○父親失格でも、息子の行く末を考えない日はなかった・・・
僕には二人の息子がおり、何年も前に生き別れた。何の金銭的苦労もなく育った二人の息子たちが、まだ教育に金がかかる真っ最中に、僕は自分の生活の糧を失くした。生活の糧を失くす過程で、いまとなっては、もはや言葉にはならない断裂で、幻想的な、家庭という、妄想のかたちを見事なまでに、瓦解させた。僕の責任である。23年間に及ぶ仕事の結果の結実たるあらゆる財産を金銭に換えた。家も土地も失くした。預貯金などは、僕の知りえない管理下に置かれていた。崩壊過程の人間関係など大概は醜悪な姿の露呈に終始するもので、ご多分に洩れず、僕も乱れに乱れた。
二人の息子たちは、さぞや当時、父である僕の人間性を軽蔑したことだろう、と思う。またそれだけのことをやり、言葉にし、その結果、家族という名の絆は、見事なまでに断ち切れた。幸い兄弟仲のよい息子たちだったし、兄の方はおおらかな個性で、弟の尊敬を集めていたようだった。父である僕などは、何をやっている人間かは分かっていた様子だが、二人と生き別れる直前の、乱れた自分の姿を二人は厭というほど目撃し、軽蔑の対象になったに過ぎないだろう。いまとなっては恥じ入るばかりである。自分は息子たちを愛しているつもりでも、彼らに対する愛の示し方は、かなり不器用だった、と自覚している。妻との価値観の違いにもかなり不満は高まっていたので、その気分は妻にも伝わっていたのだろう。いつの頃からか、食事のとき、僕は二人の息子たちと離れて食することにされていた。離婚の折、僕の持ち得る限りの資産は、家も土地も、その他の預貯金も含めて現金化し、妻に持たせた。調停も、勿論裁判すら必要なかったが、いまにして思えば、調停において、子どもとの面会の権利くらいは認めてもらうべきだった、と猛省する。
結論的に言えば、僕はかつての妻だった女性に、最も過酷な別れの状況を強いられたことになる。かつての妻に対する愛情などはとうの昔に喪失してしまっていたが、二人の息子に対しては、自分なりの思い入れがあった。しかし、彼女はあくまで金銭に対してもしたたかだったし、僕のかなう相手ではなかった。彼女は不動産が売却された折、何をやっているのか?と思わせるほどの長い時間をかけて、売却資金や、その他の金銭をいろいろな預貯金にしているようだった。それを僕はたぶん間抜けた顔で、銀行の応接室のソファに座り、不動産業者と一緒に待っていたのである。その後、彼女は忽然と姿を消した。住居を知らせてくることはついになかった。息子たちとは会いたくても会うことなど出来はしなかった。ひどい女だとも言えるし、復讐の仕方としてはこれほどのやり方はないと驚愕させられもした。微々たる金を僕は手にし、その中から、彼女が上の息子の音楽大学の授業料のために、金融公庫と僕の生命保険から借りられる限度額まで借り出した借金を支払いにまわった。
離婚劇に最も大きな形で巻き込まれたのが下の息子だった。彼はまさに大学受験前だった。感じやすい息子だったし、当然受験勉強も出来はしなかっただろう。彼は僕のことを軽蔑しながら、僕から去って行ったと推察する。何故か、幼い頃から小学校の教師になりたいと言っていたのが頭から離れたことはなかった。社会に打って出るなら、彼の能力からすれば、もっと高み(もちろん社会的地位の高みが何なのかは正直よく分からない)を目指せたはずである。自分がなまじ教師であったことが、教師と云う職業に対して大した思い入れがないから、こんなことを考えるのだろう。
僕が、家を出ていくとき、下の息子の部屋には確かに彼はいたはずだ。声をかけようとしたが、出来なかった。自分が取り乱してしまうのが目に見えていたからだ。閉まった部屋のドアに向かって、僕はか細い声で、息子よ、こんなかたちで離れていく父を許せ!と呟いた。それしかできなかった。あのとき、何故ドアを開けて、息子の体を抱きしめ、彼の体温をしっかりと感じとっておかなかったのだろう?といまだに後悔が残る。所詮父親など、こんなものなのだろう、と自分を納得させるのがやっとだった。
何年か前に彼は小学校の教師になったようだ。幼い頃から他者に対する気配りの出来る優しい息子だった。たぶん生き生きとクラス担任として、不十分な経験を精一杯発揮して頑張っているのだろう、と思う。息子よ、よくやった、とパソコンの画面を見ながら声が出た。不況の時代だったから、ずいぶんと苦労して教員採用試験に合格したのだろう。僕は教師として挫折したが、彼なら教師という仕事の意味を諒解しているはずだ。まっとうしてくれるだろう、と確信する。息子は確かに父を追い抜いた。人に負けることがこれほど清々しいことだとはかつて一度たりとも思ったことはない。息子よ、しっかりと生きよ!父のように投げ出すことは絶対にすべきではない。そして君には何があってもそれを乗り越えていけると思う。政府の文教政策の失敗のツケは、たぶん小学校に最もわかりやすい形で現れることだろう。決して楽しいばかりの教師生活ではないはずだ。しかし、息子よ。それでも未来を背負って立つ人間の育成に確信をもって取り組んでほしい。
以前、息子の赴任した小学校宛てに3度手紙をしたためた。予想どおり何の返答もなかった。彼の僕に対する嫌悪感は変わらぬどころか、増幅していそうである。それでよいのである。哀しいが、息子が最も必要としていた精神的援助をしてやれなかった父なのだ。彼が無事で、きちんとした仕事を持ち、毎日を健康で生き抜いてくれれば、父は満足なのである。息子よ、生を充溢しつつ生きよ。それだけが父の願いだ。ここでだけは父という言葉を使わせてもらうよ。悪いけど。
○推薦図書はツルゲーネフの「父と子」を推薦したいところですが、上記の内実にはそれだけの価値はなく、出来の悪い父が勝手に息子をいとおしんでいるだけのものです。それでも、何らかのイメージが湧き、読んでいただけるなら、「父と子」を岩波文庫でどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕には二人の息子がおり、何年も前に生き別れた。何の金銭的苦労もなく育った二人の息子たちが、まだ教育に金がかかる真っ最中に、僕は自分の生活の糧を失くした。生活の糧を失くす過程で、いまとなっては、もはや言葉にはならない断裂で、幻想的な、家庭という、妄想のかたちを見事なまでに、瓦解させた。僕の責任である。23年間に及ぶ仕事の結果の結実たるあらゆる財産を金銭に換えた。家も土地も失くした。預貯金などは、僕の知りえない管理下に置かれていた。崩壊過程の人間関係など大概は醜悪な姿の露呈に終始するもので、ご多分に洩れず、僕も乱れに乱れた。
二人の息子たちは、さぞや当時、父である僕の人間性を軽蔑したことだろう、と思う。またそれだけのことをやり、言葉にし、その結果、家族という名の絆は、見事なまでに断ち切れた。幸い兄弟仲のよい息子たちだったし、兄の方はおおらかな個性で、弟の尊敬を集めていたようだった。父である僕などは、何をやっている人間かは分かっていた様子だが、二人と生き別れる直前の、乱れた自分の姿を二人は厭というほど目撃し、軽蔑の対象になったに過ぎないだろう。いまとなっては恥じ入るばかりである。自分は息子たちを愛しているつもりでも、彼らに対する愛の示し方は、かなり不器用だった、と自覚している。妻との価値観の違いにもかなり不満は高まっていたので、その気分は妻にも伝わっていたのだろう。いつの頃からか、食事のとき、僕は二人の息子たちと離れて食することにされていた。離婚の折、僕の持ち得る限りの資産は、家も土地も、その他の預貯金も含めて現金化し、妻に持たせた。調停も、勿論裁判すら必要なかったが、いまにして思えば、調停において、子どもとの面会の権利くらいは認めてもらうべきだった、と猛省する。
結論的に言えば、僕はかつての妻だった女性に、最も過酷な別れの状況を強いられたことになる。かつての妻に対する愛情などはとうの昔に喪失してしまっていたが、二人の息子に対しては、自分なりの思い入れがあった。しかし、彼女はあくまで金銭に対してもしたたかだったし、僕のかなう相手ではなかった。彼女は不動産が売却された折、何をやっているのか?と思わせるほどの長い時間をかけて、売却資金や、その他の金銭をいろいろな預貯金にしているようだった。それを僕はたぶん間抜けた顔で、銀行の応接室のソファに座り、不動産業者と一緒に待っていたのである。その後、彼女は忽然と姿を消した。住居を知らせてくることはついになかった。息子たちとは会いたくても会うことなど出来はしなかった。ひどい女だとも言えるし、復讐の仕方としてはこれほどのやり方はないと驚愕させられもした。微々たる金を僕は手にし、その中から、彼女が上の息子の音楽大学の授業料のために、金融公庫と僕の生命保険から借りられる限度額まで借り出した借金を支払いにまわった。
離婚劇に最も大きな形で巻き込まれたのが下の息子だった。彼はまさに大学受験前だった。感じやすい息子だったし、当然受験勉強も出来はしなかっただろう。彼は僕のことを軽蔑しながら、僕から去って行ったと推察する。何故か、幼い頃から小学校の教師になりたいと言っていたのが頭から離れたことはなかった。社会に打って出るなら、彼の能力からすれば、もっと高み(もちろん社会的地位の高みが何なのかは正直よく分からない)を目指せたはずである。自分がなまじ教師であったことが、教師と云う職業に対して大した思い入れがないから、こんなことを考えるのだろう。
僕が、家を出ていくとき、下の息子の部屋には確かに彼はいたはずだ。声をかけようとしたが、出来なかった。自分が取り乱してしまうのが目に見えていたからだ。閉まった部屋のドアに向かって、僕はか細い声で、息子よ、こんなかたちで離れていく父を許せ!と呟いた。それしかできなかった。あのとき、何故ドアを開けて、息子の体を抱きしめ、彼の体温をしっかりと感じとっておかなかったのだろう?といまだに後悔が残る。所詮父親など、こんなものなのだろう、と自分を納得させるのがやっとだった。
何年か前に彼は小学校の教師になったようだ。幼い頃から他者に対する気配りの出来る優しい息子だった。たぶん生き生きとクラス担任として、不十分な経験を精一杯発揮して頑張っているのだろう、と思う。息子よ、よくやった、とパソコンの画面を見ながら声が出た。不況の時代だったから、ずいぶんと苦労して教員採用試験に合格したのだろう。僕は教師として挫折したが、彼なら教師という仕事の意味を諒解しているはずだ。まっとうしてくれるだろう、と確信する。息子は確かに父を追い抜いた。人に負けることがこれほど清々しいことだとはかつて一度たりとも思ったことはない。息子よ、しっかりと生きよ!父のように投げ出すことは絶対にすべきではない。そして君には何があってもそれを乗り越えていけると思う。政府の文教政策の失敗のツケは、たぶん小学校に最もわかりやすい形で現れることだろう。決して楽しいばかりの教師生活ではないはずだ。しかし、息子よ。それでも未来を背負って立つ人間の育成に確信をもって取り組んでほしい。
以前、息子の赴任した小学校宛てに3度手紙をしたためた。予想どおり何の返答もなかった。彼の僕に対する嫌悪感は変わらぬどころか、増幅していそうである。それでよいのである。哀しいが、息子が最も必要としていた精神的援助をしてやれなかった父なのだ。彼が無事で、きちんとした仕事を持ち、毎日を健康で生き抜いてくれれば、父は満足なのである。息子よ、生を充溢しつつ生きよ。それだけが父の願いだ。ここでだけは父という言葉を使わせてもらうよ。悪いけど。
○推薦図書はツルゲーネフの「父と子」を推薦したいところですが、上記の内実にはそれだけの価値はなく、出来の悪い父が勝手に息子をいとおしんでいるだけのものです。それでも、何らかのイメージが湧き、読んでいただけるなら、「父と子」を岩波文庫でどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃