このところ長年旅から遠ざかっていた。特に一人旅は、僕にとっては孤独感を深めるだけの行為として、いつの頃からか胸に落ちていたせいもあって、避けてきた感がある。いまだ時差ボケの頭で書いているが、予定では1週間程度のヨーロッパへの一人旅の旅程を立てた。個人的な事柄なので、理由は書かないが、かなり具体的な目的を持っての旅の開始であった。
旅に出る前、その目的と関連して、日本で準備できることはしておこうとして、心構えをしていて、また具体的に自分の意図が明確に整理出来れば、すぐに行動に移すつもりでもあった。その意味では迷いながらの旅の出発だった、と思う。
人間の頭脳がどのように当事者の言動に影響するのかは、確かなことは分からないが、今回の旅行に関しては、飛行機に搭乗した、まさにその瞬時に、自分の思考の曖昧な要素が剥がれ落ちた。自分の思考が激変するかも知れないという想いから、海外から携帯電話がかけられるようにしておいた。事実は、自分 の想いは確かに激変したのである。日本における行動の必要性に僕は確実に目覚めたのであり、携帯電話から日本に具体的な指示を出した。時差の問題があり、協力者は当然妻である。他人に迷惑は懸けられない。妻にとってはいい迷惑だったことだろう、と思う。しかし、こんな勝手気儘な人間と結婚したのである。妻には諦めて 貰うしかない。まことに文字通り、勝手な人間なのだ、僕という存在は。常に直観力が何より優先する。自己の直観力に確信を与えてくれるのは、洞察力に相違ないが、今回は何故か直観力だけが先行したような気がする。歳をとり過ぎたせいなのかも知れない。何故なら洞察力とは思考の深さと持続力を必要とするから、たぶんそ のような力が僕の裡から幾分かはそれが喪失してしまったものと考えられる。その意味において、旅とは、直接的にも、間接的にも自分の客観的な姿を介間見せてくれるありがたい指標なのかも知れない。
結果的に僕はとんぼ帰りをしたことになる。勿論短い期間に出来る限りのことはしたが、その成果が生きてくるのは、かなり先のことになるだろう。またそれでよい、と思う。旅とは、ゆっくりと非日常に浸って、自己の再発見に結びつくこともあり、あるいは旅というドタバタ劇の只中において自己の進むべき 道を見出すこともある。あるいはもっと違った可能性すらあるだろう。要は、旅の結末がどのようなものであれ、脳髄の中に非日常を持ち込むことによって、日常性の中に埋もれていた新鮮な観想を拾い出せれば最高ではないか。僕ももう人生の大半を生き抜いた。もはや、家族旅行とか、職場の同僚たちとの、行事のごとき旅から 卒業しても許される歳ではなかろうか。せいぜい家族にはそのように諒解してもらえるように平身低頭しておくことにする。
それに比べて青年の頃の旅とは、非日常という空間の中に身を投げ出すことにおいては、いまの僕の年齢の人間とさほど変わりはないだろうが、両者の間にもし違いがあるとすれば、若者のそれは同じ非日常であれ、その非日常とはまさにお先真っ暗の、何と遭遇するやも知れぬ精神的冒険の旅路である。だから こそ、若者の旅には、人生そのものを変容させてしまいかねない可能性、あるいは時として生の変容の恐ろしさをも含んでいるのではなかろうか。かつて大江健三郎氏は、「日常生活の冒険」という長編小説を世に問うた。ある意味において、日常生活という単調な存在と、冒険という非日常的な概念性を小説空間の中において、確 かな創造的世界として築いてみせたのは驚愕に値すると僕は思う。
僕のような凡庸な感性しか持ち合わせていない人間でも、ちょっとした旅の非日常性というスパイスを疲弊した脳髄の中に織り交ぜてやれば、それなりに感性に磨きがかかる。日常生活の中に、冒険という要素を発見できる方々は、大いにその能力を発揮していただきたいものである。それがかなり困難なことを 意味するのであれば、旅はたいそうお手軽な、非日常へのツールではなかろうか。今日の観想である。
○推薦図書「崩れる」 貫井徳郎著。集英社文庫。平穏な日常生活にひそむ狂気と恐怖とを見事に描き出す短編集です。この作者は文章が卓抜です。ぜひともお勧めの書です。どうぞ。
京都カウンセリングルーム(http://www.medianetjapan.com/2/17/lifestyle/counselor/)
Tel/Fax 075-253-3848 E-mail yas-nagano713@nifty.com
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旅に出る前、その目的と関連して、日本で準備できることはしておこうとして、心構えをしていて、また具体的に自分の意図が明確に整理出来れば、すぐに行動に移すつもりでもあった。その意味では迷いながらの旅の出発だった、と思う。
人間の頭脳がどのように当事者の言動に影響するのかは、確かなことは分からないが、今回の旅行に関しては、飛行機に搭乗した、まさにその瞬時に、自分の思考の曖昧な要素が剥がれ落ちた。自分の思考が激変するかも知れないという想いから、海外から携帯電話がかけられるようにしておいた。事実は、自分 の想いは確かに激変したのである。日本における行動の必要性に僕は確実に目覚めたのであり、携帯電話から日本に具体的な指示を出した。時差の問題があり、協力者は当然妻である。他人に迷惑は懸けられない。妻にとってはいい迷惑だったことだろう、と思う。しかし、こんな勝手気儘な人間と結婚したのである。妻には諦めて 貰うしかない。まことに文字通り、勝手な人間なのだ、僕という存在は。常に直観力が何より優先する。自己の直観力に確信を与えてくれるのは、洞察力に相違ないが、今回は何故か直観力だけが先行したような気がする。歳をとり過ぎたせいなのかも知れない。何故なら洞察力とは思考の深さと持続力を必要とするから、たぶんそ のような力が僕の裡から幾分かはそれが喪失してしまったものと考えられる。その意味において、旅とは、直接的にも、間接的にも自分の客観的な姿を介間見せてくれるありがたい指標なのかも知れない。
結果的に僕はとんぼ帰りをしたことになる。勿論短い期間に出来る限りのことはしたが、その成果が生きてくるのは、かなり先のことになるだろう。またそれでよい、と思う。旅とは、ゆっくりと非日常に浸って、自己の再発見に結びつくこともあり、あるいは旅というドタバタ劇の只中において自己の進むべき 道を見出すこともある。あるいはもっと違った可能性すらあるだろう。要は、旅の結末がどのようなものであれ、脳髄の中に非日常を持ち込むことによって、日常性の中に埋もれていた新鮮な観想を拾い出せれば最高ではないか。僕ももう人生の大半を生き抜いた。もはや、家族旅行とか、職場の同僚たちとの、行事のごとき旅から 卒業しても許される歳ではなかろうか。せいぜい家族にはそのように諒解してもらえるように平身低頭しておくことにする。
それに比べて青年の頃の旅とは、非日常という空間の中に身を投げ出すことにおいては、いまの僕の年齢の人間とさほど変わりはないだろうが、両者の間にもし違いがあるとすれば、若者のそれは同じ非日常であれ、その非日常とはまさにお先真っ暗の、何と遭遇するやも知れぬ精神的冒険の旅路である。だから こそ、若者の旅には、人生そのものを変容させてしまいかねない可能性、あるいは時として生の変容の恐ろしさをも含んでいるのではなかろうか。かつて大江健三郎氏は、「日常生活の冒険」という長編小説を世に問うた。ある意味において、日常生活という単調な存在と、冒険という非日常的な概念性を小説空間の中において、確 かな創造的世界として築いてみせたのは驚愕に値すると僕は思う。
僕のような凡庸な感性しか持ち合わせていない人間でも、ちょっとした旅の非日常性というスパイスを疲弊した脳髄の中に織り交ぜてやれば、それなりに感性に磨きがかかる。日常生活の中に、冒険という要素を発見できる方々は、大いにその能力を発揮していただきたいものである。それがかなり困難なことを 意味するのであれば、旅はたいそうお手軽な、非日常へのツールではなかろうか。今日の観想である。
○推薦図書「崩れる」 貫井徳郎著。集英社文庫。平穏な日常生活にひそむ狂気と恐怖とを見事に描き出す短編集です。この作者は文章が卓抜です。ぜひともお勧めの書です。どうぞ。
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