保険会社も細々とその後についてまわっているありさまなのだ。日本はこの分野においても、諸外国から見ればよき市場なのである。
こんなふうに考えてみると、とても重い現実が僕たちのまわりにはゴロゴロしているわけで、暗澹たる気分になられる諸氏もおられるだろうが、所詮われわれの殆どが権力とは縁のない庶民なのだから、ここは軽やかに生き抜くしかない。いくら心配してみても、現実は良くない方向へ行くばかり。何年かに一度の国政選挙なんて信じられたものでもないし、それならいっそ、病気をしない明るい気分で世界を生き抜くこと。お金が底をついたら、諦めて野たれ死にでもする覚悟を決めておくこと。重病になったら、病気と闘うなどと言って高い医療費を捻出して、体中を魚のように切り刻まれるような手術なんか諦めて、残された生をなるだけ元気に生き抜くこと。病院のベットでチューブだらけの状態で、たとえ、何か月かを生き延びたとして、それって、生きていることになるの?だからこういう、ぐちゃぐちゃしたことはすっぱりと自分の悩みの種から切り離すこと。そうして自然に訪れて来る死であるなら、気持ちよく受け入れる覚悟さえ出来れば、一介の庶民と言えども何ら怖いものなどないのではないかしらん。ハムレットの独白は、現代において「生か死か、それが問題だ」ではなく、「変化するか、さくなくば死だ」という意味合いへと確実に変化していると僕には思えてならない。でも、これは、かなり自分としてはまじめな軽やかな生き方の定義なのです。遠慮がちに、今日の観想として書き残します。
○推薦図書「この世の悩みがゼロになる」小林正観著。大和書房。ちょっとハウツウ本に近いものですが、国際情勢を分析した書などよりも、今日の僕の観想にはぴったりかもしれません。お厭でなければ、どうぞ。あるいはこの種の本がお嫌いな方は、シェィクスピアのいくつかの作品でもどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃