○壊され、壊すのが新たな人生を切り開くことになるのではないだろうか。
人が己れの人生を、幾ばくかの後悔の念を持ちながら振り返るのは、それなりの意味がある。自己の人生という存在を脳髄の中に留めることができるようになるのは、たぶんかなりの幼少の頃だ。幼少とは言え、自我が芽生え始め、幼いながらも、思想の原型らしきものを、換言すれば、自分なりの意思を無理やりにでも押し通したい、と思うような心情に立ち至る。このときの思想の原型は、ほぼ確実に親に壊される代物だろう、と思う。子どもの我儘など放置しておいたら、とんでもない大人になってしまう、という親の盲目的な教育権の行使である。子どもは人生、最初の挫折と向き合うことになる。このときの抗いとは、自分の願いを阻む親の意思に徹底的に反抗するのみである。欲しいものが手に入らないのであれば、デパートの玩具売り場でひっくり返り、ごねたおしても、自分の意思を通すために、人の目を気にしている大人の弱点に切り込むことしか闘う術はない。ごねたおすこと。ただそれだけが幼い頃の抗いの形体である。子どもは、ある意味これくらいが丁度よいのであって、親の言うことに従順過ぎる子どもは、長じて何らかの不全感を抱き続けることに繋がりかねないのではないか?と思われる。子どもの願いなど、親の前にあっては簡単に壊されるが、それでも、子どもなりの意思の伝え方を体で覚えること。これが長き人生航路に船出した人間の、大切な権威との対峙である。大人の言いなりになって、所謂良い子のままに幼少期をやり過ごしてしまうと、その後の人生に深い傷を負うことになる。幼少の頃に抗えなかった子どもの精神はどのように控えめに見ても脆弱である。人生のどの時点で、自らの脆弱さが露呈するかは分からないが、大きな視点で言うと、人間関係におけるひ弱さとして現れ、それが引きこもりとなり、うつ病予備軍となり、その他諸々の精神疾患の要因を内包することになる。壊されることを諒解した上で、抗うこと。それが幼い頃からの自立のための大切な訓練である。
さて、壊されることを諒解しつつ、青年期をやり過ごし、大人社会に船出していける人々は幸いである。たぶん、大概の障壁は乗り越えられる。とは言え人生の選択肢は、常に眼前に広がっているのであって、今度は自己の選びとった人生に疑問なく従っていくのか否か?順調な人生行路を歩んでいるのであれば、そのままに突き進めばよいし、自分が選びとった人生であっても、何ほどか違和感を感じるのであれば、大人として自分の人生のプロセスを意図的に壊す選択肢を選びとることもできる。壊して、再構築することである。デ・コンストラクションには大きなリスクとリスクにともなうエネルギーが必要になる。そして根底に据わっていなければならないのは、言うまでもなく、人生の変化・変容を起こさせるための勇気である。勇気がなければ、人は結局のところ社会的成功をおさめているかに見えても、あるいは他者からの評価が高くとも、当人はちっとも満足できはしないのである。たぶんこれが人生哲学と称するジャンルにおける真理なのではなかろうか?
人生におけるある程度の経験則に従って築いてきたこれまでの生の軌跡を壊すという作業はことのほか大変なことである。あるいはこんなに生き難い時代である。自分で望まなくても、長年の仕事を、何らの前触れもなく一方的に壊されることだって決して珍しくはない。いずれにせよ、こうなれば人生、一からやり直しである。これまでのキャリアが生かされる人たちはその幸運を限りなく有効に使うべきだ。不幸にして、自分のこれまでのキャリアがまるで新たな場において通用しないときは、自己の能力の再開発に乗り出すべきだ。国公立大学も、私立大学も社会人を大幅に受け入れている時代なのである。生活力になり得る実学をやればよい。あるいは専門学校などは広き門を開けているではないか。自分に出来ることを人は意外にこれまでの経験則に頼る。が、この発想こそが新たな人生の再構築を阻んでいる過去からの、最も大いなる負の遺産である。人生をやり直す場合、過去のキャリアが生かせないことの方が圧倒的に多いのである。ならば、出直しはあくまでジョン・ロックの教育論のごとく、子どもの能力開発の本質に立ち返って、むしろそこから学ぶべきだ。たとえ理不尽なリストラに遭っても、人生の出直しはどのようにでも成立するのである。リストラごときで、この世の終わりだ、などとのたまうな!遥か彼方の子どもの頃から生き抜いている中高年諸氏よ!まだまだこれからですよ。生きて、生きて、生き抜いて、力尽きれば、ハイ、さようなら、でよいではないですか。拙くも今日の観想であります。
○推薦図書「旅路の果て」 ジョン・バース著。白水Uブックス。青年の書ですが、生に抗う過程で遭遇する主人公の体験の内実にはたぶん中高年諸氏がお読みになっても得るところ多し、だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人が己れの人生を、幾ばくかの後悔の念を持ちながら振り返るのは、それなりの意味がある。自己の人生という存在を脳髄の中に留めることができるようになるのは、たぶんかなりの幼少の頃だ。幼少とは言え、自我が芽生え始め、幼いながらも、思想の原型らしきものを、換言すれば、自分なりの意思を無理やりにでも押し通したい、と思うような心情に立ち至る。このときの思想の原型は、ほぼ確実に親に壊される代物だろう、と思う。子どもの我儘など放置しておいたら、とんでもない大人になってしまう、という親の盲目的な教育権の行使である。子どもは人生、最初の挫折と向き合うことになる。このときの抗いとは、自分の願いを阻む親の意思に徹底的に反抗するのみである。欲しいものが手に入らないのであれば、デパートの玩具売り場でひっくり返り、ごねたおしても、自分の意思を通すために、人の目を気にしている大人の弱点に切り込むことしか闘う術はない。ごねたおすこと。ただそれだけが幼い頃の抗いの形体である。子どもは、ある意味これくらいが丁度よいのであって、親の言うことに従順過ぎる子どもは、長じて何らかの不全感を抱き続けることに繋がりかねないのではないか?と思われる。子どもの願いなど、親の前にあっては簡単に壊されるが、それでも、子どもなりの意思の伝え方を体で覚えること。これが長き人生航路に船出した人間の、大切な権威との対峙である。大人の言いなりになって、所謂良い子のままに幼少期をやり過ごしてしまうと、その後の人生に深い傷を負うことになる。幼少の頃に抗えなかった子どもの精神はどのように控えめに見ても脆弱である。人生のどの時点で、自らの脆弱さが露呈するかは分からないが、大きな視点で言うと、人間関係におけるひ弱さとして現れ、それが引きこもりとなり、うつ病予備軍となり、その他諸々の精神疾患の要因を内包することになる。壊されることを諒解した上で、抗うこと。それが幼い頃からの自立のための大切な訓練である。
さて、壊されることを諒解しつつ、青年期をやり過ごし、大人社会に船出していける人々は幸いである。たぶん、大概の障壁は乗り越えられる。とは言え人生の選択肢は、常に眼前に広がっているのであって、今度は自己の選びとった人生に疑問なく従っていくのか否か?順調な人生行路を歩んでいるのであれば、そのままに突き進めばよいし、自分が選びとった人生であっても、何ほどか違和感を感じるのであれば、大人として自分の人生のプロセスを意図的に壊す選択肢を選びとることもできる。壊して、再構築することである。デ・コンストラクションには大きなリスクとリスクにともなうエネルギーが必要になる。そして根底に据わっていなければならないのは、言うまでもなく、人生の変化・変容を起こさせるための勇気である。勇気がなければ、人は結局のところ社会的成功をおさめているかに見えても、あるいは他者からの評価が高くとも、当人はちっとも満足できはしないのである。たぶんこれが人生哲学と称するジャンルにおける真理なのではなかろうか?
人生におけるある程度の経験則に従って築いてきたこれまでの生の軌跡を壊すという作業はことのほか大変なことである。あるいはこんなに生き難い時代である。自分で望まなくても、長年の仕事を、何らの前触れもなく一方的に壊されることだって決して珍しくはない。いずれにせよ、こうなれば人生、一からやり直しである。これまでのキャリアが生かされる人たちはその幸運を限りなく有効に使うべきだ。不幸にして、自分のこれまでのキャリアがまるで新たな場において通用しないときは、自己の能力の再開発に乗り出すべきだ。国公立大学も、私立大学も社会人を大幅に受け入れている時代なのである。生活力になり得る実学をやればよい。あるいは専門学校などは広き門を開けているではないか。自分に出来ることを人は意外にこれまでの経験則に頼る。が、この発想こそが新たな人生の再構築を阻んでいる過去からの、最も大いなる負の遺産である。人生をやり直す場合、過去のキャリアが生かせないことの方が圧倒的に多いのである。ならば、出直しはあくまでジョン・ロックの教育論のごとく、子どもの能力開発の本質に立ち返って、むしろそこから学ぶべきだ。たとえ理不尽なリストラに遭っても、人生の出直しはどのようにでも成立するのである。リストラごときで、この世の終わりだ、などとのたまうな!遥か彼方の子どもの頃から生き抜いている中高年諸氏よ!まだまだこれからですよ。生きて、生きて、生き抜いて、力尽きれば、ハイ、さようなら、でよいではないですか。拙くも今日の観想であります。
○推薦図書「旅路の果て」 ジョン・バース著。白水Uブックス。青年の書ですが、生に抗う過程で遭遇する主人公の体験の内実にはたぶん中高年諸氏がお読みになっても得るところ多し、だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃