ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

<壊れ>という現象

2008-12-06 23:05:05 | 哲学
○<壊れ>という現象

人は、それが人間に関わることであれ、ある事象に関わるそれであれ、生成している存在物が瓦壊し、消失していくプロセスを好まない。なぜなら人や物事に関わる崩壊感覚は、自分の存在の奥深くに隠れている崩壊への欲動が結びついていることを本能的に識っているからだ。人は生まれたその瞬間から、生とその反対概念の死、そして死にまつわる自己の内面の崩落とを同時に分かち持って、この世界に出現するのである。人間は好むと好まざるに関わらず、存在の、暗黒のファクターを知らずして生きるようにプログラミングされているようである。従って人間は、人生における大半の時間を何とか無事にやり過ごすのである。しかし、誰にしろ幸福の絶頂を味わいもするが、思わぬところから、生の健全さの中に暗いホツレが生じるのを見逃してはならない。だからこそ、人は生ある限り、安心立命のままにこの世を去るわけにはいかないのである。いつかは人それぞれの資質や環境の中で、不可避な不幸に見舞われることになる。ある意味において健全なる人々は、このような不幸に見舞われたことを不運という言葉に置き換えて、諦念し、打ち続く不幸の連鎖の中から這い出して来るのである。これを生の<壊れ>と称するものだと僕は規定しているが、このような真理を諒解せずして生きていると、身に降りかかった不幸や不運を呪詛しては、果てることのないかのごとくにみえる精神の底の底にうち沈んでいることになる。そこから這い出したとき、人は何か自分には手の届かぬ存在によって救われたと感じるものである。たぶん、宗教が生まれる精神的背景には、人間に本質的に備わっている<壊れ>に対する無知と無思想とが絡んでいるような気がしてならないのである。もっと言えば、絶対者の存在を、生きる支えにする大多数の人々(ここには苦しいときの神頼みも含めて考える)と、絶対者を否定する無神論者との違いはまさにここに在ると思われる。

要は、人間存在における<壊れ>に対する想像力と認識力の欠如が、人に絶対者としての宗教を生み出させ、信じさせる大きな要因ではないか、と僕は思う。確かなことは、人は自己の裡に在る<壊れ>からは絶対に逃れられないということである。生きている限り、平穏極まりない人生など、あり得ないのである。<壊れ>は必ず訪れて来る。それこそが人生と言えば言えなくもない。身体的な病気、精神的な病、経済的な問題、人間関係におけるあらゆるトラブル、仕事上の不如意、愛の破綻、etc.全ては運の悪さとして片づけられるはずがない。人にあらかじめ備わった<壊れ>の思想に鈍感な人々は、それがキリスト教であれば、神が与えた人生の試練とでも定義して受容するのではなかろうか。あるいは、仏教で言えば、生におけるある種の悟りの形体としての、諦念という概念を持ち出して、絶対者に対する祈りという無意味な行為を行わせる。そして、人の不幸が去りゆくまで、絶対者に対する忠誠心に惑溺させることによって、不幸そのものを忘却させるのである。そのうちに<壊れ>という嵐が去りゆくことを、彼らは絶対者による救いである、と錯誤するのである。人に襲いかかって来る不幸の連鎖に対する対処療法として、絶対者への祈りという、ある種の忘我の状況下に自らを置くというのは、安直だが、分かりやすい救済の方途ではあるだろう。長きにわたる歴史を有する宗教がありながらも、より現世利益と結びついているような怪しげな新興宗教がウジのごとくにわき出て来るのは、苦しいときの神頼みと、経済の論理が結びついた故に起こるタチの悪い現象である。まず、こういう動向は絶えることはないと僕には感じられる。致し方ないではないか。人間はともすると楽な方へと傾斜する存在であるからである。

天国や地獄などという、くだらない人間の想像力が生み出した死後の世界などは、死という終末を簡単な物語にすることによって、少しでもこの世界から去りゆくことを諦める発明品としては、たいした苦労もなく受容できる世界観ではある。いわばインスタントコーヒーを人類が発明する要素は、太古の昔から備わっていたのだろう。そのように考える方が理屈に合っている、と僕は思う。

人間とは<壊れ>という要素を含み込んだ存在である。<壊れ>があるからこそ、その<壊れ>が表出したとき、自覚的に負の要素を人は受容出来るのではないか?だからこそ、新たな生成という価値が生み出されて来るのではないか?マルタン・デュガールが夢見た生成とは、このような概念を指しているのではないか?そうでなければ、あの膨大な「チボー家の人々」のような大著を書き遺す必要などどこに在ったというのだろうか?生成と<壊れ>との入り乱れた生のかたち、これが、人生というものではなかろうか?勿論、こんな考察など、一面の真理をしか言い当ててはいまいが、凡庸な知性から吐き出される戯言と読み流して頂ければ幸いである。今日の観想とする。

○推薦図書「恋刃」五條瑛(アキラ)著。双葉文庫。長編ですが、読んでいてダレルところなく読める良書です。人間の本質に迫っているからでしょう。特にこの著者は、人の感情の機微を描かせたら、並ぶ人がいないくらい繊細な精神を持ち合わせている人です。この書以外にも何冊か文庫が出ていますので、おいおい、紹介します。楽しみにしていてください。お勧めです。

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